夏物始めました(3)
 新しい服を買いに行く前には、古い服を整理整頓しなければならない。特に今回は季節の変わり目ともあって、使わない冬服を片付け、使う夏服を引っ張り出す必要もある。だから、喫茶アルトに住まう妖精アルトちゃんは土曜日の早朝から、服の片付けにかかっていた。
 彼女は服を初めとした様々な私物を店内に分散して隠している。大昔、未だ和明がアルトの姿を見えていた頃、当時ウェイトレスをしていた大学生が一カ所にまとめてあった服、全て捨ててしまったという事件があったからだ。それ以降、彼女はシーズン中の服は比較的手の届きやすい所数カ所に、シーズンオフの服はアルト自身の手も届きにくいが、普通の人間は絶対に立ち入らないところ数カ所に、それぞれ分散して隠すことにしていた。これなら、例え、一カ所の服が全て捨てられても着る服がなくなると言うことはない。姿を見られないアルトならではの知恵である。生活の知恵と言い換えても良い。まあ、自身の寸法が変わっちまえば、その知恵も生きないわけではあるが……
 これをするに当たり、彼女には二つの大きな問題が発生していた。
 まず、分散しているために、集めるのが手間がかかる。特にオフシーズンだった服を取り出すのは大変だ。棚と壁の隙間だとか、天井裏だとか、床下だとか……そう言うところに潜り込んでは、乾燥剤と一緒にビニール袋に詰めた服を持って這い出てくる。小さく肉体労働をほとんどしない彼女にとって、それは非常に骨が折れる。今回は服を全て引っ張り出すだけに、三時間ほどの時間を要した。
 そして、もう一つの問題というのが、各地に分散しすぎてそれを彼女自身が忘れてしまう事。
 こっちはオンシーズンの服に多い問題だ。万が一と言うことを考えれば、どうしても、分散する場所は増えてしまう。特に冬は年末の大掃除という一大イベントをクリアーしなければならない。この時ばかりは、普段は手の入らない部分にまで掃除の手は進入し、彼女の大事な服を埃と一緒に掃き飛ばしてしまうかも知れない。それを考えると安易なところに隠すことは出来ない。安易じゃないところに隠すから本人も忘れる、構造的欠陥。そして、忘れている『かも』知れないから、より入念に記憶の糸をたぐり寄せ、良く捜さなければならない。良く捜さなければならないから、余計に時間がかかる。
 それでも、時間を掛けて捜したはずなのに思いがけない時期に、思いがけないところからヒョッコリ服が出てくることがある。これを若き日――見えていた頃の和明は『アルトのハヤニエ』と称していた。それは今でもあるのだが、店員に見える人が居ないため、忘れ去れたままゴミと化している。
 そんなわけで、彼女の衣装替えには非常に時間がかかる。時間が掛かって時間が掛かって、良夜が来る時間になってもまだやっていた。

 朝十一時丁度に喫茶アルトへとやってきた良夜、彼を出迎えたのは彼とここに住まう妖精にしか見えない服の山だった。一応、営業モードの貴美も出迎えてくれたのだが、営業モードで一応他にも客がいるとなれば、彼女に面白いネタなどない。極普通に真面目なウェイトレスをやっている貴美に、この物語での出番などどこにもない。
「……何、これ?」
 その前にペタンと腰を下ろして、一着一着真剣に吟味をしているのは、間違いなくそれの所有者であるアルト本人。彼女は良夜の指定席の上に、服の山を三つほど作り上げていた。
「服よ。頭の不調がいよいよ病気レベルに達した?」
 店内に背を向けるような形で座っていた彼女は、背後から近付いてきた良夜に視線も向けずにそう言った。相変わらず口の減らない妖精だ。良夜はその小さな背中に拳をたたき込みたくなる感情をぐっと抑え、「それは判ってる」とだけ言って席に着いた。
「判ってるなら聞くのは止めなさい?」
「だからな、なんで俺はこの席の上に大量の洗濯物が山積みされているのだ、と聞いてるわけだが……」
「服の入れ替えよ、夏物と冬物の、判った? ゆとり教育世代」
