一人暮らし(2)
 心地よい眠りを妨げるのは自身の携帯電話。Tシャツとトランクスという軽装で惰眠をむさぼっていた良夜は、頭から被っていた肌布団の中から、もそもそとした手つきでお気に入りの曲を奏でる携帯電話を握ると、無意識に近い動作で耳へと押し付けた。
『あ・な・た、起きて♪』
 受話器の向こうから聞こえるのはうら若き女性の声、手にしていた携帯電話を未だ半分ほどしか開いていない目の前へと持って行けば、液晶には『吉田貴美』の文字が浮かび上がっていた。
「……朝っぱらから喧嘩売ってんなら、もれなく買うぞ」
 再び携帯を耳に当てた良夜の声は、寝起きのテンションの低さとも合わさり甚だしく不機嫌、ちょっぴりドスが利いていると言っても良い。
『ちょっとしたジャブだよ、おはよう、起きてる?』
 その言葉をサラッと貴美は聞き流した。
「起きてるって言うか、今起きた……ふわぁ〜〜〜」
 大きな欠伸と大きな背伸びを各一つずつ。そして、相変わらず朝っぱらからフルスペックな貴美の声を聞きながら、良夜は壁に掛けられた安物のクォーツへと視線を向けた。普段の起床時間よりも十五分ほど早い時間、随分と部屋が薄暗いのは、空の全てがグレイの雲に覆われている所為。朝っぱらから貴美に弄られた良夜の心もグレイ、今日一日が良い日でありますように、良夜は絶望的な思いでそう祈らざるには居られなかった。
『それは良かった。でね、ちょっと頼みたいことがあるんよ、良い?』
 貴美の『頼みたいこと』というのは、いくら電話しても直樹が出ない。多分熟睡していると思うからたたき起こしてくれ、と言う物だ。これが昨日の夕方に言っていた『楽しみにしてなよ』の正体。面倒臭いことこの上ない。しかも――
『起こし方にコツがあるんよ、電話、そのままで行ってくれる?』
 と言うものだから、本当に面倒臭い。貴美がお土産に、バイトしてた店のケーキをくれるというのでなければ断ったところだ。それも、その店と言うのが地元ではそれなりに名が通り、良夜以上に甘い物好きの貴美が自信を持って美味しいという手作りケーキだというのだから、甘い物が好きな良夜としては断りにくい。
「一応友達だしな……」
『甘い物で転んだんっしょ? ホールで買って帰るから、期待しててね』
 期待しよう。

 で、やってきたのはタカミーズの部屋。
 しかし、何度もチャイムを押しても、ドアを叩いても、直樹は出てこない。電話の向こうでは貴美が『やっぱり寝てるんよ』と言っている。これで直樹が見知らぬ女でもつれ込んでいたりしたら、大爆笑するべきなのか、速攻で電話を叩き切って無関係を装うべきなのか、と良夜は心の隅で考えながら、預かっていた鍵でドアを開いた。
 数えるほどしか入っていないが、二人の部屋はいつも綺麗に片付けられている。良夜の部屋もアルトが落胆する程度には片付けられているものの、部屋の隅に漫画の本が山積みになっていたり、取り込んだままの洗濯物が放置されていたりと、この部屋に比べればどうしても雑然とした印象を見る者に与えてしまう。
 良夜は玄関で靴を脱ぐと、電話の向こうにいる貴美に、と言うわけでもないが小さな声で「お邪魔します」と言って部屋に入った。その言葉にちゃんと『いらっしゃい』と答える辺り、貴美も芸人魂を持っている。
 良夜が設置したベッド、その上に見知らぬ美女が寝ている……そんなサプライズ、起るわけもなく、その上にいるのはエメラルドグリーンが鮮やかなパジャマに身を包み、ベッドの上で小さく丸まって眠る同い年の少年が一人だけ。ものすごく幸せそうで、理不尽な怒りを覚える寝顔だ。
『まず、顎を軽く摘む』
 言われるままに直樹の細い顎をつまんだ。髭が全然生えていないのはどうしてだろうか?
