四人で飲もう(5)
「いらっしゃいませ……おや、随分と気持ちよさそうに酔っていらっしゃいますね」
「気持ちよかったのは、十時間前までですよ……店長」
ズキズキと鈍く痛む頭を抱え、良夜はアルトを伴い喫茶アルトへと赴いていた。時間は昼の二時、寝たのは午前三時、一時間ほど前まで寝ていたので、睡眠時間は十分なはずだが、全然足りているような気がしない。
「おはよう、和明……頭、痛いわ……」
二日酔いの体を押してまで、ここにやってきた理由はひとえに良夜の胸ポケットの中でだれきっているアルトにある。彼女が起きてからずっと、コーヒーが欲しい、コーヒーを持ってこいと連呼し続けていたから。最初は行きたくない、欲しくないと言っていたものの、結局、二日酔いでアルトのわがままを無視し続けるのと、二日酔いでここまでくるのとを天秤に掛け、後者を選んだ。押しに弱いのはいつものことだ。もっとも、出て一分も歩かないうちに、その決断に深く後悔した。足下はフラフラするし、一歩足を踏み出すたびに頭にその振動が響き渡る。
「頭、痛くて……あれ、美月さんは?」
しきりに額をさすりながら、店内を見渡すと美月の姿が見えない。本来なら今日は休みだが、貴美の休みと変わって今日はいるはずだ。
「美月さんなら、奥で事務仕事ですよ。そう言えば、吉田さんと高見君は?」
「直樹のヤツ、まだ、潰れたままなんですよ」
良夜が起きたとき、貴美はすでに起きていて、膝枕で直樹を寝かせ続けていた。その表情は良夜が見たこともないほどに優しげで、彼女が『彼女』であることを珍しく意識させるものだった。ただ、それも良夜が起きたのを見て『襲うんなら今のうち』と嬉しそうに言うまでの話。照れ隠しで言っているとも思えるが、ヤツの目を見る限り、本気だと思わざるを得ないものがあったのも事実だ。その証拠に、貴美は自分のカメラ付きケータイをポケットから取り出そうとしていた。
「そうですか、では、いつもの席でお待ち下さい。今、酔い覚ましに美味しいコーヒーを煎れてきますから」
そう言ってキッチンへと帰っていく和明を見送りながら、良夜はいつもの席へ崩れ落ちるように腰を下ろした。
「ここまで……遠かったぁ……」
事実、ここまでの道のりは普段よりも五割ほど余分に必要だった。良夜は、やっとの思いでいつもの席へとたどり着くと、ぐったりとテーブルに突っ伏した。その胸ポケットにいたアルトは危うく良夜の体に押しつぶされるところだった。
「気をつけてよね……私だって、二日酔いなんだから……」
倒れ込む前になんとか良夜のポケットから体を這い出せ、アルトはペタンとテーブルの上に両足を投げ出した。しかし、二日酔いを自称する妖精ってのもシュールだ。アルトもズキズキと頭が痛むのだろうか、小さな手で美しい金髪を書き上げながら、頭をしきりにさすっている。
「大体、何が悲しくて、二日酔いの頭を抱えてここまで来なきゃ行けないんだ……」
「二日酔いにはコーヒーが効くのよ……それに、送って貰わないと帰れない……いったぁ……頭が割れちゃう……」
頭が痛いと言いつつ、自分の頭を拳で叩く。二日酔い特有の意味不明な行動をアルトはやっていた。もちろん、良夜も同じ事を何度も繰り返している。
「お前、飲み過ぎなんだよ……浴びるほど飲むってのは聞いたことあるけど……浴びながら飲むのはお前くらい……いや、ホント、イッテェ……」
「ビール掛け……知らないの? 物を知らない男……あぁ……アルコールの臭いを思い出して、また、二日酔いが悪化したわ……」
仲良く二人交互に頭を抱え合う。二人の体内にはたっぷりと酒が残り、その酒が頭の内側から針を持ってちくちくと何処かを刺している。それは小さな刺激があるたびに大きくなる。少し大きい程度の声すらも、小さな刺激として十分に値する。
「しばらく、酒はいらねーな……」
