努力(4)
「絶対にダイエットをしてやるわ!」
堅い決意を固めたアルトちゃん@ジャージ姿。それを生暖かく見守っていた良夜は『ジャージだし、運動するには丁度良い格好だよな』と心の中で呟いた。明日にでも、一センチ四方の布に『あると』と書いて持ってきてやろう。きっと、烈火の如くに怒るに違いない。普段なら絶対にやれない行為だ。しかし、ヤツがジャージを着ている限り、負けない自信が彼の中にはあった。所詮はジャージ小娘、すごまれても笑ってしまうだけ。
「で、散歩するから付き合えって?」
授業が終わって、アルバイトに行くまでの二時間弱、その時間の供与を彼女は要求した。
「店の中は誘惑が多いのよ、誘惑が。みんな、ケーキ、食べてるのだから……」
「つまみ食いすんなよ……意地汚い」
と、なんだかんだ言いながらも付き合ってしまう辺り、自分も人が良いよな、良夜は苦笑混じりに思った。
「それと、散歩じゃなくてウォーキングよ」
「……どっちも一緒だ、バカタレ」
五月ももう終わりの見えてきた平日の昼下がり、無駄に輝く太陽の光はギラギラとアスファルトを照らしつけ、その乱反射を容赦なく良夜とアルトの体に叩きつけてくる。気温はすでに二十五度を超え、夏日の様相を呈してきている。今年も無駄に暑いのかと思うと、カレンダーをのり付けしてしまいたい気分だ。無駄な努力なのだろうが……
「……まだ、五月なのに暑いな……」
「暑い方が効果がありそうな気がするわ……」
その中、良夜はアルトを引き連れ、テクテクとのんびり歩く。喫茶アルト前の国道を峠へと登り、登り切ったらその下にあるスーパーにまで下って、ジュースで乾杯。一休みしたら、Uターンして、喫茶アルトにまで戻ってお開き。普通に行けば一時間から一時間半の散歩コースだ。最初からいきなり飛ばしても大丈夫なんだろうかと思うが、当人がやる気になっているのだから、良夜が口を出す問題ではない。
「って……良夜、まさか、スクーター使う気?」
峠を登り、アパートの前まで戻ると、良夜はごく自然な足取りで駐輪場へと脚を伸ばした。
「当たり前だ。何が悲しくて、一時間も歩かなきゃならん」
一年以上も草に埋もれて、雨ざらしになっていた割りには調子の良いスクーターを引っ張り出す。これがあるから、のっけから無理のある距離だな、と思いつつもアルトが提案したコースを受け入れたのだ。でなければ、最初から付き合ったりはしない。
「冷たい男ね……見損なったわ……」
最初から歩くことを放棄している良夜を、アルトは冷たく見下げた視線で見つめていた。
「冷たくて良いよ。ほら、さっさと歩け……なあ、アルト?」
アルトの抗議を聞き流し、冷たい視線を投げかけるアルトをチラッと見たとき、良夜はちょっとした疑問にぶち当たった。
「何よ、童貞ロリコンヘタレトカゲ」
良夜の肩口でパタパタと浮遊していたアルトは、不機嫌な顔と口調で返事を投げ捨てた。
「……修飾語が増えてんなぁ、最後のトカゲは冷血動物って意味か?……イヤ、お前、飛んでるよな?」
「飛んでるわよ」
「それ……散歩って言うのか?」
「……えっ?」
アルトにとって、ダイエットは初体験の行動である。また、彼女にとっての移動手段は、まず、人の体を乗り物にすること。そして、その小さな羽で空を飛ぶこと。この二種類だけである。当然、乗り物に乗っていたのではダイエットになるはずがない。だから、飛んでいる。単純な思考。
しかし……羽で飛んでてダイエットになるのだろうか? ダイエット初挑戦の彼女にそんなことが判るはずもなかった。
「……なると思う? 良夜」
「俺に聞くな」
良夜もダイエットの経験なんてないし、羽なんて便利な道具も持っていない。だから、当然、判らない。
二人仲良く、うーんと首をひねる。
「なると言うことにしよう!」
数分悩んだ二人の結論だった。
「ならなくても、俺、困らないし……」
「……本当に冷たいわね……」
パタパタ、ペンペン、パタパタ、ペンペン。アルトの羽ばたきとスクーターの排気音がまぶしい太陽の下に響き渡る。暑い太陽の下とは言え、スクーターで風を切ればかなりの爽快感を得ることが出来る。一生懸命飛んでいるアルトには悪いが、スクーターで走るには丁度良い季候のような気がしてきた。
パタパタ、ペンペン、ペンペン、パタ、ペンペンペンペンペン……心なしか彼女の羽の音とスクーターの音との比率が変わってきたような……羽の音が小さくなっているような……とか思っているうちに、良夜の耳にアルトの羽ばたきが届かなくなった。
「りょーやーーー」
そして、代わりに遠くからひどく情けない声が微かに聞こえる。
「まーちーなーさーい」
良夜のアパートから、未だ大学の前までも達していない場所。距離で言うならば、往路の半分って所だ。それなのに、アルトの体は遥か後方に存在していた。どうやら置き忘れてきたようだ。良く考えれば、アルトの飛行速度は歩いてる人程度、スクーターがどんなにゆっくり走っても、それよりかは早い。置き去りになるのは当然の話、判りやすい。
