一人暮らし(4)
「このカオスな感じがいいのよ」
「何がカオスだよ……汚いだけじゃないか……下着まで転がってる」
良夜はやけにテンションをあげてきているアルトを肩に乗せ、そのアルト曰く『カオスな部屋』へと足を踏み入れた。下手に一歩を踏み出すと何を踏みつけるか判った物ではない。貴美の下着ぐらいなら恥ずかしいで済むだろうが、よく見ると直樹がメンテに使っている工具の類まで大量に転がってる。事と次第によっては、釘だのビスだのナイフだののこぎりだの包丁だの、踏んだらシャレにならない物が落ちてても不思議ではない雰囲気がそこにはあった。
直樹が作り上げた自らの安眠を守るための地雷原、良夜はそこを慎重に一歩一歩進んだ……って、本当にそのつもりで作った地雷原だったら、直樹の奴、ぶっ殺してやる。
「手を伸ばしたところに必要な物があるって言うの、良いじゃない?」
「そうかぁ?」
物珍しそうに……いや、実際に珍しいのか? キョロキョロと楽しげに回りを見渡すアルトの声に、良夜は慎重な面持ちで次の一歩を出すべき場所を探しながら答えた。
確かに手を伸ばしたところに何でもあるから、必要な物もあるかも知れない。しかし、これではどれが必要な物で不必要なものか解りはしないだろう。なんといっても、辞書がブラを被ってる部屋なんだから……しかし、でかい。アルトのベッドにちょうど良さそうだ。
「私がそう言うことをすると、あっという間に誰かが捨てちゃうもの。だから、こう、思いっきりカオスな空間って言うの、たまに味わいたくなるのよねぇ」
「あぁ、そうかい。もう、良いから、さっさと直樹起こして、事情聞くぞ」
アルトの気持ちもわからなくないかな、と言う気がしないでもないが、いまはそんなことをしている暇はない。昨日の三倍の時間を掛けて直樹のベッドサイドまでたどり着いたのだ、さっさと起こさなければ、朝の貴重な時間がどんどん減って行ってしまう。
「ちょっと待って!」
と、思ったのに、アルトは何を思ったか、良夜の髪を思いっきり引き抜き、彼の肩からポーンと飛び降りた。正確に言うならば、髪を持ったまま、飛び降りやがった。
「イテッ! なんだ……なんて物を見つけ出すんだ……お前は」
ブチブチという嫌な音が耳の中でこだまする。反射的に腕を振ってアルトの体を追い落とそうとしたが、その時、すでに彼女は目的の場所へと着陸していた。
そして、アルトが見つけ出したのはアルミ包装がなされたリング状のゴム製品、彼女はそれを満面の笑顔で高々と掲げていた。
「明るい家族計画!」
意味の解らないお子ちゃまはご両親か先生に聞いてください……なお、本当に聞いて、殴られたとしても作者は一切関知しないのでその辺の所よろしく。
何が楽しいんだろう? 良夜は明るい家族計画(未使用)を両手で持ち、裏表まんべんなくジロジロと観察する自称妖精から視線を切り、呆れた声で「しまっとけ」とだけ短く命じた。
「はぁい」
何十回、聞いても全く当てにならない歌うような返事、今回もやっぱり当てにはならなかった。
「……誰がお前のポケットにしまえと言った?」
「意外と……硬くて折りたためない物なのね、これ」
いくら力を込めても元に戻ろうとするゴム製品を、四つに折ろうとアルトは悪戦苦闘していた。真剣な顔をして、明るい家族計画を四つ折りにしようとしては、両手の中で弾け飛ぶそれで顔をしたたかにぶたれる。そのざまは、ある意味、滑稽で可愛い物だ。だがしかし、彼女が戦っている物体は、所詮、避妊用具だ、しかも、他人様の物。ほのぼのと呼べる絵面ではない。
それと、どうでも良いけど、四つに折った程度では、その小さなポケットには入らないのではないのだろうか、と良夜は思った。
「だから、そこじゃなくて……お前は泥棒か?」