 アルトは、一つの山から服を一枚取り出しては、それを右の山に置くか、左の山に置くか、それを悩むようにうーんとうなり声を上げていた。早いときで数秒、長いときには一分以上も広げたままの服を左右の山の間でフラフラと動かし続ける。
「何、悩んでんだ?」
「……話しかけないでくれるかしら? 今、ものすごく悩んでるの」
 アルトはきっぱりとそう言いきると、再び、服を前にして悩む作業へと没頭した。
 なんて我が儘な女なんだ……良夜は心の中で独りごちた。良夜が無視をすれば拗ねる癖に、自分が無視をするのは良いというのだから、我が儘なことこの上ない。
 今日、この席に座っているのは良夜一人だ。美月は家事をしていて、直樹は朝から買い物に出掛けたから。そう言う状態で、アルトに無視をされると良夜は途端に暇をもてあますことになる。まさか、アルトに遊んでくれとも言えず、手持ちぶさたになった良夜は、その山々から僅かに離れた場所に転がっていた布きれを指先で弄び始めた。
 小さな布きれを指先で丸めて転がしたり、人差し指と中指で器用に伸ばしたり……これは彼の癖みたいな物だった。普段でもやることがなくなると、テーブルの上に乗っているゴミや小物を指先でコロコロと転がし始める。
「良夜、その癖……」
 アルトは良夜がこれをやっていると大抵嫌な顔をする。子供っぽいとか、落ち着きがないだとか……まあ、言われなくても判っているが、解っているからと言って癖が直るわけではない。しかし、今日はちょっと違っていた。
「……それ、なんだと思ってるの?」
 良夜がいつもの癖をやり始めると、アルトはいつものように嫌そうな顔を一瞬したのだが、その顔がすぐにチョイと嬉しそうな顔へと切り替わった。大きな瞳が細められ、口角がいやらしくつり上がり、頬が緩む。
「何って……ゴミ……?」
 尋ねられた良夜は、大して意識もせずに弄っていたゴミ――だと思っていた物体――へと視線を向けた。細い紐でつながれた三角の布が二つ……ヒョイと良夜はそれをつまみ上げ、小さなぬを広上げて広げた。どう見ても……
「ブラよ……欲しいの?」
「……要らない」
「良いわよ、そっちの山は捨てる方だから、どうとでも使いなさい……そう、どうとでも……詳しいことは聞かないから」
 アルトは選別していた手を休め、ニヤニヤとした笑みを浮かべたまま、良夜の顔を眺め続けていた。
「……要らないって言ってんだろう? この性悪妖精」
 ポイと指に挟まれていた下着を投げ捨てると、それはたっぷりと滞空時間を掛けてテーブルの上へと落ちた。そして、落ちた先には伝線したストッキング……どうでも良いが、このサイズのストッキングなんてどこに売ってるんだろう? 謎だらけの妖精だが、一番謎なのはこの辺だ。
「そう言いつつ、視線はストッキングに釘付け……いやらしいわね」
 今度は汚物でも見るように眉を寄せた。
「たまたま、そこにあっただけだろう、いちいち、俺の行いを悪意で彩るな」
「あら、前にも言ったとおり、私から悪意を取り除いたら、たぐいまれな美貌と明晰な頭脳とウィットに富んだ話術しか残らないわよ」
「優れた女は大変だな……」
 アルトの言った言葉は始めてあった日に入った言葉で、良夜が言った言葉も初対面の日にアルトが言った言葉。あれからもう一つの季節が終わったのかと思うと……良く、ストレス性の胃潰瘍ならなかったな、と自分でも感心する。
「平凡なロリ大学生に嫉妬されて、ホント、大変」
「……はぁ……」
「そして、今日も私は口喧嘩に勝利する。さすがアルトちゃん、賢い」
「……好きに言ってろ」
 再び服の整理を始めたアルトから視線を切り、レースのベールを被せたような薄い雲で覆われた空へと視線を移した。

 和明が煎れ貴美が運んだアイスコーヒーも生暖かくなるまで、良夜はぼんやりと薄曇りの空を眺め続けていた。かなり暇ではあるが、いつもの癖を出すと何を弄ってしまうか判らない。ブラじゃない方の下着でも弄り出せば、本当に何を言われるか判らない。癖を出さないように時間を潰すというのは、なかなかに苦労する物だ。
