努力(2)
 喫茶アルトではケーキの類は全て外注に任せている。旧市街に古くからある『ひさか』という名前の洋菓子店だ。遠い旧市街にまで行かなくても、毎日そこのケーキが食べられると、コーヒーよりもこちらを目当てに通う女子大生も少なくない。そこから毎日、一度納入して貰ったケーキは大半が、賞味期限内に売り切れてしまう。しかし、どうしても、足の速い生クリーム系のケーキには売れ残りという物が出る。そう言う物は、スタッフがおいしく頂くのがこの店のルール。
「……私もスタッフの一人みたいな物よね」
 そんな無茶な言い訳をしつつ、喫茶アルトのキッチンで蠢く一つの姿、それは明るい月の光に照らされ、実寸よりも随分と大きな影をシンクの上へと作っている。狙うは一つ、売れ残りのケーキ。ターゲットが保管されている場所はよく知っている。伊達に美月よりもここで長くは暮らしていないのだ。ここのことなら、美月のへそくりの保管場所から、和明が隠れてパイプを楽しむ場所まで、なんでも知っている。
「あったわ……ふふふ……見てなさい、良夜……」
 もうすぐ日付が変わる時間、彼女の壮大な計画が、今、スタートを切った……
 
「美月さん、アルトの姿、見えませんけど、どうかしました?」
 レジに立っていた美月が、良夜にそんなことを聞かれたのは、貴美の甘味フルコースから十日ほど経ったランチタイムのことだった。良夜が言うには、普段のアルトは彼が来る頃になるといつものテーブルに座って待っているか、他の所にいても彼が来ると、コーヒーを飲みに文字通り飛んでくる。しかし、今日は来たときにも居なかったし、食事が終わった今になっても姿を見ていない。
「居れば居たらでうっとうしいけど、居なきゃ居ないで不安になるんですよね……あの馬鹿」
 そんな言い訳めいた言葉で誤魔化す青年を見ていると、つい美月の頬も緩んでしまう。それに今日は朝からアルトの歌声を感じることが出来た。店の室温が一度の半分ほど上がり、外のざわめきが不意に遠くなるひととき、それはアルトが歌っているからだと幼い頃から祖父に言われ続けてきた。姿を見ることは出来ないが彼女の気配を感じるだけなら、ここに通い始めて三ヶ月と経たない青年に負けない自信はある。
「ですから、店の中には必ず居ますよ。心配ですか?」
「あぁ……ほら、妙な悪戯でも仕込んでたらイヤだなぁ……と」
 良夜は頬をかきながら、美月の言葉にそう答えると「まっ、いいや。ごちそうさま」とだけ付け加え、会計を済ませて店を後にした。
「ありがとうございました、またのお越しをお待ちしてます」
 明るい声で良夜を見送る美月。やっぱり心配なのかな、と良夜が消えたドアの向こうを見て軽い苦笑いが零れた。でも、アルトがコーヒーを飲める機会を見過ごすというのも少々気に掛かる。良夜はアルトの影響でコーヒーをブラックで飲む。だから、他のお客さんからかすめ取るのと違い、確実にブラックでコーヒーを飲める数少ない機会だ。それなのに出てこなかった……
「……良夜さんがあんな事言うから、私の方が心配になって来ちゃった……」
 そろそろランチタイムも落ち着く頃、レジに来る客の流れが途切れると美月の中に急に小さな不安がよぎり始めた。もしかして、妙なところにはまりこんで抜けられなくなったとか、歌い終わってから変なところに落ち込んじゃったとか、実は歌ってたんじゃなくて助けを求めてたとか、屋根裏でネズミと戦って負けちゃったとか……って、アルトの店内でも住居の方でもネズミを見た経験はない。もしかして、それはアルトのおかげで、今日、ついに負けちゃったとか……なんか、ネズミとストローで戦う妖精って可愛いかも……
「……がんばれ、アルト」
 何故か、ネズミの集団と大立ち回りをしているアルトを想像して、手に汗握る美月。どうでも良いけど、ネズミと戦ったストローをカップに突っ込まれる良夜の立場を考えてあげて欲しい。