『摘んだ顎を持ち上げる』
 クイッと顎をつまみ上げると、彼は、気弱そうな細い眉を僅かに寄せ、小さなうなり声を上げた。
『軽く首に腕を回して……唇を重ねるって事をするんなら、ビデオ撮影してて』
 妙に長い睫、ぽってりとしてはいるが小さくつややかな唇、少し膨らんだほっぺた、マジマジと見たら本当に可愛い、そんな顔が、言われるままに行動していた良夜の顔の前、数センチの所に存在していた。
「って、おい!」
 危うく友人(♂)の唇を奪いかけた男は、電話の向こうで爆笑している友人の恋人に向かって大声を上げた。
『した?』
「してない!! お前、なんて事をさせるんだよ!」
 慌てて体を眠り姫(♂)から離して、良夜は貴美に大声で怒鳴りつけた。
 本気で今のはやばかった。トクントクンと微妙に脈拍が上がっているような気がする。気のせいって事にしておこう。
『で、ここまで騒いでも起きないっしょ? なお』
 貴美の冷静な声、良夜も冷静さを取り戻すため小さく一度深呼吸をした。そして、もう一度ベッドの上を見てみると、微かに体の角度を変えてはいるものの、やっぱり幸せそうな寝顔を浮かべて眠る直樹の姿がそこにはあった。
「……本当に生きてんのか? こいつ」
 体の向きが僅かとは言え変わっているのだから、生きてるのは間違いないと思うが……直樹は地震が起って部屋が潰れても寝てる人ではないだろうか?
 最近、何故か地震だの洪水だのって言う災害関係の特番を見かける、もしかして、地震が起こる予定でもあるんじゃないのだろうか……そう思うと、枕元で騒いでも起きない友人のことが少し心配。
『うん、起きないんだわ、なおって』
 貴美の声が少々困ったような物に変わった。もしかしたら、毎朝、起きない彼氏に苦労しているのかも知れない。
 しかし、今まで何度か良夜の部屋にタカミーズの二人が泊まった経験があり、その時には直樹が起きなかったと言うことはない。別に何処かへ出掛ける用事がある訳じゃないのだから、いちいち起こしたりはしなかったが、それでも直樹は自分で起きてきていた。それも良夜と余り変わらない時間に。
『休みの日はやけに早く起きるんよ、なお』
「あぁ、子供みたいなもんだな……身長と同じで」
 遠足の当日にはやけに早く起きるとか、日曜日の早朝からやってるアニメや特撮を見るために早起きをするとか……まあ、後者は大きなお友達もやってることだけど。
『そうそう、小学生と同じ……身長も』
 貴美が良夜の言葉を当たり前のように肯定すると、携帯電話を挟んだ二人の会話が一時途切れた。
『どったの?』
 突然黙り込んだ良夜に、貴美が電話の向こう側から不思議そうな声を上げた。
「いや……ノリ突っ込みだと思って……待ってた」
 普通に肯定されるとは思ってもいなかった良夜だった。本当にこいつら恋人同士なんだろうか……
 さて、枕元でお隣さんと恋人が電話越しに小ネタを繰り広げている最中も、直樹は相も変わらず幸せそうな夢を見続けている。放っておいても朝の貴重な時間が減るだけで、彼が自らの意志で起きてくることはなさそうだ。と、言うわけでいよいよ正しい起こし方とその実習編に突入。
『まず、布団を容赦なく奪い取る』
 貴美が言うとおり、素直に直樹の肌布団をはぎ取る。寒そうに小さな体を更に小さく丸めるだけで、直樹が起きる気配は一向にない。
 まあ、それは半ば覚悟していたことだ。問題ない。それよりも……
「取ったぞ、服を脱がして襲うとか言ったら、俺はこのまま帰るからな」
 こっちの方が重大な問題だ。良夜は貴美が余計なことを言う前にピシャリと制した。
『ちっ……』
 大きくわざとらしい舌打ちがスピーカーの向こう側から聞こえた。やっぱり言うつもりだったか、この女。
「もう、小ネタは良いから」
 本当にどこまでが本気が判らない電話相手に、良夜のため息が零れた。
『じゃぁ……拳を硬く握って。拳を硬く握ったら、胸部の下方中央、胸骨の下にあるくぼんだ所にたたき込む。手加減不要』
「……恋人、殺すつもりか?」
 貴美が言ってる場所は、人体最大の急所の一つ、鳩尾だ。そんなところに拳をたたき込んだら本気で人が殺せる。しかも手加減は不要だと言っている。良夜は貴美の言葉に恐怖した……なんて女だ。
『そんぐらいしないと起きないよ、なお』
 しかし、貴美の声は本気だった。なるほど、これが本気の声だと言う事は、さっきまでのは冗談だったんだな、と良夜はちょっとだけ安堵した。
 そう言うことらしいので、良夜はとりあえず、本気で殴る事にした……って、あっさりこういう決断を下す良夜も良夜だ。
 ゴボッ!!!