「私、リキュールの入ったケーキも見たくないわ……」
頬を押し付けたテーブル、そのひんやりとした堅い感触が心地いい……少し目を閉じると、今にも眠りへと落ちていきそうな気がする。いや、二人とも数分の間、そのまま眠っていたのかも知れない。
カチャ……小さいが確実に耳まで届く涼しげな音と毎日のように嗅いでいる芳ばしい香、それに誘われるように二人は目を開いた。そこにはいつもの柔和な笑みを浮かべた和明が、コーヒーカップとヨーグルトのかかったフルーツの皿をテーブルの上へと並べる姿があった。
「あっ……ありがとうございます……」
頭を起こしただけで、良夜の頭の中で響く鐘はその音色を高めてくれる。良夜はその重い頭を手でさえながら、体を起こして店長に軽く頭を下げた。下げたら、そのまま、落としてしまいそうだ。
「いいえ、随分と沢山飲まれたようですね」
「ええ……ちょっと……飲み過ぎたみたいで」
ちょっとではないかも知れない。結局、四人であの量をほとんど飲み干してしまったのだから。一人頭、三リットルは飲んでる。ついでに良夜はカップ酒一本、生きてるって素晴らしい。
「ふふ、お酒は飲んでいるときは楽しいのですけどね……」
「語るわね……経験者……いったぁ……」
「えっ?」と、良夜が頭を抱えたアルトに顔を向けると、アルトは頭を抱えたまま、若い頃の彼が酒豪であったことを教えてくれた。
「へぇ……店長が……」
意外……というわけでもないか? 洋酒なんかを静かに傾けている姿ならば、いくらでも想像が付く。ただ、二日酔いになって頭を抱えている姿、と言うのだけはさっぱり想像できない。
「どうかしました?」
痛そうに頭を抱えていた良夜に見上げられ、和明は穏やかな表情のままに尋ねた。
「あっ、店長も若い頃はよく飲んでた、って……アルトが」
「あぁ、そうですね。安酒ばかり……今ではもうあんなに飲めませんよ……お酒で無茶をするのも、若い方の特権ですから、今のうちに楽しんでください、体をこわさない程度に」
遠い昔のことを思い出したのか、彼の表情にほんの僅かに気恥ずかしさを伴った苦笑いが浮かんだ。『若い頃』の話なのだから、おそらくは良夜が産まれる前の話だろう。それは歴史年表でしか知らない時代の話。しかし、この老店長にとってはどの程度昔の話なのだろうか? それを彼の表情から読み取れるほどに、良夜の洞察力は優れていない。
「実際に体、壊したものね……ふふ、少しだけ、心配したわよ」
運ばれてきたカップからコーヒーを飲んでいたアルトは、和明よりも随分と判りやすい表情で、そのころを楽しげに思い出していた。二日酔いで痛む頭でアルトの様子を眺め、良夜はアルトの小さな頭を指先で軽く弾いた。
「お前も人のことは言えない」
「ッツッ……今のは本気でいたかったわよ……」
指先で後頭部を弾かれ、額をカップの縁に強打したアルトは、恨みがましいげな視線を良夜へと向けた。普段ならストローで一撃加えられるところだが、今の彼女にその元気はなかった。殺るなら今かも知れない。
「浅間さんを見ているとあの頃のことを思い出しますよ」
二人――いや、良夜一人をテーブルから僅かに離れたところから見ていた和明が笑顔で言った。その笑顔が普段よりもほんの僅かだけ、若々しく見えたのは良夜の気のせいだったかも知れない。
「どうせ、変わらないんでしょ? 全然」
彼女に成長などという言葉があるとは良夜には思えない。体つきも成長していなければ、性格も成長していないはずだ。三十年の間で人並みの成長を見せてこの調子なら、三十年前はとんでもなくひどい性格だったことになってしまう。
「いつまでも若く美しいままの妖精さんだもの…………良夜、今、沈黙したわね? 貴方の負けよ」
「今でもストローを振り回して、口が減らなくて、人のコーヒーにグチグチと文句をつけて、傍若無人で、幼児体型な妖精もどきの謎生命体、なのでしょう?」
