夏物始めました(4)
柔らかな暖色系で書かれた店の看板、入り口横のウィンドウには数々のぬいぐるみやキャラクターグッズ、しかも、壁はピンク色。男には入りづらい店だなと思わせるに十分な雰囲気を持つ店だった。それでも普通に女性経験のある十八なら良夜ほど引きはしなかっただろう。デートの最中で立ち寄るとか、恋人とまでは行かなくても少し親しい女友達と一緒に行ったことがあるとか……が、あいにく良夜にそんな経験は全くなかった。
「……ここですか?」
古びた一枚板のドアに小さな明かり取りの窓、人が出入りするたびに控えめな歌声を上げるドアベル、『Open』と書かれたプレート、何となく、喫茶アルトのドアに似ているようにも見える。そのドアの前に立ち、良夜は美月に確認するように尋ねた。
「ここですよっ!」
そんな良夜の気持ちを知ってか知らずか、美月は無駄に明るい声で答えた。
「フェアリーサイン……コサイン、タンジェントとか言ったら、軽蔑するわよ? 良夜」
看板を見上げたアルトは、そこに書いてある丸みを帯びた筆記体を読み上げ、良夜の顔をチラッと横目で見た
「言わないよ、そんな馬鹿なこと」
「フェアリーサインコサインタンジェントとか言ったりしちゃいまして……あっ、あの、どうかしました?」
『言っちゃったよ、この人』的な視線を良夜(とついでにアルト)に向けられた美月は、キョトンとした顔をして回りをキョロキョロと見渡した。
……抵抗しても無駄だよな、良夜は小さく心の中でつぶやきながら、生まれて初めてのファンシーショップへの第一歩を刻んだ。と言うのは余りにも大げさ。広くはない店内の要所要所に大きなぬいぐるみや造花、愛らしいプリント柄のカーテンなんかが配置されて愛らしい印象を与えつつも、全体としては幼くなりすぎないように巧くまとめられている。店の大きさの割りに多い商品量も上手に陳列されていて雑然とした印象は決して与えない。端々にオーナーのセンスの良さを感じさせる店内になっていた。
九十九パーセントの売り物に興味がない、と言う点を除けば別に赤面するほどに恥ずかしいという店でもない。それによく見れば店内に他の男性客の姿も見える。その大部分は女連れだったりするわけだが、その点は良夜も同じだ。
「意外と普通……」
「どういうお店を想像してたんですか?」と、良夜の第一印象に美月が苦笑いで尋ねた。
どういう……と、言われても良夜にはそれすらピンと来ない。何となく、男には居づらい空気があるんじゃないのかな、とは思っていたがそれ以上の想像はイマイチ付かなかった。あえて言うなら、美月の車の中みたいになってるんじゃないのかと……
「センスよりも数を優先するのよ、この子は」
美月の質問に視線をさまよわせる良夜に、アルトが耳元で囁いた。
「まっ、そっちの話はどうでも良いの、今日の本題は私の買い物なのよ、良夜」
ポンと良夜の肩を一つ蹴り上げると、アルトは店内へと舞い上がっていった。
文字通り、舞い上がってんな……と、この時、良夜は他人事のように考えていた。
美月とアルトは好みが全然違う。アルトの好みはすでに何回も語られているが、フリルとレースとリボンがたっぷり付いたようなロリータ系ドレス、特にゴスロリと呼ばれるような物を好む。ゴスロリと呼ばれることを本人は非常に嫌っているが、客観的に見ればゴスロリファッションだ。白を好んできているから、厳密にいえば違うかも知れないが、大きなカテゴリーとしてはゴスロリだと良夜は思っている。それに対して、美月は美月自身が着ているようなロングのスカートを好む。それもアルトのように妙なフリルやレースの付いた物よりも、シンプルで飾り気のないスカートを好む。
「それ、地味だって言ってますよ?」
「えぇ〜〜そっちはゴテゴテしすぎてますよ?」
「それが良いんだそうで……」
「そう言う服は不良が着るんですよ」
「今時不良って……あっ、それは俺の台詞って事で」
そんなわけで、二人の意見はいつまで経っても集約せず、良夜の通訳を挟んでは楽しげに服をいくつも手にとっては話を弾ませていた。もしかしたら、美月はアルトに自分と同じ様な服を着せたいのかも知れないな、と通訳をしながらも完全に蚊帳の外にいた良夜は思っていた。
が、しかし、その蚊帳はアルトが一着の服を選ぶと、強制的に良夜を包み込んだ。
アルトが何着目かに選んだのは、やっぱり、ゴスロリ風のドレスだった。最近流行と言うこともあって、その手のドレスはこの店にも多めに用意されている。本日のテーマは夏物だから、ノースリーブで少しミニスカート、アルトが着たらちょうどガーターベルトのストラップがほんの僅かにだけ見えて色っぽいかも知れない。
