貴方が出来る事と私が出来る事(1)
「へっくちん!」
 貴美は朝から頭がちょっと痛いかな、と言う気はしていた。おそらく風邪を引いたのだろう、原因は判りきっている。一昨日の夜、正確に言えば日付は変わっていたが、酔った勢いで頭から酒を浴びたまま、一晩過ごしたせいだ。大量に酒を飲んで、頭から酒を被って、床の上でごろ寝をしていたのだから、風邪を引くのも無理のない話だ。直樹の体を暖房器具にしてたくらいではちょっと足りなかった模様。
 それでも彼女は喫茶アルトでウェイトレスの仕事をしていた。同僚であり、一応は上司である美月が休みだったからだ。しかも、普段なら休みの日でも店内をウロウロしている彼女が、今日は珍しく朝から出掛けていた。出たばかりの給料を握りしめて、また、新しい家族――ぬいぐるみか人形――を捜しにオモチャ屋へと行ったらしい。もし貴美が休めば美月の性格上、確実に予定をキャンセルして仕事を始めるだろう事は、貴美にも予想が付いた。休みを代わって貰った上に、その翌日まで休むという事は貴美にはちょっと出来なかった。
 なんだかんだ言って、貴美は責任感というものが強い。強いから、高校三年生でありながら前のバイト先では、二つ三つ年上のフリーターウェイトレスを顎で使う立場に就いていた。まあ、テスト期間中だろうが、受験前日だろうが、回りの心配をよそに喫茶店でコーヒー持ってうろちょろしていた女子高生を指す言葉として、『責任感が強い』を使って良いのだろうか、と言う異論はもちろんある。直樹に言わせると『自分の人生に責任持って下さい』となる。
「風邪ですか?」
 キッチンのカウンターでコーヒーを煎れていた和明が、その貴美のくしゃみに気づき、彼女の方へと視線を向けた。
「んぅ……多分……そうかなぁ……」
 窓の外にはじとじととした薄い霧のような雨と、それに同化してしまっているような薄い雲、その向こう側にあるであろう太陽もそろそろ一日の仕事を終える時間。貴美はそこへと視線を向けながら、ムズムズする鼻の頭を指先でコリコリと掻きながら答えた。
「無理しないで帰っても良いですよ? もう、店もこの調子ですから……」
 この調子とは、一人も客が居ないと言うことである。喫茶アルトの土日祝日はいつもこんな調子だ。主な客層が大学生である以上、大学が休みだとどうしても客足が鈍る。更に、今日は今朝から時折小雨がぱらついてることもあって、客足は最悪に近い。
「でも……美月さん、居ないし……」
 貴美は相変わらず鼻の頭をかき続けている。これが店舗の中でなければ、豪快にティッシュで鼻をかむところだが……
「そろそろ、帰ってくる頃だと思いますよ。買い物に行ってるだけですから」
 和明にそう言われても、貴美の返事は鈍かった。確かに今はこの調子だが、そろそろ、自炊を諦めたずぼらな大学生達が、夕食を食べに来る時間だ。その時になって、もし、美月が帰ってきていないければ……老店長一人で店が回せるのだろうか?
