一人暮らし(3)
 良夜はここ最近、とあるネットゴルフを良くやっていた。凄く面白いというわけでもないが、ただでプレイが出来て、それなりに楽しめる物と言うものだから、小一時間や二時間程度までの暇つぶしには最適。
 アルトを部屋に連れ帰ってきたこの夜も、良夜はこのゲームをやっていた。
 ゲージ上を左右に動く光点、それが中心に来た瞬間、キーを押せばナイスショット。後はいくつかの攻略ポイントを押さえれば、スコアは十分に出せる、お手軽なゲームだ。
「下手くそねぇ……反射神経が存在しないのかしら?」
 しかし、それを良夜がやると微妙にずれる。
「あっ、また、OB? 下手くそなんだから冒険しなきゃ良いのに」
「うるさいってば」
「ああ! もう! 下手くそ、にぶちん、ヘタレ、童貞、ロリ!」
 モニターの真正面に陣取り良夜がミスをするたび、容赦ない罵倒とからかいの言葉をあげるアルト。余り上手でないことの自覚がある上に、自分でもミスをするたびに小さく毒づく良夜にとって、その小憎たらしい声は彼の神経をヤスリで逆撫でされているに等しい。大体、童貞とロリは、ゲームに関係がない。
「うるさい!!!」
 そして、ついに上げてしまう怒鳴り声。アルトと良夜、いつも通りの二人のじゃれ合い。
 今夜のお話しは一人暮らしの男子大学生と妖精さんのじゃれ合いではなく、隣で一人暮らし二日目を迎える直樹の方にスポットが当てられる。

 直樹がアルバイトから帰ってくるのは、いつも十一時を少し過ぎたくらいの時間だ。バイト先の本屋、その閉店時間は十時、掃除をしたりレジを閉めたりして店を出るのが十時三十分前後。そこからバイクを飛ばして帰宅するのに三十分、貴美が待っているから寄り道はほとんどしない。判で押したように彼はいつも十一時を数分過ぎた頃に帰ってくる。
 それは、貴美が留守中の今夜も変わらなかった。まっ、いくら直樹がバイク好きとは言っても、こんな土砂降りの夜中に寄り道をしたいと思うほど、バイクを愛しているわけではない。
「ただいま帰りましたよっと」
 直樹のつぶやき声は薄暗い部屋の中へと消えていく。
『お帰り! なお!』
 いつもならば、元気よく返事をしてくれる恋人の声も今夜は聞こえず、彼を出迎えてくれる金色に脱色された髪も現れない。その代わりと言っても、全く比べものになりはしないのだが、彼を出迎えてくれたのは国道を駆け抜けるトラックの騒音と窓から見える隣家の灯の瞬きだけ。
 薄暗い部屋に帰ってくるのはこれで二度目の体験、直樹はそれに小さな寂しさとそれを毎晩貴美に感じさせている事への小さな罪悪感を覚えながら、壁のスイッチへと手を伸ばした。天井の蛍光灯に照らし出されるのは、普段よりも随分広く感じる狭い部屋……
 彼は手に持って入ったヘルメットをテーブルの上に置くと、小さく苦笑いを浮かべた。なぜなら、ヘルメットは玄関に置くというルールになっているからだ。それなのに、直樹はしょっちゅう部屋の中にまでヘルメットを持って入ってきてしまう。実家にいた頃、ヘルメットを自分の部屋にまで持ち込んでた癖が、未だに抜けていないのだろう。玄関に置いておくと、彼の母親が邪魔だと言って蹴っ飛ばすのだ……
「まっ、今夜くらいは良いですよね」
 ポンと彼は置いたヘルメットの頭を叩いて、小さく呟いた。
『なお、メットは玄関! 捨てて、二研に転がってる古いメット被させんよ?!』
 そんな小言を言う恋人も今夜は留守なのだから……
 そして、ヘルメットを置いたテーブルの上にもう一度視線を落とした。普段なら、彼が帰ってきたときには色とりどりの食事が並んでいるはずの場所。そこに今夜の食事は置かれていない。作る人間が居ないのだから当たり前だ。昨日の分は貴美が出掛ける前に作っていってくれたのだが、流石に二日目の食事まで、貴美は用意してくれはしなかった。
「ちょっとは料理くらい出来た方が良いですよね……」
 出掛ける前、貴美は『明日はコンビニ弁当でも食べて』と言っていた。直樹もそうするつもりだったのだが、雨の中、バイクで帰ってきているうちに、コンビニへ寄って美味しいものを買うよりも、さっさと部屋に帰りたくなってきた。だから、今夜、彼が空きっ腹を抱えて眠らないためには、自分で食事を作るしかない。