「可愛いけど……それじゃ、下着が見えちゃいますよ? こっちのロングの方が良いと思います」
「見せてるから良いのよ」
見付けたミニスカゴスロリドレスの値段を確かめながら、アルトはこともなげに答えた。答えた台詞自体は若い女性のよく使うありふれすぎた言葉だ。どこにでもあるありふれた台詞、しかし、美月にそのありふれた台詞は届きはしない。良夜が、それもアルトが『見せられる』唯一の人間が通訳しなければならない。
いつも見せて貰ってます、って言うのも同然じゃないか……と、それまでアルトの言葉を逐一伝えていた良夜の口が一瞬止まった。
「良夜さん、アルト、何か言いました?」
聞こえていない美月はいつまで経っても次の言葉を伝えない良夜に、きょとんした顔を見せた。
「んっ? ……ふふ、ほら、早く伝えなさい、見せてるのよ、下着はって」
口ごもる良夜の様子を見て、アルト自身、ようやく自分の言った言葉の意味を理解した。その言葉を伝えられずにいる良夜へと、彼女は底意地の悪い笑みを向けた。
「えっ……あぁ、誰にも見られないから良いんだそうですよ」
「嘘は行けないわよ、良夜?」
誤魔化す良夜にアルトがニヤニヤと笑いながら、その鼻先へと近付いてき、ペチペチと彼の鼻をストローで軽く叩いた。言えるもんなら言って見ろと言わんばかりの表情だ。
「でも、良夜さんには見えるんですよね?」
その嘘に気がつかない美月は、だからこっちのワンピース、と彼女が見付けた空色のワンピースをアルトが居るであろう方へとさしだした。
「べっ、別に俺はアルトの下着なんて見てません」
アルトが酔うと服を脱ぎ出すタイプの女だとか、下着どころか素っ裸まで見たことがあります、とは口が裂けても言えなかった。言えない変わりに思い出しちゃったけど
「嘘ばっかり、私は彼女の一人もいないロリコン大学生に下着を見せてあげてるのよ。だから、見えても良いの」
「……頼むから、通訳しにくいことを言うのは辞めてくれ……」
そろそろ長くなりかけた前髪を面倒臭そうにかき上げ、良夜は小さく呟いた。
「良夜さん? もしかして……嘘、言ってるんじゃないんでしょうね?」
うまい具合に誤魔化されていた美月も、良夜が言った言葉とその態度に不信感を高めた。手に持っていたワンピースを元の棚に戻し、逸らしていた良夜の視線へと自分の顔を滑り込ませ、大きな黒い瞳で良夜の目を覗き込んだ。
「いえ、本当にそう言ってます……よ?」
「じゃぁ、通訳しにくい事ってなんですか?」
こうなると、美月はもう引かない。良夜の視線が彼女の視線から逃れようとしても、そこへ自分の顔を的確に動かし続ける、良夜は、何となく、昔、姉に叱られた時のことを思い出した。
「……だから、えっと……見せてるから良い、だ、そうです……」
「あっ……良夜さんのエッチ……」
観念して良夜が小さく呟くと、美月も同じように顔を紅くして呟いた。
「変に意識するからこうなるのよ……バーカ」
美月と良夜が紅くなっているうちに、アルトはお目当てのドレスにつばを付けていた。漁夫の利……とは言わないか
結局、アルトが買ったのは例のミニスカドレス――最後まで美月は良夜に見えるとぶつくさ言っていたが――と下着や薄手のTシャツが数点、これできっちりアルトの給料はスッカラカンになった。実際の所、アルトが選んだドレスは大量生産品で、材質も縫製も彼女が普段着ている物よりも数ランクは確実に劣る代物だった。たかだか、喫茶店で半日働いた程度の給料で買えるような服と言えば、人形用の服でもその程度が限界だ。それでも、自分の手で稼いで買った服、と言う喜びは変えることが出来ず、帰る車の中でも彼女はずっとその服を見ては、ニヤニヤと少々抜けた笑みをこぼし続けていた。
「なんか……気持ち悪い顔で笑ってんですけど……」
後部座席でニヤつくアルトが、ルームミラー越しに見える。今回はその場で着替える様子もなく、ただ、目の前に服を広げその手触りやデザインを存分に楽しみ続けていた。
「女の子なんですよ、アルトも。そんなに喜んでるんでしたら、たまには働いて貰うのも良いですよね」
「って、それは、俺も働けって事ですか?」
「良夜さんが手伝ってくれないと、アルトは働けませんよ?」
「まあ……また、吉田さんが寝込んだときにでも……」
「寝込まれても困りますけどね。それでこれからどうします?」
