努力(3)
その夜、喫茶アルトへ呼び出された良夜を、アルトはテーブルが作る影の中から隠れてずっと見ていた。よく知らなかったが自分は人間よりも夜目が利くみたいだ。図体の大きさも関係しているのかも知れない。どちらにしても、良夜の眼はアルトを捕らえられないが、アルトからは良夜の表情までよく見えた。だから、美月がライトをつけに行ったときも、一人店内に残され不安そうにしている良夜を見物し続けていた。しかし、夜目が利きすぎたのが良くなかった。頭上のペンダントライトが点灯したとき、その明るさになれるための時間が、良夜よりも数秒長く必要だった。そして、その数秒が彼女にルビコンを渡らせた。その対岸には敗北以外存在しないことは分かり切っているのに……
「お前、なんて格好してんだ?」
「うるさいわね……ジロジロ見ないでくれるかしら?」
「……馬鹿だろう?」
「着る服がこれしかないのよ」
「だからって……お前、それはないだろう? って言うか、それ、どこで手に入れたよ?」
「どこだって良いでしょ……淑女の秘密を詮索する物じゃないわ」
「とりあえず、理由、言ってみい、理由。笑ってやるから」
「……成長したのよ、少しだけ……」
「まさか……あれ、実践、したのか? 本当に」
「実践したら、手持ちのドレスが全部合わなくなったのよ!!」
「どこが成長した?」
「……バストよ、バスト」
「えっ、マジ?」
「……アンダーだけ、ね……」
「……俺、詳しくないんだが――」
「良夜! その次の言葉を言ったら……刺すわよ?」
「こいつ、太りすぎて、ジャージ着てんのが恥ずかしくて出てこなかっただけですから」
やっぱり、ルビコンの対岸には敗北しかなかった。
あの日、貴美が甘味フルコースを堪能し尽くした日から、アルトは毎晩売れ残りケーキを一カットずつ食べていた。普通の人間ならちょっとしたおやつ、夜食くらいだろう、それでも長く続けていれば太るかも知れない。しかし、身長が人間の十分の一以下のアルトがそれをやれば、毎日一ホールずつ食べているのも同然だ。乙女には甘い物が無限に入る別腹が存在しているのだ。
三日目当たりで『ちょっと体が重くなったかな』という気はした。彼女はそれを『成長の証』だと捕えた。それは当たっていた。ただ、成長したのがウェストとアンダーバストで、狙っていたトップバストは全然成長していなかったのと、その事にアルト本人が気付いてなかった、とまあ、それだけのことだ、小さな問題小さな問題。
そして、十日ほど過ぎた日の朝、起きてドレスを身につけようとしたら入らなかった。何をどうあがこうとチャックもホックも締まらない。仕方ないから、手持ちの服の中で合う服を捜した。そりゃもう、喫茶アルトの中に隠している服、全てを発掘して捜した。別に全ての服が合わなかったわけではない。合う服もあった、ただし、合う服の全てが黄ばんでたり、虫食いがあったり、かぎ裂きがあったりととても着られるような状態ではなかった、それだけのことだ。だから……
「ジャージ着てんのかよ!」
この男にだけは、この満面の笑みで普段の仕返しが出来ることを喜んでいる男にだけは会いたくなかった。会いたくなかったから、この三日、こそこそと隠れ回っていた。そして、三日目の夜、ついに見つかった。迷子になったときはアルトが呼ぶまで気が付かなかったのに、今日に限って自分を見付けるんだろう? 許せない。
「びっ美人は何を着ても似合うのよ」
なんて思っていたら、こそこそ隠れ回ったりはしない。どこでどうやって手に入れたのかすら覚えていない濃紺のジャージ……なんで、こんな服が自分の服の中に混じっていたのかよく解らない。よく解らないが、素っ裸でウロウロするのとそれを着てウロウロする、その二つを天秤に掛け、アルトはこっちを選んだ。この間みたいなおしぼりドレスも考えたが、あれはずれるから良くない。
「なあ……アルト、二つ、聞かせてくれ」
本当にこいつは嬉しそうだ。中指と人差し指を立てて、こらえきれない爆笑を解放するタイミングを狙いすませていやがる。
「……何よ……」
眼を逸らしたら負けだと思った。だから、逸らさず、射抜かんばかりに力を込めて良夜の顔を睨み付けてやった……濃紺のジャージ姿で。