 ちなみに彼が最後に料理を作ったのは、中学三年の時に受けた家庭科の授業である。それ以降、三年もの間、彼は包丁すら持ったことすらなかった。普通の人ならば、家族が留守をした時にでも簡単な料理位は作るだろう。しかし、彼のお隣には家族同然と言っても良いような幼なじみ一家が住んでいた。両親が居るときすらしょっちゅう泊まり込んでいたのだ、両親が居ないときなど当たり前のように、相手の家で食事が出て来る。彼の小さな体も、彼女の大きな体も、半分ずつはお互いの家の食事で作り上げられてきた物だ、そう言っても過言ではない。それなのに、片方はあんなに高くて、片方はこんなに小さい……遺伝子の所為に決まっている。
 そう言う訳なので、彼はインスタントラーメンすら自分で作った経験がない。かろうじてカップラーメンを作ったことがあるくらい。
 そんな彼ではあるが、彼には確固とした勝算があった。
『お肉と野菜を適当に刻んで、塩胡椒して炒めて、味噌か醤油で味を調えれば、よっぽどのことがない限り、食べられるものが出来る』
 直樹と同じように、こっちへ引っ越してくるまでほとんど自炊経験のなかった良夜が言った台詞だ。もはや主婦と言っても良いくらいの貴美や、飲食店勤務の美月辺りに言わせると『それは料理じゃない』と言う事になるのような簡単な料理だが、これなら自分にも出来そうだ。その上、彼は冷蔵庫の中で豚の細切れ二百グラムとモヤシ一袋を見付けていた。これを使って上記の料理を作れば、『刻む』事すら必要がない。そして、炒めるくらいは焼き肉屋でやった経験がある。失敗する要素はどこにもない。
「多すぎたら、明日、帰ってくる吉田さんに食べて貰えばいいですよね……」
 肉二百グラムにモヤシ一袋、小食な自分一人で食べるには少し多いかも知れない。でも、彼女が帰ってくるのはお昼過ぎという話、ならば、帰ってきたときにでも電子レンジで温めてあげれば、彼女のちょっとしたお昼ご飯になる。いつもお世話になっている恋人へのちょっとした恩返し。甚だしく簡単で余りにも小さすぎるだろうけど……悪い物じゃないはず。

 その失敗する要素のない料理を、直樹は力一杯失敗した。
 直樹は飛び散った油でベタベタになったシンクを、濡れた洗濯物を胸に抱え呆然と見下ろしていた……失敗の原因は彼の胸に抱かれているびしょ濡れの洗濯物にあった。
 さて、ここで直樹が帰宅したときのことを思い出して貰おう。
『彼を出迎えてくれるのは国道を駆け抜けるトラックの騒音と窓から見える隣家の灯の瞬きだけ』
 前者は良い。トラックはうるさいもんだ。問題は後者……なして、お隣の家の灯が『瞬く』よ?
 夜空に輝く星が瞬くのは、観測者と星の間に膨大な量の空気があるから。膨大な空気、その揺らめきが光を屈折させ瞬いているように見せる。だから、たかだか数十メートルの距離しかないお隣さんの電灯は、決して瞬かない。瞬くことがあるとすれば、その光を遮る何かがある時だけだ。
 そう、その『光を遮る何か』とは、風にはためく洗濯物だった。
 昨日、正確に言うならばもう日付が変わっているから一昨日、喫茶アルトおよび大学の周辺は気持ちの良い好天に恵まれていた。実に四日ぶりのこと。これを見た貴美は、今がチャンスとばかりにため込んでいた洗濯物を一気に洗って干した。そして、取り込むのを忘れて帰郷の途に就いた。
『ごめん、洗濯物干しっぱ、取り込んでおいて。あ・な・たの吉田さんより』
 こんなメールを直樹は昨日のバイト先の駐輪場で確認していた。そう、確認したのは『バイト先の駐輪場』、今更、帰って取り込む時間などない。帰ったら取り込もう、そう決めて彼はアルバイトに入り、給料分以上の仕事をして出て来たときには、メールのことなど忘却の彼方だった。
 軽く直樹の擁護をするならば、昨日の仕事はかなり忙しかった。一人同僚が休んでいた上に、返品が山積み。一息つく暇もなく、五時間のアルバイトを目一杯働いていた。そして、帰ってきたときには貴美が居なくて、小さくではあるが今日以上にしんみり……心身共に疲れ果てていた彼は、食事と入浴以外、何もする気になれずにさっさと眠ってしまった。
 そして、そのメールの存在を思い出したのは、豚肉とモヤシの炒め物がボチボチ佳境にはいる、まさにその瞬間だった。何気なくベランダに視線を向けたら、お隣の灯が照らし出す洗濯物が見えた。
「まずいっ!」
 彼が反射的に叫んだのと、外へ掛け出したのはほぼ同時だった。
 ひさしがあるとは言っても朝から日付が変わるまで干しっぱなしにされていた洗濯物達は、洗った直後よりも多い水気を含み、ずっしりと重い。更に、濡れた洗濯物は物干し竿にからみつき、そんな作業になれない直樹へ無駄な労力を要求してくる。しかも、ため込んでいた分、量が半端ではない。直樹はその作業に、一苦労以上の苦労をする羽目になった。
