梅雨と夏の間――はざま――(1)
 大学生である以上、避けて通れない物がある。レポートの提出と定期試験、この二つだ。この二つがなければ、大学生は本当にただの遊び人でしかない。あってもただの遊び人って人も多いが……
 良夜達の大学では七月に入ればすぐ、その日程が発表され、学内は試験一色になってくる。
 第二学食とも呼ばれ、大学生達の胃袋を支える喫茶アルトでもその影響は日を追うごとに増加傾向。普段なら暇な学生が雑談をしている程度の放課後でも、大勢の学生達が喫茶アルトを埋めていた。
 大学から近いし、静かだし、エアコンは良く利いてるし、コーヒー一杯で何時間粘っても文句は言われないし、人と一緒に試験対策の情報も集まるし、なんと言っても呼べば美人ウェイトレスが食い物飲み物の区別なく持ってくるし、と毎回、テスト前になると喫茶アルトの売り上げは大幅に向上する。最も、その試験の後の長期休暇では、閑古鳥が乱舞するわけだが……
「……美人ウェイトレス二人ってのはおかしいだろう?」
 直樹と向かい、いつもの席で試験勉強をしていた良夜は、試験そっちのけでコーヒーと媚びを売っている貴美を見て呟いた。
「吉田さん、いつ、勉強してんだ?」
「本人曰く『普段』らしいです」
 唸りながら見つめていた物理の教本、そこから顔を上げて直樹が答えた。
「……普段だって大して勉強しているようには思えないけどな……」
 良夜の中での貴美は、ビールを飲んで猥談してるだけのダメ人間でしかない。先日、直樹の生活無能振りを見て家事もかいがいしくやってるんだろうな、と言う予想はついたのだが、想像は今でもついていない。その上勉強なんて……正直、あり得ない。
「まだ、マシになった方ですよ……高校時代は普段もしてませんでしたから」
 貴美は『最低限の目標を決めたら、それ以上は絶対に努力しない』というポリシーで勉強をやっている。で、これは逆に『最低限の目標を達成するために、最低限の努力はする』とも言えるわけだ。そして、一夜漬けとか試験前に必死こいて勉強するというのはその『最低限の努力』を越えるというのだ。
 で、高校時代は授業中と直樹の勉強の面倒を見ているだけで『最低限の目標』をクリアーができた。そして、大学に入ってからは、それだけでは少し足りないから、毎日少しずつやっている……と言うことらしい。
「私に言わせると、試験前に寝る間も惜しんで勉強している方が、よっぽどの勉強好き。はい、アイスコーヒーとコーヒーフロート、お待たせしました」
 大きく開いた開襟シャツから、惜しむことなく深い谷間を見せつけながら、貴美はテーブルの上に二つのグラスを並べる。アイスコーヒーは良夜の、コーヒーフロートは直樹の前だ。良夜もコーヒーフロートが良いのだが、文句を言う小娘がいるのでアイスコーヒー。
「あっ、サンキュー……でさ、吉田さん、いつ勉強してんの?」
 グラスに伸ばそうとした良夜の手が止まった。暇そうにノートの上でくつろいでいたアルトが、先にグラスへと取り付いたから。回りに人が居るから文句も言えず、伸ばした手の行き場は失われ、一瞬の逡巡の後に紙袋に収まったストローへと変更された。それをコロコロと指先で転がしながら、直樹のノートを覗き込む貴美の顔を下から見上げた。
「バイトが終わってからなおが帰ってくるまでの間、二時間くらい。それと、もちろん、授業中」
 食事はアルトで貰える賄いを持って帰ったり暇なうちに下ごしらえをしていたり、掃除は汚さない事を徹底させ、洗濯はまとめてやる……等の方法を使って家事の省力化に努める。そして余った時間を勉強に費やし、試験前だからと言って増やしたりはしない。これが貴美の『最低限度の努力』
「要するにここ」
 試験前に必死を扱いてる二人を見下ろし、いや、見下し、空になったトレイで直樹の頭をトントンと数回叩く。自分の頭じゃない辺りが貴美らしい。
「じゃぁ、頑張ってね、勉強好きがコーヒーコーヒーってうるさいんよ――いらっしゃいませ、喫茶アルトへようこそ。ただいまテーブルに……」
 ヒラヒラと数回手を振ると、貴美は大きな胸を揺らして仕事へと帰って行った。
「……なあ、直樹……」
「……なんですか……」
「あの人に正論言われると、自分はなんて駄目な奴なんだ、って気分にならないか?」
「僕だって日頃もちゃんとしてますよ……それだけでは足りないだけです」
「自慢すんなよ」
 二人は仲良く顔を見合わせ、ほぼ同時に大きなため息を一つこぼした。

 こんな感じで、日々の勉強をサボっている大部分の大学生は試験前になると必死で勉強をしなければならない。その日々の勉強をサボっている典型的大学生、浅間良夜にしか遊んで貰えないアルトは、こういう状態になると途端に退屈をもてあます。
