四人で飲もう(1)
 五月最後の金曜日、良夜のアルバイトが唐突に休みになった。本来は別の日が休みなのだが、他のバイトが急用が出来たので、その人と変わることになった。と、言う話をその日のランチタイムに直樹と話していたら、それを聞いたアルトがこんなことを言い出した。
「他の店でコーヒーを飲ませてくれる約束だったわ」
 と……。
「……ちっ」
 貴美がアルバイトを始め、直樹が喫茶アルトに通うようになったとき、確かにそんな約束はした。頭の片隅には覚えていた。覚えてはいたが、面倒くさいんで忘れたふりをしていた。都合の良いことにアルトは本気で綺麗さっぱり忘れてた。
「バイトが休みなら丁度良いわ、新市街に新しい喫茶店が出来たらしいの、そこに行きましょう」
 新市街とはオフィスやら役所やらがある地域で、正直、良夜には全く用事のない場所である。オフィスやら役所以外にも洒落たブティックだの感じの良いレストランだのアクセサリーショップなんかもあるのだが、こっちは役所以上に用事がない。ブティックよりもユニ○ロ、レストランよりも居酒屋、アクセサリーに至っては買ったことすらない。そんなわけで、ここに住んで二ヶ月が過ぎたと言うのに、良夜がその辺に行ったことは一度もない。
「……メンドイ」
 目の前で食事をしている直樹に聞こえないよう、口を押さえて小さな声で呟く。頬に耳を当てたアルト以外には聞こえない声。奇妙な特技を得たなと良夜自身も思う。
「約束は守りなさい、男でしょう?」
「……遠い」
「バイト先と変わらないわよ」
「太って、また、ダイ……悪い、刺すな」
 先日まで太りすぎてジャージしか着られなかった妖精さんにとって、そこは地雷だった。良夜がその言葉を使おうとした途端、彼女はストローを振り上げた。怒り顔でやってるのならともかく、無表情にそれをやられると背中が凍るほどに恐い。しかも、もうジャージじゃない。
「や・く・そ・く、したわよね?」
 金髪能面の妖精がこんなに恐いとは思わなかった。

「おいしくなかった、酸っぱいコーヒーなんて久しぶりだわ、口の中がおかしい」
 ストローを振り上げて約束の遂行を求めるアルトに対し、それを自分の体以外に下ろさせる言葉を持ち得なかった良夜。仕方ないので、授業が終了後、新市街に作られたという新しい喫茶店にまでアルトを連れて行くことにした。先に旧市街で軽く買い物を済ませ、夕食兼用のつもりでその店に入ったのだが、これが良くなかった。良夜の舌だと、そこそこのコーヒーって程度の代物だったのだが、アルトにとってはどうしてもがまん出来ない代物だったらしい。
「サイホンなのは仕方ないとしても、豆の管理が全然ダメね。絶対に焙煎した豆を買ってるわよ。酸化して酸っぱくなってたもの。それとサイホンの使い方もイマイチだし、あぁ、もう、良いところがないわ! 聞いてんの!?」
 買い物をしている間中、早く飲みたいとごねていたアルトを黙らせるため、食前にコーヒーを持ってこさせたのが良くなかった。自分がここに連れて行けと言ったことを、都合良く忘れてるんだか、忘れたふりをしているのかは知らないが、アルトはコーヒーを一口飲んだ次の瞬間からこんな事を連呼し始めた。
 それは、良夜がハンバーグ定食を食べ始めてからも続き、食べ終わるまで終わることはなかった。しかも、いちいち、聞いてるかどうかの相づちまで求めてくれる。飯の、まあ不味いこと不味いこと。最初はそれなりだと思って食べていたハンバーグも、目の前でマズイを連呼されているうちに、不味いんじゃないんだろうかという気になってくる。単純な人間だと良夜自身も思う。
 そんな普段の三倍は労力が必要だった食事を終え、喫茶アルトに戻ってきたときはすでに閉店間際の時間だった。
「あれ、りょーやんじゃん、どったの? ラストオーダー終わったよ」
 店の前にスクーターを止めた良夜を、ドアに掛けられたOpenの札をCloseへと裏返しに出て来た貴美が見付けた。
「……ほら、飲み損ねたじゃない……あなたのせいだわ」
 ジャケットの胸元から顔を出したアルトが、良夜の顔を見上げぷーっと頬を膨らませた。彼女は信号で止まるたびに同じ様な顔で良夜をせかしていた。それに急かされ、良夜も色々と問題のある速度は出していたものの、所詮は中古のスクーター、そんなに速度が出る物ではなく、帰ってきたのがこの時間になった。
