三人のお茶会
 フロアに灯された明かりは、良夜達がいつも使っている通称〇番テーブルの上だけ。そこには三つのケーキ……
 今更言う必要もないが、喫茶アルトは飲食店である。飲食店である以上、売れ残りという物が出るのもまた必然。毎日というわけではないが、三日に一度くらいは、食べるか捨てるかしなければならない期限切れのケーキという物が出て来てしまう。そして、若い女性が二人も働いているのだ、捨てるという選択肢があり得るはずがない。
 営業が終わり、明日のための仕込みやらフロアの掃除やら、店員がやるべき仕事が全て片付いた喫茶アルトでは、売れ残りケーキを肴に夜のお茶会が開かれようとしていた。少し前まで、和明もこのお茶会に参加していたのだが、貴美がアルバイトをし始めてからは『若いご婦人二人の会話に、老人はついて行けませんから』と言って参加しないようになった。二人は気を使わせたかなと少々心を痛めたものだが、なんて事はない。美月が貴美とお茶会をやっている隙に、彼は自室で思うさまパイプをくゆらせているだけだったりする。もちろん、ここにいる二人のウェイトレス――特に嫌煙家の美月――には知られていない。
「今夜は三つなんだ……四つだと思ってたのに」
 一時間ほど前、貴美がチェックをしたときにはきっちり四つ売れ残っていた。その中には貴美の大好きなガトーショコラもあったはずなのに……
「ええ……先ほど、最後のお客さんがお持ち帰りしましたから……」
 温かなコーヒーを煎れ終え、美月は二つのカップをテーブルの上へと静かに置いた。
「残念……」
「はい、残念です……」
 ケーキを売る人間が、ケーキが売れることをを残念に思うのは如何なものなのだろうかと言う事は、二人とも十分に判っている。判っちゃいるが、二人の営業時間はすでに終了していた。今の二人は、甘い物が大好きなただの乙女に過ぎない。むしろ、売れ残りはいくらあっても大歓迎。期限切れじゃない売り物に手を付けないところに、ギリギリの理性をかいま見ることが出来る。
「じゃぁ……ルールはいつも通り……」
 真剣な顔をして拳を握りしめる貴美、それに大きくうなずく美月、二人がお互いを見る目は、親の敵のようだった……って、たかだか、ケーキ一つにここまで情熱を注げるのはある意味感嘆に値する。
「勝負は一回切り、勝っても負けても恨みっこなし、太っても泣かない、ですね」
 喫茶アルト夜のお茶会血の掟である、貴美が働き始めて出来た代物だけど……
「じゃんけん!!」
 喫茶アルトの店内に二人の女戦士の声が響き渡り、夜のお茶会がスタートした。

「……なんで私はこんなにじゃんけんが弱いんかな……」
 大きく開いた手のひらをじっと見つめる貴美と突きだした二本の指をピースサインに変える美月、これで貴美は五月の末から数えて三連敗だったりする。大体なんで、毎度毎度売れ残りが奇数なのだろうか? 偶数だったら、弱いじゃんけんをしないで済むのに……誰かの悪意を感じるような気がする。
「ごめんなさいね、毎回勝っちゃって」
 ニコニコと笑いながら、美月は二つのケーキを手元に引き寄せた。今日のメニュー、美月は季節のタルトとショートケーキ、貴美はモンブランが一つだけ。ショートケーキはともかく、タルトは食べたかった……
「うう……やっぱり、じゃんけんは止めて、素直に半分別けにしない?」
 目の前から消えていこうとするタルトを見つめ、貴美は世にも情けない声を出した。
「そう言うことはですね、やる前に言いましょうよ」
「……勝ったら言わないもん」
 ブスッとふくれ、貴美は自分のモンブランを小さなフォークで少しだけ切り崩した。一つしかないから出来るだけ味わって食べなければならない。とりあえず栗は最後に置いておこう、貴美はそう固く誓い、回りのクリームを少しずつ口へと運んだ。
「びっくりするほど自己中心的ですよね」
 美月はコロコロと笑ながら、ショートケーキの上に鎮座していた苺をフォークで刺すと、それを口へと運ぶ。
「だって、甘い物、好きなんよ」
 好きじゃなきゃ、一度に二桁も食べられやしない。彼女は、糖分は全部乳へ回っていると公言してはばからないほどの人間だ。
「女の子はみんな好きなんじゃないんですか?」
 クリームの付いた苺、その甘みと酸味のほどよいバランスを存分に口いっぱいで楽しみ、飲み干すとそう言った。
「嫌いな人ってあまりに見ないよね」
「そう言うわけで、私も好きですから諦めてください」
 きっぱりと言い切ると、美月はショートケーキをざっくりと二つに切り分けると、その片割れにパクッとかみついた。そして、我知らぬ間に満面の笑みをこぼし続けている。確かに、ケーキが好きだと言うだけのことはある。
