夏物始めました(1)
今年の五月は全国的に天気が悪かった。喫茶アルトの屋根の上も例外ではなく、ここ数日は毎日薄い雲が空を覆い尽くし、油断をすると霧のような雨を降らし続けていた。おかげで洗濯物は乾かないわ、キッチンは湿気臭くなるわ、毎日空を見上げては美月は小さなため息をつき続けていた。しかし、本日六月一日は久しぶりに抜けるような晴天だ。天気予報を信じるならば持つのは今日一日、明日から、また天気は下り坂、もしかしたら、そのまま、梅雨入り宣言が出されるかも知れない。
そんな空の下、喫茶アルトから出て来た美月は久しぶりに晴れた空を見上げ、ほんの少しだけまぶしそうに眼を細めた。彼女の手には二十センチ四方の小さな紙が一枚。美月はそれをアルトのドアに画鋲で留めるとポンポンとその表面を叩いた。
「早く本番が来ると良いですよね」
「おはよう、りょーやん」
「おはようございまふぅ……」
良夜が部屋を出ると、丁度隣の部屋から貴美と直樹が出てくるところだった。この間のように、誰かが寝込みでもすれば話は別だが、三人は基本的にいつも一緒に大学へと通っている。似たような授業の取り方をしているお隣さん同士なんだから、どちらかが避けない限り、毎朝一緒になるのは当然の話だ。
「おはようさん、タカミーズ」
二人の挨拶を返しながら、良夜は自室の鍵を掛け、キーホルダーをポケットの中にねじ込んだ。そして、待っているタカミーズの隣に立つと、三人で一緒にアパートの階段を下りていく。朝っぱらからフルスペックの活動を見せる貴美が、人並みに眠そうな顔をしている直樹の手を引いて歩く。毎朝見る光景ではあるが、毎朝、姉と弟にしか見えないな、と良夜は思う。
「ねえねえ、りょーやん、今日の私に何か言うことない?」
三階の自室から一階近くにまで下りてきたところで、貴美が不意にそんなことを言った。言われた良夜の足が止まり、その視線が何もない空間をさまよう。
自慢でもなんでもないが、貴美に言いたいことは山ほどある。言いたいことは山のようにあるし、実際にその大部分は貴美に言っている。言っても聞かないだけだ。言っても聞かないから、山は決して低くならない。僅か三ヶ月ちょっとですでにその高さは富士山並、一年が終わる頃にはエベレストになって、卒業する頃にはオリンポス山――太陽系最大の山、火星にある――を超えているかも知れない。とは言ったところで、顔を合わせて数分の『今日の貴美』限定で言うべき事などはない……と思う。
「いや……別に……」
一分ほど足を止めて考えてみたが、やっぱりない。
「はぁ……りょーやんはやっぱり男同士の世界でしか生きていけない人間なんだね……」
良夜の言葉に貴美はわざとらしい肩をすくめるジェスチャーを入れてそう言った。
「訳わかんねえ事言ってねーで、オチを言え、オチ」
ちょっとむかっとしながら言った良夜の言葉に、答えてくれたのは貴美本人ではなく、眠そうにしている直樹の方だった。
「服……夏服になったんで褒めるか何かしろって言ってんですよ……この人」
へっ? と直樹の言葉に、宙をさまよっていた視線を貴美へと移した。
貴美はランチタイムにも喫茶アルトで働いている。だから、着替え時間を省くため、大学にも喫茶アルトの制服で通っている。普通の紳士物の白いワイシャツに臙脂のスラックス、蝶ネクタイさえ着けていなければ、それでキャンパスをウロウロしていたところで別におかしいことはない。問題があるとすれば、事情を知らない人間に『毎日同じ服を着ている女』というレッテルを貼られることくらいだが、それも貼った人間を『洗い替えって言葉も知らないお馬鹿さん』扱いすれば良いだけ。猥談と他人イジリーに命をかける女にとって、それは大きな問題ではない。まさに、趣味と実益を兼ね備えた至高の服装と言えよう。
で、その服が昨日までは長袖、今日からは――
「半袖開襟どーよ?」
貴美はそう言って、むき出しになった白い腕で大きめに開いた開襟シャツの胸元を指さした。良い、巨乳の開襟シャツとはこれほどまでに破壊力のある服装なのか……素晴らしく良い……思わず、視線がそこへと集中してしまう。
「……やっん、なお、りょーやんが目で犯した」