 いい音がした、会心の音だ。今の良夜なら北海道のヒグマと戦っても十秒は生き残れる。十一秒後に殺されるだろうが。
「おはようございまふぅ……吉田さん……」
 痛そうな顔一つしてない。まるで優しく揺り起こされでもしたかのような顔をして直樹が体を起こすと、涙で潤んだ瞳を良夜の顔へと向け、じーっと見つめた。
「うわぁ……普通に起きたぞ、こいつ」
『起きたっしょ? これくらいしないと、平日のなおは起きないんよ』
 良夜の驚きの声に、貴美がさも当然と言った声で返事をする。
「あれ、良夜君?」
 キョロキョロと回りを見渡しているのは、あるべき顔がない理由を忘れているからかも知れない。
「おはようさん、ほれ……お前の彼女からのモーニングコール」
 ひとしきり辺りを見渡して、ようやく直樹は恋人不在の理由を思い出したようだ。小さく頭を下げる直樹に良夜は手に持っていた携帯電話を手渡してそう言った。

 良夜の部屋を薄暗くしていたグレイの空は、二人が出掛ける頃にはしっかりと泣き始めていた。降り出した雨をそれぞれの手に持った傘で受け止めながら、良夜と直樹はいつもよりも一人少ない人数で、坂道を大学へと向かう学生達の流れへと入った。貴美と良夜が電話で小ネタを繰り広げていたために、時間はいつもより僅かに遅い。雨が鈍らせる足の動きを、二人は意識して早めていった。
「起こして貰わないと起きれないんですよね……平日は」
 平日は、と言う言葉に直樹は軽くアクセントを付けた。当人も休日には早く起きてしまう自覚があるのか、それには多少の自虐的なニュアンスも含まれているように、良夜は感じた。
「じゃぁ、実家でも吉田さんが起こしてたのか?」
「いいえ、実家では普通に母が」
 当たり前と言えば当たり前、両親と一緒に住んでいるのだから、わざわざお隣さんに起こして貰う必要はない。そんなこと、判りきった話。そうは判っていても、何となくがっかりするのは何故だろう? 良夜は直樹の言う当たり前の話に、明らかに肩を落として「そうだよな」とだけ返事をした。
「漫画じゃないんですから」
 苦笑いを浮かべる直樹に、どちらかというとゲームかな、と良夜は心の中でだけ反論をする。どっちもどっちだし反論にもなってないから言わない。
「男の夢だよ、夢」
 冗談めかした口調ではあるが、その言葉の半分は本心で出来ていた。
「吉田さんの男子校に掛ける夢と同じですよね、それ」
「……悪かった、もう言わない。で、どうだ? 吉田さんの居ない生活」
 良夜はそう言って、直樹の傘の向こう側を見た。普段ならばそこには、ヘラヘラと笑う茶髪女がいるのだが、今日はその姿が見えない。
「やけに部屋が広いですね、後、帰ってきたときに真っ暗って言うの、初めてで……」
 直樹の言葉に良夜は初めてアルバイトから、一人の部屋へと帰ってきた夜のことを思い出した。何の気配もしない漆黒の部屋、その部屋の突き当たりには窓があり、そこからは他人の家の灯が見えた。暖かげな灯は見とれるほどに美しく、そして寂しかった。自分はホームシックになんぞならないと思っていたのに……
 直樹はそれを良夜の数ヶ月遅れで体験した訳だ。彼も似たようなことを思ったのか、僅かに寂しげな表情を浮かべ「先に帰ってる吉田さんは、いつもなんですよね」と付け加えた。
「直樹って一人暮らしって初めてなんだな……」
 良夜の口調が自然と少ししんみりした物になった。
「……居ると賑やかすぎて疲れるんですけど、居ないと寂しいもんですよね」
 照れたような苦笑いを浮かべる直樹。
