海と空で(1)
「海に行きましょう!」
喫茶アルト、三代目フロアチーフ(自称)三島美月は、さあ、昼飯を食うべ、と気合いを入れた良夜にそう宣言した。
「なんとここに貸別荘のチケットなる物があります、凄いですね、豪勢ですね、感謝してくださいね」
いつも以上の笑みを浮かべ美月が、ペチン! と弱々しい音でテーブルの上に叩きつけたのは一通の封筒だった。三島和明様との宛名と有名なレジャー会社の名前が書かれたそれは、封が切られ中から一枚のチケットのような物が顔を出していた。
「どうしたんです? これ」
先ほど美月が運んできた昼食を前に、良夜が美月とその封筒とを見比べ首をひねった。
「頂きました」
「誰から?」
「ここの社長さんからです」
自分が置いたチケットを拾い上げ、美月はツーッとそこに書かれた社名を指で撫でた。そこに書かれているのは、最近名前をあげ始めている新興のレジャーグループ。ホテルや複合商業施設なんかを出している会社だ、と言う話を良夜も聞いたことがある。
そして、美月はニコニコと笑いながらその封筒の入手経路を「実は……」と語り始めた。
ここの社長は良夜が通っている大学のOB。当時も今も変わらず、ここはド田舎。大きな私大があるのにいつまで経ってもド田舎だ、と言う事が大学七不思議に数えられるような地域。当然、現在の良夜達と同様、当時の大学生達も喫茶アルトへの依存度は低く抑えられる物ではない。しかも、この社長、仕送りも少なければ少ない仕送りの中から、食費を削って本を買ってしまうような苦学生だった。アルバイトの給料日や仕送りの直前になると財布が空になると言う事もしばしば。そこでお世話になったのが、この辺で最後の非常食とも呼ばれている喫茶アルトのパンの耳。その様子を哀れに思った和明や存命だった和明の妻は、彼にただで食事を与えることが一度ならず何度もあった。その時、遠慮する彼に喫茶アルトの経営者夫婦が言った言葉は――
「出世したら返してください」
彼はこの言葉を律儀に守り、今でも時折、こうして自分の会社のチケットなんかを送ってくれている。
美月は自分が生まれる前の出来事を、身振り手振りまで交えて熱弁した。
「へぇ、いい話ですね……情けは人のためならずって奴ですか?」
人の良い老店長らしいエピソードに、良夜の頬が緩む。そう言えば、厳しい教官達にも和明には頭が上がらないとか、世話になったとか、そう言ってる人が居ることは、直接間接を問わず、良夜も良く耳にする。美月が大学入学を希望すれば、無試験で合格したのではないか、と言う話まであったりする。もっとも、美月が大学進学を希望しなかった所為で、その噂が事実だったかどうかを確認する機会は永遠に失われた。
「はい、こういう人は沢山居まして……お父さんの人生はこういう人に支えられているんですよ?」
「……はい?」
美月の言葉に良夜が間の抜けた声を出した。
「ですから、営業成績が足りないときは、何処かに電話して『同じ釜の飯を食った仲間だろう?』と言うと、あら不思議、営業成績うなぎ登り〜〜〜」
うなぎ登り〜っと大きく手を広げた美月は、パン! と手を叩いて、「嘘です」と言ってにっこり微笑んだ。
「……何処まで嘘なんですか?」
いい話にちょっと感動をしていた良夜の顔が苦笑いへと変わる。そして、合わせた手のひらをほっぺたに押し付けて笑う美月の顔を見上げた。
「まあ、そう言うコネで色々得してるって言うのは事実よね……拓也が」
黙って話を聞いていたアルトが、アイスコーヒーのグラスから顔を上げてそう言った。『拓也が』にちょっとしたアクセント。親がまいた種を子がせっせと刈り取っているらしい。侮れない男、三島拓也@美月父。なお、彼は良夜達の大学以上の大学進学を希望し、そこに合格したのでコネ入学が通用したかどうかは定かではない。
「吉田さんと直樹くんはすでに参加決定です。アルトは……アルトはなんて言ってます?」
立っていることにも疲れたのか、美月は空いている席に腰を下ろした。良夜の正面の席、組んだ手の上に顎置いて彼の顔に微笑みかける。今日も今日とて、夏休みの喫茶アルトは暇をもてあまし気味……
「良夜が参加できないんなら、仕方ないわ。良夜にも都合もあるものね……ネチネチネチネチネチネチ、拗ねてやるから……」
美月の問いかけに、アルトが良夜の顔を三白眼で見上げて答えた。
「……あぁ、俺が行けば行くらしいです」
「じゃぁ、来てくれますよね」
美月のそれは疑問ではなく確認、行かないという答えは毛頭考えていない。もちろん、良夜の答えもイエス。アルトのお世話は面倒だが、ロハで別荘……一般小市民に生まれついた彼には、初めての経験、捨てる手はない。
「それでいつからです?」
「七月の最終週、全部です!」
「……はい?」
本日二度目の間抜けな声。
「ですから、七月最終週、一週間、六泊七日なんですよ!」