貴美はしなを作って直樹の後ろに隠れたるようなそぶりをした。もちろん、身長が十五センチも違うので余り隠れられては居ない。
「なっ!」
思わずそこに視線が行ってしまったのは事実だ。事実だから言い返す言葉が見つからない。良夜は思わず絶句してしまった。とっさに『見てない』とでも言えば良いものを……と、良夜は後にちょっとだけ後悔した。
「りょーやんが獣のような目で見てるよぉ? なおもなんか言ってやりなよ……」
良夜が絶句したのを良いことに、貴美の言葉はエスカレートしていく。直樹の肩に両手を置いて、その背後にしゃがみ込むと小さな声でブツブツと直樹の耳元に話しかけている。声も普段とは違って、やけに媚びたような可愛らしい声を使っている。と言うか、媚びた声を使っている女のまねをしている、と言うのが正しいかも知れない。
「……えっと……相手するつけあがりますが、相手しないと悪化するので……相手してあげてください、お願いします」
直樹は背後の貴美をチラッと見ると、はぁと大きなため息をついた。そして、再び良夜へと視線を動かし、諦めてくださいとでも言うような表情でそう言った。しかし、相手をしろと言われても……
「とりあえず、工学部の数少ない女の子に浅間くんには気をつけろって言っておかなきゃ……」
「ほら、悪化しました」
貴美の行動を読み切ったからか、直樹がちょっぴりだけ貧弱な胸を反らした。
「お前ら……」
奴の胸には釣り針が付いている。それを忘れてはいけない。
直樹の後ろで隠れる振りをしていた貴美も、それに飽きたのか、恋人の小さな背中の後ろから出て来た。
「と、まあ、冗談はここまでにして……ちゃんとチェックしてないと、いつまで経っても恋人出来ないよ?」
冗談なのは分かり切っているから対応に困る。
「ウルセー、大きなお世話だ。そう言うことは恋人に言って貰え」
散々からかわれた良夜の心は荒んでいた。貴美の言葉に吐き捨てるような返事を返して、留めていた足を再び大学へと向けて動かし始めた。しかし、アルトにも毎日のように『モテナイ男』と言われ続け、貴美にも……やっぱり、自分はモテナイ人なのではないのだろうか? ちょっぴり不安になったのは永遠の秘密と言うことにしておく。
「なおはちゃんと褒めてくれたよ? だから、次は友達にね」
良夜が歩き始めると、直樹の手を引いた貴美もそれにならって大学へと向けて歩き始めた。
「へぇ〜直樹が? 意外だな」
貴美の言葉に良夜の足が再び止まる。すると、一歩後ろを歩いていた二人が追いつき、良夜の隣へと並んだ。
「……気がつかないと吉田さん、怒るんですよ。タチの悪いことに……」
追いついた直樹は良夜と貴美の間に立つと、二十センチほど高いところにある良夜の顔を見上げた。先ほどまでは眠気で化粧されていたその顔に、疲労感らしき物が上塗りされている。
幼なじみだった貴美と直樹、貴美は昔から新しい服を手に入れると一番に直樹にさりげなく見せに行っていた。あくまでもさりげなく、だ。そして、直樹が気がつかないと容赦ない折檻と罵倒と泣き言をぶつけた。『なお、気がついてくれない!! もう、なおなんて友達じゃない!!』と言いながら、殴るわ、蹴るわ。当然直樹は嫌になる。そうなると、段々、貴美が新しい服を着ていると褒めるようになっていった。もう、なんでも良いから褒めとけって感じである。直樹がそう言う態度を取り始めると、貴美はわざと自分の趣味に合わない、むしろ、センスないなぁ〜っていうような服装を見せ始めた。そして、それを直樹が褒めると、今度は『ちゃんと見てない! もう恋人――直樹が飽きる頃には付き合っていた――じゃない!!』と殴る蹴る……かくして、直樹は貴美の服だけは、貴美のセンスに合わせてチェックするようになった、と言うわけである。
大学へと向かう下り坂を下りながら、直樹は良夜にそんな話を良夜に聞かせた。余りにも惨い仕打ち、良夜の目に思わず涙が浮かんだ……ような気がしただけで、本当に浮かんでるわけではなかったりして。
「それはそこ、ほら、好きな人にはいつでも見ていて欲しいという乙女心なんよ、判る、りょーやん?」
懐かしいねぇ〜と悪びれる様子もなく、直樹の話を聞いていた貴美は、直樹の話が終わるのを待ってそう言った。その言葉にはやっぱり悪びれる様子はない。むしろ、恥ずかしいじゃん、察してよぉとでも言うようなニュアンスまで含まれている。
