梅雨と夏の間――はざま――(2)
 最終的に良夜はアルトを頼ることにした。取れる単位ならば取っておきたい、それはどんな大学生だって思うことだろう。それが例え、怪しげな自称妖精に頭を下げることになっても……
「貴美のこと、馬鹿にしてた割りにはしっかり、良夜もバイトに行ったのね」
 本当のところ、テスト直前のこの時期、アルバイトは休みたかった。通勤時間を合わせて一日五時間ちょいの時間は実に惜しい。しかし、バイト先も随分と忙しいし、何より、稼がないと夏休みの軍資金がない。単位を落す可能性と赤貧の未来とを秤に掛け、前者を良夜は選んだ。素晴らしいダメ大学生振り。
「金がないんだよ」
「だったら、アルトでパンの耳でも貰ったら?」
「お前が毎度毎度、俺にコーヒーをたからなきゃ、もうちょっと裕福なキャンパスライフを送れたよ」
「バイト、頑張りなさい」
「……頑張るから、カンペになってくれ」
 未だに諦めきれない自走式光学迷彩カンペ……こんなもんが目の前に転がってたら、誰だってすがりたくなるよな?! と、全世界数百万の大学生に同意を求めてみる良夜。小さいったらありゃしない。
「……ホント、せっぱ詰まってるのね」
 呆れたというか、同情しているというか、何とも表現しがたいが、とりあえず、馬鹿にしていると言うことだけは判る表情でアルトは良夜を見下ろしていた。
 ここは良夜のアパート、日付が少し前に変わったという時間帯。朝からどんよりと曇っていた空は、夕方過ぎに泣き出し、今では号泣している。良夜の気分もこの空と同じ、号泣してしまいたくなる気持ちで一杯。
 その原因は目の前でパタパタと羽を小刻みに動かして、ホバリングしている妖精だ。本日の出で立ちは、普段のフリルたっぷりゴスロリドレスではない。ダークブルーのタイトスカートに、糊の良く効いた白いブラウス、襟元を飾るのは定規を当てたかのように真っ直ぐ伸びるネクタイ、そして縁の細いメガネ、視力は良いと自慢していたから、多分、伊達メガネ。良夜は、パチもん女教師に勉強を見て貰っていた。
 まあ、その辺は問題ではない。軽く突っ込みを入れて、『普段のドレスの方が良かった? このロリコン』『俺はロリじゃねえ!』という定番のやりとりを繰り返しただけだ。問題は――
「間違えてるわよ。ここは、直訳じゃなくて『覆水盆に返らず』よ。英語だけじゃなくて国語も駄目なの? 貴方、何人?」
「単語、全然、覚えてないわね……良くそれで高校が卒業できたと思うわ。このゆとり教育世代」
「……Doituって……ドイツ語ならDeutschland、英語だったらGermanyよ……素直にもう一年、英語の授業取ったら?」
 と、こんな感じで罵倒され続けているからだ。しかも、罵倒の内容が概ね正しいって言うのが、彼の心を深く鋭くえぐり続ける。
 何十年も大学生達の試験勉強を見物してきたと自慢するだけのことはあった。アルトは驚くほどに試験のことをよく知っている。最近、着任したばかりの教官はともかく、古参教官に至ってはその試験の傾向と対策までも、彼女は知っていた。この際だから、英語だけではなく他の教科も頼ってしまっても良いのではないだろうか、一瞬だけだが、そう思わせるに十分な家庭教師ぶりを発揮してくれた。
 だがしかし! すぐにその考えは否定された。
「馬鹿、アホ、ヘタレ、ロリ、ゆとり教育世代、中学生からやり直してきなさい!」
 こんな感じにいちいち、人を罵倒してくれるからだ。頭良くても、人に物事を教える人間の態度ではない。ちょっと気の短い奴なら、とっくにキレて、彼女を壁に画鋲で貼り付けてダーツの的にしているだろう。良夜も三回はそれをやってやろうと思った。
「もうちょっと、言い様はないのか……お前」
 散々罵倒され、繊細な心を言葉のナイフでなますにされた良夜は、出来上がったノートをアルトに足下へと投げ出すと、ガラステーブルの上へと突っ伏した。