「……ひっひさっしぶりね……妖精もどきの謎生命体って言われるのも……」
和明が言う言葉に、アルトはあからさまに嫌な顔を作って見せた。
「謎生命体か……良いな、今度から俺もお前のことをそう呼ぶわ」
「オリジナリティのない男は嫌いよ」
「付き合い、長かったですからね……他にも色々と彼女の呼び方を考えましたよ」
「……和明、余計なことを言わないでよね」
「怒ってますか? アルト」
和明が言うとおり、アルトの機嫌は著しく悪くなっているようだ。カップに刺したストローをガチャガチャと音を立てて動かし、その漆黒の液体に渦を作っている。非常に珍しいことだ。貴美が前に同じ様なことをしてるのをみて、アルト自身が『行儀が悪い』と文句を言っていたのに……
「ふふ、リカちゃん人形と彼女を並べてみたのも私ですから……あの後、三日ほど口をきいて貰えませんでしたね」
発売された当初、誰かが忘れて帰ったその人形を見付け、和明は迷わずアルトの身長と比べたそうだ。そして、アルトの方が小さかった。その時のことを思い出したのか、和明は珍しく声を出して笑っている。
「……生涯最大の屈辱だったわ……あの時から、あの女は私の敵になったのよ」
アルトもその時のことを思いだしているのだろう。コーヒーをかき混ぜていた手が止まり、その小さな肩がフルフルと小刻みに震えている。
「相手は人形だぞ……バービー人形は良いのか?」
人形を敵だと言い切るアルトに、良夜は小馬鹿にしたような表情と共にそんな言葉を贈った。
「バービーは良いのよ、米国産だから」
「意味判んねえ……」
「アメリカ人だもの、スタイルが良くて当たり前だわ」
それとバービー人形は三十センチもあり、アルトから見ればほとんど巨人の域だ。そこまで大きいと比べる気にもならない。しかし、リカちゃん人形はアルトと数センチだけ大きい。それがアルトの神経を逆撫でするらしい。
「……そう言う問題なのか……」
「日本人なら、美月の控えめな胸を見習うべきなのよ」
アルトが薄っぺらな胸を張って断言したとき、事務所で帳簿と格闘していた美月は盛大なくしゃみをしていた。
「へっくっちん……風邪? ……きっと、良夜さんがまた、私の胸を小さいって言ってるんですね」
惜しい!
しばらくの間、良夜は和明からアルトの昔話を聞いて過ごした。内容は……ほとんど、今現在、良夜自身がやっている事と同じだ。毎日コーヒーをねだられ、話し相手にならないと拗ねて、何かにつけてストローで人を刺す。本当に何十年も変わらない女のようだ。ついでに和明自身もアルトにロリコン――当時は幼女趣味と言っていたのだが――と言われていたそうだ、本当に成長しない妖精だ。
「ふふ、思い出話をしていると……先に一人だけ歳を取ってしまったことを思い知らされますね」
「食えない老人になったわ……素敵よ、和明……聞こえないから言うのだけど」
僅かに自嘲的な苦笑いを浮かべた老店長に、アルトは優しい笑みを浮かべてそう言った。
「伝えておこうか?」
「……良いわ、図に乗ったら困るもの」
散々かき混ぜられすっかり冷えてしまったコーヒーに口を付け、アルトは僅かに顔をしかめた。
「どうかしました?」
老店長は、自分には聞こえない声に返事をする良夜に、僅かばかり首をひねった。そして、良夜はその老店長に、アルトの言葉から『素敵よ』という言葉だけを省いて伝えた。その言葉を省いたのは……何となく、だ。理由という物を自分でも考えつくことが出来なかった。強いて言うなら、自分が言っても良い物だとは思えなかった、と言うのが一番近いかも知れない。
「老成した、と言って欲しいですね。さてと、では、後で、お代わり、お持ちします」
冗談めかした口調でそう言うと、もう一度頭を下げて、彼はキッチンへと体を向けた。