良夜は路側帯にスクーターを止め、傷だらけのジェット型ヘルメットを脱いで振り向いた。このヘルメットも美月のお下がり。傷だらけなのは彼女が転んだとき、道路にこすりつけられたため。
脱いだヘルメットを小脇に抱え、必死の形相でありながらも、遅々として前に進まないアルトをたっぷり二分ほど待った。もがくように飛ぶ様は見ていて飽きない。出来ればもう一回やって欲しい。
「ぜーーーぜーーーはぁ……あぁぁぁ……ふぅ〜〜〜〜」
良夜の肩につかまり、乱れきった息をアルトは整えようとした。早くも彼女のジャージは汗を吸い上げ僅かに湿り気を帯び、美しい金髪はべったりとにじんだ汗で、うなじや額に張り付いていた。そこだけ見るとちょっと色っぽいが、表情に余りにも余裕がなさすぎる。全体としてみれば、非常に間抜けで哀れだ。
「りょー……やぁ……ちっ……ちょっとは、こっこっちの……そく……どに……合わせ……て」
良夜の肩の上にぐったりと崩れ落ちると、彼女はもはや限界とばかりに全身を弛緩させた。未だ初めて二十分ほどだというのに、彼女は疲労の極致と言ったざま。
「……お前、体力ないよな……」
「うっ……うる、さい……私は……頭脳……労働……担当、よ。あなたと……違って」
額に大粒の汗をいくつも浮かび上がらせ、目を開いていられないほどに疲れ切っている割りには元気な言葉を吐く。そんな彼女を見て『まだ、しばらくはしごいても大丈夫だな』と良夜は冷静に考えていた。気分はアスリートを鍛えている鬼コーチ。別に日頃、ストローで刺されまくっている仕返しを、この場でやってしまおう、なんて小さなことは考えていない。多分……
「あっ、アルト、一つ判ったことがある」
「なっ……何よ……」
ぐったりと良夜の肩の上に張り付いていたアルトが顔を上げ、良夜の顔へと視線を向けた。
「それだけ疲れるんなら、十分にダイエットの効果はある」
「そっ……良かった……わ」
結局、アルトは半分を少し過ぎた辺りで完璧に体力を失い、良夜の胸元に潜り込んでしまった。
「ポカリとアクエリアス、どっちが良い?」
「……コーヒー……アルトのダッチコーヒー持ってきて……キンキンに冷えたヤツ……」
この期に及んで、未だコーヒーを要求する辺り、もう少しはがんばれるのではないだろうか? と思いつつ、道ばたの自販機にスクーターを止めた。
「アクエリアスにしとけって……ひっくり返るぞ?」
ポカリではなく、アクエリアスにしたのは目の前の自販機に五百ミリリットル百円のアクエリアスが入っていたからだ。夏前になると自販機にこれが入る。良夜はこれを見て『夏だなぁ〜』と思うのである。季節感があるんだか、ないんだか……
「もぉ、ひっくり……返ってるわよ……」
ガッコンと重たい音を奏でて、缶ジュースが取り出し口の中に転がり落ちて来る。それを拾い上げ、プルタブを開くと胸元から顔を出したアルトの口元へと運んでやった。
アルトはそれにストローを差し入れ、チューーーっといつも以上の勢いでそれを吸い上げた。そして、ぷっはぁ〜っと大きなため息。ビールを一気飲みしたオヤジそのもの、良夜は彼女に『この一杯のために生きている』と言って欲しかった。
「んぅ……おいしい、ジュースをこんなにおいしいと思ったのは初めてだわ」
更にもう一口飲んだアルトは、顔中に浮かんだ汗を拭いもせずに幸せそうな笑みを浮かべていた。
自販機の隣に腰を下ろし、冷たい汗を浮かべた缶から一口、良夜もジュースを喉へと流し込んだ。暑い太陽に照らされた体に、よく冷えたジュースが心地よい。しかし、ずっとスクーターに乗っていた身では、アルトほどにそのジュースの美味しさを感じることは出来ず、それを少し残念に思った。もっとも、それを感じるためだけに運動をするほど、良夜はスポーツマンでもなければ、酔狂でもない。それに、今のところ、彼にダイエットの必要もない。
「まだ、残っているわよね?」
良夜ののど仏が上下に動く様を、彼の胸元から見上げていたアルトは、彼が缶を下ろすと心配そうな顔でそう言った。
「そのためにこんなでかいのを買ったんだよ」
確か、こっちに引っ越してきた当初、酒を飲み過ぎた彼女に与えたジュースもこれと同じものだったはずだ。その時はほんの数滴だけ飲んでいらないと言い出した。やはり、こういうものは汗をたっぷりかいた後に飲む物なのかも知れない。
しばらくの間二人で交互にジュースを飲んだ後のこと、アルトは手に持っていたストローを飲み口に差し入れ、四苦八苦し始めた。ストローを持った細い手を飲み口の中に入れてみたり、良夜に缶を斜めに持たせたり、何故か缶の内側をストローでカンカンと叩いてみたり……そして、数分間そんなことを繰り返した後、良夜の顔を見上げて結論を述べた。
「ストローが届かないわ」
まだジュースは三分の一ほど残っているが、飲み口から水面までの距離がストローよりも僅かに長くなった模様。こうなると彼女に飲む術はなくなる。
アルトはストローで直接飲むことを諦め、視線を飲み口から良夜の顔へと動かした。そして、じーっと、何かを期待しているような表情……いや、その『何か』は考えるまでもない。どうにかして飲ませろ、と言っているのだ。もしくは新しいのを買え、か?