そこじゃなくてあっちと、元あった場所を良夜は指さそうとしたが、あまりのカオスに『元の場所』というものがわからなかった。だから、その辺の床を指さしたのだが、そこにそれを置いて『しまった』というのであろうか? 日本語は難しい。
「毎日、コーヒーをかすめ取ってるものね、泥棒妖精のそしりも甘んじて受るしかないわ」
「開き直りやがった……」
「良いのよ、どうせ、警官も検事も裁判長も私の姿は見えないんだから」
そう言って、ポケットの中に避妊用具を仕舞うことを諦め、アルトはそれを良夜に向かってすっと差し出した。お前が片付けろ、と言っているのか、喫茶アルトまでお前が運べ、と言っているのか。判断に迷うところだ。六割くらいの確率で後者だと思うが……
とりあえず、良夜はそれを受け取ると、ぽいっと振り向きもせず、背後へと投げ捨ててみた。すると、案の定、アルトは「ああ!」と名残惜しそうな声を上げ、ひょろひょろと飛んでいくそれを視線で追い続けた。
「もう、遊ぶな。直樹、起こすぞ」
いまにももう一度取りに行こうとしているアルトの羽を摘んで、良夜は自分の肩へと彼女を座らせた。時間はかなり押し迫っている、もうこれ以上遊んでいる余裕はなかった。
「忘れてたわ……って、まだ、寝てるのね? 本当に生きてるのかしら?」
もはや、彼女の小さなおつむには、カオスな部屋と明るい家族計画のことしかなかったようだ。未練たらしく見ていたゴム製品から、幸せそうに眠る直樹へ顔ごと視線を落として、呆れた顔をして見せた。そして、良夜は――
自分の発想がアルトと同じだったことに軽いショックを受けた。
ゴボッ!
「うむ、今日もいい音だ」
会心の音、これなら地上最強の生物とも三秒は戦える。四秒後には(以下略)
「……本当に遠慮のない拳ね、私でも良夜を刺すとき、もう少し遠慮してるわよ」
アルトが腰を下ろした良夜の肩、そこから伸びる腕は直樹の鳩尾に深々と突き刺さっている。それを見つめながら、アルトは心底呆れたような声を上げた。
「それは嘘だな……っと、おはようさん、直樹」
絶対に嘘だと思うが、直樹が起きた以上、アルトとの会話もここでお仕舞い。それ以上の追求は止め、良夜は意識をアルトから寝起きの目を擦っている直樹へと向けた。相変わらず、痛そうな顔一つしてない男だ。思わず、良夜は自分の力に自信をなくしてしまいそうになった。
「おはようございまふぅ……あれ、良夜君?」
「そのネタは昨日使ったからもう良い。それより、なんだ? この部屋の有様」
「ふわぁ……あぁ……はい、それはですね……」
少しダボッとしたエメラルドグリーンの寝間着に包まれた体を数回伸ばすと、直樹は昨夜あったことを説明し始めた。洗濯物を取り込み忘れていたこと、料理を失敗したこと、食器を割ったこと……そして、良夜にうるさいと怒鳴られたこと。
「……昨日、うるさいなんて言ったかな……俺」
もちろん、良夜にそんな記憶もつもりもない。彼は直樹の説明を聞き終えても、しきりに首をかしげ、昨日のことを思い出していた。大体、昨日の夜の良夜に、隣のことなどを気にしている暇は一切なかった。アルトと本気でゴルフゲームをやっていたのだから。
ちなみに、戦績は勝敗は良夜の三勝二敗。やり込み具合を考えると、完璧な敗北と言っても良い。五打差、三打差、一打差ときわどい三連勝の後、二打差、四打差で二連敗。三連敗目をする前にゲームを無理矢理打ち切った。本気で小さな人間である。
「言いましたよ、怒鳴り声で……ホント、ごめんなさい」
「言ったわよ、私に」
怒鳴られたつもりになっている男と、本当に怒鳴られた女とがほぼ同時に発言をした。
「あぁぁ!! 悪い……あれ、直樹に言ったんじゃないんだ」
そこでようやく良夜は昨日のアルトとのやりとりを思い出した。確かに、大声気味の声でうるさいと怒鳴ったが、それが隣の部屋にまで聞こえていたとは想像すらしていなかった。築三年の割りには壁が薄いような気がする。