「今、のろけただろう?」
「あっ、のろけてました?」
 その照れ気味な苦笑いが、幸せそうな照れ笑いへと近付いていく。どう見てものろけているようにしか見えない。
「のろけてたよ、で、その恋人、いつ帰ってくるんだ?」
 肩に提げたバッグで直樹の腰の辺りを良夜は叩いた。一人もんの悔しさを思い知るが良い。
「イタッ! えっと、明日のお昼くらいですよ」
 それを大げさに痛がる直樹、貴美が居なくても十分に賑やかな通学風景だった。
「じゃぁ、一応、明日も起こしに行くけどさ……起きろよ? 普通に」
「……善処します」
「政治家的答弁だな」
 当てにならないったらありゃしない。

「出番……ないのかと思ってたわ」
「メタな発言は止めろ」
 午前の授業を終わらせた良夜、彼は一人、ランチタイムの喫茶アルトへとやってきていた。直樹は貴美が居ない上に雨も降っているとあって、購買部で買ったパンを二研の部室で食べることにしたので、今日も来ていない。
「直樹君は裏切ったわけですね」
 それを聞いた美月が少し不機嫌になったというのは余り関係がない話。
 二日連続でたっぷりと良夜との会話を楽しむことが出来たアルトは、良夜の目から見ても上機嫌だ。今朝の話を聞いてる間も、コロコロと楽しげに何度も笑い、良夜が食事を始めれば気持ちよさそうに鼻歌を歌っていた。
「私も明日は参加するわ」
 聞き終えたとき、彼女はその大きな金色の瞳を輝かせてそう断言した。
「大して面白いことでもないぞ……多分」
 今朝の小ネタ、横で見ている人でもいれば面白かったかも知れないが、明日もそんな小ネタをやるつもりは毛頭ない。起こし方は判ったのだから、明日は貴美も電話はしてこないと言っていた。
「良いのよ、別に。たまには変わったことをしてみたいだけ。それにタカミーズのお部屋に入るの、あの時以来だもの」
 あの時とは、タカミーズの二人と良夜とアルトの二人が知り合った引っ越し翌日のこと。良夜がタカミーズの荷ほどきを手伝う横で、アルトは……何もしてなかったな。あえて言うならば、邪魔してた。
 そんなことを言いながら、彼女はストローをビュン! と大きな音をさせて数回振った。
「……で、何故、素振りをする?」
「ふふふ……良夜以外の人を刺すのは本当に久しぶりだわ」
 そして、ぺろりと切っ先……いや、ストローの刺す方を舐める金髪体長十七センチの剣豪。
「止めとけって」
 でも、やけに丈夫に出来ている直樹のこと、もしかしたら普通に起きるかも知れない。

 そして翌日。わざわざ良夜の部屋に泊まったアルトを連れて、彼はタカミーズの部屋の前へとやってきた。
「良夜! これよ! 私が求めていた男子大学生の部屋って言うのはっ!!」
 昨日と同じく、チャイムを押そうが電話を掛けようがドアを叩こうが、直樹は起きてこず、良夜は仕方なしに預けられた鍵で部屋のドアを開いた。そして、そこに広がっていたのは、食器やフライパン、コンビニ弁当のカスが山積みになったシンク、足の踏み場もなく本や服等が無造作に転がされている床、一言で言うなら――
 腐海の森。
 あらゆる物が昨日見た状態と違っている。唯一違わないのは、その中で一人眠る直樹の寝相と、その幸せそうな寝顔だけ。
「良夜も男ならこれくらい汚しなさい!」
 あまりの部屋の惨状にドン引きする良夜の肩の上で、何故かテンションをあげている妖精も昨日は居なかったな……

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