「鬼チーフ……鬼チーフが居る……」
 貴美の様子はケーキを食べると言うよりも、フォークに付いたクリームをなめるといったような感じ。みみっちいことこの上ない仕草である。
「もう……仕方ないですね、はい、どうぞ」
 美月のフォークによって運ばれる紫色をした小さな粒、それがモンブランの頂に置かれるとコロコロと取り皿の上へと転がり落ちた。
「わぁい、ブルーベリーだ〜〜〜って……美月さん、ここは怒っても良いところだよね?」
 おちゃらけた笑顔を一瞬だけ見せ、貴美はじろっと美月を睨み付けた。
「冗談ですよ。はい、タルト半分。変わりにモンブランも少し下さいね」
 貴美の取り皿の上にタルトが半分置かれ、変わりにモンブランの一部が持って行かれる。
「栗は駄目だよ、栗は最後に食べるから」
「モンブランの少しは栗とその回りを指すんですよ? 知ってました?」
「じゃぁ、タルトの半分はここから上じゃない?」
 貴美がそう言って、タルト生地とカスタードクリームの間をフォークで指し示すと、二人の賑やかな笑い声が無人のフロアに響き渡っていく。結局、三つのケーキはお互いのフォークで削り取られ、どっちがどれだけ食べたかは判らない。多分、やっぱり勝者の美月が少し多かったかな、と言う気がする。じゃんけんをして取り分を決めても、最後にはどれもこれも少しずつ食べてしまう。まあ、一種の娯楽……じゃれ合いみたいな物。こういう風に女同士で騒ぎながら食べるのも、恋人と二人で好きなだけ食べるのとは少し違っていて楽しい。

「ふぅ……コーヒーのお代わり、如何ですか?」
「あっ、ありがとう」
 三つのケーキを食べ終わると、美月がそう言って席を立った。もちろん、断る理由はない。寝る前にコーヒーを飲むと眠れなくなる、と言うのはただの迷信だと貴美も美月も思っていた。それに美月はどうだか知らないが、貴美の夜はまだ始まったばかりだ。直樹が帰ってくる十一時過ぎまで二時間以上もあるし、直樹が帰ってきたところですぐに寝るわけでもない。
 しかし……いつも思うのだが、灯を落とした喫茶アルトというのは妙な雰囲気がある。他人に知られるのは絶対に嫌だが、実際の所、貴美はかなりの恐がりである。しかし、それをさっ引いても薄暗いフロアには妙な気配という物を感じてしまう。一人になるとその感覚は強くなるような気がする。
「……何か居そうなんよね……」
 小さくそう呟き、何かが居そうなコーヒーカップの影から窓の外へと視線を向けた。昼間からの曇り空は日が落ちた後も続き、月の姿はどこにも見えやしない。そんな漆黒の闇に小さな緑色の光が一つ二つ……
「えっ!? ……あぁ……蛍か……」
 一瞬気がつくのが遅かったら、大声で悲鳴を上げていたかも知れない。緑色の光がただの蛍だったと言うことよりも、自分が悲鳴を上げずに済んだことに貴美は安堵した。蛍に驚いて悲鳴を上げるなんて、自分のキャラクターではない。とは言っても、彼女の恐がりは親しい人間には周知の事実であったりもする。付き合いの長い直樹はもちろん、毎晩薄暗いフロアを嫌がっていれば美月にも知られるし、美月と仲の良い良夜にもその話は伝わっていた。
「口止めしてなかったのはまずかったかな……」
 つぶやきながら、窓の外へと視線を凝らせば、緑の光は一つや二つではない事が判った。そこかしこでいくつも儚い光を発する蛍たちは、その身を藪の中から出したり入れたりを繰り返していた。昨日も一昨日もここから外を眺めているはずだが、同じ光を見た記憶は全くない。
「蛍なんて……何年ぶりかな……」
 何年か前、両親に連れられ何処かのビオトープに放たれた蛍を見に行った覚えがある。綺麗に整備された箱庭のような小川に放たれた蛍、ここの蛍は天然の物だろうか、それとも誰かが放しているものなのだろうか……どちらにしても、美しいことに変わりはない。
「何を見て居るんですか?」
 どの位の時間が経ったのだろうか、コーヒーのお代わりを煎れ終えた美月がサーバーから空いたカップに暖かな褐色の液体を注ぎ込んでいた。
「えっ……うん、蛍がいるんだね、外の河」
 不意に声を掛けられ、貴美の声がほんの僅かにうわずった。そんなに外を凝視していたのだろうか……そんなつもりはなかったのに。
「ええ、何年か前は減っちゃってたみたいなんですけどね。最近、また、増え始めてるそうです」
 二つのカップにお代わりを注ぎ終えた美月は、先ほどまでと同じ席へと腰を下ろし、彼女も窓の外へと視線を向けていた。美月が外へと視線を向けると、貴美も一房の髪が僅かに乱れた横顔から、再び窓の外へと視線を移す。そこは相変わらず闇の中で踊るいくつもの儚い光達だけの世界。