だが、判る? と聞かれても正直判らない、と言うか、好きな人を殴ったり蹴ったりする辺りからして全く理解できない。最近流行のツンデレという奴なのだろうか……違うよな? 殴ったり蹴ったりしてたのは二人きりの時らしいし……
「……直樹、なんで、コレと付き合ってるわけ?」
良夜の指が直樹の頭の上を素通りして、貴美の横顔へと向けられる。
「最近、余り考えないようにしてるんですよね」
「一度、ゆっくりと考えた方が良いぞ? 人生、やり直しの効くうちに」
「……まあ、その話はこっちに置いておいて、火曜日に回収して貰うとして……」
「不燃ゴミか! それは萌えないゴミって意味か!?」
「……君ら言いたい放題やね……」
貴美はこの時、苦笑いを浮かべているだけだったが、心の中では今夜、帰ったら直樹を殴ろう、と心に決めていたらしい。
さて、それから五時間ほどが経ったランチタイム。良夜はいつものように喫茶アルトにタイムランチを食べに来ていた。
「……って、この『夏物始めました』ってなんだ?」
それは今朝、美月が張った紙だ。良夜は人通りの激しくなり始めた喫茶アルトの入り口に立って、彼を出迎えてくれた張り紙に向かって小さく呟いた。中華料理屋の『冷やし中華始めました』じゃないんだから……と、思わず良夜の顔に苦笑いが浮かぶ。
「あぁ、それね。衣替えに合わせて、メニューがちょっと変わったから、それのお知らせだと思うよ……多分。美月さんらしいけど……」
良夜の独り言に貴美が苦笑いと共に答えた。もちろん、貴美は今日からメニューが変わることは知っている。知ってはいるのだが、こういう事をやるとは貴美も思ってなかったようた。確かに『らしい』と言えば、凄く美月らしいな、と良夜は思った。
「冷たいデザートとかが増えたんですか?」
「そそ、他にも冷製パスタとか冷たいスープとか、美月さん、張り切ってたよ……っと、じゃぁ、なお、コレ、持っててね」
貴美は直樹の質問に答えると、その答えと一緒にハンドバッグと教本のつまった鞄を直樹に手渡した。そして、貴美は顔からへらへらとした抜けた笑顔を消し、変わりに口角を僅かに持ち上げただけの上品な笑顔へと変えた。
「いらっしゃいませ、喫茶アルトへようこそ」
声の雰囲気も一オクターブ下げた落ち着いた声、見事な変貌ぶり、これに騙されている客も多い。
こうして完全に営業人格に切り替わった貴美は、一緒にやってきた直樹とオマケの良夜を喫茶アルトの入り口で出迎える。彼女が喫茶アルトで一番最初に出迎える客はいつも直樹だ。
仕事を始めた貴美と別れ、いつもの席に座ると、退屈そうに外を眺めていたアルトがフワリと良夜の肩の上へと飛び乗った。ここに座って耳を頬に押し付けるのが、ここひと月の彼女の指定席だった。
そして、待つことしばし。いつも通りにパタパタと小さな足音を立てて美月が注文を取りに来る。
「いらっしゃい、良夜さん、直樹君」
オンとオフで態度どころか人格まで変わる貴美と違って、美月はいつも一緒だ。本人は仕事中は気合いを入れた顔をしている、と主張しているのだが、良夜にはその違いが理解できない。口調もいつも丁寧語な人だし
「あれ……美月さんは衣替えしてないんですね? 店長も半袖着てるのに」
肩の上にアルトを乗せ、良夜は注文を取りに来た美月の姿を見てそう言った。
良夜の言葉通り、先ほどすれ違った和明も、貴美と同じ半袖の開襟シャツを着ていた。コレで三人の店員の内、二人までが衣替えをしていたことになる。それなのに、美月は昨日と同じ長袖シャツに蝶ネクタイ。今は良いが、後ひと月もしたらきっと見てる方が暑くなるに違いない。せめて、その蝶ネクタイくらいは外した方がいいと思う。
「えっ……えぇ……今年は開襟シャツ、着るの止めようかなぁ〜なんて思いまして」
良夜の言葉に美月は困ったとも怒ったとも言えない、微妙な表情を浮かべ、荒れた指先で襟元を飾る蝶ネクタイを弄り始めた。
「どうしてです?」
直樹も不思議そうに首をかしげた。
「……どうしてと言われましても……ほら……えっと……ね?」
首をかしげる直樹へと視線を動かし、美月はやっぱり困ったような表情を浮かべて言葉を濁した。
「??」