「浅間くん、ここが間違えてるわよ。さっき、教えたところでしょう? お馬鹿さんね、う・ふ・ふ」
 トントンとストローの先端が良夜の書いた下手くそな英文を指す。落ち着いた口調と台詞ではあるが、結局最後には馬鹿と言われる。ちなみに最後の『うふふ』は口に出した棒読み台詞だ。
「いや、悪かった。さっきのままで良い」
 敗北感にうちひしがれ、倒れ込んでいたテーブルから顔を上げるとそこにはアルトの組んだ脚から伸びるつま先があった。それを包んでいるのは、いつも通りの素朴な木靴。普段のドレス姿なら、こんな物かなと思うが、ダークブルーのスーツにその靴が合っているとはとても思えない。ストローで刺されるのもかなり痛いが、この木靴で蹴飛ばされるのも地味に良く利く。足が細くて長いからしなるのだ。
「靴? 気に入っているのよ」
 ピョコンとつま先を跳ね上げ、そこへとアルトが視線を向けた。
「部屋の中なんだから、脱げよな、お前……」
 視線は完全にノートからアルトへと持ち上がり、シャーペンの動きが止まる。二人とも意識はしていないが、こういうシーンは本日三回目、ポイントを押さえた効率的な授業ではあるが、同時に中断も多く、トータルとしてみれば凄く効率的、とは言えない学習速度だった。それでも、良夜一人でやっているときよりかは、幾分、マシなのだが……
「つま先が見たいの? フェチね」
「……俺に妙な性癖を付けたがるの、止めてくれないか?」
「ロリに比べればフェチなんて大したことないわよ。それより、さっさと直しなさい。ここ、スペルが違うわよ」
「へいへい……」
 再び良夜がノートを手元に引き寄せると、やることのなくなったアルトが小さな声で鼻歌を歌い始めた。スローテンポな、多分、バラード、英語らしき外国語の歌詞なのでその意味は良く理解できない。無駄に発音が良いから、簡単な内容でも聞き取るのが難しい。
「ヒアリングでもする?」
「ヒアリングの試験はないんだよ。BGMの変わりにするから勝手に歌ってろ」
 アルトの言葉に、良夜はノートと教本、ついでに辞書へと視線を動かしながら答えた。
 こうして、しばらくの間、シャーペンが走る――いや歩くだな、速度的には。もしくは迷走――音とアルトの静かな歌声、そして、窓を叩く強い雨音、それだけが広いとは言えない部屋の中を支配することになった。

 そんな時間が小一時間ほど続いた。時折、アルトは良夜のノートを覗き込んでは、間違っている箇所を指摘してはくれるが、どこがどう間違えているかは余り教えてくれない。一応、試験勉強なので自分で調べろ、と言う事らしい。面倒臭いからじゃないのだろうかと、思ったり思わなかったり……
「と、これで良いか?」
 一通り、指摘された場所を修正し、家庭教師へとノートを差し出す。そして、差し出された方がそのノートの上をテクテクと歩いて見回り、出した方はボケッとそれを眺めている。余り勉強をしているようには見えない絵面、一番近いのは、飼い主の邪魔をしている気ままな半ノラ子猫。
 そして、一通りの散歩……じゃなくて、チェックが終わるとアルトはパタパタと羽を動かし、気になった部分を数カ所、手に持っていたストローで指し示し始めた。
「……こことここ……それとここの表現が少しおかしいわね。さっき、教えてあげた奴の方が良いわよ」
「余り習ったことのない表現なんだけどな……あれ」
 アルトが教えてくれたものの中には、アメリカ人ならこうは言わない、こう言うとか、そんな物があった。ハリウッド映画で使われているような少しカッコイイ表現方法、聞いてる分には面白いのだが、それを試験で使えと言われると話は少し違う。
「英語表現法は山下って講師でしょ? こっちの方がウケが良いわよ」
