努力(1)
「あっ……チョコレート分が足りない。それと生クリーム分とスポンジ分とついでにフルーツ分も足りない。アルトに行ってケーキ食べなきゃ……」
テレビモニターの明かりに照らされた女性が小さくはあるが、部屋にいる他の二人にははっきりと聞こえる口調でそう言った。
五月末のとある日曜日、朝九時。今日も昨日に引き続き五月晴れ。さわやかだった朝日はそろそろただの太陽へと呼び名を変える時間帯。そんな時間帯だというのに、良夜の部屋では電灯が残業に文句を言わず黙々と明かりを放ち続けていた。目立たない明かりの下で花も恥じらう十八の乙女――吉田貴美――が一生懸命ゲームをしていた。それも単調なレベルアップ作業を延々六時間ほど。その前は可愛い女の子を口説いていた、もちろん、テレビモニタの中で。
「なんかたわけたことを言ってるのはお前の恋人だな、直樹」
「甘やかすとつけあがるんで、ほっといてあげてください」
日付が変わった辺りで付き合うことを放棄し夢の世界に逃げ込み、三十分ほど前そこから生還したこの部屋の家主と乙女の恋人は冷たかった。持ってないハードのゲームを調達してきて『やる』とだけ断言した彼女。それから延々十時間、人様の部屋でゲームをやり続けるような女に対して与えるべき温かな心など、ただの友人はもとより恋人にもなかった。横でピコピコやられていたせいで、あまり熟睡できなかった二人は共に少々機嫌が悪い。
「じゃぁ良い。なおの生活費でケーキバイキングしてくる。お金がなくなったら、なおはアルトでパンの耳を貰ってきて生活して」
アルトにケーキバイキングという素敵なシステムはない。食った分だけきっちり請求される。要するに、私はケーキ、あんたはパンの耳で生き抜けと言ってるわけだ。彼女はやると言えば必ずやる女だ、それを一番知っているのは彼女を彼女としている高見直樹その人である。
「彼女の教育はちゃんとした方が良いぞ」
炊きたてのご飯に生卵、昆布の佃煮、インスタントとは言えみそ汁、そして昨夜の残り物、完璧な日本の朝食を前に良夜は友人を見捨てた。彼には今からこれをゆっくりと味わうという崇高な任務がある。本来ならば、その崇高な任務の半分は直樹が担うはずだった。しかし、恋人との大事な逢瀬のためにそれはキャンセルされてしまった。仕方ないので良夜は一人でその任務を遂行しなければならない。敵は強大だが、必ず、その全てを呑み込んでくれよう。塩鮭の増援が欲しいな……
「良夜君、ひどっ!」
両手を合わせ、静かに頂きますと言おうとしている良夜に、直樹は批判に涙分を少々混ぜた視線を向けた。もちろん、それは無視。アルトと貴美に鍛えられた彼に、直樹ごときの眼力は通用しない。むしろ、アルトと貴美に傷つけられた彼の心を癒してくれる、一服の清涼剤のような物でしかない。って言い方もむごい。
「じゃぁね、りょーやん、ご飯食べたらりょーやんも来る? 少しくらいなら奢るよ」
「あぁ……そうだな、ゆっくりと朝飯を食ったら覗いてみる」
卵かけご飯は、まず、炊きたてご飯に醤油をたっぷりと掛け、その後に卵を載せて良くかき混ぜる。卵に醤油を混ぜてからご飯に載せてはいけない。こっちの方が卵の味が生きるのだ、とテレビで誰かが言ってた。良夜もその通りにしてみるとなかなかにおいしかったので、それ以来、この方法を取っている。
「良夜君! 僕も卵ご飯食べたいです〜〜〜」
直樹は貴美に首根っこを押さえられ、ジタバタと無駄な抵抗を見せている。ちょっと可愛い。
「アルトでモーニング……は日曜だからないか。何でも良いから食ってこい」
「いやですよ! 吉田さん、ケーキメチャクチャ食べるんですよ! あんなの見てたら、ご飯、食べられません!」
「知ってる。俺はアレを見ただけで、三日は甘い物が食えなくなった」