 そして、彼が大量の洗濯物を取り込み終える頃には、モヤシさんとお肉さんはフライパンの上で煙を上げ始めていた。
 すでに軽い恐慌状態にあった彼は、フライパンを火から下ろすとそれを迷うことなく蛇口の下へと突っ込んだ。ジュバァァァァと言うすさまじい破裂音が部屋に響き渡り、わき上がる蒸気が彼の顔と手を容赦なく熱する。ものすごく熱い! 熱かったから、思わず手を離した。彼の手から放たれたフライパンは、重力が命じるまま、シンクへと落ちていきそこに置かれていた食器をたたき割り、ついでに油やら焦げカスやらで汚れた水をその回りに飛び散らせた。
 直樹はその瞬間が、まるでコマ送りのビデオでも見ているように見えたという……
「……どっ……どうしよう……」
 飛び散った水は彼が抱えていた洗濯物達へも飛びつき、何枚かの服にシミを作った。その何枚かの服の中には、貴美お気に入りの勝負下着までもあった。するときにはいつもこれを着ている……と、思う。その辺は、直樹も包み紙よりも中身が大事なお年頃、余り意識して見ていない。マジマジとそこを凝視するのも恥ずかしいし……
「片付けなきゃ……」
 そう思った彼は割ってしまった食器を捨てるためのゴミ袋を探し出した。が、しかし、それが見つからない。床下収納や押し入れなんかを漁ってみたが、全く見つからない。レジ袋みたいな物はいくらでも見つかるのだが、自治体指定のゴミ袋って奴が見つからない。
 普段なら、『とりあえず、レジ袋で』的な発想も出たのであろう。しかし、頼まれていた洗濯物は雨に濡らした、一つしかないフライパンは見事に焦がした、彼女お気に入りの下着はシミだらけにした、ついでに皿もたたき割ったって言う状態では、普段なら回る頭も回りはしない。彼の状態は軽い恐慌状態から、立派なパニックとでも呼ぶべき物へと進化していた。
 そして、気がついたときには各種収納場所に片付けてあった様々な物品が、床の上に散乱していた。でも、未だに指定ゴミ袋は見つかっていない。ちなみに、指定ゴミ袋だが、貴美が使い果たして一枚もこの部屋には存在していなかった。先日、萌えるゴミ……じゃなくて燃えるゴミを出したときに使ったのが最後の一枚。
「僕は何をして居るんだろう……」
 片付けをするための物を捜すために、部屋を更に汚した……その衝撃的な事実に直樹は頭を抱えた、下着を持ったままの手で。
 何はともあれ、これを片付けなければならない。このままでは眠れるはずがない。貴美が帰ってきたとき、彼女に何を言われるか……いや、何をされるか……半殺し……いや、八割殺しはあるかも知れない。付き合いが長い分、どこまで怒るかも容易に想像が出来て、逆に戦慄を覚える。
 と、言うわけで、直樹は真夜中の大掃除を始めようとしたわけだが……ここで最初の部分へと戻る。
「うるさい!!!」
 ビクッ!! 直樹の肩が大きく跳ね上がった。
 隣の部屋から聞こえたのは、良夜の不機嫌そうな怒鳴り声。もちろん、それはゲームをミスするたびにしたり顔で茶々を入れる妖精さんに向けて発せられた声、しかし、直樹にそんなことが判ろうはずがない。
 自分が引っ張り出した物の中で、貴美の下着を抱えてたたずむ直樹にとって、その声は、先ほどまでドタバタと収納をひっくり返していた自分へと向けられた声としか思えない。こんな日付もとっくに変わった真夜中に、大掃除を始めた隣人なんて、常識的に考えれば、迷惑以外の何物でもないに違いないのだから……
 諦めよう……明日、片付けよう……彼女が帰ってくるまでに片付ければいい。とりあえず、ご飯、食べなきゃ……
 片付けを諦めた直樹は、先ほど置いたヘルメットを取り上げ、外へ、一番近くのコンビニまでバイクを走らせるのだった。

 なお、この時のお隣さんはと言うと……
「OK、そこまで言うんなら、一発勝負すっか? この性悪妖精……」
「あら、良いの? やり込んだゲームで敗北したら……しばらく立ち直れないわよ?」
 椅子に座ったまま殺意を含んだ視線でアルトを睨み付ける良夜と、それを受け流しつつストローでゴルフスイングをしてみせるアルト、まさに一触即発……と、お隣のことなど無関係にゴルフゲームで異様な盛り上がりを見せていた。

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