「……背中、どうなってんだ?」
「あぁ……ちゃんと羽が出るところに切れ目を入れてるのよ。それで、二つめは?」
「へぇ、上手く作ってんだな……あぁ、もう一つな。あのさ――」
良夜は一つためを作ると、最悪の質問を最悪の笑みを浮かべて言い切った。
「やっぱり、妖精もジャージ着るとお腹にゴムの跡が付くのかな!?」
そして、ついに彼は大爆笑を解放した。手近にあったテーブルを力一杯叩き、涙が浮かぶほどに笑い転げている。窒息直前だ。笑って良いからそのまま窒息死してしまえと思ったが、窒息死する様子も笑い終わる様子もありゃしない。
「って、いつまで笑ってるか!!」
力の限りにストローを振り上げ、良夜のテーブルを叩く手のひらへと向ける。手加減はしてやらない。貫通しようが、風穴が開こうが、手がテーブルに縫いつけられる羽目になろうが力一杯に振り下ろす。もう、アルトはそれだけしか考えられないようになっていた。
「まっまあ、待てって、アルト。俺を刺してもお前の出た腹は引っ込まないぞ?」
今の彼はアルトに対して圧倒的な精神的アドバンテージを持っていた。いつもなら速攻で謝るところなのに、今日は余裕の表情でアルトを制している。逆に笑いすぎて余裕がないくらいだ。今の言葉にも大爆笑の余韻が残っている。眼にも涙が浮かんだままだ。
「ストレスは減るわよ」
そのストレスの一端が、ここしばらく良夜と話をしていない、と言う所にあることは当人も判っている。しかし、ストローで刺したくらいでは口がきけなくなることもない。やっても問題なし。『殺る』と書かない方の『やる』なら大丈夫。
「あっ、なるほど……って、お前、時々恐いこと言うよな」
「言わせてるのは誰かしら?」
「それは置いておいて……やっぱり、ダイエットだよな、ダイエット」
「してるわよ……一応」
ここ三日、つまみ食いも控え、運動もちょっぴりはしている。それもストレスの一環。三日では効果なんて全然出て来ないけど。
「ダイエットには体重管理ってことで……」
「キッチンスケールなんて持ってきてみました」
いつの間にか消えていた美月が、良夜の言葉を待ってましたとばかりに引き継いだ。その小さな胸元にはデジタル式のキッチン秤。言わんとしていることは明白だ。
「……美月……あなたねぇ……」
アルトは美月を信じていた。信じていたのに、まさか、崖から突き落とされるとは思っていなかった。満面の笑みでデジタル秤を抱えた美月を見て、アルトはちょっとだけ今までの人生を後悔した。こうなると判っていれば、美月の成長にもっと関与していたのに。
胸のサイズには敏感な美月も体重には鈍感。自分が太りにくい体質だからだ。ウェストも太りにくいから、バストも全然太らないのよね、とアルトは自分のことを棚にナイナイして考える。
「なんと、二キロまで0.一グラム単位で計れるんですよ。便利なんですよねぇ〜これ」
深夜放送のテレビショッピングで大して使えもしない道具を、さも便利グッズのように紹介してる売れない女優みたいな笑みだ。アルトは美月の顔を見上げてそう思った。なお、そのキッチン秤がただの一度も使われていないことを、アルトは知っている。ケーキが外注である上に、美月は目分量で料理を作る人間だからだ。だから、これも喫茶店らしさを演出するためだけに買ったサイホンと同じように、キッチンの飾りになっている。そして、この秤で最初に計られるのが自分の体重……嫌すぎ。
「ささ、アルトさん、この上にどうぞ」
美月から秤を手渡されると、良夜はそれを慇懃無礼な態度でテーブルの上にドーンと置いた。そして、彼がスイッチを入れると、冷たいデジタルの数字が光る。それを見て、ゴクリ、とアルトはつばを飲んだ。まるで、死者の心臓を乗せてその罪を計るという地獄の天秤のように、それは彼女を断罪しようと待ち受けている。
「イヤよ! どうして、貴方達の前で体重を量らなきゃいけないのかしら?」
「アルト、嫌がってますよ、美月さん」
アルトの拒否の言葉を、良夜はその背後にいる美月に告げ口した。アルトが美月に弱いことを知った上での行動。びっくりするほど器の小さな男だ。
「ダメよ、アルト。ちゃんと体重管理はしないと」
