六回目
 直樹は出来るだけ大きな音を立てないように心がけながら、喫茶アルトの駐車場に入るとそのエンジンを止めた。時間はもうすぐ十一時、当然、喫茶アルトはとっくに閉店し、その入り口は固く閉ざされている。
 彼がこんな時間にこんな所へとやってきたのには、訳があった。
「今日、なおの誕生日だから、バイト終わったらアルトに来てね」
 授業終了後の時間を喫茶アルトでコーヒーを友達に時間を潰していた時、彼の恋人がそんなことを言出したからだ。
 直樹と貴美が幼なじみを卒業し、お付き合いと呼ばれる物を始めたのは中学二年春のことだった。それ以降、貴美は直樹の誕生日に何かしらのお祝いめいた物を開催していた。『お祝い』ではなく『お祝いめいた物』と微妙な言い回しになるのは、内容が素直に祝っているのか、それとも誕生日すらからかうネタにしているか、その判断がつかないようなプレゼントをくれるからだ。
 つきあい始めた二ヶ月後の誕生日には北海道の牧場から取り寄せた牛乳に『目指せ百五十センチ』と書かれたカード、二年目は高校受験だったので参考書に『目指せ一緒の高校』と書かれたカード、三年目が枕に『受験終わったからこれでたっぷり寝てね』と書かれたカード、四年目が目覚まし時計に『最近寝過ぎ』と書かれたカード、そして、五年目が『エッチな同人誌』、カードはなし、当時はよく判らなかったのだが、これを読んでムラムラと来たら遠慮なく襲え、と言う意味だったらしい。
 普通の人、最近だと良夜辺りには『ちょっとは怒れ』と言われるところだが、直樹自身はそんな貴美との付き合いを、概ね楽しんでいる。趣向を凝らしたというか、こういう奇妙な誕生日プレゼントも慣れると面白い。
 そんなわけで、直樹は今年の誕生日は何かな? と数日前からちょっとだけ楽しみにしていたわけだが、今回のように夜の喫茶店に呼び出されるのは初めてだ。妙な誕生日プレゼントにも飽きたのかも知れない、と思うと少々不安になってくる、ろくでもない悪戯が準備されていそうだからだ。
「いらっしゃいませ、ようこそ、喫茶アルトへ」
 とっくに鍵が掛けられている入り口ではなく、裏口からキッチンへと入ると、そこにはいつも通りの営業用作り笑顔を貼り付けた貴美が恭しく頭を下げていた。四年間の接客業で培った営業用人格と作り笑い、これに騙され彼女を上品なお嬢様だと勘違いしている学生も数知れず、また、そう言う学生が貴美の普段――特に講堂で猥談なんかをして盛り上がってるさま――を見て、淡い夢を打ち砕かれるというのは日常茶飯事。
「メットと荷物はその辺に置いておいて、それより……ものすごっく、恐かったんだけど」
 珍しく不安そうな表情をすると、貴美は恋人の手をギュッと強く握りしめた。
 直樹が知る限り、たった一つと言っていい貴美の弱点、それは極度の恐がり。何かのトラウマでもあるんじゃないんだろうか、と言うくらいに、彼女はホラーや怪談、オカルト的な物を一切駄目。その流れで暗がりに対しても、女性だから、と言う理由以上に拒否反応を見せる。
「暗いのが恐いんなら、わざわざ、閉店後のアルトでしなくても……」
 強く握りしめる貴美の手を握りかえし、直樹は少々高いところにある恋人の顔を見上げた。その顔は直樹が来たことに安堵したのか、営業用ではない、少々抜けてはいるが愛嬌のある笑顔で彼を見下ろしていた。
「一度、閉店後の喫茶店の貸し切りっての、してみたかったんよ」
「してみたかったって、こわが……手のひらに爪を立てるの、止めません?」
 にこやかな笑顔とは裏腹に、ギリギリと食い込む鋭い爪、ご丁寧にもヤスリで整えていらっしゃる。
「私はイジルのは好きだけど、イジラれるんは嫌いだって、なお、知ってるよね?」