 ノートの端っこにペタンと座って、その上でのたうち苦しむペンを眺める顔には、良夜から見ても判るほどに、退屈で仕方がないと書いてある。それでも、遊べだの、退屈しただのと言って邪魔をしないのは、ここで下手を打つと追試と補講とレポート制作で更にアルトの相手をする時間が減ることを、彼女自身がよく知っているからだ。この辺、流石は何十年も大学前の喫茶店で住んでいる妖精と言えるだろう。
「あら、良夜、そこ、間違えているわよ」
 不機嫌さを隠さない表情ではある物の、大人しく見物していたアルトが、不意に顔と声を上げた。堂々と話しかけられるからか、その顔から不機嫌な空気が僅かに減った気がする。
 彼女がストローの先端を押し付けているのは、良夜が今期のカリキュラムで最も警戒している英語表現法のノートだ。彼は、工学部の本業である数学だの物理だの電子回路だのと言う物は、平均値以上に出来る。悪名高い精密機械工学のレポートも、その再提出頻度は、他の学生よりもずっと少ない。
 だがしかし、文系、こと英語に関してだけは平均値を大きく下回ってしまう。中学高校時代は他の教科でカバーも出来た物だが、一つ一つの単位がものをいう大学では、他の教科の話など全く関係がない。
『どこが?』と、良夜が英文の隣に走り書きをすると、アルトは再び、ストローを持ってその英文をチョイチョイとつついた。
「ここよ、こ・こ。高校生レベルで間違えてるわよ」
 ストローの先と原文の上を良夜の視線が迷走する……が、多分、あっているような気がする……
「直樹、ここ、間違えてるか?」
 英文がのたうつノートを直樹の前へと動かし、アルトが指摘した英文を直樹に見せる。ノートの上で指摘していたアルトは、動き始めた大地に振り落とされ、ペタンと冷たいテーブルの上に尻餅をついた。
「信じない訳ね……」
 言っていることは信じて貰えないわ、ノートからは堕とされるわ、と散々な目にあったアルト、彼女の怒りがたっぷりと乗った視線が、良夜の下あご辺りを焼く。早めに対処しなければ……と良夜が考えていたところで、英文に頭をひねっていた直樹が「あぁ」と声を上げた。
「間違えてますよ、ホント、良夜君、英語が駄目なんですね。こことここです」
 答えがわかったことと良夜に間違いを指摘できること、その二つが直樹の顔を明るくした。そして、その明るい顔で彼が指摘した場所は、アルトのストローが刺した部分と全く同じ箇所だった。
「ほら、見なさい。さすがアルトちゃん、賢い!」
 自らの正しさが証明されアルトは不機嫌だったことも忘れ、その薄っぺらな胸を限界にまで反り返した。

 良夜は、間違いを指摘してくれた直樹にサンキューとだけ言うと、アルトの羽を摘んでトイレの中へと駆け込んだ。もちろん、突発的に便意が襲ってきたわけでもなければ、二人に間違いを指摘された所為で急性胃潰瘍になったわけでもない。
「どういうことだ、アルト?」
 トイレの中は都合のいいことに無人だった。良夜はアルトを鏡の前に座らせると、普段よりも僅かに興奮した声をあげた。
「どういう事って何かしら?」
 鏡の前に作られた小物置き場、そこに無理矢理座らせたアルトは、ミニ気味のスカートから伸びた足をプラプラさせる。全く訳がわからない、と言うような顔をしているが、彼の聞きたいことが判っていないはずがない、少なくとも良夜はそう思っている。
「だから、なんで、お前、英語なんか判るんだよ」
「英国産淑女だから」
「あっ、ネイティブか……なんで日本に渡ってきたんだよ?」
 金髪だし、妖精だし、名前も横文字だし、なるほど……と、納得しかける良夜に、アルトが「嘘よ、馬鹿」と呆れたように呟いた。判りづらいネタは止めろ。
「今日みたいな事を何十年も、試験のたびにやってれば、嫌でも覚えるわよ」
 常に暇と好奇心をもてあまし気味な妖精さんは、喫茶アルトで試験勉強をしている学生の所に飛んでいっては、彼らの見ている教本やノート、レポートを覗き込むという生活をずっと続けていた。最初の数年はさっぱり判らなかった、十年も経つ頃には少しくらいは判るようになってきた。そして、数十年が経った今では――
「一通りの単位が取れる自信はあるわよ。実験はしたことないけど」
 と言う状態になっていたらしい。門前の小娘、習わぬ単位を取る、と言う奴か……
「……アルト! いや、アルトさん!!!」
 外にまで聞こえるのではないだろうか、と言うような声で良夜がアルトの名を呼んだ。しかもさん付け。その迫力にアルトも腰がひけ、逃げ腰になっている。とても珍しいことであるはずなのだが、良夜はそれに気がついていない。
「なっ何よ……私、貴方のカンニングペーパーにはならないわよ……」