「言わなくて良いって言ったのに……」
「まあ……聞かれたしな。しかし、あの人があんなに喋ったの、初めてだな……」
キッチンへと消えて行く老店長の背中を見るともなしに見送り、良夜は独り言のように呟いた。
「よくね、ここで二人して二日酔いの頭を抱えていたのよ。今の貴方みたいな顔をして、今の貴方みたいに酒臭い息を吐いてね」
カップへと視線を向けたままのアルトは、未だ思い出の中にいた。
「あの人が二日酔いになるってのは、全然、想像付かないな……」
「良夜の三倍飲んで、十倍苦しんでたわよ……三十をすぎるくらいまではね」
「三十か……」
良夜にとって三十はまだ見ぬ世界というヤツだ。あと十年以上ある。三十の店長よりも三十の自分の方が想像付かない。何をしているのか、何もしてないのか……その時でも、目の前でコーヒーを飲んでいる妖精はこの姿、この性格、そのまま……そのままなのだから、簡単に想像が出来るはずなのに、何故か想像が出来ない。
「あの頃も楽しかったわ」
「あの頃、も、か……」
「ええ、もちろん、今も……あっ、今、この瞬間は別……頭、痛いもの」
「……思い出させんなよ……くっ……イッテェ……」
二日酔いに喘ぐ二人を、梅雨入り直前の太陽がまぶしく照らし出していた。
「りょーやん、生きてる?」
貴美が直樹を連れてアルトにやってきたのは、あれから一時間が過ぎた頃だった。数杯のコーヒーを浪費した良夜とアルトは、ようやく、頭痛から逃れかけられようとしていた。
「なんとか……そっちは?」
「明け方よりかはマシに……あっ、これ、鍵……ご迷惑かけました」
直樹がポケットから預けてあった鍵を良夜に手渡した。良夜は謝罪の言葉と一緒に渡された鍵を受け取り、「気にすんな」のおつりを返した。むしろ、気にするのは潰すまで飲ませた貴美の方だが、そっちは全く気にしている様子はない。
「私は最初から死んでないもん」
この通りである。気にもしてなければ、酒にやられた様子もなく、手にぶら下げていた椅子を空いてる場所に置きそこにでーんと腰を下ろした。しかし、昨日の酒量で二日酔いにもなっていないとは、流石としか言いようがない。どの位の酒を飲めば酒豪と言えるのは、未だよく判らないが、少なくとも三人の中で一番飲んでいたことだけは間違いがない。最後の方には、隠し持ってきていたテキーラもチビチビと舐めていたのだ。
「まあ、大したことないよ。あっ、りょーやんも飲んでるんなら、最後にコーヒーで乾杯してシメる?」
「吉田さんにしては良い提案ですよね」
「……美月さーん、ホット一つとアイリッシュコーヒー、ウイスキー激烈多めで!」
いつの間にか事務所から出て店内を退屈そうにフラフラしていた美月に、貴美が大きな声で声を掛けた。ちなみアイリッシュコーヒーというのは、ウィスキーをコーヒーで割ってホイップクリームを入れた物。アルトの隠しメニューという位置づけになっている。客層の半分が未成年である以上、堂々と出すわけにはいかないからだ。良夜はその隠しメニューの存在を知らなかった。
「恋人をアルコールの海に沈めるのは良いけど、私の前では止めてよね……二日酔いがぶり返すわ」
このメニューを隠しメニューで作らせたのは、あの頃……この席で二人して頭を抱えていた頃のアルトだった。その事を知る者は、このテーブルにアルト本人しか居ない。
「嘘です! 嘘!! 僕もホットで……って、大声出したら頭に……」
慌ててオーダーを取り消した直樹は、自分の大声で頭を抱えてしまった。その姿にいつもの席へと集まった、美月を含めた四人が小さく笑みを漏らした。
そして、待つことしばし。
「最後の一杯は私も混ぜてくださいね」
四つのコーヒーカップを持ってきた美月は、座る所のなくなったテーブルの横に立った。そして、最後の乾杯は五人で行われた。暖かく芳ばしいコーヒーで……