「誰にですか?」
「私」
直樹の質問にアルトが自分の顔を指さし答えたが、その声も姿も直樹には届きはしない。届かないことは分かり切ってるのだから、いちいちしなくても良いだろうに……
「いや……えっと……あぁ、電話! そう、電話してたんだよ。悪かったな、勘違いさせて」
肩乗り妖精を怒鳴りつけたとも言えない良夜は、数秒ほど答えを捜すと、早口になって適当な嘘をついた。最近、富に嘘が上手になっているような気がする。
「……挙動不審だわ、余り上手な嘘つきとは言えないわね」
大きなお世話だ、心の中だけで反論。声を出せば、せっかくついた嘘がゴミになる。
「あぁ、そうだったんですか……だったら、昨日のうちに掃除しておけば良かったですね」
そこは根の素直な直樹、良夜の下手くそな嘘にもあっさり騙されると、自らの勘違いを恥じ入るように頭を掻いた。しかし、今更、それが勘違いであったと言ったところで、何の慰めにも救いにもならない。
「吉田さん、いつ帰ってくるんだ?」
今日帰ってくると言う話は良夜も聞いていたが、何時くらいに帰ってくると言う話までは聞いていない。
「お昼前……ランチにはバイトに入るって言ってましたから……」
「後……三−四時間かって所だな。片付くか? これ」
良夜ならギリギリか……しかし、それは『良夜が普段やっている程度の片付け』レベルでの話。普段のタカミーズの部屋レベルの片付けだと難しいかも知れない。しかも、この部屋の荷物は二人分だ、良夜の一人分よりも量が遥かに多い。
「大丈夫……だと思います」
「自信なさげね?」
アルトの言うとおり、直樹の言葉に自信という物は見受けられない。見てる方が不安になってくるような力ない声と表情だ。
「怒るぞ……吉田さん」
付き合いの長くはない良夜にでも判る、この部屋を貴美が見たら、絶対にキレる。下手すれば血を見るかも知れない……まあ、流すのは自分じゃないから良いや……と、ちょっぴり他人事。
「怒るでしょうね……」
それに引き替え、確実に血を流すことになるのは自分だと言うことを理解している直樹の方はそれどころではない。もう一度回りを見渡し、その部屋の荒れ具合に大きくため息をこぼした。
「折檻かしら?」
アルトのつぶやきに、良夜は内心うなずいた。いや、折檻で終わればいいな……とか、思ったりして。
「まあ、がんばれよ、今日の二つめ、休講だから、後で顔を出すよ」
教官が出張で二コマ目は休講になっている。これがあるから、貴美も今日の朝一番ではなく、昼前に帰ってくる予定を立てたらしい。しかし、実家が何処かは知らないが、帰ってきてからアルバイトと昼からの授業はきっちり出るつもりなのだから、彼女もタフな女だ。
「でしたね、では、一つめの代返、お願いします」
何をどう考えても、真面目に授業に出てたら、この部屋の片付けは終わらない。そんなことはここにいる誰もが理解していた。直樹はぺこっと頭を小さく上げると、パジャマのままでその辺に置いてある物を、近い物から順番に片付け始めた。
「りょーかい、後でアルトのコーヒーな」
「じゃぁ、良夜、私は残るわ、良夜の授業を見てるよりも楽しそうだもの」
……アルトの言葉にそこはかとない不安を覚えたような気がしたが、それはとりあえず気のせいと言うことにした。アルトとコントを繰り広げた上に、直樹とダベって居たため、良夜に喫茶アルトまでアルトを送り届ける時間的余裕もなくなってきている。ならば、授業についてこられるよりもここで直樹の見物をさせていた方が、良夜にとっても好都合。
一コマ目の授業を真面目に受け、帰ってきました良夜君。彼が見たのは今朝よりも荒れ具合が酷くなったタカミーズの部屋。そして、その荒れきった部屋の隅で楽しげな笑みを浮かべてアルバムを見ているのは彼のお隣さんと妖精さん……なんでやねん!!