 美月が早めに現れることを期待しながら、良夜はベールに覆われた空を眺め続けていた。すると、ふと、アルトが良夜の方へと振り向いた。
「ねえ、良夜、これ、まだ行けると思うかしら?」
 そう言ってアルトが良夜の目の前に広げたのは一着の白いサマードレス。幾重にもフリルが重なり大きく広がったスカートを形作る、それは彼女が持つ服全てに共通する特徴だ。彼女はこういうスタイルの判りにくいドレスを好む。きっと、貧相なスタイルを気に病んでの逃避行動だろうと良夜は判断している。まあ、ノースリーブのサマードレスでそれをやって、どれだけの効果があるのかは微妙なのだが……第一、こんなに生地が折り重なっていれば『サマー』なドレスとして役に立たないと、良夜は思う。
「破れてるような様子はないけど?」
 ちらりと視線を窓からドレスへと動かすと、良夜は余り興味もなさそうにそう答えた。
「……使えない男ね……センスとしてどう? って聞いてるのよ」
 その答えはアルトの期待していた物とは違っていたらしく、彼女は不満げに頬を大きく膨らませた。
「悪い、俺、ゴスロリって判らないんだ……」
 ゴスロリどころか、普通の服もよく判らない。自分の服だって、一番に興味を持つのは値段だ。ちなみに今日の服は白いポロシャツとジーパン、当たり外れはないが個性もない。
「ゴスロリじゃないって言ってるでしょ! 私は七十年代からこういう服を着てたの!!」
 大声で彼女は良夜の言葉を否定する。彼女は常々主張しているが……白を基調にしたフリルトレースたっぷりのドレス、そう言うのを指してゴスロリと呼ぶのではないだろうか、と良夜はこの主張を聞くたびに思う。
「もう良い! まだ捨てなくて良いわ、そうする!」
 そう言って彼女は、それを丁寧に畳むと右の山へと積み上げた。彼女の座高ほどもある山が二つ三つ、それがひとかたまりとして大きな山を形取っている。こっちが『捨てなくて良い方』の山なのだろう。しかし、その中には随分と黄ばんでいる物も見受けられる。
「自分で決められるんなら、自分で……そっちの山、えらい大きいな……」
 それに引き替え、無造作に丸められた服は畳まれた山一つ分の山があるだけ。大多数は明らかに大きなかぎ裂きがあったり、大きな目立つシミがあったりと、明らかに使えない物ばかりだ。
 しかし、二つの山を見比べると、『捨てなくて良い方』の山にも大きなかぎ裂きがある物が含まれていたり、『捨てる方』の山にも着るに支障のないような物も含まれていたりする。どういう基準で彼女が二つの山を区別しているのか、良夜には少し理解できない。
「うるさいわね……勿体ないのよ」
 良夜の言葉にばつが悪そうな顔を見せるアルト、彼女自身もその事は自覚しているようだ。もしかしたら、良夜に『古くさい』と言って欲しかったのかも知れない。
「良いけどさ……二年着なかった服は捨てた方が良いんだぜ」
 先日、主婦向けのワイドショーでそんなことを言っていたことを思いだしながら、良夜はたっぷりと汗を掻いたグラスを手に取った。口を付けたコーヒーは、氷が溶け始め少し味が薄いような気がする。そう言えば、アルトはこれが貴美の手によって運ばれてから、一度も手を付けていない。よっぽど真剣に悩んでいるのだろう。
「……二年着なかった服……」
 つぶやきながら、彼女はちらりと『捨てなくて良い方』の山へと視線を向けた。そして、細く白い指先を折って首を数回ひねる。
「……それを捨てたら、あの山、半分になるわよ」
 なんてこったいとも言うような顔で、服の山から良夜へと視線を向けた。
「じゃぁ、そうすれば?」
「勿体ないわよ! あの服を集めるのに何年かかった思ってるのよ?」
 アルトは大きくなった山を指さし、大きな声を出しているが、そんなこと、良夜が知ってるわけがない。
「……どこから集めたんだ?」
「妖精業界のオートクチュール」
「……嘘だろう?」
 そんなもんがあったら一度冷やかしに行ってみたい。第一、この性悪妖精以外に妖精という存在がただの一人でもいるのだろうか?