「だからって……痛いですって、ごめんなさい、もう言いませんから!!」
 深く食い込む爪は、いまにも手の甲を切り裂きそうで、その手の持ち主に悲鳴をあげさせるに十分な威力だった。
「なお、何時だと思ってんよ? 美月さんや店長、もう寝てるよ」
 すっと弛められる指先の力、彼女自身が刻んだ傷口を彼女の指先が優しく撫でる。この間、表情が全然変わらない辺りが凄い。
「……力一杯、爪を手に食い込ませるからですよ……」
 ちょっぴり涙目での抗議もどこ吹く風、貴美は悪びれもせず「余計なことを言うなおが悪い」と聞き流した。
「さてと……はい、今夜のご飯。どーよ?」
 じゃれ合いと呼ぶには少々過激なスキンシップを織り交ぜながら、二人はようやく、いつもの席へと到着した。そのテーブルの上には、トマトの香が食欲をそそるミートソーススパゲッティと、じっくり時間を掛け溶けそうなほどに煮込まれた肉料理、そしてサラダにワインのハーフボトル。それらが乗せられているテーブルもアイロンが掛けられたクロスがひかれている。これは普段の営業中には掛けられていない。
 何となくではあるが、隅々にまでノリが効いた真っ白いクロスが一枚あるだけで、特別な雰囲気を演出している。これはもう、去年までの『お祝いめいた物』ではなく、立派な『お祝い』と言っていいだろう。
『何を企んでるんだろう?』
 直樹は素直にそう思った。過去五回の誕生日を鑑みれば、彼女がまともに自分の誕生日を祝うとは考えられない。何か仕込みがあるはず……例えば、全部蝋細工の食品サンプルだとか……最近のサンプルは匂いまでするのか……
「パスタソースは明日の分を貰っただけなんよ。それにお肉は煮込むのに圧力鍋を使ったし、一番手間が掛かってんのはテーブルクロスのアイロン掛け」
 直樹の心の動きを知ってか知らずか、貴美は誇らしげな笑顔で料理の説明をし始めた。パスタソースの仕込みは自分も手伝ったとか、肉料理は美月から教わったイタリア料理なんだとか……が、直樹の頭を支配している事はただ一つ――
『絶対に何かある』
 これだけだった。と言うか、何かあって欲しい、普通に祝われたのではちょっと物足りない。そう思っている自分が、直樹には嫌だった。
「どったの? なお、顔、変だよ」
 何度もテーブルの上と彼女の顔を見比べる直樹、彼の顔を一足先に席に着いた貴美が不審そうな顔で見上げた。
「顔は生まれつきです」
 何が悲しくて恋人に『顔が変だ』と言われなきゃならないのだろうか? 直樹はやるせないを気持ち隠そうともせず、貴美の正面の席に腰を下ろした。
「そう? 生まれたときは知らないけど、子供の頃はもっと……女の子っぽかった」
 貴美は座ろうとしている直樹の顔を見つめたまま、言葉を紡ぎ、最後の一言は彼が椅子に座るその瞬間に合わせ、からかうような笑顔とともに言った。
「それ、褒めてるんですか?」
 料理の湯気の向こうに見える貴美の顔は相変わらずヘラヘラとした抜け気味の笑顔、やっぱり、直樹は営業用の取り澄ました表情よりこっち方が好きだと思う。
「当時のことを褒めてるんよ」
「要するに褒めてないって事ですね」
 席に座るとより一層料理の香は、直樹の鼻を通じて彼の空腹に容赦のない攻撃を加える。どうやら、食品サンプルではないようだ……と言う事は仕込みは別の所か……
「良いから、さっさと乾杯しよ、今夜はなおの誕生日だから、ちゃんとお酌もしてあげるね」
 言われるままに用意されたグラスを手に取り、ワインのコルクを抜こうとしている貴美へとさしだした。
 貴美はワインの封を切ると、まず、主役の直樹が差し出したグラスにワインを注ぎ込んだ。そして、優しい笑顔を浮かべ「おめでとう」の言葉を彼に贈った。