「あぁ……ちょっと通りかかったからって思ったんだけどな……」
 まさか、ここに住んでる妖精さんを送りに来たとも言えず、適当な言葉と苦笑いで話を誤魔化す。
「ふぅん、美月さんか店長に聞く? りょーやんなら大丈夫だと思うけど」
 その事に対して食いつかなかった貴美は、興味のなさそうな顔でそんなことを言った。毎日ここに来てはコーヒーを飲んでいる良夜を、貴美はコーヒーマニアだと思っている。先日、コーヒーの産地当てクイズで全問正解――アルトを使ってのインチキだったわけだが――したのも大きい。
「いや、悪いよ」
「悪くないわ!」
 アルトは大きな声で良夜の言葉を否定して見せたが、悲しいかな、その声は貴美には届かない。アルトは再びふくれた顔を見せたが、それが無視されていると判ると良夜の懐に潜り込み、ストローでちくちくと良夜のみぞおちを突き始めた。痛いというよりかはくすぐったいだけだが、そこを本気で刺されたら命に関わるような気がする。
「そう? あっ、そーだ、帰ったらなおと飲むけど、りょーやんも来る?」
 良夜の命が危険にさらされているとも知らず、貴美は明るい顔で思いつきをそのまま口に出した。本当にくどいが、お酒は成人式を済ませてから。未成年は酒を飲むな。
「……潰す気か?」
「あはは、量は加減する」
 何度も彼女に潰された良夜がその言葉を信じられる根拠などどこにもなかった。
「当てに出来ないからな……まっ、いいや。直樹が帰ってきたら呼んでくれよ」
「なおが帰ってきたら攻め込むよ。じゃぁ、悪いけどスーパーでビール……あっ、今夜は発泡酒かその辺の安いヤツ、買っといて。半分持つから」
「雑穀酒とか言うので良いのか? 俺、わかんねーぞ?」
 脱いだばかりのヘルメットを再び被りながら、良夜は貴美にそう言った。貴美と違い毎晩晩酌する習慣のない良夜は、酒の種類とか味という物はテレビコマーシャルでしか知らない。
「なんでも良いよ、カクテルクラブでもドラフトワンでも。適当に酔えて騒げればいいから」
 そんな良夜にニコニコと笑いながら、貴美はいい加減すぎる言葉を吐いた。彼女はアルコールならなんでも好きらしい。いや、酒が好きと言うよりも飲んで騒ぐのが好き。
「女の飲み方じゃないよな……」
「りょーやんよりかは強いから良いんよ、二−三千円分ね、やっすいの」
 貴美の要求にへいへいと適当な返事をした良夜は、止めたスクーターのエンジンをもう一度掛け、スーパーへと急いだ。ここのスーパーが閉まっていたら、ちょっと離れたコンビニまで行かなければならない。しかも、そこは未成年臭いと思われると、免許の提示を求められるらしい。当然、求められると十八の良夜に買うことは出来ない。って、スーパーもしろ、と酒を買いに来てる未成年は思った。本当に彼の心の棚は広い。心は狭いが棚は広い。
「私なら二十歳以上よ?」
 カゴに安い雑穀酒をぶち込んでいた良夜に、胸元から顔を出したアルトが声を掛けた。
「お前、ビールなんて持って飛べ……なんでここにいる?」
「貴方が帰してくれなかったから」
 貴美と話をしているうちに、良夜はアルトを帰し忘れていた。良夜は軽い頭痛を覚えながら、彼女に帰れと言ってみたが、すでに飲む気満々の彼女にそんな言葉は通じない。最初に酒を飲ませてヘベレケになったアルトを介抱したとき以来、良夜は彼女に酒を飲ませたくないと思っている。
「今日は大丈夫だわ、絶対に」
「急性アルコール中毒で、真っ青になってもほっとくぞ」
「……少しくらいは介抱して欲しいわね」
 明後日の方向を見ながらそんなことを言うアルトを見て、良夜は酔いどれ妖精のお世話を覚悟した。

 一人暮らしを初めて二ヶ月ちょっとが過ぎたが、真っ暗な部屋に帰ってくるのは未だに慣れない。自分で鍵を開けて、電気をつけて、お帰りの一言もない部屋に入る。この一連の動作に一抹の寂しさを覚えてしまう。
「帰ってきたら、ただいま、よ。良夜」
 良夜の懐に潜り込んでいたアルトが、ヒョッコリと頭を出してそう言った。
 スーパーの駐輪場で、帰れ帰らないの押し問答を五分ほど繰り広げてみたが、ダメだった。結局、大人しくする、ストローで酒は飲まない、吐いても俺は知らない、この三つの条件を飲ませ、彼女を部屋に連れ帰ってきた。