「うん、嘘。見える人に買って貰ったり、自分で作ってみたり、色々ね」
「なるほどね……と言うことはこっちの山は自分で作った服の山か?」
 そう言って、良夜は無造作に丸められた服の山を指さした。
「よく判ったわね?」
 キョトンとした顔で良夜の顔を見上げるアルト、良夜が判った理由が判らないようだった。その表情に良夜は思わず苦笑いが浮かぶ。要するに、誰それから貰った服だから捨てられない、と言う事なだろう。それくらいは良夜にも判った。
「なかなか捨てられなくてね……片付ける場所、捜すのが大変なんだけど……」
 彼女は小さく苦笑いを浮かべ、一着の白いドレスをパンと広げた。それは二月ほど前に良夜と美月が二人で出し合って買い与えた服だ。それも大事に畳まれると、当然のように『捨てなくて良い方』の山へと置かれた。
「片付ける場所がないんなら、預かっておいてやろうか? 特に着ないような奴」
 コトンと手に持っていたグラスをテーブルの上へと置いた。グラスの汗が滴り、古いドレスの一枚に小さなシミを作った。
「……変なシミとか匂いが付いてそうだからいやだわ」
「……その薄っぺらな羽と胸に画鋲刺して、昆虫採集ごっこするぞ」
「……えっ、お医者さんごっこ? 変態ね」
「耳に妙なフィルターを常備してんじゃねえ」
「してないわよ? ほら」
 服を畳んでいた手を休め、左手で美しい金髪を書き上げてみせるのは、白い横顔と細いうなじ、形のいい耳たぶは多分オマケ。
「……萌えた?」
 持ち上げた髪の向こう側から、横目で良夜の顔へと流し目を送る。ステレオタイプな色っぽい仕草と言う奴だ。
「……ここまでイラッと来る人間はお前が初めてだよ……しかし、美月さん、遅いなぁ……」
 その横顔から良夜が視線を切ると、彼女も髪を下ろし服を畳む作業へと戻った。
「美月も服の整理をするって言ってたわよ。先週の土曜日も出掛けてて出来てないから」
 そう言うと彼女はやっぱり、『捨てない方』の山を大きく成長させ続けていた。
 その頃の美月さん。
「……ふふ……今期も成長なしですか……」
 下着姿で去年の夏服を合わせ、鏡に映った顔を暗くしていましたとさ。

 さて、良夜はこの日の買い物を先日美月と一緒に行った郊外の大きなオモチャ屋だと思っていた。だから、喫茶アルトで軽い昼食を取り終えた後、前回と同じく美月の車に乗り込んでもどこに行くかという話はしなかった。それに、前回で掛けたときは渋滞に巻き込まれ、随分と到着するのが遅くなってしまったと言うことがあったので、美月が前回とは違う道に入っても余り気にはしていなかった。だから――
「はい、つきましたよ」
 と美月が、数色のパステルカラーで書かれた看板の前に車を止めるその瞬間まで、自分が女子中学生と女子高生と女子大生と若いOLしか絶対に来ないようなファンシーグッズのお店に連れて行かれるとは、夢にも思っていなかった。
「こっ、ここですかぁ?」
 思わず叫んだ良夜の言葉に、美月ははち切れんばかりの笑顔で「ここですよっ!」と言い切った。

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