甘い物が好きなのに、甘い物を見るたびに胸にこみ上げてくる何かがあった。もちろん、それは感動とか悲しみとか、その辺の綺麗で抽象的な物ではない。現実的な何か……はっきり言えば、モンジャの元。
「りょーやん、なお、女の子の三分の一は甘い物で出来てるんよ? 特に、私の場合、ここが全て甘い物で出来てんだから」
「……乳を指さすな、乳を。恥を知れ」
相変わらず見事な乳だな、と思ったことは心の棚の一番奥に片付ける。彼の心の棚は常に増設が繰り返されている。今はヨド物置くらい。
「ちなみに三分の一は恋人への愛、残りの三分の一はおとこにょこ同士の愛への愛で出来てんよ?」
「最後の一つは燃えるゴミにでも出しとけ」
そんな物への萌えは燃えるゴミ……ちょっと上手いこと言ったな、と良夜は卵ご飯をかき込みながら心の中で小さく拳を握った。
「あっ、良夜君、今、燃えると萌えるを掛けましたね? イマイチですよ」
貴美に手を握られ喫茶アルトへと連行されようとしているのに、直樹は良夜の小さなギャグを見逃さなかった。時々鋭い。しかし、良くできたギャグのつもりだった良夜に、その言葉はチョイと許せなかった。卵ご飯をズルズルと掻き込んでいた手が止まり、ちょっとぬるめのお茶を一口飲む。
「直樹……恋人が生クリームの海に溺れる様をたっぷり見てこい」
テメエみたいなヤツはもはやツレじゃねえ。会心のギャグをイマイチと断罪された良夜の心は荒んでいた。
「わぁわぁ、ごめんなさい、ごめんなさい、助けてください!!!」
直樹の手を引いて歩き出す喜色満面の貴美と、すでに甘味フルコースを想像して胸焼けを起こしている直樹、これからサテンでデートをするカップルにはとても見えない。
「じゃぁねぇ〜りょーやん」
「おう、手加減、いらねえぞ」
卵ご飯を掻き込み、それをインスタントのみそ汁で流し込む。温かいご飯で自然と半熟になった卵、それは涙が出るほどにおいしい。
「良夜君の鬼〜〜友達だと思ってたのに〜〜〜」
さようなら直樹、お前のことは朝飯を食い終わって、一息つき終わるまで忘れておく。
さて、良夜は本当に朝食を食い終え、貴美の甘味フルコースを見ても大丈夫なくらいにお腹が落ち着くまでテレビを見てくつろいでいた。あれから一時間、前回の甘味フルコースの時は終盤に突入していたのだが……
「直樹のヤツ、生きてるかなぁ……」
カラン〜いつもの乾いたドアベルの音。ここに通い始めてはや二ヶ月、この音も随分と耳に馴染んできた。
「いらっしゃいませ〜あっ、良夜さん、いらっしゃい。お二人、来てますよ」
「こんちゃ、美月さん。吉田さんのフルコース、どこまで行ってます?」
「えっと……今はシャーベット食べてますから、もう、終わりじゃないですか?」
「そうですか、じゃぁ、俺、ブレンド、ホットね」
モーニングをやっていない日曜日の朝十時過ぎ、喫茶アルト店内には他に数名の客が居るくらい。閑散とした店内はいつも通りにコーヒーの芳ばしい香で満たされている。そこを横断していつもの席へ、当初は良夜一人の指定席だったはずの席は、いつの間にかタカミーズの二人にとっても指定席になっていた。少し狭いことと、店内から見えないために時々店員に忘れられそうになることを除けば、静かで景色も良い最高の席の一つだ。
そこに座っているのは、好対照な表情を浮かべた一組のカップルと、カップを背もたれに外を眺めている一人の妖精。
「よっ、生きてるか? 直樹」
部屋の椅子よりもよく座って居るんじゃないんだろうか、と思うくらいにお尻に馴染んだ椅子を引き腰を下ろす。その正面に座っているのは、とてもではないが幸せとは呼べないざまだった。
「……死んでます……胸が苦しい……」
「遅かったね、りょーやん、もう、終わりだよ」
この世の幸せを独り占めしたかのように微笑む貴美の前には、回転寿司のように積み上げられた小皿がちょっとしたタワーを造っていた。そして、その隣にはこの世の不幸を独り占めしたかのようにテーブルに突っ伏している直樹、その前には冷え切ったコーヒーカップしかない。