 何故、ストローで酒を飲まないという条件を付けたかというと、彼はアルトに酒を飲ませた後に、ストロー一気の恐怖を実体験したのだ。普段の三倍は酒が回る。信じられない読者は試してみると良い。少ない酒で潰れられるから。
「じゃぁ、お前はお邪魔します、だな」
「……それもそうね、お邪魔します」
「あっさり受け入れやがった」
「ええ、受け入れたわ。あなたは?」
「はいはい、ただいまっと」
 随分とただいまにこだわるアルトに投げやりな言葉をぶつける。何か文句でも言うかと思ったが、その程度のただいまで彼女は納得したようで、良夜の懐からぴょんと跳びだした。そして、二度目の訪問である良夜の部屋を物珍しそうに見て歩いた。
「意外と片付いてるのね、てっきり、シンクから何か産まれてきそうなヘドロでもつまってるのかと思ってたわ」
「……お前が俺をどう見てるのか、よく解った」
「生活力皆無な童貞ロリコンヘタレトカゲ」
 生活力皆無って、一応は二ヶ月自炊生活をして居るんだけどな、と良夜は苦笑いを浮かべてしまった。実際のところ、良夜は冷凍食品やら、バイト先でやすく別けて貰える売れ残りお総菜やらをフル活用した上でだが、それなりに自炊生活をしている。まあ、三食のうち、朝食は前日の残り物ばかりだし、昼はアルトでランチを食ってるから、自炊しているのは夕食だけではあるのだが。
「他にしてくれるヤツが居ないから、自分でするしかないんだよ」
「そうなの? じゃぁ、私がしてあげましょうか?」
「……出来るのか?」
「ええ、応援なら」
「……最低だな、お前」
 良夜の呆れた声を聞き流し、アルトはテクテクと珍しく歩いて部屋の中を見て回った。そして、一番に向かった先はベッドの下。小さい体をフルに生かし、中に潜り込んでいった。
「あら……何もないのね?」
「……何故、一番にそこを覗き込む」
「埃は許容範囲ね、大きめのゴミも落ちてない……綺麗なものだわ……おかしいわね」
 ベッドの下に潜り込んだ彼女は、良夜の疑問を無視してベッドの下品評会を始めた。
「おーい、アルトさーん、何を捜していらっしゃるんでしょうか?」
「エロ本、良夜ならロリ物とかを大量に抱えていそうだと思ったのだけど……」
「持ってねーよ、ンなもん」
 事実、エロ本は一冊も持っていない。
「ふぅん……おかしいわね。あっ、もしかして、一人暮らしを良いことに堂々と本棚に飾ってあるの? だとしたら、良夜の割りに神経が太いわね」
「だから、持ってないって、エロ本は」
 ベッドの下に潜り込んでいるせいで、良夜からアルトの顔は見えない。しかし、その口調から完璧に怪しんでいることが判る。持っているのが当たり前……いや、持ってないのが異常とでも言わんばかりの口調だ。
「りょーや、私は別にとがめようとか思ってる訳じゃないのよ? 貴方のことをもっと知りたいだけなの」
 そんな思春期の息子の部屋でエロ本を見付けた母親のような口調で言われても困る。見つかってないのに、どうして、見つかったときのような口調なのか、それは永遠の謎。
「……そして、また、俺の形容詞を増やすんだろう?」
「あら、良夜がロリだと言うことは織り込み済みだわ、だから、増えるわけないじゃない」
「……あぁ、なるほど……」
 頭痛の悪化を覚えながら、良夜はテレビの前に腰を下ろした。この時間帯は大して面白い物もないのだが、直樹が帰ってくるまでまだ少々時間がある。貴美はなれなれしい女だが、なんだかんだ言っても、直樹が居ないときは決して良夜の部屋には入ってこないし、自分達の部屋にも入れない。そう言うわけだから、テレビを見て時間を潰す。
「んっしょ……テレビなんか見るの?」
 ベッドの下にお目当ての物がないと知ったアルトは、そこから這い出てきた。頭やらドレスに埃を被った妖精というのは中々シュールだ。
「テレビくらい誰でも見るって」
 電源を入れると偉そうなキャスターが偉そうに誰かを批判している。良夜は大して興味はないのだが、変えるのも面倒だった。どうせ他のチャンネルも似たような物なのは分かり切ったことだ。民放、三つしかない地域なのだから。
「それもそうね……っと、邪魔よ」
