貴方が出来る事と私が出来る事(2)
 良夜とタカミーズが暮らすアパート、その駐輪場で良夜と直樹はお互いのバイクを引っ張り出していた。良夜は喫茶アルトに向かうため、直樹は貴美のために風邪薬等を買いに行くため。
「昨日の雨が良くなかったみたいで……傘は差していたんですけど……」
 昨日、一日中降っていた霧のような細い雨は、傘を差していたとしても貴美の体にまとわりつき、体温と体力と風邪気味の『気味』を奪った。そんなわけで、貴美は思いの外高い熱を出して、部屋で唸っている。
「大変だな……吉田さんにたまには彼氏に甘えろって言っといてくれ」
「伝えておきますよ」
 昨日の霧雨が嘘のように晴れ上がった空の下、二人はヘルメットを被り、エンジンを掛けた。方や400cc、方や50cc、同時にエンジンを掛けると嫌でも良夜のエンジン音はみすぼらしく聞こえる。こう言うときは大きなバイクでも欲しいかな、と言う気にはなるが、そんな金、彼の懐、どこを捜してもない。身の丈身の丈、良夜は呪文のようにそう唱えると、気持ちよく加速して遠ざかる直樹のバイクとは反対の方向へとスクーターを向けた。
 同じ場所、同じ時間に、バイクのエンジンを掛けた二人。しかし、二人のこれから半日はその進行方向と同じように真逆だった。

 良夜が喫茶アルトに着いたのは、モーニングは終わり、ランチはまだ、と言う喫茶アルト有数の暇な時間帯……のはずだった。
「……なんだ、この慌ただしさ」
 別に普段よりも客が多い、と言うわけではない。客の数自体はいつもと余り変わらず、空席が随分と目立つ。しかし、その空席だらけの店内、あっちこっちから美月を呼ぶ声が響き、美月は目に涙を浮かべながらその客をさばこうとしている。
「良夜! 倉庫にエプロンがあるわ、取りに行くわよ!」
 美月の肩に止まっていたアルトが、良夜を見付けぴょんとそこから良夜の肩へと飛び移り、事務所兼倉庫の場所へと髪を引っ張った。
 昼でも薄暗い倉庫の中で一番目立つのは、量こそ少ないが種類だけは大量にあるコーヒー豆、その次は、店内で使う様々な備品とオフィスなんかに置いてあるような小さな事務机、広くないところに多くの物が置かれている割りには整理がされている。
「どうなってるんだ、滅茶苦茶忙しそうじゃないか」
 事務所に入るやいなや、良夜は開口一番そう言った。
「一.二人前の仕事を二人ですると、ものすごく暇だけど、一人ですると、ものすごく忙しいのよ、判った?」
 良夜は事務机に近付き、そこに置かれたエプロンを手に取った。その上にはご丁寧にも『良夜さん用』と丸っこい字で書かれた紙が置かれていて、一目で誰が用意したのかがわかる。
「良いこと、良夜。貴方は私の言われたとおりに動けばいいの、良いわね?」
 丁寧に畳まれた白いエプロン、それを手に取った良夜に、アルトが言った。
「判ってる、それ以上の事を期待されても出来るないって」
 腰に巻くだけのシンプルなエプロン、これの着かたくらいは良夜にも判る。しかし、それ以上の事など、何一つ判らない自信がある。
「私だって、口出し以上のことは出来ないわ。お互い、出来るだけのことをやれば何とかなるわよ」
 アルトの口調は楽観的だ。あれだけ忙しそうに美月が走り回っていたのを見た良夜に、その言葉を信用することは出来ない。出来ないが、信じるしかない。
「お互い……やれるだけのことはやるか……」
 エプロンを着けてしまった以上、逃げ場所はない。覚悟も決めるしかない。良夜は諦めとも開き直りとも付かない口調で、アルトの言葉に返事をした。
「そうよ、じゃぁ、今日一日、よろしくね」
 アルトは、トンと良夜の方から飛び降りると、自分の背中でエプロンの紐を結んでいた良夜の右指をギュッと、小さな手で握りしめた。