 そんなくだらない想像を――美月にとっては手に汗握る一大スペクタクル――していると、美月の肩に何かがトンと乗ってきた。
「……あっ、アルト。百一匹ネズミとの戦いは終わったの?」
 クイクイと二度、美月の髪が引っ張られる。
「えっ、まだ、戦ってるの?」
 クイクイ、さっきよりも少し強めに引っ張られる。
「うーん……っと、もしかして、最初から戦ってないとか?」
 今度は一度。
 だったら何をしていたのか気になるところだが、出来損ないのモールス信号以下の合図でしかコミュニケーションが取れない彼女に教えて貰う術はなく良夜の登場を待たざるを得ない。しかし、最近は彼もバイトを始めたので、午後の授業が終わってからは来ない方が確率としては高い。最初から判っていることではあるが、少しもどかしく思うのはいつものことだ。
「良夜さん、心配してましたよ。明日は出てあげてくださいね」
 そう言った美月に髪が引かれる感触は与えられず、肩をポンと踏み切るような感触だけが代わりに与えられた。美月の言う言葉にアルトが返事もなく居なくなることはほとんどない。だから、美月はそれに軽く首をかしげるものの、店の中にいるのならアルトにも何かの事情があるのだろうと、それ以上深く考えることはなかった。
「あれ……でも、なんだかいつもと感じが……」
 肩から飛び立ったアルトに小さな違和感。それは凄く小さな物だ。何かが足りないというか、物足りないというか……
「うーん……っと……気のせいかな?」
 もう一度、美月は小首をかしげ、その違和感を棚上げした。確かめようのない話である上に、居ることだけは間違いないのだから、次に良夜とアルトがあったときにでも聞いて貰えばいい。そう決めた美月は、人の減った喫茶アルトでの仕事を再開した。
 しかし、その機会はその日から三日間、訪れることはなかった。その三日間、アルトは良夜が居る間は出てこず、良夜が帰ると美月には自分の存在を伝えると言うことを繰り返した。
「おかしいですよね?」
 三日目の夜、営業が終わり無人になった店へと良夜を呼び出し、美月はそう切り出した。ちなみに今日のアルトは良夜が来る直前まで美月の肩に乗っていたのだが、良夜の姿を見た途端、そこからにいなくなった。
「まあ、おかしいっちゃーおかしいけど……ヤツがおかしいのはいつものことですからね」
「良夜さん、定番の受け答えですね。ひねりがなさ過ぎます……まあ、お祖父さんも似たようなことを言ってましたけど」
 流石に人生経験豊富な和明は、当たり障りのない言葉を使ってはいるのだが、彼の結論もやっぱり『ヤツはおかしい』であった。アルトをよく知る二人が口をそろえて『ヤツはおかしい』というのだから、間違えているのは自分の方ではないだろうか、と美月は思ってしまう。
「もしかして、良夜さんがアレをよく言うから、姿を見られたくないのかも知れませんよね……」
「アレ?」
「アレですよ、あの言葉」
 彼女は『あの言葉』は言われるのはもちろん、自分で言うのもイヤである。特に貴美がアルトで働きだしてからは、特に『あの言葉』への耐性がなくなってきたような気がする。
「あの言葉……」
「ですから、ほら、あれがあーだとか、体型がどーだとか……」
 美月は慎重に『あの言葉』を自ら口にしないよう比喩表現を用い、目の前に座った男に察して貰う努力をした。そして、その目論見は半分だけ成功した。
 美月の言葉に十数秒の間、視線を宙へと巡らせていた良夜がポンと一つ手を叩いた。
「あれがあーだとか……あぁ、貧乳、幼児体型、第二次性徴来ていない」
 良夜自身も口に出さなきゃ、美月の目論見は全て成功してたのに。良夜はその三つの言葉を並べ終わった直後、しまったとばかりに半開きになった唇を右手でとっさに押さえた。