もはや、美月もアルトの味方ではなかった。敵である。しかも、この敵は純粋にアルト自身のことを思っていってくれているから、始末が悪い。隣で笑ってる男は、からかうネタを捜しているだけのようだ。美月が居なければ、血まみれになるまで刺してやるのに……
「まさか、二キロの秤で量れない体重とか?」
渋るアルトに良夜の嬉しそうな声が降り注いだ。
「計れるわよ!」
いくら何でもキロの単位で数えるほどの体重ではない。計ったのはもうずいぶん前の話だけど……
「じゃぁ、計れよ」
「だから、アルト、ダイエットは体重と栄養を管理しないと病気になるんですよ?」
四面楚歌ってこういうときに使う言葉なんだろうなと、アルトは体重計を抱えた二人の人間に挟まれたとき初めてその言葉の意味を知った。ちなみに、美月は調理師学校で栄養学も学んでいて、ダイエットで悩む女子大生にダイエットメニューを教えたりもしている。そのついでに胸が大きくなる方法でも聞けばいいのに、私も活用するからと、アルトは常々思っていたりする。
「……二.二グラム?」
二人にせかされ、脅され、泣き落としされ、アルトは渋々、その体をキッチンスケールの上に置いた。数字は二.二と二.三を交互に点滅させ、一向に安定しない。
「わっ、ちゃんと量れるんですね、感動しました」
美月は嬉しそうに手を叩き、ポイントを微妙にずらした所で感動している。
「……これで文句ないでしょう?」
「アルト……二グラムってなんだ? 二グラムって」
あっさりと騙された美月と違い、しょっちゅう頭の上に乗られたり、踏み台にされている良夜は騙されない。いくら何でも数十分の一以下に誤魔化すのは無理があるようだ。
「二グラムしかないよ、私の体重は」
「なあ、アルト……その一生懸命動いてる羽はなんだ?」
簡単にやっているようだが、羽でホバリングをするのは結構大変。しかも、〇.一グラム単位で正確に体重を掛けるようとするのは普段以上に神経をすり減らす作業。気分はヘリコプターのパイロット。
「さぁ……何かしらね?」
上空に舞い上がろうとしたり、ベタッと秤に体重を掛けようとしたりする体を小さな羽で制御する。それだけでも骨の折れる作業だというのに、それを表情に出さないのは更に大変だ。今にも額から脂汗がにじみ出てしまいそう。判りやすく例えるならば……空気椅子をやっているような物だと思って欲しい。
「お前……浮いてるだろう?」
「……」
ツーンとアルトは良夜から視線を逸らした。額には我慢しきれない脂汗、またはバレかけていることに対する冷や汗。どちらかは、アルト本人にも判らない。
「……潔くないな」
「大体、私のサイズで、何グラムだったら正しいのよ?!」
アルトはトンと軽く秤の表面を蹴り、テーブルの上へと着地を決めた。この一瞬、秤の数字が百を超えた事はアルト本人を含め誰一人、気付かなかった。
「……えっと……お前の身長は人間の八分の一くらい……大体……百グラムって所だな」
その辺は一応工学部学生、軽く何かを思い出すように考えただけでさっと計算をしてしまう。文系なら判らなかったかも知れないのに……これだから理系は嫌いだ、と誤魔化しきれなかったアルトは小さく呟いた。
「って……百グラム?」
アルトの口から無意識のうちにそんな言葉が呟かれた。百グラム……大昔に計ったときには、それを遙かに超えていたような気がする。
「そんなもんだろう? 質量は縮尺の三乗に比例するから、縮尺が八分の一なら、体重はだいたい五百分の一。お前の場合、身長が約二十センチ。身長百六十の人間だったら、体重は五十キロ前後だから、百グラム前後が正しい」
そんなアルトの考えなどお構いなしに、良夜はもう一度頭の中で計算をし直し、やっぱり間違えていないことを確認した。一応は理にかなった計算である、本当に理系の男は嫌いだ、美月の恋人は文系にさせよう、アルトは心の底からそう誓った。
「……本当?」
もしかして、自分はものすごく体重が重いのではないだろうか……顔と頭から血が引いていくのが判る。おそらく鏡を見れば、そこには顔面蒼白になった見慣れない顔が映っていることだろう。
「……いくらだ?」
