夏物始めました(2)
 美月から給料を受け取った一分後、良夜は喫茶アルトの倉庫兼事務所にいた。もちろん、彼をここに連れてきたのはアルトだ。彼女は、良夜が美月から二通の給料袋を受け取ると、彼の髪を強く引っ張り無理矢理ここへと引っ張り込んだ。
 喫茶アルトの一番奥にある倉庫兼用の事務所、窓が一つもないため昼間でも明かりを着けないと薄暗く、また、店内で使う備品の類が大量に置かれていて、過ごしやすい場所とは言えない。女にこう言うところへと引っ張り込まれる。普通ならちょっと嬉しいシチュエーションなのかね、と思うが……今、昼飯時で、未だに注文すらしてない。色気より食い気だ。それに、相手がアルトじゃ……
「で……なんのようだ? 臨時収入で何か奢れって言うんなら、断るからな」
 とは言うが、良夜はそれじゃないだろうなとも思っていた。それなら、ここまで呼び出しはしないだろう。
「良夜! お給料よ!!」
 彼女はそう言うと、彼の手から給料袋を一つ奪い取ると、それをギュッと力一杯強く抱きしめた……のだが、良夜が手に残った給料袋を見ると、それには『アルト様』の文字、と言う事はアルトが嬉しそうに抱きしめているのは、『浅間良夜様』と書かれた奴だろう。それに彼女も気づき、良夜の給料袋を投げ捨てると空中でクルンとトンボを切って、良夜が見つめていた封筒へと飛びついた。
「……俺の、返せ」
 良夜の視線の先には、捨てられヒラヒラと舞い落ちる給料袋。ゆっくりと落ちていく様が哀れを誘う。立つ給料袋を貰える人になりたい。
「勝手に拾いなさい。それより給料よ! お給料!! あぁぁ……」
 良夜の手から自分の給料袋を奪い取ると、彼女は給料袋とダンスを踊るように体をフワフワさせた。ウットリとした表情、まるで抱きしめている相手は数十年来のあこがれの人のようだ。もしかしたら、目に涙の一つでも浮かべているかも知れない。
「そんなに嬉しいかね……」
 アルトに捨てられた給料袋は、倉庫の隅に積み置かれたペーパーナプキンの箱の傍へと舞い落ちている。良夜はそこへと続く数歩をノソノソと歩き、哀れにも見捨てられたその封筒を拾い上げた。アルトに力一杯抱きしめられたせいで、真ん中の辺りがクシャクシャだ。軽く手のひらで皺を伸ばして、中身を確認……おっ、思ったよりも多い。思わず、その金額に頬が緩んだ。
「嬉しいわよ! だって、初めてなのよ? 良夜だって、初めて貰ったときは嬉しかったでしょう!?」
 彼女と封筒が踊るパドドゥは、体をひっくり返したり、無駄に上昇したり、下降したりと、更に激しさを増していった。どうでも良いが、反対の手に持ったストローで、給料袋をザクザク刺してるのは良いのだろうか? パドドゥのパートナーにする仕打ちではないと思うが……まっ、別に穴が開いてても使えるんだし……良いか、と良夜は指摘しないことにした。何より楽しそうだ。
「あぁ、これで何を買おうかしら……」
 彼女が上機嫌でダンスを踊っていられたのも、良夜の顔を見るまでだった。踊っていた彼女の視野に入った良夜は、一人勝手に中身を取り出し、そこに入っていた千円札数枚と小銭いくらかを牛革の財布にねじ込もうとしている真っ最中だった。
「……ものすごく冷めてるわね、良夜……」
 冷めた良夜の態度に、アルトの熱もサッと音を立てて引いていく。彼女はフワリと事務机の上へと舞い降りると、その頬を膨らませて良夜の顔を睨み付けた。
「冷めてる……って言われてもな……俺、高校の夏休みもバイトしてたし……」
 そんなことで攻められても……と良夜は苦笑いを浮かべながら手で頭を掻くしかなかった。良夜が、初めてやったアルバイトは、知り合いの建築屋での下働き。掃除をしたり、荷物を運んだり、きつい分時給も悪くはなかったのだが、始めた日が余り良くなかった。それはその会社の締め日で、貰えたのは今日より少し多い程度。感激よりも、これっぽっちかという落胆の方が大きかった。使い道はCDが一枚……あぁ、でも、こういう事を詳しく覚えていると言うことは、それなりに感動があったのかも知れない。その証拠に、二回目の給料日のことは良く覚えていない。
「つまんない男よね、心が貧相なのよ」
 良夜の考えなど知るはずもないアルトは、冷めたままの良夜から自分の給料袋へと視線を戻した。そして、ようやく、自分がストローで給料袋を穴だらけにしたことと、抱きしめてたせいでクシャクシャになったことに気がついた。あっと小さな声を上げた横顔は、良夜から見ても判るほどに深い影がさしている。