 鏡と良夜に挟まれ、逃げ腰なのに逃げ場のないアルトは、その小さな体を鏡に密着させるように、体を後ろへと引いた。
「頼む!」
 パンと大きく良夜の両手が彼の顔の前でぶつかり合った音が、その心地よくトイレの中にこだまする。誰にも見つかる心配もなければ、ヤマが外れてパニックになる可能性もない、しかも、自走式。完璧なカンニングペーパーがそこにあった。
「サイッテェ……ね、良夜」
「大学生はな、単位のためには魂をも売るんだ」
 最低であることは本人が誰よりもよく知っている。しかし、今は情けなさよりも、目の前の自走式光学迷彩カンニングペーパーをゲットした喜びの方が大きかった。大体、代返使ってサボった授業のうち、八割くらいはこいつの所為でサボらざるを得なくなった物だ。少しくらいは協力したって罰も当たらない。完璧な自己正当化。
「魂よりも大事なものを売ってるような気がするわよ。でもね、良夜。あなたは大学に何をしに来たのかしら? 勉強をしに来たのでしょう。ちゃんと自分で勉強して――」
 鏡の前に座ったまま、アルトはストローと正論を振りかざす。今日は意外な人物に正論を言われる日だ。自業自得だけど……
「ご高説ごもっとも、アルトちゃんはいつも正しい……でも、もう、間に合わない教科があるんだよ……」
 言っていることは十分に判る、彼とて、全ての試験でアルトを遣うつもりは毛頭ない……と、思う、あまり自信はない。
「まっ、精々苦しみなさい。大丈夫よ、大学は八年掛けて卒業したら良いんだから」
 情けない顔で拝み倒している良夜に、多少の哀れみを乗せた視線を送るが、言ってることには優しさの欠片すらない。
「親に殺されてまいますがな」
「二−三回追試を受けたら、単位もくれるわよ……」
「良いけど、アルト……夏休み、レポートと追試と補講で潰れたら、どこにも連れて行ってやれないぞ?」
 その言葉に、アルトの顔が凍り付いた。
「うっ……もしかして、海も?」
 良夜とタカミーズ、美月までもが参加をする旅行の話が彼らにはあった。自力での外出などほとんど出来ないこの引き籠り妖精は、未だいつに行くとも決まっていない計画を、一日千秋の如く待ちこがれている。今回、大人しめなのも、この計画がパーにしないがための涙ぐましい努力の結果なのである。
「追試が終わる頃には、クラゲが浮いてるって」
 まあ、これは言い過ぎかな、と思わないでもないが、この位言わないとアルトは助けてくれないだろう。嘘も方便……って、無茶苦茶な方便もあった物だ。
「はぁ……もう……間に合わない教科って何?」
「英語表現と英語読解……」
 今期は取っていないが、第二外国語もかなりヤバ目。事と次第によっては、来年、英語二つに第二外国語という素晴らしい布陣のカリキュラムを取らなければならないかも知れない。それを考えると、何があっても英語二つは今年のうちに収得しておく必要が、良夜にはある。
「工学部は英数だったでしょ? 入試」
「数学で満点近く取った……自己採点だけど」
 それと流石に第三志望で狙った大学、苦手だとは言え、英語の問題も根を上げるほどには難しくなかった。第一志望と第二志望が滑ったのは、確実に英語が原因。
「しょうがないわね……これだから、ゆとり教育世代は……」
 良夜の最終手段とでも言うべき説得に、アルトはやれやれと首を数回振り、小さく「判ったわよ……」と呟いた。俯いた表情には珍しく諦めの色が伺える。
「マジで? いやぁ、ホント、ありがたい。ブルーマウンテン飲むか?」
 ぱーっと明るくなる良夜の顔。これで最重要単位は方がついた。他の教科は何とかなるはずだ。さようなら、梅雨の試験勉強、こんにちは、夏のバカンス。
 全くの余談だが、この大学、追試を受けると一教科二千円取られる。いくら高いコーヒーでもこれよりかはいくらか安い。セコイったらありゃしない。
「勉強、教えてあげるわよ」
 諦めの色で染められていたはずの顔は、あげられたときには意地の悪い笑みが浮かびあがっていた。
 その表情のまま、アルトは鏡の前から良夜の顔の前へと飛び上がった。そして鼻先に突きつけられるストロー。
「家庭教師、先生と呼びなさい、良夜くん」
 きっぱりと強く断言。彼女にひく気は一切ない。
「ちょっと待て!」とは良夜の言葉、でも、アルトは待たない。
 カンニングペーパーやらなくて済むし、良夜で遊べるし、一石二鳥なナイスアイディア。
「今夜からで良いのかしら? バイトが終わったら三時間は勉強ね。私が動く以上、可は許さないわよ、可は」
 ヒュンヒュンとストローを振り回し、彼女はやる気満々。
「後、ブルマンは飲むわよ」
 一石三鳥だった……

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