「お前、何をしてんだ?」
「アルバム見てたの」
「……なっなにを……してたんでしょうね?」
軽く頭を抱えている良夜の質問に、二人が口々に答える。アッケラカンとしたアルトの声に対し、声を掛けられるまでアルバムに見入ったいた直樹の声は、あからさまに震えていた。
見ていたのは、実家から持ってきた二人のアルバムだ。しかも一冊見付けたもんだから、二冊目が見たくなり、それを捜すためにまた押し入れをひっくり返したらしい……駄目だ、この男。
「お前、部屋、片付けないと吉田さんにぶっ殺されるぞ」
まっ、殺されるのは俺じゃないけどな……と、本日の良夜は徹底的に部外者を装っていた。完全に他人事である。
「そっ、そうですよね……片付けましょうか?」
「そうなの? 私はもっと見ていたいのだけど……ねえ、ほら、これなんか可愛いわよ。直樹が」
素直に立ち上がる直樹と違い、良夜以上に他人事なアルトは開いたままになっていたページの写真を指さした。それに写っているのは、貴美に手を引かれている半ズボン姿の直樹だった。黒い半ズボンと白いワイシャツだから、多分、小学生くらいの写真だろう。二人の成長がアンバランスだから、外見だけで年齢を当てるのは難しい。いや、足して二で割ればいいのか? だったら、中学生っぽい貴美と小学校低学年っぽい直樹で、小学校高学年くらいだろうか?
「まあ……確かに可愛いけどさ、二人とも。それより、時間、ねえんだけどな……どーすんだ?直樹」
タカミーズの過去に興味がない、と言えば嘘になる。しかし、いまの状況でアルバムを見続ければ、どうなるかは火を見るよりも明らかだ。
「良夜、もう、見ないの?」
良夜以上に他人事なアルトは、未練たっぷりと言った声と表情で良夜の髪をクイクイと何度も引っ張った。しかし、ここで負けてはいけない……負けて困るのは直樹だけなんだけど……一応は友達だし……
「ふん、良夜のケチンボ! 探検してくるわっ、好きにしなさい!」
良夜の髪を数本引き抜くと、アルトはそのまま、窓の方へと飛び移り……すぐに帰ってきた。そして告げられる一大事。
「貴美、帰ってきたわよ」
「なぁに?!」
流石にその言葉を聞けば、良夜も直樹のことも忘れ、思わず大声を上げてしまう。そして、確認するために窓際へと駆け寄れば、貴美の特徴的な金色に近い茶髪が階段へと歩いていくのが見えた。
「なっなんですか? 良夜君」
「マズイ、帰ってきた!」
「えっ、嘘、まだ、早い!!」
確かに早い、まだ、時間は十時半を少し過ぎたくらいだ。確かに『昼の前』であるが、昼前というには早いだろう?!
「おっ、俺は帰る!」
「まっ待ってください!」
道連れを逃がすまいと良夜の腕にしがみつく直樹、それを振り払って逃げ出そうとする良夜、男同士の醜い争いだった。
「三階まで階段だから……あと十分もかからないわね」
いち早く本棚の上へと逃げだし、そこで傍観者を気取る妖精、ある意味、彼女が一番汚い。
そして、ついにその時がやってきた。
「たっだい……まぁ?」
「ごめんなさい!」
勢いよくドアが開くと、直樹は荒れ放題に荒れた部屋の真ん中で貴美に深々と土下座をした。彼に出来る事は、もう、これしかなかった。
じゃぁ、俺はどうしたら良いんだろう……謝る理由もないし……土下座をしている直樹の横で途方に暮れる良夜。思わず「よっ!」と挨拶何ぞをしてみた。
「なお! 何してたんよ!!!」
貴美の怒声が飛ぶ。
「パジャマ姿でりょーやんと居たりして!!!」
目に涙を浮かべての絶叫だった。
『『『うわっ、そっちに食いつきやがった』』』
こうして、直樹の短い一人暮らしは終わった……
PS,当たり前だが、直樹はこの後、昼の授業も良夜に代返を任せ、部屋の掃除をやる羽目になった。