 慌てた彼女はそれを机の上に置くと、その上へ馬乗りになってストローを麺棒代わりにして皺を伸ばし始めた。始めたのは良いが、余りその努力は成果を上げていない。体重が決定的に足りないのだ。それでも彼女は額に小さな汗を浮かべて、ストローを通じて封筒へと力を込め続けていた。
「大きなお世話だよ。それより、それで何を買うんだ?」
 アルトの滑稽な姿を観ながら、良夜は壁際へと移動し、その体重を石膏ボードの壁へと預けた。事務机の椅子に座ることも考えたが、アルトの邪魔になるとうるさそうなので止めた。それに、そこには飾り気のない大学ノートも置かれている、多分、帳簿かそれに類する物だろう。余り、部外者が座る席ではない。
「そうね……無駄遣いは嫌だわ……服にしようかしら? 丁度、夏服が必要だもの」
 良夜が小さく言った言葉にアルトは少しだけ悩んだ様子を見せると、未だ長袖のドレスの裾を軽くつまみ上げた。毎日違う服らしいが、着ているのは同系列のフリルたっぷりの白い――当人は違うと言い張っているがゴスロリのドレス。それ以外と言えば……
「じゃぁ、忘れずにブルマー買っておけよ。夏太りしたら、また、鍛えてやるから」
 濃紺ジャージしかない。だから、次はブルマ。完璧である。完璧に馬鹿のやることだ。
「……ロリコン」
 白い半袖シャツとブルマを穿いたアルトを思い浮かべ、ニヤニヤしていた良夜の顔が、アルトの小さなつぶやきで凍り付いた。
「……嫌みを罵倒で返すな」
 可愛げがないったらありゃしない、良夜は心の中で小さく毒づいた。これなら、真っ赤な顔をしてストローで攻撃された方がまだマシだ。
「罵倒されるような嫌みを言うのが悪いのよ。頭の回転が悪いんじゃないの?」
 今度はアルトがニヤニヤする番だ。彼女は、ほんの少しだけ皺の伸びた封筒から顔を上げ、言われ慣れた罵倒語に顔をしかめる良夜へと視線を動かした。
「そう言うわけだから、この土曜日で良いわ。オモチャ屋さんに――」
「断る」
 再び封筒へと視線を落とした彼女の要求、それが言い終わるよりも早く良夜の口が否定の言葉を言い切る。
「……最後まで言わせるくらいしなさいよ」
 壁にもたれてきっぱりと言い切る良夜に、アルトは苦虫をかみつぶしたような顔を向けた。
 良夜は彼女がこう言出すだろうな、と言う想像は付いていた。むしろ、『何を買う?』という質問は『何を買ってこさせたいんだ?』とか『何を買いに連れて行かせたいんだ?』とニュアンスを含めたつもりで言った言葉だった。だから、彼女が『服』と言出した瞬間から『断ろう』と思っていた。
「お前の服って、着せ替え人形の服だろう? そんなのを持ってレジには並んでたら、百パーセント変質者じゃないか」
 と、こういう訳である。着せ替え人形の服を持ってレジに並ぶ、そんな自分の姿を想像しただけでちょっと、いや、かなり引く。回りからそんな引いた目で観られたら、羞恥心だけで人が死ねることを立証できるに違いない。
「あら……今更、そんなことを気にしてるの? もう、手遅れよ……残念だけど」
 アルトは給料袋を持ってぴょんと跳び上がり、良夜の顔の前に空中停止、ストローをびゅん! と一振りするとその切っ先を良夜の鼻先へと突きつけた。
「だって、良夜、ロリだもの!」
 どきっぱり! いい加減否定するのにも飽きるほどに言われ続けているが、否定せざるを得ない。認めることなど出来はしない。
「俺をロリ扱いしてるのはお前だけだ……俺のパソコン使わせてやるから、ネット通販で買えよ」
 ネット通販が彼に出来る最大限の譲歩だった。それでも、自分の名前で人形の服を買うのはちょっと嫌だ。恥ずかしいし、何より、しょっちゅう良夜の家に攻め込んでくる貴美にでもばれたら……考えただけで震えてしまう。
 しかし、アルトはその妥協案を受け入れなかった。受け入れるどころか、良夜の鼻をストローで小刻みにひっかき、僅かばかりに唇をゆがめ、ニヤリと獲物を見付けた狼のように微笑んだ。臨戦態勢だ、口喧嘩の。
「私、現物を見て買う主義なの。通販って信用できないわ」
「お前の場合、実際に合わせるなんてことできないんだから、通販もオモチャ屋も変わらんって……」
「それに個人情報の流出とか恐いわよ? 『浅間良夜。着せ替え人形の服購入』なんて情報が漏れても良いわけ?」
「……『浅間アルト』の名前で買ってやるよ」
「うわぁ、何気にプロポーズしたわ……真性のロリコンよ……」
「……人の言葉を曲解して、俺に妙なレッテルを貼ろうとするのは止めろ」
「じゃぁ、自覚なしでプロポーズ? なかなかにやるわね……この女殺し! でも、童貞」
「お前…………」
「はい、言葉につまったから良夜の負け」