「仕方ないな……ほら」
良夜はジュースを少し手のひらの上に溜め、それをアルトの前へと差し出した。
「んっ……」
手のひらに溜まったジュースはあっという間に温くなってしまう。アルトはその小さな水面にストローを刺して飲み始めた。直接口で飲めばいいのにと思うが、それは彼女のポリシーに反するそうだ。意味が解らない。
アルトはそれを全て飲み終えたとき、しまったとばかりに自分の唇をパンと叩くように押さえた。
「……良夜、手、洗った?」
「……お前、見てただろう?」
洗うための水道なんて、目に付くところにない。水道がないのだから、洗うことは出来ない。
「ぶーーーっ!! 良夜、汚い!」
力の限りに口に含んでいたジュースを吹き出すアルト。しかも、良夜のシャツでゴシゴシと口の回りに付いたジュースを拭いている。確かに、大学のトイレで手を洗って以降、手を洗う機会なんてなかった。それに綺麗だと言うにはちょっと無理のあるハンドルを握ってきたわけだが、吹き出すほどに汚いだろうか?……良夜は冷静にゆっくりと考え、そして、十分汚いという結論に至った。しかし、それを素直に認めると負けだと思うので認めない。
「もう良いわ、上げる」
胸元からひょこっと顔だけを出していたアルトは、彼女が飲めるジュースのなくなったことを知ると、そこから這い出して来た。そして、肩の上に座ると、節々を伸ばすように大きく背伸びをした。
「上げるって……これ、俺が買ったんだぞ?」
「ええ、私のためにね、所有権は私にあるわ」
素敵すぎる理論でアルトの物になっていたジュースをありがたく拝領し、それを一気に煽った。正直、いくら暑いとは言っても五百ミリリットルをほとんど一人で飲むのは辛い。お腹がちゃぷちゃぷだ。元々、良夜は大して汗をかいていないのだ。
「ふぅ……三百五十で十分だったな……さてと、それだけ元気ならもう少しは飛べるか?」
彼女の体は未だ汗だくではあるが、息は随分と整い、表情にも余裕のある笑みが浮かんでいた。
「そうね……少しくらいなら飛べると思うわ。疲れたら良夜を呼ぶわよ」
その少しは十五メートルほどだった。彼女はそこまで飛ぶと、『もうダメ』と言いだし、良夜の懐に潜り込み、喫茶アルトに到着するまでの時間をそこで過ごした。
翌日。良夜はいつものように喫茶アルトを訪れていた。
「聞きたいことがある」
肩の上でぐったりと肢体を投げ出すアルトに、口元を手で押さえた小さな声を掛けた。
「……言いたいことは判るわ。でも、聞かないで」
疲れ果てた表情。ずり落ちないように良夜の髪を握る手の力も随分と弱々しい。目の下に隈ができてるような気がしないでもない。
「……その羽の付け根に貼ってる湿布、それをどこで買っただけ教えてくれ」
「だから聞くなって言ってるでしょ!! いったぁたたた……筋肉痛で眠れなかったのよ……」
大声を出すだけできしむ体、それを引きずりながらも彼女はダイエットに励んだ。
背中に貼られた湿布が、その面積を増し続けた一週間は瞬く間に過ぎ去った。めでたくダイエットに成功し、懐かしのドレスに身を包むことが出来たアルトの表情は暗かった。
「……どーして、ウェストよりもバストの方が、沢山減るのよ!!」
その魂の叫びを聞いた良夜は軽い驚きを隠すことが出来なかった……
『まだ、しぼむ余地があったんだな……あの胸』
と。