 そして賽は投げられた。

「……あっ、レジで客が待ってるわ、早く行って!」
 良夜が倉庫から出てくると、アルトは良夜の頭の上に座って店内をぐるっと見渡し、早速仕事を見付けた。
 アルトの言葉通り良夜がレジへと視線を向けると、そこには伝票を持って手持ち無沙汰になっている男子大学生の姿があった。
「判った」
 アルトの言葉に答え、言われるままにレジへと小走りで向かう……と、今度は走るなとの声。どうしろってんだか……
「レジに入ったら、申し訳ございませんって言って頭の一つでも下げるの、待たせたんだから」
 アルトの言葉には有無を言わせない迫力があった。修羅場っている店内の雰囲気に、彼女のテンションもほどよく上がっているようだ。髪を引っ張り、かかとで頭を蹴っ飛ばし、もたつく良夜を急がせるが、やっぱり走ると文句を言われる。
「あっ……もっ申し訳ございません、お待たせしました」
 そして、アルトの言葉をそのまま、待っていた客へと伝え、頭を下げる。
「私が値段と部門を言うから、値段、覚えてないでしょ?」
「ぶっ部門ってなんだ?」
「あぁ、もう! ケーキと軽食と飲み物! そう書いたキーが横の方にあるでしょ! それを値段の後に押すの。それが終わったら小計ってボタンを押して、金額を伝えて、貰ったらお預かりします!」
 テンションを上げてきているアルトとの言葉に、良夜は軽く気圧されながらも、教わったとおりにレジを操作する。やること自体は難しいわけではないが、初めてのことだ、緊張するなと言う方が無理。
「了解……」
 いきなり独り言を言い始めた良夜に、待っていた客は『この人と関わっても大丈夫なんだろうか?』的な感情が、てんこ盛りにトッピングされた視線を投げかけている。普段ならば、もう少し気を使ってアルトとの会話をするところなのだが、いきなり修羅場に放り込まれた良夜にそんな心の余裕などアリはしなかった。端から見れば、どう見ても、天からの指令電波を受信しているかわいそうな病気を患った人にしか見えない。実際、指令電波は受け取っているわけだが……
 アルトの読み上げるとおりにレジを打ち込むと、最近ちょっと見ないような古いレジはガチャガチャと小気味良い動作音を響かせる。
「八百三十円になります……千円、お預かりします……かぁ?」
 か? と聞かれたところで客も困る。もちろん、良夜は客に聞いたつもりではない。しかし、良夜にそのつもりはなくても、客に見えるのは危なそうな店員と自分の二人だけ、どう考えても自分に聞かれているとしか思えない。
「はい、そうです」
 驚きつつも素直に答えてくれる辺り、この客もなかなかノリがいい。
「馬鹿! 客前で私に話しかけないで! 見えないって事、忘れてるでしょ!!」
 アルトの小さなかかとが良夜の額を直撃した。ストローで刺さないのは、悲鳴を上げさせない彼女のなりの配慮なのかも知れない。それでも痛いことに変わりはない。僅かばかりに顔をゆがめ、額を抑えた良夜の手に、客の不信感たっぷりの視線が突き刺さる。もはや、言い訳のしようもないほどの危ない人として、良夜はこの客に認識される事だろう。
 しかし、回りに誰が居ようと居まいと、お構いなしに声を掛けてきていたアルトに、話しかけるなと言われることがあろうとは……今日のアルトはひと味違う。
「あっ、ありがとうございました!」
 この言葉もアルトに言えと言われたから言っただけの言葉だ。しかも『元気よく』というオーダーが付いていたので、思わず必要以上に大きな声と、上に乗っているアルトが振り落とされそうなまでに勢いづいたお辞儀をしてしまった。
 見知らぬ客に危ない人とのレッテルを貼られつつも、良夜はなんとか一人の客をさばくことが出来た。出来たのは良いが、それだけでどっと精神的疲労感が押し寄せてくる。