 多分高価なグラスの中で波打つ真紅の液体、芳醇な香りで彼の空腹をさいなむ料理達、そしてロケーションは閉店後の喫茶店……立派なお祝いの席だ。直樹はそれらを順番に眺め、最後に自分のグラスにワインをついでいる恋人へと視線を戻し、心の中でもう一度疑問の言葉を呟いた。
『もしかしたら、本当にお祝いしてくれているのだろうか……』
「だから、なお、顔が変だって。はい、乾杯」
「顔は生まれつきですってば、乾杯」
 貴美がグラスを掲げると、直樹は反射的に自分のグラスを彼女のグラスに軽く触れさせた。そして、その時点でようやく、自分がオートバイに乗ってここまで来たことを思い出した。
「あれ、乗ってきたの? ありゃ……まあ良いじゃん、押して帰るか、置いて帰れば」
 出来る限りさっさと帰ってこいと言ったのは貴美本人であり、直樹はその言葉を実行するためにバイト先から直接バイクでここに来た。第一、ヘルメットと荷物をキッチンに置かせたのは彼女自身だ。こう言うところは、誕生日も糞もない普段通りの貴美、ちょっと安心と言うのもおかしいが、ひとまず安心した。
「押して帰りますから、吉田さんも手伝ってくださいよ」
 喫茶アルトからアパートまでは上り坂、単車を一人で押して帰るにはちょっぴりきつい道のり。アパートの駐輪場もここの駐車場も防犯的には余り変わらないのだろうが、やはり、あるべき所にないのは少し不安だ。
「荷物くらいは持ってあげんよ」

「ふぅ、ごちそうさま……美味しかったです」
 掛け値なしで美味しい料理だった。食後に出たバースディケーキが店の売れ残りだったとか、それも直樹が四分の一で貴美が残り全部とか、煎れてくれたコーヒーが、普段飲んでいる物と比べると今ひとつだったとか、些細な問題こそあったものの、貴美に出来る最大限の誕生日祝いと言っていい宴だった。
 変に疑って悪かったかな、と言う直樹は少し反省した。まあ、去年までが去年までだったのだから、疑われても仕方ない。だから、反省はあくまでも少しだけ。
「ホント、なお、今夜は顔が変だね」
「あの、僕、料理を褒めてるんですけど……」
「そう? 私も褒めてんよ、なおの変な顔」
 同じ事を言われたら、百パーセント怒る癖に、どの口で褒めてると言えるんだか……直樹はコーヒーを飲み干しながら、変だを繰り返す彼女の口元を見つめた。
「でも、お肉はヒットだったね、また、作ろうか?」
 食べている最中から、憚ることなく自賛し続けていた肉料理の皿をスプーンで小さく叩きながら、貴美は家でもう一度作ってみる算段をしていた。直樹にはよく判らないが、圧力鍋を使うと意外と手軽に出来るらしい。
「うちの部屋、圧力鍋なんてありましたっけ?」
 新生活を始める新婚さんよろしく、一緒に買い物へと出掛けた日のことを思い返し、直樹は呟いた。圧力鍋も購入の候補に挙がったが、結構良い値段だったので彼女は購入を諦めた。お金を持っている割りに、ケチな女だ。
「ここのを借りるよ、余り使ってないから」
「使ってないんですか? 圧力鍋」
 圧力鍋を使うと調理の時間は短縮されるが、業務用として使うには量が作れない。だから、あるのにほとんど使われてはいないらしい。
「じゃぁ、なんで、あるんですか?」
「美月さんが何となく買って来ちゃったんだって……キッチン、使ってない調理器具が沢山あるよ、デジタルの秤とか、電動泡立て器とか、電動の包丁研ぎ器とか……」
 そう言えば、フロアに飾ってあるコーヒーサイフォンも、買ってきたものの一度も使ったことがないって話していたな……と、直樹は少し前に美月から教えて貰った話を思い出した。
「包丁、研がないんですか?」
