一人暮らし(1)
話は二ヶ月ほど前のタカミーズの部屋へと遡る。時期的には「月の道を、桜の下を」の辺り……というか、まさにその瞬間。善良なお隣さんを追い出し、思うさま久しぶりのエッチをタカミーズの二人が楽しんだ直後の事。
この夜の貴美はものすごーくテンションが上がっていた。卒業式からこっち、入学と引っ越しの準備をしたり、オートバイと車の免許を取りに行ったり、引っ越してからも慣れない家事をしたりと、とかく忙しい日々に一区切りを付け、久しぶりに恋人とエッチが出来るのだ。そりゃもう、テンション上がりすぎてお祭り騒ぎさってなもんである。その余波を喰らって、四月の寒空に外へと追い出された良夜の悲話など小さな問題でしかない。
さて、こういう状態の女が『さぁ、やるべ』とお風呂から出て来たところで、携帯電話が鳴ったらどういう事をするだろうか? 答え、問答無用で電源を叩き切った上に、壁に叩きつけた。
「無茶苦茶しますよね……貴美さん」
エッチ本編もたっぷりとこなし、更に余韻をひとしきり味わうまで、その事をコロッと忘れていた直樹にそんなことを言う資格はない。常識人の振りはしているが、所詮は奴も若い男である、美人の恋人がシャワーを浴びて待っているとなれば、無機物に掛ける情けなど綺麗さっぱり忘れてしまう。しかも、叩きつけられたのは貴美の携帯電話、自分の物ではない。どうせ、貴美には高校時代にたっぷり稼いだバイトの貯金がある事は判っている、壊れたらその金で買わせばいい、その程度の意識しか彼も持っていない。
「壊れてないみたい……誰からだろう……」
素っ裸の上に毛布を掛け、貴美は直樹の隣で自分が叩きつけた携帯電話を弄っていた。とりあえず、携帯電話が壊れていないような様子に、貴美は僅かばかりに安堵のため息を漏らした。
「誰からなんですか?」
そう言って直樹も横から貴美の手元を覗き込んだ。貴美も気にせずに、直樹に寄り添うように手に持っていた携帯電話の画面を僅かにだけ直樹の方へと向けた。
「んっと……あれ、のりりんだ……」
のりりんとは高校時代に貴美がしていたアルバイトの後輩ウェイトレス。後輩とは言っても、中学卒業直後からバイトをしていた貴美に対し、彼女は大学生、年齢は貴美よりも二つか三つ年上だ。ボーイッシュなショートヘアーが印象的な可愛い女性だったように記憶している。本名はよく知らない。紹介して貰ったことはあるが、その時も『のりりん』と紹介された。『のりりん』と呼ばれたときの何とも言えない嫌そうな顔を、直樹は思い出した。
直樹が見せて貰っている画面にもしっかりと『のりりん』と書かれている。ちなみに良夜もちゃーんと『りょーやん』とメモリされていたりするのが、非常に貴美らしい。
そんなことを直樹が考えているうちに、貴美の指先は携帯電話の上で小さく踊り、メモリーからその後輩の番号を呼び出していた。
「へぇ……なんの用でしょうね? って、今から掛けるんですか?」
直樹がDVDデッキの時計に視線を送ると、すでに日付は翌日、余り電話を掛けるような時間ではないと思う。行為自体は一時間ほど前に終わっていたけど、思っていたよりも長くしていたんだなと思うと、直樹の頬が熱くなっていく。隣で良夜が帰宅した気配がないのが何よりの救い。
「うん、まだ起きてるよ、絶対」
貴美の予想に間違いはなく、ほんの数秒の待ち時間でのりりんさん(仮称)は貴美のコールに応じた。
「あっ、もしもし? のりりん――うん、私……貴美言うな! うん、彼としてた」
貴美の『彼としてた』に直樹は頭を抱えた。同性の良夜に言われるのも我慢できないほどに恥ずかしいことを、女性でしかもろくに知らない相手に言われる、はっきり言って消えてしまいたくなるほどに恥ずかしい。
「それで? 何? うん――えぇ!? 流石に驚いたよ……マジで? ありゃぁ……のりりんがねぇ……」
一人赤面する直樹を置き去りに、貴美は話を進めていく。同じベッドの上で座っているのだから、貴美の話し声はいやでも聞こえる。そして、聞こえる会話は『やってた』だの『気持ちよかった』だの……ひと思いに殺して欲しい。
生で喋っているのなら、文句を言うなり、会話の邪魔をしたりも出来るのだが、電話ではそれも出ない。今の直樹に出来る事はただ一つ、ほんのりと汗を吸ったシーツを握りしめ、その恥辱に堪え続ける、これだけ。
「……はぁ、もう、恥ずかしいんだから辞めてください……」
たっぷり一時間、羞恥プレイの憂き目にあった直樹は、電話を終わらせた貴美に涙声で訴えかけた。しかし、その訴えはケータイを弄ってメールを作っている貴美には届かない。彼女は顔も上げずに『良いじゃん』の一言で話を終わらせた。何が良いのか、赤面性気味の彼氏には良く理解できない。