しかし、そんなことで納得できるほどこの二人の勘は良くなかった。
「ほら……だから……あれの隣で開襟シャツを着るのはいやかなぁ……と思いまして」
アレと言った彼女の視線は、営業用人格をフル活用して店内を我が物顔で闊歩する貴美、いな、その豊かな胸に注がれていた。
「……あっ、あぁ……」
思わず、納得の言葉を上げてしまう良夜。すなわち、彼女は胸元の開いた服を着て、これ以上、貴美の大きな胸と比べられたくはない、そうおっしゃっているようだ。さもありなん。釣り針が付いていると判っていても、ついつい、視線が行ってしまうからな、あの胸には。
「……納得しました? 良夜さん」
納得しました? と聞かれても……確かに納得してしまったが、素直に言えば怒られるだろう。しかし、フォローの仕方も難しい……『大丈夫』って言うのもおかしいし……
「……とりあえず、これ以上、その話題に踏み込んだら怒られそうだな、って事は判りました」
「良夜さんも成長しましたね……シュークリームとエクレアくらい?」
美月はほんの数秒ほど首をかしげて、適切な例えを捜していたようだが、出した例えは、良夜にも直樹にもついでにアルトにも、どっちが成長前で、どっちが成長後なのか判らない代物だった。
「その例え、判らないです。成長なんですか? シュークリームとエクレアって」
「成長なんですよ。それで、良夜さん、ちょっとキッチンに来てくれます? 渡したい物があるんで……」
「はい?」
本日のコーヒーをホットにするか、アイスにするか、もしくは水出しダッチコーヒーにするを考えていた良夜は、キョトンとした顔で美月の顔を見上げた。
「良いものですよ、直樹君はいつものタイムランチで良いんですか?」
意味が解らず首をひねる良夜を置き去りに、視線を良夜から直樹へと動かした。その横顔には上機嫌な笑みだけが残っていてる。肩の上で成り行きを見守っていたアルトへと視線を動かしても、彼女は首を左右に振るばかり。彼女も知らないらしい。
「まっ、行けば判るか……」
そう呟いた良夜が席を立つと、美月も丁度直樹の注文を取り終えていた。
笑顔のままの美月に率いられ、キッチンへと来た良夜に美月の手からその隅で一通の封筒が手渡された。表には『浅間良夜様』と美月の手による物らしい自分の名前が書かれている。ラブレター……にしては事務的すぎる白い封筒、しかも、下の方には喫茶アルトの連絡先がスタンプされている。間違いなくラブレターではないだろう……貰ったことがないからよく判らないけど。
「これ、お給料です。この間、手伝って貰った」
貴美が風邪を引いて、和明がぎっくり腰になったときの話だ。もちろん、最初から給料は貰えるという話は聞いていたのだが、てっきり、美月達の給料日――毎月二十五日――に貰える物だと彼は思っていた。
「あっ……あぁ、ありがとうございます」
ホンのちょっとだけラブレターであることを期待していた良夜は、ホンのちょっぴりだけ落胆してしまった……いや、本当にホンのちょっぴりだから、期待してたのは。まさか、彼女がラブレターをくれるなんて事、そんなことがあるわけない。十分に判ってるって……と、心中で誰かに言い訳をしてみた。
「何を期待してるのかしらね……このモテナイ君は」
何故か引っ付いてきていたアルトが、良夜の肩の上で小さくはあるが確実に見下した感情を含む声で呟く。
その声を無視し良夜は受け取った封筒の中身も確認せずに、ポケットの中へとねじ込んだ。前に貴美から聞いた喫茶アルトの時給と自分が働いた時間を考えれば大体の金額は予想が付く。それにウェイトレス歴三年の貴美とアルトと二人合わせて三分の二人前と言ったところの自分とでは、時給に差があっても不思議ではない……と言うことは、まあ、豪勢な夕食二回分って所かな、と良夜はその中身を適当に想像した。
「それと、これ、アルトに渡してください」
良夜が封筒袋をポケットにねじ込むのを見ていた美月が、そう言って『アルト様』と書かれたもう一通の封筒を取り出した。
「えっ! 私にもっ?!」
完璧に不意打ちを食らったアルトは、良夜の肩からずり落ちんばかりに驚き、素っ頓狂な声を上げた。
「……耳元で大声を出すな……」
キーンと鳴る耳を押さえ、良夜は小さく文句を言った……