 テレビの前にごろんと横になった良夜の体を、アルトがよじ登り始めた。自分の羽で飛べるはずなのに、わざわざ、シャツを握ってよじ登ってるところを見ると、ネタのつもりらしい。ツッコミが欲しいのだろうな、と思ったがそれも面倒くさい。小さく、うんしょ、うんしょっト呟いてるところからも、ツッコミ待ちなのは明白だ。
「良夜山、標高五十センチ、小さな山を今、アルトちゃんが登頂に成功しました」
 数分もすると彼女は良夜の体を登り切った。そして両手を挙げて誰かにアピールをしている。少なくとも、批判ばっかりの偉そうなキャスターの独り言よりかは面白い。面白いのでしばらく放置する。このまま、無反応の良夜に飽きてそこから何処かに飛び立てば自分の勝ちだと良夜は勝手に考えていた。
「……では、いよいよ、国旗の掲揚を初めます」
 ザクッ! 心地いい音がした。
「いってぇぇぇぇぇぇぇぇ、脇腹、そこ脇腹!! もろ刺さってる!!!」
 両手で持ったストローを振り上げ、一気に脇腹の一番柔らかい部分へと振り下ろした。思わず、手でアルトを払いのけようとしたが、彼女はそれよりも早く上空へと待避していた。
「りょーやん、うっさい! 独り言言うな!!」
「わっ、悪い……」
 痛む脇腹を抱え、隣の部屋から大声で怒鳴った貴美にわびを入れる。
 上空へと逃げ出したアルトに批判の視線を向けた時、彼女はすでにそこにいなかった。彼女はそれよりも早く目の下を人差し指で押さえ小さな舌を出して、パソコンデスクの上へと逃げていた。
「……あら、エロ本はなくてもエッチなゲームはあるのね」
 アルトはようやくお目当ての物を見付け、満足したかのような笑みを浮かべた。
「……見つけ出すな、アホたれ。それ、吉田さんから借りたんだよ」
「……しかも純愛で泣けるって有名なヤツじゃない。ロリ物じゃないのね……」
 しかし、物がシナリオ重視でエロ分少なめな物だと知ると、少々不満そうな顔をして見せた。何故、そのようなことを彼女が知っているのか、それは謎だ。謎の多すぎる妖精だが、ファンタジーな謎は一切ない。
「アルト、なんだ、その見損なったとでも言いたげな顔は」
「だって、良夜、こういうときはロリ物を持っておくのが礼儀よ? 空気を読みなさい」
「どういう空気の読み方を要求して来やがる……って、お前、俺のパソコンに電源入れんな!」
 モニターに映し出されたデスクトップの壁紙は、美しいが当たり障りない風景画。そして、起動時に奏でられるシステムサウンドもつまらないデフォルト設定。彼女はそれを見たとき、あからさまに肩を落とした。やれやれと小さく呟き、キーボードの上に腰を下ろして良夜の方へとむき直した。
「……空気読みなさいよ……」
「アルトさん、どういう空気の読み方をすればいいのか、教えていただけるでしょうか?」
「そりゃ……起動サウンドは『お帰りなさい、ご主人様』、壁紙は何処かのゲームメーカーが無償配布してるエッチなCGに決まってるじゃない。後、デスクトップの半分くらいをゲームのアイコンが占めてるって言うのもポイントが高いわね」
「……なんで、わざわざ、俺がお前に罵倒されるためにそう言う空気の読み方をしなきゃならん」
「あぁもう、つまらないわ! これだから童貞は空気が読めなくて嫌いなのよ」
 無茶苦茶理論を振りかざし、彼女は腕と足を組んで寝転がった良夜を見下ろした。
「もう良いから、余り弄んなよ。もうすぐタカミーズも来るから」
 それ以上、彼女の相手をすることに嫌気がさした良夜は、視線を再びテレビへと向けた。相変わらず、飽きもせず、キャスターは批判を繰り返しているだけ。アルトの相手をしているのと、このつまらないキャスターの独り言に付き合うの、どちらが有意義だろうか、と良夜は本気で悩んでしまった
「はぁい」
 アルトの『はぁい』ほど良夜にとって信じられない物はない。そして、今回もやっぱり信じられなかった。

「こんばんは、りょ……一応、吉田さんとは言え、女性が来るんですから、そう言うのはちょっと……」
 遊びに来た直樹を迎え入れたのは、モニターの上で美しい裸体を惜しげもなく晒すアニメチックな幼女のCGだった。
「ちゃんと持ってるじゃない、良夜も」
 ブラウザのキャッシュからそれを見つけ出して、壁紙に設定するところまで一人でやったアルトが、随分と嬉しそうな顔をしていた。

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