「何処かに行く暇も……ないですね。美月さんは?」
バックミラーの中で喜びの小躍りを繰り返すアルトから、軽快なポップソングを奏でるステレオへと視線を動かす。表示は三時半、五時過ぎにバイトへ出掛けるから、何をするにしても中途半端な時間。良夜少し残念そうに、車を走らせる美月に答えた。
「私も特に……今月はもうお金がないですから」
「って、今月、まだ、三日ですよ?」
「はい、お金なくっても食べていけますよ」
三食おやつコーヒー付な職場で働く女性は無駄に剛毅な台詞を吐いた。
「社会人の発言じゃないですね……」
「実家暮らしの社会人なんてこんなもんですよぉ〜」
クスクスと頬を緩ませながら、美月はルームミラー越しに良夜の顔へと視線を送った。
「美月さんが困らないんなら良いんですけどね……」
「もちろんですよ! 時々、この子のガソリン代がなくなって、お祖父さんの古い車を借りることがあるくらいです」
「……思いっきり困ってません? それ」
もしかして、一人暮らしの自分よりも考えなしにお金を使っているのではないだろうか? 口にこそ出さないが良夜は少しだけ心配だった。
「美月の趣味はお店でフラフラしてることだから、お金がなくても大丈夫なのよ。それより、やることがないんなら、お店に帰ってコーヒーでも飲みましょう?」
後ろで喜びの小躍りを繰り返していたアルトが、良夜の頭の上に飛び乗ってそう言った。
「そうだ、良夜さん、まだ、夏のメニューって食べてないでしょう? 味見していきます?」
良夜がアルトの提案を伝えると美月がポンと一つ手を叩いた。手を叩いた瞬間は当然手ぶら運転……良夜は何度見てもこれに慣れることが出来ない。言っても美月は『少しだけだから大丈夫』と笑うだけ……本当に大丈夫なんだろうか?
「……寒くないですか? 今日」
車の外は相変わらずレースのカーテンを引いたような薄い曇り空、それでも気温が上がれば蒸し暑くて冷たい物を美味しく感じられるのだろうが、あいにく、気温も余り上がっている様子はない。先ほど店の外に出たときも、ポロシャツ姿の良夜には湿気を含んだ風がほんの少しだけ冷たく感じられたくらいだ。
「お店の中は暖かいですよ、きっと」
などと話をしながら喫茶アルトへと三人が帰ると――
「お帰り〜ちょー暇だよ……」
貴美の営業用人格も営業を止めるほどに閑散とした店内、レジに座って頬杖を突いた貴美とパイプを磨く和明の二人だけのフロアは、普段よりも広く、そして寒々しく見える。
「吉田さん、ホット……」
「私もぉ……」
夏物メニューの出番は後日と言うことに相成った。
「それじゃ、私、着替えてくるわ。良夜、覗きたいなら、覗かせてください、可愛い妖精さん、と言って三回回ってワンと言ったら、覗かせてあげるわよ」
「うるさい、さっさと行ってこい」
いつもの席に向かい合わせで二人は腰を下ろし、服を抱えて何処かにそそくさと消えるアルトを見送った。
「アルト、着替えに行きました?」
「ええ、しかし……まだ、夏物メニューは早かったんじゃないんですか?」
店内は寒いと言うほどではないが、冷たい物が欲しいと言うほどでもないが、やっぱり、まだ、アイスコーヒーよりもホットコーヒーだ。
「ふふ、でも、あと半月もしたら蒸し暑い梅雨になっちゃいますよ。それに、あれをしないと夏が来ないような気がするんですよね」
相変わらず、薄く曇った空、明日はもっと曇るという予報、週明け早々にも梅雨が来る。二人はそんな空と雲に彩られた山を見上げていた。
「良夜さん、アルトが帰ってきたらちゃんと褒めてあげなきゃ駄目ですよ?」
季節の話やメニューの話、たわいのない会話をしていた美月が、ふと、良夜の顔を見てそう言った。
「えっ……あぁ、服ですか? 判ってますよ」
「うーん……でも、良夜さんって、そう言うの鈍感ですからねぇ……」
少し多めのミルクが入れられたコーヒー、そのカップから立ちこめる湯気の向こうで美月は笑いながらそう言った。
「吉田さんにも言われましたよ」
貴美にそれでからかわれたことは記憶に新しい。その時のことを思い出すと、知らず知らずのうちに良夜の顔に苦笑が浮かんでしまう。なんだか、最近苦笑いが板に付いてきたような気がするな、と良夜は窓ガラスに映った自分の顔を見て思う。
「あっ、やっぱり? だと思いました。だって――」
窓ガラスへと向けられた良夜の顔を少しだけ覗き込み、美月は一度言葉を切って、こういった。
「今日、私が新しい夏服、着てることに気がついてないんですから」