「それより、のりりん、結婚すんだって」
先ほどの電話はその報告と式への招待、ついでに住所の問い合わせのための電話だったらしい。そして、今、貴美が作っているメールは住所を教えるためのメールというわけ。なのであるが、直樹としてはそっちの方が『それより』の話だ。数回しか会ったことのない女性が結婚しようが、離婚しようが直樹には全く関係がない。そう、関係のない話だったはずだ。しかし――
「できちゃった結婚、もう、四ヶ月、相手は社会人だけど、のりりん、まだ、大学生なんよねぇ」
その言葉に直樹は軽く凍り付いた。つい先ほどまで子供が出来るかも知れないことをやっていた人、しかも学生にとってその言葉は余りにも生々しい。
「就職活動の変わりに永久就職……親、泣いてるよね、実際」
直樹の気持ちを無視して、百パーセント他人事の顔で貴美はピッピッと携帯電話を弄りながら話を続ける。嫌な沈黙、黙々とメールを作る貴美と、若気の行ったり来たりをちょっぴり後悔する直樹。
お互い、しばらくの間何も言わなかった。
「なおさ……」
メールを作り終え送信した貴美が、ボソッと小さな声を上げた。
「……今、明日は我が身かなって思ってるでしょ?」
「それでタカミーズが来てないのね」
話は現在に戻り、梅雨真っ最中の六月中旬。良夜は、喫茶アルトいつもの席でアルトと二人、午後のコーヒーを楽しんでいた。
「そうだよ、聞いてなかった?」
本日のコーヒーはアイスコーヒー。蒸し暑いからコーヒーフロートにでもしたかったところだが、ブラック党の妖精はそれを許してくれなかった。
「ううん、今月、三日くらい休みを取るって話、美月としてたのは聞いてたわ」
良夜の取ったショートケーキをストローで器用に切り取って食べていたアルトが、クリームがべったりとついた顔で良夜を見上げた。淑女を自称する妖精だが、その姿はどう見てもケーキを食べ慣れていない子供のそれにしか見えない。
「いつかは聞いてなかったけど……」
アルトが聞き損ねていた『いつか』は今日だった。貴美は夕方の新幹線で実家へと帰るらしい。今日はその用意のために放課後のアルバイトはお休み。直樹も一緒に用意の手伝いをしているらしく、昼からは喫茶アルトに顔を出していない。この席に落ち着いて二人きり、と言うのはちょっと久しぶり。
「でも、平日に結婚式なんて珍しいわね」
「なんか、余りにも急すぎてその日くらいしか出来る日がなかったんだって……あぁ! お前、また、ショートケーキの生クリーム、全部、取ったな!?」
良夜が気付いたときには良夜の取っていたケーキは見事に生クリームを失い、淡い黄色をしたスポンジの地肌を晒していた。ついでに頂点に乗っていたはずの苺もなくなっている。
「あら、ちょっと貰うわよって、私はちゃんと言ったわよ」
良夜の怒鳴り声を平然と聞き流すアルト。彼女の顔に悪気という物は全く見受けられないが、悪気がなければこんな事はできない。
「スポンジも食えよな……」
世にも情けない声を出しつつ、良夜は丸坊主になったショートケーキを口へと運んだ。芳醇な甘みと生クリームがはぎ取られたビッミョーなもそもそ感。ある意味、全く新しいケーキの味、実は三回目。同系列にシュークリームクリーム抜きってのもある。奴はストローを持ってるから、綺麗に中身を吸い取ってくれるのだ。蚊娘め……
「たかだかケーキの生クリームで……ホント、小さな男ね……でも、良く平日でも取れたわよね、六月なのに」
「えっ……あぁ、ジューンブライドって奴か……何処かの喫茶店を借り切ってジン……じん……なんて言ってたかな」
今朝、貴美から聞いた言葉が出てこなかった良夜は、フォークと視線を宙にさまよわせながら言葉を探した。
「人前結婚式、常識よ、こう言うの」
ふぅとひときわ大きなため息をこぼして、アルトは良夜が出てこなかった言葉を教えてくれた。
「あっ、それそれ。ごくごく親しい人だけを呼んで、こぢんまりとした式だって」
あいにく、良夜の回りに結婚式を挙げた人間は居ない。だから、知らなくても仕方がないんだ、と言い訳を決め込み、アルトの食べ残しのケーキへとフォークを着地させた。しかし、貧相なケーキだ……
「タカミーズの将来を予想させる結婚式ね、来年くらいかしら? もちろん、結婚式はアルトでするの」
テーブルの上に肢体を投げ出したアルト、彼女の言った台詞は、『在学中の結婚』と言う話を聞いたタカミーズの友人知人、誰も同じ事を思った事である。それどころか、喫茶アルトを中心とした一部地域では『貴美が妊娠して、極秘裏に式を挙げる』という噂までも流れ出していた。その噂の火消しに奔走する直樹と言ったら……哀れっぷりが涙を伴った大爆笑を誘ってくれた。