 講師の好き嫌いまで考慮に入れた試験対策、ちょっと反則気味。他にも、あの教師は毎回同じ試験を出すとか、四年周期で同じ問題を出すとか、あの教師の試験は事実上カンニング公認だとか、色々と役に立つ情報を仕入れることが出来た。こんな事まで知っているのなら、精密機械のレポートも頼れば良かったかな、と少しだけ思った。人より再提出は少ないが、それでも手間だと感じることに変わりはない。
「ホント、よく知ってるな……ふわぁ……今夜はこんなもんかなぁ……」
 大きく背伸びをすれば、二時を大幅に回ったクォーツが見えた。民放三つしかないこの辺なら全てのチャンネルが砂嵐に変わる時間帯だ。思っていたよりも長く勉強をしていた。ここまで集中して勉強をしたのは、受験勉強の追い込み以来かも知れない……受験勉強の追い込みで、この程度しかしてないから、第一志望と第二志望落ちたのだろう。
「そうね、それじゃ、コーヒーでも貰って終わりにしようかしら?」
 アルトも流石に疲れたのか、体の節々をほぐしながら、帰宅後三杯目のコーヒーを要求し始めた。帰ってきてすぐに一杯、一時間半ほど前に一杯……良夜のお腹はチャプチャプになりそうな雰囲気だったりする。
「寝る前に飲むと、眠れなくなるぞ」
 それでも素直にシンクの前へと向かったのは、一応、世話になったからと言う意識があったから。最近買ったばかりのヤカンに水を張り、それをコンロに掛ける。沸騰するまでにマグカップとドリップパックを段取り……手際は悪いが、そこはお手軽なドリップパック、素人がやってもそれなりに格好はつく。
「そんなの迷信だわ。理数系の癖に――」
 そんな迷信を信じているのか、おそらくはそう続こうとしていたであろう言葉が途切れた。
「どうした?」
「……物音が聞こえるわ、この向こう、タカミーズの部屋でしょう?」
 この向こうとは良夜がテレビを置いている側の壁のこと。彼女はその小さな体を精一杯壁に押し付けていた。
「そりゃそうだが……お前、何をしてるんだ?」
「盗み聞き、最中だったら、覗きに行くわよ、私は」
 さすがは光学迷彩妖精、考えることがダイナミック……妖精という物は、もう少し、こう……ファンタジー溢れる物だと思っていた。どこの世界に、隣人のエッチを覗きに行くと言いきる妖精がいるんだ?
「悪趣――」
「静かに! 話し声ね……」
 悪趣味だと続けようとした言葉を、アルトがストローをつきだして制する。その顔は真面目そのもの、良夜の勉強を教えていたときの五倍は真面目だ。こんなに真面目な顔が出来るのか、と少し感心した。
 が、彼女はもっと真面目な顔も出来たのだ。
 親の敵を目の前にした孤高の復讐者、そんな顔をして、彼女は木靴に包まれた脚で力一杯壁を何度も蹴っ飛ばす。いや、蹴っ飛ばすというのは少々語弊がある。彼女はその羽を駆使して、壁に立って地団駄を踏んでいた。その長い髪だけが物理法則に従い真下に垂れ下がってはいるものの、そこにさえ目をつぶれば、完璧に壁に立っている。
「りょーやん、うるさい! 壁、叩かないで!!」
 真剣な顔で壁相手に地団駄を踏む、それは遮音性の悪いこのアパートではあり得ないほどに隣人迷惑。速攻で隣の部屋から、貴美の怒鳴り声が無実のお隣さんに矢となって放たれる。
 しかし、姿も見えないのに、壁を叩く音は誰にでも聞こえるようだ。どういうルールになっているか、未だに理解が出来ない。
「わっ悪い! 手が当たっただけ!」
 適当な嘘をついて、アルトの罪を被り、壁の上で地団駄を踏む小さなの体をひっつかまえた。
「勉強してただけわっ! あぁ、もう、二回連続で騙されたわ!!!」
 当人達に騙したつもりはないだろう。しかし、アルトの怒りは理不尽に燃え上がっていた。良夜の手の中で、久しぶりに金髪危機一髪状態になってからも、その怒りは消えることなく、辺り構わず、大声で怒鳴り回っていた。
「良夜! 次、タカミーズに部屋を追い出されたら、私に教えなさい!! 意地でも覗いてやるわっ!!!」