組まれあごの台になっていた手が解かれ、ピッと人差し指が立ち上がった。
「そっそんなに? 良いんですか? そんなのに俺が参加しちゃって……」
途端に慌てるヘタレ小市民、一週間も別荘に泊まっちゃって良いんだろうか? とか、そんなのただで良いんだろうか、とか……後、アルバイト、休めるかなぁ……という疑問もあったりなかったり。
「はい、お父さんは外国ですし、お祖父さんは若い者で楽しんできなさいって言ってくれてます」
「でも、お店は?」
「良いんですよ〜お母さんがいますから、お母さんがいたら……お母さんが……どうせ……どうせ、私はいらない子なんですから!!」
にこやかな表情で事情を説明していた美月の顔が、みるみるうちに曇っていく。そして、僅か数秒の時を経て、彼女はテーブルの上に突っ伏した。
「良夜の地雷探査能力って抜群よね……踏みつけることに関しては」
泣き崩れた美月の横で、アルトがそう言った。最近、その自覚がある良夜としては、あちゃぁと天を仰ぎ見るだけで、答える言葉が見つからない。
「お母さんは仕事をとっちゃうし、だめ出しは厳しいし、挙げ句の果てにはチケット上げるから遊びに行って来いって……ふぇん、良夜さん! 私は本当にいらない子なんですっ! もう、私に喫茶アルトでの居場所はないんですよぉ」
「あっ、あの……その、えっと……あぁ、ほら、九月には清華さんも帰るんですから……」
ギュッと美月に手を握られ、顔を赤くする良夜。慌てた口調で考えられる限りのフォローをした。
「じゃぁ! 九月まで、私はいらない子なんですね? 九月まではこうして、良夜さんの席に座って、する事もなく、ひなたぼっこをして、二十一歳の貴重な夏をブラブラ過ごすダメ人間で居続けるしかないんですねっ!?」
フォローしたつもりの言葉は、美月の心を追い詰めるしかなかった。って……ここまで追い詰められなくても良いのに、と良夜が思うほど、美月はテーブルの上で泣き崩れていた。泣き崩れているというか、だだをこねているというか……これが本当にハタチすぎた大人のやることなのだろうか?
「その定義だと、良夜が一番のダメ人間よね……」
冷たい視線で的確な指摘、こんな事をやるのはアルトしか居ない。確かに夏休みの良夜は、と言うか大学生はブラブラしっぱなし。バイトは一応無遅刻無欠席だけど。
「二十一歳の夏どころか、年中無休数十年単位でブラブラしてるお前は?」
「私は人間じゃなくて、妖精さんよ?」
「じゃぁ、ダメ妖精」
「そのダメ妖精のおかげで、追試と補講とレポート制作をまぬがれたのは何処の誰だったかしら?」
「……その件に関しては非常に感謝してる」
テーブルに突っ伏した美月の横で、アルトと良夜が毎度おなじみの口論をし、いつもと同じ勝敗が決する。
その様子を、泣き崩れていたはずの美月がじーっと細めた視線で見つめていた。そして、二人の勝敗が決するとまた、テーブルの上に顔を伏せて……
「……良夜さんは良夜さんで、ご自分だけでアルトとお話しして、私には教えてくれません!! …………やっぱり、いらない子なんですっ! この席にも居場所がなくなって、お部屋でプチプチシートを潰してるのがお似合いなダメウェイトレスの人生を歩むんですよ!」
プチプチシートとは陶器とかがラストかの割れ物を包んでいる空気の粒が入ってる緩衝材の事。薄暗くもぬいぐるみ満載の部屋で、それをプチプチと数えるように潰している美月。その後ろ姿を、良夜は何となく想像してしまった。
「……何で、ここでプチプチシートが出てくるんだ?」
「さぁ? こうなった時の美月の思考ロジック、ちょっと、変だから」
「ふぇ〜〜〜ん」
大きな問題はやっぱり、アルバイトの休みの件だった。二週間くらい前に唐突に一週間休ませてくれ、と言われた良夜の上司も溜まった物ではない。それでもなんとか今日この日を迎えることが出来たのは、彼がお盆にとる予定だった帰省休暇を返上したからだ。店としても、同じ一週間前後居なくなるのならば、お盆よりかは七月末の方がまだマシ。良夜がこの条件を出すとあっさり飲んでくれた。当日、待ち合わせは喫茶アルトの駐車場で九時。良夜が十五分ほど前にそこへとやってくると、タカミーズと美月は、まぶしい太陽を受け、鮮やかなブルーを更に輝かせるコンパクトミニバン――千五百ccの小さなミニバン――の傍にたむろしていた。
「あれ……この車、誰の?」
県外ナンバーの車、もちろん、良夜に見覚えはない。その助手席側の窓から中を覗き込み、良夜は誰に聞くともない質問を発した。
「お母さんのですよ。私の車は四人乗っちゃうと、高速が辛いですから」
そう答えたのは、ノースリーブのシンプルなワンピースに白い帽子という、何処の深窓の令嬢か、と言うような服を着た美月だった。シンプルなワンピースというのは美月が好んで着ている服だが、なんでツバの広い帽子まで被っているのだろうか……車で出掛けるのに……