「帰ってください、老人に風邪を移す気ですか?」
 返事を逡巡する貴美に、和明の優しい口調が追い打ちを掛けた。そして、ポンと一つ老人の節くれ立った手が貴美の頭を撫でた。
「たまには私も楽隠居じゃなくなるんですよ……今日は暖かくして休んでください」
 半世紀も年上の男性に言われた言葉と頭に置かれた手の温もりに、貴美は逆らうことが出来なかった。貴美はもうしばらくの間だけ返事を逡巡し続け、和明は貴美が踏ん切りをつけるまで、頭を撫でることを止めなかった。
「それじゃ、店長……一人になっちゃいますけど、頑張ってください」
 二分ほど返事を迷い続けた貴美は、いつまで経っても頭から離れることのない老人の手に屈服することにした。頭を撫でられたまま、深々と頭を下げ、普段よりも二時間ほど早く仕事を終えた。
「ふふ、男としては、若いご婦人にそう言われると、頑張らざるを得ませんね。あっ、そうだ、これ、高見君と二人で食べてください」
 そう言って和明が貴美に渡したのは、売れ残りのサンドイッチだった。貴美はそれを大きな胸元にギュッと抱きしめると、もう一度、深く頭を下げて喫茶アルトを後にした。
 そんな二人を少し離れたいつものテーブルから見つめる妖精さん、彼女の機嫌は著しく悪化していた。
「ふんっ……女に甘いのは半世紀前から変わってないわ」
 その半世紀の間、一番甘く接してもらい続けていることを、アルトは広大な敷地面積を誇る心の棚に片付けて一人愚痴っていた。そして、誰もいないいつものテーブルにポツンと一つ置かれたコーヒーを、ストローでちゅーっと吸い上げた。もちろん、それは和明の手によるもの……

 チャラ〜ン……日曜日の翌日だから、当然のように月曜日。昨夜の残り物に週明けの気だるさをトッピングして、摘んでいた浅間良夜の携帯電話が軽快なポップソングを奏でた。
「はい、浅間…………もしもし?」
 朝っぱらからの無言電話、ディスプレイには『喫茶アルト』の文字。
「てめえ、アルトだろう? 朝の忙しいときに何やってんだ、この馬鹿! 昼飯に行くから大人しくしてろ」
 ブチッと電話を叩き切り、再び、朝食へと意識を向ける。良夜はどんなにいそがしくても、朝食……というか三食どれも、出来る限り、決めた時間に適量を食べる生活を心がけている。親の教育のたまものというヤツだ。まあ、流石に明け方まで飲んで、起きたのが昼過ぎ、と言う日は朝食どころか昼食まで抜いてしまうことも多々あるのだが……
 しかし、その有意義な朝食はまたもや携帯電話の鳴き声に中断されることとなる。
「朝っぱらから、なんだって――って」
 再び鳴った携帯電話。そのディスプレイにはやっぱり「喫茶アルト」の文字。良夜は大きく息を吸い込み、ゆっくりと電話回線の向こうにいるアルトに叩きつける罵倒語を考えてから、通話ボタンに指をかけた。
「てめえ、本当に胴綱つけて、ぐるぐる回して、静止衛星軌道上にまで放り揚げるぞ!」
『…………それはちょっといやなんですけど……』
 しかし、今度は無言電話ではなかった。
「……あっれ? 美月……さん?」
 無言だと思っていた電話の向こうから響く声に、良夜の声が一瞬止まった。
『はい、一度目は……多分、アルトだと思うんですけど……』
 驚きと焦りに色づけされた美月の声が、携帯電話の小さなスピーカーから良夜の耳に直接届く。スタイルに関した話をしないで良かった、と良夜は人知れず安堵していた。ここでもし、そのツルペタな胸にパテ盛り上げて、急造Fカップにしてやるぞ、とか言ってたら、確実に彼は命を落としていたかも知れない。こっちにしなくて、本当に良かった……
「ごめん、アルトだと思った……それで、どうしたんですか?」
『えっと……アルトが良夜さんを呼べって言ってるみたいで……来られます?』
「良いですけど、何かありました?」
『詳しくは来て貰ってから……』
 美月の言葉に首をひねりながら、良夜は結局素直に喫茶アルトへと向かうことにした。どうせろくな用事ではないのだろうな、と言う予感は十分すぎるほどにあった。アルトが一枚噛んでいることからも、その予感に間違いはなく、実際に間違えていなかった。