良夜の顔に真剣みが帯びてきた。もしかしたら、素直に全部言って本格的にダイエットに協力して貰った方がよいのではないだろうか? アルトも何となくそう言う考えになってきてしまう。
「……ひゃくご……あぁ!! 密度が人間と同じだと限らないわ!」
自らの体重を暴露しかけたアルトは、重大な事実に気付き、大きな声を上げた。あと一秒遅かったら取り返しの付かない事態になっていたところである。
「ちっ、気づきやがった……」
しかも、良夜はその事にずいぶん前から気付いてた様で、アルトがその事に気付くと小さく舌を打った。
「ほら、計っても意味がないわね。諦めなさい」
「俺の知的好奇心を満たすためってのはダメか? 美月さんも楽しみにしてるぞ」
「……少しはオブラートに包みなさい」
ここまであけすけに言われると、怒る気力さえなくなるアルトだった。
「せっかく、アルトのことが色々と判ると思ったのに……」
美月の趣旨はアルトのダイエットから見えない妖精の秘密を知ると言うところへと、いつの間にか変わっていたようだ。その目的が果たせないと知った美月は随分と落胆した様子で、せっかく持ってきた秤を抱えてキッチンへと戻って行った。随分と背中が小さい。胸も小さい。
「……いい加減にして欲しいわ……」
ガックリと肩を落としてキッチンへと戻る美月を、アルトはため息と共に見送った。最初は純粋にアルトのことを考えていたのだろうに……
「あぁ、おかしかった。お前、最高だよ」
未だ止まらない笑いを噛みこらえながら、良夜はアルトに対して意地悪な視線を投げかけていた。
「……ふんっ! デリカシーがないから彼女が居なくて童貞なのよ」
「悪いな、今夜の俺にお前の毒は効かない」
「じゃぁ、これは効くのかしら?」
力一杯にストローを振り上げる。こいつを殺して、私は生き延びよう、アルトの精神はかなり追いつめられていた。
「ふっ……毒が効かなければ実力行使か? 小さいな、寸法と同じで」
くっ……悔しい、小さい男の代名詞たる良夜に、小さいと言われる。しかも、鼻で笑われている。とんでもない屈辱だ、こんな屈辱は、自分の身長がリカちゃん人形より低いことを知ったとき以来だ。アルトは、自分がジャージを着ている限り、この男に対して大きすぎるアドバンテージを与えていると改めて理解した。
「……まあ、良いわ……私に問題がないって判ったのなら、さっさと帰りなさい。真面目な大学生はもう寝る時間よ?」
ここで本当に刺してしまえば、自らの器の小ささを認めてしまうことになる。アルトは渋々ストローを納めた。
「あっと……そうだな、明日も授業だし、今夜は帰る」
「ええ、お休み。明日はあなたの所にコーヒーをもらいに行くわ」
ここまで笑われれば、もう、コーヒーを我慢する必要などどこにもない。明日はいつもより余分にコーヒーを飲んでやろう。全部飲んだら、また太るだろうか……
「あぁ、今夜、たっぷり笑わせて貰ったからな、明日は笑わないで居てやる」
そう言って良夜は立つと、キッチンで秤を片付けている美月に「帰ります」と一声を掛けた。
「ふっん! 笑いたければ笑いなさい」
「あはは、意外と似合ってるぜ、そうだな……アメリカ辺りから留学してきた小学生みたいだ」
「うるさい! さっさと帰りなさい!!」
「じゃぁな、それと、余計な心配させんなよ……っと……美月さんに、な。じゃっ、お休み」
余計な一言を付け加えると、良夜はアルトに背を向け軽く右手を挙げて店を後にした。
「……判ってるわよ、お休み」
……このロリコン……アルトはほんの少しだけ頬が熱くなるのを感じながら、ペタンと両足をテーブルの上へと投げ出した。明日、良夜が来たらちゃんと席に行かなければならない、コーヒーを飲むために。
そして、翌日、アルトは約束通り、昼食を食べに来た良夜の前へと姿を現した。もちろん、未だジャージのまま。
「……なあ、アルト……」
口を押さえての小さすぎるほど小さな声、最近覚えたばかりの良夜の新しい特技だ。
「何?」
「……悪い、やっぱり、笑いそう……」
そう言った良夜の顔はすでに笑っていて、その向かいに座った直樹に首をかしげさせている。
「……絶対にダイエットしてやるわ!」
かくして、アルトのダイエット大作戦が始まった。