 二人の間でポンポン飛び交っていた言葉のボールは、一回ごとに良夜の手元にいる時間が長くなる。そして、アルトが一呼吸を着くまでに投げ返せないと、彼女の勝利宣言が下される。いつものパターンだ。
「今週の土曜日ね。本当は今から行きたいところだけど、良夜、授業でしょ? 土曜日まで待ってあげる。待ち合わせは、お昼にここ、お茶してから行きましょう」
「だから、行かないって!」
 一方的な勝利宣言と一方的な講和条約の締結に、良夜の声が自然と大きくなる。
「口喧嘩に負けてなおも強情を張るなんて……なんて小さな男かしら……」
 そんな大声もアルトにはどこ吹く風、馬耳東風、彼女は飄々と良夜の鼻を踏み台に少しだけ高い位置へと舞い上がった。そして、空中で足を組み、良夜を冷たい目で見下ろす、否、見下す。
 完璧なる敗北だった、逆ギレの如くに大声を出したのも良くなかったな、と思う。それがなければ、普段の敗北程度で済んだものを……って、良夜はアルトとの口喧嘩に負ける事に、そろそろ慣れてきた自分が少し嫌になった。勝てたのは後にも先にも、アルトがジャージを着ていた頃だけだ。あの頃は良かった……短い夢だったなぁ……
「美月さんにでも頼めよ、俺は腹――」が減った、と続けようとした言葉は、ドアが開く大きな音に遮られた。
「では、いつにしましょうか? 良夜さん」
 その音にギョッとして顔を向けると、そこには満面の笑みを浮かべた美月@仕事中の姿。彼女は胸に前で手を組み、ニコニコと良夜の次の言葉を待っている。
「……いつの間に来てたんですか?」
「えっと……ああ、良夜さんが『断る』って言った辺りでしょうか?」
 組んでいた手をほどき、ポンと一度手を叩く。叩いた手を頬の横に押し付けるいつものポーズ。彼女のどこを切り取っても、悪気というものは見受けられない。むしろ、どうしてそんなことを聞くんですか? とばかりに小首をかしげて笑っている。
「何、サボッてんですか……」
 良夜とアルトがここに入って十分くらい、未だ喫茶アルトはかき入れ時たるランチタイムの真っ最中のはず。和明の使うネルはフル稼働し、貴美は自然な作り笑いを貼り付けて店内を闊歩しているだろう。そして、美月は立ち聞き……軽く良夜の頭が痛くなる。それはアルトも同じ様で、良夜を見下ろす顔に冷や汗が一筋浮かんだ。ここを住居としているアルトには、良夜よりも切実な問題なのかも知れない。潰れたら、行き場がなくなっちまう。
「いえいえ、ちゃんと備品を取りに来たんですよ。間違っても、良夜さんが、誰もいない倉庫でアルト相手に良くないことをしてそうな気がしたので、覗きに来たって訳じゃないんですよ。知ってました?」
 知ってました、と言うか……今、知ったというか……何とも答えようのない美月の問いかけに、良夜とアルトはお互いに顔を見合わせるだけだった。
「私は土曜日が都合がいいんですよね、お休みですから。午前中はお洗濯やお掃除をしますから、お昼からにしませんか? また、お昼はうちで食べていきましょうね」
 対応に苦慮する良夜を尻目に、美月は自分の都合百パーセントの予定を並べていく。しかも、その予定はアルトが提案した同じ『土曜の昼から』、それは神の思し召しか、悪魔の罠か、妖精の悪戯か……強力な援軍を得たアルトは、良夜の視線にまで舞い降りると、彼の肩へと体を下ろし、更なる勝利を確信した笑みを浮かべていた。
「はぁ……判りましたよ、じゃぁ、土曜の昼ですね」
 大きくため息をつくと、良夜はもう一度だけ予定の確認をした。
 とりあえず……レジに並ばなくて良いんなら、オモチャ屋だろうが、ファンシーグッズの店だろうが、もういいや、と言う気に良夜はなっていた。
「はい、それじゃ、私、仕事に戻りますね! あっ、今日もタイムランチとコーヒーですか?」
「……アイスで……」
 土曜日の予定を取り付けた美月は、上機嫌で事務所を後にした。なんというか……
「意外に押しが強いのか?」
 踊るような足取りでキッチンへと帰っていく美月を、良夜の小さなつぶやきが見送った。
「……良夜がヘタレなだけよ。ところで、私と美月、随分と対応が違うわね?」
 クイクイと良夜の髪がアルトの手により引っ張られる。妙なことを言ったら引き抜くぞ、と言うことらしい。
「レジに並ばなくて済むからな……美月さんと一緒なら」
「……本当にそれだけ?」
「……日頃の行いを鑑みろ」
「あっ、納得」
「納得するな、馬鹿」
 納得するくらいなら日頃の行いをどうにかして欲しい良夜だった。

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