「終わりを見計らってきたんだよ、しかし……普通じゃないな」
「見てる方が胸焼けしてきたわ……」
良夜が席に着くと、アルトはトントンとカップを踏み台に良夜の肩へと飛び乗り、そこにちょこんと腰を下ろした。
「どの位?」
自然なそぶりで唇を押さえ、頬に耳を押し付けたアルトにしか聞こえないような小さな声で喋る。貴美がアルトでバイトし始めるようになってから覚えた良夜の特技だ。他のどんなシーンにおいても決して役に立たない特技である。
「ざっと……ケーキが七皿とシュークリーム、それとムースとシャーベットって所かしらね……具体的なケーキの種類も知りたい? なかなか、重たいのばっかり選んでるわよ」
「良い……すでに胸焼けしてきた」
良夜の肩で指折り数えていたアルトも、流石に最後の方になると気持ちが悪そうな声へと変わっていった。彼女も甘い物が嫌いではないのだが、流石に貴美のフルコースを見ていると気持ちが悪くなる。
「いやぁ、満足〜やっぱ、月に一回くらいは甘味フルコースをやらなきゃね、乳がしぼむよ」
オレンジシャーベットの最後の一口を口に流し込んだ貴美が言った言葉に、食いついたのは最近『喫茶アルトの貧乳の方』と言う素敵すぎるあだ名を付けられた美月だった。貧乳は貧乳で需要もあるのだが、そんな需要は貧乳にとってあまり嬉しいものではない。良夜の注文したブレンドを持ってきた彼女は、貴美の言葉に目を輝かせ「いますぐ詳しいことを!」とでも言わんばかりに身を乗り出し、貴美の次の言葉を待っている。しかも、良夜の「太っても知らんぞ」の言葉に貴美が「乙女が太る時は胸から太る」と言い切ったもんだから、さぁ、大変。
「本当ですか?! どうやったら、そんな素敵な体質になれるんですか!?」
「……別に私はそんなに太りたいとは思わないのよ? スレンダーなスタイルが売りの妖精なのだから。でも、そうね……雑学というものは例え役に立たなくても知っていて損のないものよ。詳しく語りなさい」
ストレートに食いつく美月と、言い訳を並べながらも食いつくアルト。やっぱり、二人とも大きくなりたいんだな、と思う良夜の目頭が熱くなった。君ら二人も一部の特殊な趣味を持つ方々に需要があるんだから、気にする必要はないのだよ。と言う言葉は全くフォローになってないと思うので言わない。殺されるかも知れないから。
「いや、三島さん、嘘ですから、嘘。ちゃんと太るときはウェストも太って、スカートが入らないって大さわ――イタッ!!!」
テーブルの下からガタンと言う大きな音が響いた。
「なお、彼氏なら、彼女の恥を吹聴しちゃダメよ?」
「……今度こそ、つま先に穴が開いたかも……」
「いやぁ、おいしいね、やっぱりここのケーキはサイコー」
つま先から全身へと駆け抜ける激痛にもだえる直樹も、そんな恋人への仕打ちに唖然とするギャラリー三人も置き去りのまま、貴美は甘味フルコースの余韻に浸る。幸せそうな極上の微笑みも、こうなるとただの悪魔の微笑みにしか見えない。
「……良夜……ケーキ、頼んでも良いかしら?」
良夜の肩の上ではアルトが真剣に甘味フルコースへの挑戦を考えていた。
「……嘘だって……」
「たっ、試してみないと……判らないわ」
「そもそも、第二次性徴が来ないと、胸は膨らまねーぞ」
ざくっ! 良夜の頭の上でひどい音がした。悲鳴を上げなかったのは慣れたのか、それとも悲鳴も上げられないくらいに痛かったのか……
「……わっ! 良夜君、なんで、頭から血、流してるんですか?!」
「……胸焼けすると、頭から血が流れる体質なんだよ……って、信じる?」
良夜の頭の上には、直立したストローを鬼の形相で握りしめたアルトの姿があった……が、それは残念なことに誰にも見えなかった。