「……お客さん、懲りるって言葉ご存じですか?」
 ちなみに美月はこの件に対して『慣れる』と言う言葉を知らない。
「……美月さんの事じゃなくて、アルトのことですよ、アルトのこと」
「……そーですよねぇ〜私は違いますよねぇ〜…………とっとと帰れ」
 微笑む努力はしているつもりの美月、しかし目は笑っていなかった。特に視線を逸らして最後の一言を呟いた瞬間は。
「呼び出しておいて、とっとと帰れはないと思う……」
「ごめんなさい、つい、本音が……」
 この言葉も本音だったりする。

「では、アルトを捜せって事ですね?」
 失言の多い良夜は頬を軽く引きつらせながら、本日の目的を確認した。そんなに無茶に怒っているわけでも……ないこともないか。笑う努力はしているのだが、あまり成果には結びついてないみたい。美月にとって胸の話題は地雷だって事、よく解っているはずなのにこの男は普通に踏みつけてくる。わざとやってるんじゃなきゃ、よっぽどデリカシーがないのだろう。いい人なんだけど、口と脊髄が直結している人だなぁと美月は評価している。裏表がないのは良いことなんだけど。
 未だ少々視線に殺気がこもってしまうことを自分でも感じながら、薄暗い喫茶アルトを良夜の後ろを付いて歩く。今日の目的はアルトの姿を良夜に捜させること、居ることは間違いないのだから美月に出来ることはほとんどない。アルトが出て来て何事もないことが判ったら、おいしいコーヒーを煎れてあげるくらいだ。
「しかし、ここ……明かりを落とすと雰囲気、出ますね」
「神秘的で好きなんですよね」
 山側の窓から差し込む月と星の明かり、国道側の窓から差し込む街灯とヘッドライトの明かり、二つの方向から差し込む光源を得て、店内に置かれた古い家具達はその身と床に深く複雑な陰影を刻み込む。美月はこの複雑で濃淡織り交ぜた影絵が好きだ。この陰の中にアルトが隠れているかと思うと、明るく何もかも見渡せる昼間よりも彼の妖精を身近に感じることが出来る。そう思う美月は月の明るい夜に、営業が終わり明かりが消えた店内で一人の時間を過ごす。そう言うことをした翌日は、寝過ごしてしまったりするのだけど……
「でも、何か居そうな気がしません?」
「妖精が居ますよ?」
 良夜の言葉を借りると、頭に『性悪』が付く。
「……まあ、確かにそうなんですけど……幽霊とか」
 先ほどから、良夜がやけにキョロキョロしているのは、アルトを捜す以外の理由があるのかも知れない。
「良夜さん、信じてます?」
「あぁ……どうかな、アルトと会うまではあまり信じてなかったんですけどね」
「妖精がいるんだから、幽霊だっているかも、ですか?」
「まあ、そんな感じです。美月さんは?」
「私? そうですね……ここ、居るんですよ?」
 美月は全然信じて居ない。祖母が亡くなったとき、アルトに『幽霊って居るのかな?』と尋ねてみたところ、髪を二回引っ張られたからだ。それが正しいのかどうかは知らないが、妖精がそう言うのだからそうなのだろうと単純にそう思っている。美月に霊感の類が一切なく、その手の現象はアルト以外に縁がないのも一因。
「……そう言う話、勘弁してくださいよ」
 それに引き替え、良夜の方は美月のちょっとした冗談を真に受け、さっきよりも更に視線の動きがあわただしくなっている。
「……先の大戦では随分の方がなくなったそうですからね……ここ」
「えっ……」
 美月の言葉に店内を歩いていた良夜の足がピタッと止まった。実はちょっと恐がりなのではないだろうか? そう思うと、少し笑いがこみ上げてきてしまう。こういうとき、男性の方がこういう話をしちゃうのが定番なのに。
「と言う話を今、思いついたので言ってみただけです」