 くっだらないことに意地をかける馬鹿だ……そんなにエロシーンが見たければ、ビデオでもなんでも見ればいいのに……良夜は、この極限までに即物的な自称妖精を手の中から解放し、彼女の望みが叶わないことを告げた。
「それ、もうなくなったぜ」
 良夜の言葉は、アルトの激高に油を注ぐことにしかならなかった。良夜の目の前に飛び上がったアルトは、今にも彼の顔なり何なりを突き刺す勢いで、ストローを構えている。妖精さんのダークな夢を壊したことを思いっきり後悔してしまうヘタレ大学生。
「どうして!?」
 理由は良夜が夜のバイトをし始めたため、いちいち追い出す必要がなくなったから。四月五月に数回の羞恥プレイをいやって言うほど堪能した直樹が、そういう風にすることに決めたらしい。一度の時間減ったが、回数が増えたらしいので吉田さん大喜び……らしい。詳しい話は聞きたくもない。
 ……寂しくなんてないよ? 全然、寂しくありませんとも!! 別になんで、直樹に恋人が居て、俺には居ないんだ!! なんて事、全然、思っていませんよ……いや、ホントに、ホント。と、良夜はこのことを考えるとき、いつも自分にそう言い聞かせている。
「じゃぁ、いつ?!」
 鼻先にホバリングをしながら、体をくの字にしてその美しい金髪を振り乱す。今すぐ教えろと怒鳴るたびに、ストローが良夜の鼻先をひっかく。
「直樹が休みの時だろう、俺が留守をして二人そろってるのはその時間くらいだし」
「だから、それはいつなの!!」
「知らない、あいつ、俺よりバイトに出るのが遅いし……」
 特に、休みの夜にそう言うことをし始めた、と言う事を良夜が知って以降、直樹は自分の休みを良夜に教えなくなった。しかし、教えて貰ってないと、忘れ物を取りに帰ってきたら、隣から、ベッドのきしむ音が聞こえてる、と言う事にでもなりそうで、ちょっと恐い。
「使えないわね!! だから、いつまで経っても童貞なのよ!!!」
 調べてこいと目で強迫する金髪の妖精と、そんなことは間違ってもやりたくない大学生、二人は静かに視線で牽制し合った。
 とっても嫌な沈黙。一触即発、武器を持っている分、アルトが有利……
 その嫌な沈黙は、ヂュンヂュンと蒸気が鉄に触れる音で自分の存在を主張するヤカンくんによって幕を引かれた。それはアルトにぶっ殺されかけていた良夜を救う福音。
 アルトは怒り狂っていたことも忘れ、素の表情に戻ると「お湯、沸いてるわよ」と、良夜にコーヒーを煎れることを催促した。そして、叩きつけられるのはやっぱり、「使えないわね」の一言。それにへいへいとやる気のない返事だけを返して、シンクの前に立つ。
「コーヒー飲んだら、帰れよ」
 コポコポと音を立てて、使い捨てのドリッパーへとお湯を注ぎ込む。フワリと大きく膨らむコーヒー豆達。このふくらみ具合でコーヒーの味は決まるらしい。
「雨、振ってるわね。傘、ある? なければ、明日で良いわよ」
 外は嵐と言っても良い雨、彼女を送るのは少し面倒だが、朝一番で送るのはもっと面倒、朝になれば降っている雨が上がるという保証もない。
「持ってるよ、なかったら学校に行けないだろう」
 ふくらみ泡立つコーヒー豆、それがしぼみかけたところで追加のお湯を注ぎ込む。このタイミングもちょっと重要。
「馬鹿ね、こう言うときは、持ってても、持ってないって言えば女は部屋に泊るのよ」
 そのタイミングを良夜が少しずらしたのだろうか、アルトが小さく「あぁ」と諦めたように息を漏らした。
「……お前を部屋に泊めて一晩、何をしてろって言うんだよ」
 良夜がそう尋ねると、マグカップにしがみつき、一滴一滴数えるように落ちていく褐色の液体を眺めていたアルトは、僅かに悩むような表情を見せた。
「そうね……一晩中、良夜が私に罵倒され続ける、とか?」
「……お願いだから、帰ってくれ」
 外の雨は未だ降り止まず、夏が来るのはもう少し先……

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