「ううん、研ぎ石で研いだ方が良く切れるんだって」
 長い黒髪を解き、流し元灯――シンクの上についてる二十ワットくらいの小さな蛍光灯――だけをつけて、しゃーこしゃーこと研ぎ石で包丁を研いでいるシーンは、恐がりな貴美は言うに及ばず、それを説明されただけの直樹でもちょっと恐くなる。しかも、研ぎ終わると、やり終えた達成感からちょっと笑うそうだ。かなり恐い。
 そんな話をしながら、貴美が四分の三ホールのケーキを食べ終える頃、そろそろお開きと言う時間がやってきた。
「うん、所でさ……」
 チンと小さな音を立てて、ケーキ皿の上にフォークが置かれた。置いた張本人はペーパーナプキンを一枚取ると、それが礼儀とでも言うかのように余り汚れていない口元を拭いて一息ついた。
「はい? 何ですか?」
「なお、今夜、ずーっと、『何を企んでるんだろう?』って思ってたっしょ?」
 手の甲で頬杖を突くと、彼女は直樹の顔をにっこりと笑って見つめた。
「えっ?! あっ……まあ……そりゃ、去年までの誕生日があれでしたから」
「うん、面白かったよ、私の顔と料理を見比べると所とか、恐る恐る食事に口を付けるところとか、一通り食事を終わらせた後に疑ってたことを反省してるところとか」
 そして、気がつくたびに『顔が変』を繰り返していた。こっているというか、何もかも判った上で妙なことを考えているというか……直樹ははぁ、と大きなため息をつくと、企みを成功させた恋人の顔へと視線を向けた。
「良くそんなことを考えられますよね」
「まぁねぇ、今年のプレゼントネタ、思いつかなかっただけなんだけど……まあまあ、ヒットかな」
 ここ二週間ばかり、貴美は一生懸命受ける誕生日プレゼントという物を考え続けていた。が、良いネタが思い浮かばなかった。三年前の受験翌年の流れから、布団という線も考えたらしいが、二人の布団は引っ越し前に買ったダブルの掛け布団だけ。新しいものを買うには早すぎる。
 そして、思いついたのが、『逆に思いっきり普通に祝ってみよう。なおはどんな顔をするだろうか?』だったと言うのだ。
「普通に誕生日を祝ってくれても良いんじゃないんですか?」
「なおがもうちょっと素直だったら、普通に祝ったことになったんだけどね。来年も何か考えるから、楽しみにしててよ」
 普通に祝われるのが普通じゃないというのも、どういうものなのだろうかと直樹自身も思う。
「もう、余計なことを考えなくて良いですから」
「余計じゃないよ、一緒にいると楽しいから、もっと楽しくしてみたいだけ」
 チョイチョイと手招きをして、体をテーブルの上へと乗り出させる貴美……
「僕は吉田さんの玩具じゃないんですよ」
 苦笑いを浮かべながら、応えるように直樹も体を乗り出させた……
「うん、大事な恋人だよ、なお……」
 テーブル、僅かに直樹の側に近い所で二人の唇がそっと触れあう……一夜限りの喫茶アルト特別深夜営業も終わりの時間を迎えようとしていた。

 そして翌日。
「で、私はもう、ここまで来たら、何処かのゲームの如く、フロアでのエッチだと思って、期待してたわけよ!」
 肩口に立って、蕩々とその一部始終を語り尽くしてくれるのは、この喫茶店のフロアで寝起きしているデバガメ妖精。
「……馬鹿か、お前?」
「それが、ただのキス、それも唇を重ねるだけで終わり!! あぁ、もう、これじゃ何のために睡眠時間を削ったのか、判らないわ!!!」
 そして、何故か良夜が罵倒され、髪が抜かれる。深夜のデートをかぶりつきで見物していた妖精さんは、その日一日、とっても不機嫌だった。

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