「あっ、そうそう、例の噂の出所、美月だったらしいわよ」
満足そうにふくれたお腹をさすりながら、アルトは思いだしたかのようにそう言った。
「……あの人、本人から話を聞いたんじゃないのか?」
喫茶アルトを中心とした人間関係の中で流れていた噂だから、その可能性も考えては居たのだが……まさか、本当に美月が流していたとは思わなかった。
「本人はちゃんと理解してるわよ。ただ、一部常連客に『吉田さん、来週結婚式だから、休みます』って言ったらしいの」
「大事なところをはしょったんだぁ……」
良夜だって、美月にそう言われたら、絶対にできちゃった結婚をするのは貴美本人だと思うに決まっている。
「悪気があってやってるわけじゃないのが、タチ悪いのよね……」
悪気があってやられたんじゃ、直樹も大変だよなと……『人形とぬいぐるみ集めが趣味』と言うことにされている良夜は静かに直樹を同情した。なお、こっちの噂については否定するのも疲れたので、追認することにした。もう、好きにしてくれ……
「ちーす、りょーやん、こんな所にいたんだ?」
丸坊主のケーキも食べ終わり、アルトとの会話も必要以上に楽しみ、そろそろ帰ってバイトに行くかと考えていたところへ、休みのはずの貴美がやってきた。ブラウンのTシャツとハーフパンツ、そして普段通りのヘラヘラとした笑いは、彼女が仕事以外の理由でここに来たことを物語っている。
「なんか用? あれ……直樹居ないね」
大抵二人一組、一山いくらの二人のはずが今日は直樹の姿が見えない事に、良夜は小さく首をかしげた。
「なおは家、りょーやん、これ、預けとくから」
普段ならばその辺の空いている椅子を持ってくるのだが、今日の彼女は手ぶらで、席に座ろうともしない。良夜の席とフロアの間に立ったまま、小さな物を良夜に手渡した。
「……なんだ、これ?」
渡されたのは銀色の鍵、凄く見覚えがある……ってか、毎日見てる自室の鍵そっくり。
「うちの鍵」
「泥棒にでも入れって言うのか?」
キーホルダー一つついていない鍵、おそらく貴美のキーホルダーから外された物だろう。その鍵を手の中で転がしながら、良夜は立ったままの貴美の顔とそれを見比べた。合い鍵を渡すって言う言葉の意味は知っているが、渡してくれた相手は明日から留守なのだから、その線はないだろう。
「なおを強姦しに行っても良いよ」
「ふざけんな」
貴美は真顔。ふざけてないかも知れないと思うとちょっと恐い。
「と言うのは半分冗談」
「半分かよ!」
「留守中、ちょーっと不安なんよ。で、りょーやんに鍵、預けとくから、なおのこと頼まれてくれるかな?」
良夜のツッコミを華麗にスルーすると、貴美はばつの悪そうな顔をして、顔の前で小さく手を合わせた。貴美がここまでして良夜に何かを頼む、と言うのは初めてかも知れない。
「良夜に直樹を? 逆ならあり得ると思うけど……小さい割りにしっかりしてそうだもの、直樹」
黙って二人のやりとりをしていたアルトの言葉、それはちょっと悔しいが否定できる物でもない。しかし、しっかりしているかどうかは身長とは全く関係ない。危うく、良夜もうなずきそうになったが……
「まあ、そう言うことなら……しかし、直樹だったら大丈夫だろう?」
預かった鍵をポケットにねじ込みながらも、良夜はもう一度首をひねった。少なくとも、目の前でヘラヘラ笑っている乳のでかい女よりかは上出来な人間だと、良夜は直樹を評価している。まあ……貴美より不出来な人間なんて知り合いの中に一人もいない。不出来な妖精なら居るけど……と、思ってアルトの顔を見たら、思いっきり奴と視線があった。
「何が?」
「何がって……吉田さんよりよっぽどしっかり――」
「なおが? ふっ……甘いな、りょーやん。私は判っててやってるだけだよ?」
チッチッチ、芝居がかった仕草で貴美は立てた人差し指を顔の前で揺らした。
「……判ってんなら止めてやれよな、直樹が可哀想だろう?」
ついでに俺も……という言葉はひとまず言わないでおく。凄く悲しくなりそうだから。
「まっ、明日を楽しみにしてなよ。あっ、今夜は早めに寝てた方が良いよ、んじゃ、私の用事はこれだけだから、バーイ」
言いたいことを言い、頼みたいことを頼んだ貴美は意味深な笑みを残し、呆気にとられている良夜とついでにアルトを残して喫茶アルトを後にした。
「何だったんだろうな……」
「さぁ……?」
良夜は手の中に残された鍵を握りしめ、アルトと共に何度も首をひねるだけだった……