 こんな調子で大丈夫なんだろうか……良夜はやっぱり不安感を持たずにはいられなかった。

 さて、良夜がなんとか一人目の客を追い出してから一時間ほどが経過した頃、タカミーズのお部屋には、買い物を済ませた直樹が帰宅していた。
「ただいま帰りました……吉田さん、大丈夫ですか?」
 ヘルメットと二つのレジ袋を下げた直樹は、靴を脱ぐ間ももどかしげに貴美の眠るベッドサイドへと駆け寄った。
「あぁ……なお……お帰り……二コマ目は?」
 黄色いパジャマを着た貴美の顔は未だ赤く、その熱が平熱まで下がっていないことを示していた。彼女は恋人が帰ってきたことを知ると、僅かに体を起こして弱々しい笑みを彼へと向けた。
 直樹がその汗ばんだ額に手を当てると、案の定暖かく、そして、直樹の冷たい手に貴美は心地よさそうに眼を細めた。
「代返、頼みました……体調は?」
「余り良くない……」
 素直に不調を認めるところを見ると、かなり辛いんだろうなと直樹は思った。熱は多少下がっているようだが、それでも微熱では済まない熱を持っていることは間違いなさそうだ。医者に行かせるべきだろうかとも思うが……彼女は病院が嫌いなのだ。消毒液臭いから。
「モモのゼリー食べます? 好きでしょ」
「うん……ゴメンね、なお……」
「良いんですよ、たまには彼氏に甘えろって、良夜君も言ってましたよ」
 珍しく気弱な台詞を吐く貴美に、直樹は冗談めかした口調でそう言うと、ペチンと一つ小さく額を叩いた。
「あはっ……うん、じゃぁ、今日は甘えようかな……」
 直樹がベッドに腰を下ろすと、貴美も熱で重たい体を起こし、直樹の体に少しだけよりかかった。
「たまじゃなくても良いんですけどね」
 白いレジ袋から、ゼリーとプラスティックのスプーンを取り出しながら、直樹は貴美の顔を覗き込んだ。
「たまだから……価値があるんよ……」
 顔が赤いのは熱のせいだけではないのかな、と思うと直樹は珍しく自分が貴美よりも優位に立っていることと、頼られていることを自覚した。何かにつけて、お姉さんぶりたがる貴美が素直に頼ると言うことは滅多にないことだ、半年年下の癖に……
 直樹はそれを嬉しく思いながら、プラスティックのスプーンでゼリーに包まれたモモを一切れすくい上げ、貴美の口元へと運んだ。
「あーん、します?」
 直樹はそう言ってゼリーをすくったスプーンを彼女の口の前へと運んだ。やってる方も少々恥ずかしい。
「えっと……あーん」
 直樹の言葉に貴美はほんの一瞬だけ躊躇をしたが、素直に口を開いた。バカップルのお部屋は無駄に平和。

 ランチタイムまでは、なんとか良夜と美月で店は回っていた。アルトの指示をなんとかこなす良夜が〇.三人分の仕事をし、美月が涙目で一.一人前の仕事、なんとか〇.二人前分の余力で積み残しの仕事を捌く。余裕はないが無理もしていない。
 しかし、時間はついに恐れていたランチタイムに突入。貴美が働き始めるまで二人でこなしていたとは言え、美月にこの道数十年の和明の変わりは出来ず、また、良夜にキャリア数年の美月の変わりも出来ない。そもそも、和明と美月の二人だけでは辛いから、貴美を雇ったのだ。和明美月ペアに遥かに劣る美月良夜ペアしか居ない喫茶アルト、キッチンでは美月が長い髪を大きく振りながら所狭しと歩き回り、フロアでは良夜がアルトと待ちくたびれた客の声に急かされながらも、なんとかギリギリの所で踏みとどまっていた。
 普段の静かな雰囲気は全くなく、まるで学食のような賑やかな喧噪だ。
「良夜! 俯いて歩かないで! 前から人が来てるわっ!」
「三番テーブルが食事終えてるわ、コーヒー煎れて! って、美月に伝えて!」