「吉田さんが熱出して、店長がぎっくり腰?」
 開店直後の喫茶アルトで良夜が告げられたことはこういう事だった。
「はい……昨日から風邪気味だったみたいなんですけど……さっき、直樹君から、熱出しちゃったって電話があって……」
 アルトを肩に乗せた美月が、非常に申し訳なさそうな声で教えてくれた。しかも、電話も出来ないほどに喉の調子も悪くなっているそうだ。バイトをするどころか、授業も休むとの話。
「……鬼の乱獲か……」
 美月の言葉に良夜が小さく呟いた。
「良夜、それを言うなら、鬼の霍乱……乱獲って何よ」
「良夜さん、それは鬼の霍乱ですよ。乱獲したら、鬼が居なくなっちゃいます……鬼さん、可愛いのに……」
 総ツッコミである。聞こえていない癖に、アルトと美月の声は見事なハーモニーを奏で、本気で間違えていた良夜の臓腑を深々とえぐった。理数系な人だから、国語力は低い……という言い訳は、当然だが通用しない。しかし、美月の解釈も微妙に間違えているような気がする。
「……ちょっとした小ネタですよ、小ネタ」
「嘘ばっかり……これだから、ゆとり教育世代は……」
「言い訳は……見苦しいですよぉ?」
 金髪と黒髪、金眼と漆黒の瞳、典型的白人顔と典型的和風顔、全く違う二人ではあるが、良夜に対するツッコミをしている顔は、何となく、姉妹に見えてしまうから面白い。面白いが、力一杯馬鹿にした顔で突っ込みを入れられてる方としては、笑えない。
「二人して、俺のことをイヂメル……で、店長の方は?」
 とりあえず話を誤魔化す。誤魔化すというか、さっさと次の話に進まないと、良夜が授業に間に合わなくなる。
「ええ、吉田さんを帰した後に……私が早めに帰ったら良かったんですけど……」
「また、ぬいぐるみを買ってきてたんですか?」
「ええ……昨日は一人だったんで、つい、長居をしちゃって……」
 その長居とは、三軒目に行ったファンシーショップで、昼から閉店まで……長居にもほどがある。彼女はその店で二つのぬいぐるみを見比べ、半日以上、そこでどちらを『連れて』帰るべきかに深く悩み続けていた。そして、結局、両方連れて帰って来た。今月も給料を貰って数日中にド貧民が確定。
 この間、良夜と一緒に行ったときは良夜に一応の気兼ねをしていたらしい。
「和明、久しぶりに若い娘に頼られて、年も考えずに張り切っちゃったのよ……で、倉庫で豆を片付けてて……グキッとね。馬鹿みたいだわ」
 良夜の顔を見て話していたアルトが、プイッと視線を離して頬を膨らませた。本当に喜怒哀楽が判りやすいヤツだ。
「……お前、妬いてるだろう?」
「……良夜には妬かないわ、安心して早く彼女でも作りなさい……作れるんなら」
 視線を背けたままで、アルトが相も変わらず、良夜の彼女居ない歴を弄んでくれた。作れるものなら、誰も好きこのんで彼女居ない歴を年齢と共に伸ばしたりしていない。
「……クソッ……で、俺になんのようなんですか?」
 口で勝てないことはこの三ヶ月で十分すぎるほどに理解した。良夜は小さく毒づくと、再び視線を美月へと戻した。
「そう言うわけだから、良夜に手伝って貰おうと思ったの」
 美月に尋ねたつもりであったが、答えたのは逸らしていた視線を良夜へと向けたアルトだった。アルトは、そう言うとフワリと美月の肩から良夜の頭に飛び乗り、その小さな体を彼の頭の上に落ち着けた。こうなると、しばらくは下りない。
「……アルトがそんなたわけたことを言ってるんですが……本気?」
 視線だけでアルトの行く末を見守っていた良夜は、一人きりになった美月にアルトの言葉を伝えた。
「……良夜さん! 猫の手よりマシですよね?」
 そして、帰ってきた言葉は、力の限りにアルトの言葉を肯定する美月の言葉だった。
 はぁ、と良夜は大きくため息をついた。
「……あのね……美月さん、俺、喫茶店のウェイターなんてしたことないよ?」