「どーよ、りょーやん、別荘ったらコレっきゃないっしょ?」
こいつか……元凶は。良夜は即座に理解した。良夜をりょーやんと呼ぶ女は世界にこいつ一人しかいない。グリーンのブラウスとブリーチデニムのタイトスカートを穿いている貴美だ。
「どった? 萌えた? 萌え死んでる?」
彼女は白いワンピースに包まれた美月の体を押し出し、萌えるよね、萌えちゃうよね、とアホな台詞を抜けた笑顔で言ってる。
「直樹……もしかして、帽子、吉田さんが用意した?」
一人、テンション上げっぱなしの貴美を無視し、良夜はその隣にいた直樹へと声を掛けた。彼の格好は大学に通うときと同じ、ジーパンと半袖のシャツ、良夜も似たような感じだ。二人ともお洒落には余り気を使わないタイプ。
「えっ……ええ……何処で手に入れたのかは知りませんけど……」
「今日、白いワンピで来るってのは聞いてたんよ、だったら、もう、コレを用意するっきゃないっしょ?」
そう言って、美月の頭を、正確には頭に収まった帽子を何度も撫でる。身長で美月よりも十センチ高い上に、底の厚いミュールを履いている所為で、美月の頭はちょうど彼女の胸元当たり。知らない人が見れば、美月が年上だとは思えない構図だ。
「お前の彼女はアホか?」
「勉強は出来るんですよ、勉強は……でも、馬鹿ですよ」
「そこが私の良いところ」
恋人の馬鹿と自分の馬鹿をきっぱりと認める二人、お似合いのカップルなのかも知れない。
「あの……私の頭、撫でてないで出掛けません?」
頭を撫でられるのがくすぐったいのか、それとも年下に年下扱いされるのが気恥ずかしいのか、美月は照れたような笑みを浮かべて背後の貴美に声を掛けた。
「そだね、そろそろ予定の時間だし……」
美月の頭を撫でていた手が止まり、その手を飾っていたブレスレットのような腕時計へと視線が落ちる。良夜の位置からその時計は見えないが、予定時刻が近いことくらいは感覚でわかる。
「ちょっと待って……美月さん、ちょっと……」
「はい?」
「どったの? りょーやん」
顎の下から美月を引き抜かれ、貴美は少し驚いたような声を上げた。良夜は彼女に「なんでもない」とだけ告げると、美月の細い手を握ってタカミーズ二人から離れ、店の入り口へと引っ張った。
「なんですか?」
驚いているのは美月も同じ。急に手を引っ張られたのだから、驚くのも無理はない。
「アルト、居ないんですけど」
彼女の待ちわびようは一種異様な物だった。一日千秋というか万秋というか……昨日に至っては『あと二十時間と三十分』等とまるで年越しカウントダウンのようなことまでするほど。だから、一睡も出来ずに朝から待ってた、と言うのならともかく、寝過ごしたと言うことは……あいつならあるかも知れない。
「あれ? 居ませんでした?」
美月の驚いた顔、その種類が即座に変わった。
「あいつ、起きてました?」
「多分、歌ってるような気はしたんですけど……」
「何してんだ? トロトロしや――ッテェ!」
ザクッ頭の天辺から嫌な音、走る激痛に良夜は頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「あっ、来たみたいですね」
そして、冷静にアルト到着を喜ぶ美月、その声は嬉しそうに笑っているように聞こえた。
「……あの、一応、俺、頭刺されたんですけど……」
トンと、アルトが頭の上に着地を決める。決めた場所は先ほど当人が刺したところ。刺されたところを踏まれると、また、良夜の顔が僅かに苦痛で歪む。
「ジャスト九時、みんなが早すぎるのよ。ちょっと海に行くくらいで浮かれないで欲しいわね」
偉そうで素っ気ない口調、昨日、あれだけ浮かれまくっていた女の癖に……海に対してツンデレって言うのは新しい。
「……あぁ、お前、馬鹿だろう?」
頭の上に乗ったアルトを摘んで、目の前へと運ぶ。その姿に別の意味で良夜の頭が痛くなった。
「人の顔を見るなり、随分失礼ね。それが紳士の態度かしら?」
「どうかしました? 良夜さん」
気付かない当人と見えない第三者が仲良くそろって、良夜の顔へと視線を向ける。アルトの顔が近い分、美月と同じくらいの大きさに見えている。
「……アルト、メンバーの中で一番浮かれてんのはお前だ。自分の服を見ろ、服装だ」
良夜の言葉にアルトは自分の手足、そして胸元当たりへと視線を巡らせた、マジマジと、じっくりと……彼女の目に映るのは申し訳程度の胸を覆う申し訳程度の生地とショーツ、そして、そこから伸びる露出された両手足。
「…………あっ! ……ごめん、着替えてくる、絶対待ってるのよ!!」
そそくさと飛び去る『水着』姿のアルトを良夜は見送った、波瀾万丈な旅行になりそうだな、の予感を込めて……
「……また、良夜さんがアルトと二人でお話……いらない子なんですね」
拗ねる美月がその予感を更に加速させた。