「ほら、レジに人! テーブルは後で良いから先にそっち済ませて!!」
 そんな中、普段以上のスペックを見せ大活躍しているのが、この小さな妖精さんだった。アルトは良夜の頭の上から、店全体を見渡し、良夜だけではなく美月にも指示を飛ばして、ややもすると店内の喧噪に呑み込まれそうになる二人の意識を前に向かせ続けた。
「ランチセット、ブレンドのホット、カルボナーラがモカのアイス、ピラフにアイスティです」
 実のところ、良夜は注文を一切覚えては居ない。覚えているのは良夜の頭ではなく、その上に座ったアルトだ。当初は覚える努力もしていたのだが、数回間違えた辺りで、アルトに覚えなくても良いと言われた。良夜が違う注文を言い出すと、アルトの方も自信をなくしてしまいそうになるからだ。
「はいはい、ランチとブレンドのアイス出来てます、フロア、大丈夫ですか?」
 ランチの乗ったプレートをキッチンカウンターに置きながら、美月が中からヒョッコリと顔を出した。幾分、普段よりも疲れているようにも見える。
 店の方はひとまず大丈夫、の様な気がする。何人か気の短い客が声を掛けては来るが、それだけを注意していれば、なんとか店はまともに営業していると言えた。
「俺のお腹が余り大丈夫じゃないです……」
「それは私も同じですぅ……」
 はぁと二人で同時に大きくため息をついた。普段なら隙を見付けて何かを摘む程度の余裕はあるのだが、今日はその余裕が見あたらない。良夜にキッチンへと帰って食べ物を漁る余裕がないのはもちろん、キッチンで軽食を作りつつコーヒーを煎れている美月に賄いを作る余裕もないのだ。
「私だって、今朝からコーヒーを全然飲んでないのよ、二人ともしっかりしなさい」
 しかし、アルトだけはやけに元気だった。その言葉通り、アルトは、良夜が来てからというもの、客のコーヒーを勝手に飲むこともなく、良夜の頭の上に陣取ってロボットの操縦をし続けていた。しかも、コーヒーを飲ませろとすら言わない、非常に珍しい、珍事と言っても良いだろう。
「アルト……お前、随分と張り切ってんな」
「そうね……ふふ、少し嬉しいのよ、いつも見ているだけだったもの。ほら、良夜、早く運んで」
 そう言うとアルトはトントンと数回かかとで、リズムを取るように良夜の頭を叩いた。アルトの声は弾み、今にも上機嫌で鼻歌を歌い出しそうだ。
「元気そうで羨ましいよ……それじゃ、これ、持って行きますね」
 良夜はアルトに一声だけ掛けると、美月が用意したプレートを持ってフロアの方へと足を進めた。この二時間ちょっとの間で、プレートを持って歩くのも少しは慣れたと思う。
「はい、あっ、レジの方、注意しててください。そろそろ、帰るお客さんが増える時間ですから……」
 その背後に美月の声が掛けられた。普段よりも一人少ない人数でのランチタイムは、普段、暇をもてあまして遊んでいる妖精さんのおかげで、なんとかまともに終わりそうな気配を見せていた……だがしかし、もうすぐランチタイムも終わりと言うときに一つの問題が持ち上がった。
「……良夜……」
 それまで気持ちよさそうに良夜ロボの指揮を執っていたアルトが、ふと、小さな声で良夜を呼んだ。
「なんだ……」
「……ごめん、酔った」
 それだけ言うと、アルトはコテンと良夜の頭の上に崩れ落ちた。
「なぁにぃ!!」
 アルトが乗り物酔いになったのだ、こうして、喫茶アルトは無駄に修羅場る事になった。

 そのころのタカミーズ。
「なおの手、冷たくて気持ちいいよ……」
 掛け布団から熱を持った手だけを出した貴美が、直樹の手を握って弱々しくも嬉しそうな笑顔を見せていた。こちらは無駄に平和だった。

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