 ウェイターの仕事どころか、インスタント以外のコーヒーを自分で煎れた経験すらない。家族が朝食は和食党だったせいだ。お歳暮で貰ったコーヒーの詰め合わせが、賞味期限が切れるまで押し入れの中で眠っているような家だった。
「大丈夫よ、なんのために私が居ると思っているのかしら?」
「はぁ?」
「行け! 良夜ロボ!! 私の手足となって、馬車馬のように働いた挙げ句、ぼろ雑巾のように朽ち果てるが良いわ!!」
 なんだかよく判らない二本の棒で鉄人二十八号を操縦する金田少年のように、アルトは良夜の髪をむんずと両手で握ってそれを前後に動かすまねをして見せた。って言うか、朽ち果てることはどうやら確定されているようだ。喫茶店でどれだけ働いたら、朽ち果てることが出来るのだろうか、と良夜はくだらないことを考えた。
「……発案、美月さんじゃないでしょうね?」
 風邪気味でも二日酔いでもないはずなのに、頭が痛くなる思いで良夜は美月に尋ねた。
「なっなんの事でしょうか……私はぁ……あっ、モーニングのお客さん、待たせてました」
 良夜の言葉に、あからさまに動揺を見せる美月。ポンと大げさに手を叩くと、重ねた手を頬の横に置いて、引きつった笑みを見せて逃げだそうとした。
「ちょい待ってください!」
「なっなんですか? 私じゃないですよ? アルトに『良夜さんに仕事を仕込んでください』なんて頼んでませんから!」
 根が素直な人なんだな、良夜は思った。『YES』と『NO』しか伝えられないアルトに、こんな高度な作戦を美月に提案することは出来ない。困った美月がつい言ってしまったことを、アルトが本気にした挙げ句、勝手に電話を掛けたのだろう、と良夜は的確に彼が居ない間の喫茶アルトの状況を思い描いた。
「……いや、それより、俺、今日の一時間目、抜けられないんですよ。必須科目ですから」
 必須科目である上に出欠もきっちり取る、代わりに全部出てたら無条件で単位をくれるらしい。タカミーズを通じて二研の先輩から仕入れた情報だ、確度は高い。内容が難しくて、真面目にやってないと理解が出来ない。
「ふえぇ〜〜〜本当に? どうしてもダメなんですか? 良く代返とか使ってるじゃないですかぁ……」
 泣きそうな顔で良夜の手を握りしめる美月、その手が荒れている割りには柔らかくて、良夜の頬が無意識のうちにほころんだ。ら、髪を引っ張るアルトの手が意識的に力が込められた。抜けるから止めろって……遺伝的に禿の多い家系なんだから。
「美月さん、成人式済ませた立派な大人がそう言うことを、健全な青少年に勧めるのはどうかと思うんですが……」
 アルトが頭の上で「健全な青少年は朝までお酒を飲んだりしないわ」と突っ込みを入れている。そう言うことは、健全な青少年の癖に同棲して、お隣さんを飲み会に誘うタカミーズ――主に貴美に言って欲しい。
 それに、事実、代返はよく使っているが、一応は授業内容と教官の性格を見極めつつ、代返でフケる授業と真面目に受ける授業の選択はしている……つもりだ。基本的には授業は真面目に受けるタイプの人間である。貴美みたいにタイムサービスのために抜け出したりはしない……が、貴美にタイムサービスのお使いを頼んだ経験は少なくない。スーパーのタイムサービスは結構美味しい商品が沢山出るからなぁ……良夜自身も随分と所帯じみてきた。
「冷たい男ね……美月を見捨てるのね……かわいそうな美月……」
「お願いしますよ……一人じゃ、絶対に店、回りませんから……本当に……」
 頭の上ではアルトに髪を握りしめられ、目の前では美月に手を握られている良夜、今の彼に逃げ場など存在し得なかった。
「あぁ、もう、一コマ目だけ出て、二コマ目には来ますから! それまで、一人で持たせられません?」
「……がっ頑張ります!」
 良夜の手を握りっぱなしだった美月の手に更に手が込められた。
「良夜……逃げたり、遅れたりしたら……私のストローが血を吸うことになるわよ、良いわね?」
 吸血妖精め! 良夜は絶望的な気分になって、喫茶アルトから朝一番の授業へと向かった……

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