 クスクスと小さく笑って、美月が種明かしをすると、良夜は心底ホッとした言うような表情を見せた。やっぱり、恐がりな人らしい。まあ、実際に妖精の居る喫茶店で幽霊話をすれば、たいていの人は怖がるのだろうけど。
「……意外とお茶目なんですね、美月さんって……それ、吉田さん病ですよ」
 作り話で怖がらされた良夜は、美月の方へと振り返り、少しだけ苦笑いを浮かべた。
「でも、吉田さんも恐がりなんですよ。出て行くまで絶対に電気消させてくれませんから」
 良夜はいい話を聞いた、とでも言いたげな表情をして、もう一度、薄暗い店内へと視線を向けた。
「しかし、こう暗いと……アルトが見えないですね」
「あっ、そうですね、私、見えないから忘れてました。電気、着けてきます」
 良夜が見えていると言うことは十分に判っていたことではあるが、目よりも皮膚感覚と言うか、直感でアルトの存在を感じている美月はつい、暗くてもアルトは感じられると思ってしまう。でも……思う、じゃぁ、暗いままなら良夜よりも自分の方がアルトを身近なのかも知れない、と。そう思うと、少しだけ電気を付けるのが惜しくなってしまうのも事実だ。
「……というわけにも行きませんよね」
 店内のブレーカーは事務室兼倉庫にある。窓から差し込む光だけを頼りに、慣れた通路を通ってその中へ。分電盤を開いて、いくつかのスイッチを入れていくと、開いたままのドアの向こうから、明るい人工の光が事務室の中へにも差し込んできた。
「これで良いですか?」
「大丈夫だと……あっ、いまし……お前、なんて格好してんだ?」
 少し離れた店舗から良夜の声が事務室まで響いた。
「本当ですか?」
 明るくなった店舗へと美月は急いだ。最初から店の中にいることは判っていたのだが、それでも万が一という気持ちもあったから、ついつい急いでしまう。
 美月が店舗の方へと行くと、良夜が何もない空中に向かってブツブツと独り言を言っていた。十分に、本当に、完璧に判っているつもりではあるのだが、この姿は見るたびに吹き出してしまいそうになる。
「……馬鹿だろう?……はぁ? 聞こえねえ……だからって……お前、それはないだろう? って言うか、それ、どこで手に入れたよ? ……とりあえず、理由、言ってみい、理由。笑ってやるから……まさか……あれ、実践、したのか? ……どこが成長した?……えっ、マジ? …………俺、詳しくないんだが――」
 呆れたような表情をして居たかと思うと、馬鹿にして、楽しそうに笑って、百面相のように良夜の表情はコロコロと変わる。美月にはアルトの顔は見えないのだが、良夜の表情を通してアルトの表情が見えるような気がしてくる。きっと、アルトの表情も百面相のようにコロコロ変わっているのだろう。やっぱり見えないのが残念だ。
「良夜さん、アルト、居ました? アルト……どうしたんですか?」
 美月がそう言うと、ようやく気がついたのか、良夜は何もない空間から美月の方へと視線を向けた。
「こいつ、太りすぎて、ジャージ着てんのが恥ずかしくて出てこなかっただけですから」
 今日はスカートではないから、アルトが肩に乗っても彼女の広がったスカートが頬を撫でる感触がなく、それが美月の抱いた違和感だったのだ。それにしても……アルトがジャージ……
「良夜さん、それ……ものすごく可愛い格好じゃないんですか?」
 美月が卒業した高校で使っていた臙脂のジャージ、それを着たアルトの姿を美月は想像してしまった。美しい金髪をなびかせ、一生懸命体育をしている姿……なんだか、留学生っぽい。
「……むしろ、間抜け――イテッ!」
 そう呟いた良夜は、次の瞬間、額を抑えてしゃがみ込んでしまった。また、アルトに刺されたかな? と美月は心の中で呟き、うかつな青年の後ろ姿を見つめていた。

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