「もうちょっと早く気がついてたらな、蛍を見ながらケーキを食べられたのに」
 味が変わるわけでもないとは思うが、それでも折角の蛍、少しでも違う方法で楽しんでみたかった。貴美はそんなことを思いながら、半ば無意識のうちにお代わりが注がれたコーヒーカップに手を伸ばしていた。
「あっ……にっがぁ……」
 やっぱり、少しは蛍に気を取られているようだ。普段なら絶対に飲まないブラックのコーヒーに貴美は少しだけ眉を寄せた。
「コーヒーはブラックが一番美味しいらしいですよ。一番の常連さんはそう言ってるそうです」
 ブラックのままだったコーヒーに逆恨みの視線を投げつける貴美へと、美月は視線を動かして少しだけ笑った。
「私は駄目なんよ、苦いの……ビールは好きなんだけど」
 ドボドボと小さな器に入ったミルクを大量にカップの中へと流し込み、砂糖も普通の人の倍は入れる。甘ったるい香りを放つカフェオレもどきの出来上がり。大抵の人はこれを見ると軽く引くが、当人は一向に気にしない。美味しく飲むのが一番だ。
「蛍……もう、そんな時期なんですね……」
 貴美がミルクを入れ終えると、美月もその手を伸ばし自らのカップにミルクを注ぎ込んだ。二人ともミルクを多く使うので、この二人がコーヒーを飲むときは三人前のミルクを用意しなければならない。それでも時々、後から入れた方が足りないと言い出す。
「だね、梅雨入りしたんだっけ?」
「昨日したって言ってましたよ、テレビで」
 そう言えば、昨日は雨が降っていたと思う。外に出たときはうまい具合に上がっていたから、余り気にも止めていなかったが。
「そっか……もう、梅雨なんだよね……」
 ミルクと砂糖をたっぷり入れた甘いコーヒーと、窓ガラス一枚向こうで優雅に踊り続ける緑色の光を貴美はしばらくの間楽しんだ。

 それから三十分ほどの時間を二人は蛍を眺めながら、蛍の灯をお供に愚にも付かない話をし続けていた。内容は仕事の話が多いが、それも真剣な相談というのはあまりない。やれ、いつもどこの席に座っている客はいつもパセリを残して居るだとか、あの教授はおしぼりで顔を拭くだとか……
 今夜は蛍という思わぬオマケも付いたが、二人が楽しむ夜のお茶会は大体こんな感じだ。
「あれ……こんな所にまで蛍が来てんね」
 キッチンから駐車場へと抜ける裏口、そこから出て来た貴美はここでも数個の光に出迎えられた。邪魔をするガラスもなければ、手を伸ばせば届くほどに近い場所を優雅に舞い踊る蛍たち、その美しさと儚さに貴美はしばし息をすることすら忘れた。
「本当ですね、こんな所にまで飛んでくるのは滅多にないんですけど……」
 これには、蛍を見慣れた美月も少々驚いたらしく、大きな目を更に大きく見開き、その指先を蛍の光へと僅かに伸ばそうとしていた。
 美月の話によると、対岸の山側を通る道に蛍が上がってくることならあるが、通行量のある国道側にまで蛍が上がってくることはほとんどなく、美月自身も数回しか見たことがないそうだ。
「今年は多いのかな? 蛍」
 貴美の小さな疑問に美月が「去年よりかは多いですよ」とだけ答え、蛍の舞い踊る駐車場にまで美月も出て来た。二人の回りをいくつかの蛍が小さな光を投げかける。少しだけ幻想的な風景……
「じゃぁ、帰るよ。また明日……あれ?」
 裏口に立つ美月へと振り返ると、彼女の胸元に小さな緑色の光が横切った。
「どうかしました?」
 キョトンとした顔をして美月が小首をかしげた。
「肩口に……女の子……あっ、ごめん、変なこと言った。忘れて」
 その光に照らし出された彼女の肩口には小さな手のひらサイズの少女ちょこんと座っていた……なんて、悪い冗談。実際、貴美がたった一度瞬きをしただけで彼女(?)は消えてしまい、他の蛍が美月の前を横切っても見ることは出来なかった。
「うふふ、蛍を何かと見間違えました?」
「あぁ……多分、そうだね。お休み」
 美月に軽く手を振り、貴美は喫茶アルトの駐車場を後にした。
「お休み、貴美!」
「貴美って呼ばない――……美月さん?」
 振り返ったとき、美月の姿はすでにキッチンへと消え、そこには誰も居ない。今夜は変な夜……まっ、久しぶりに蛍なんて見たからかな、金色に脱色した頭を無造作にかきむしり、人通りも減った国道を家路へと歩き始めた貴美はそう思うことにした。
「幽霊の割りには恐くなかったし……」

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