Stray Pixie(3)
 カツカツと仲良く奏でられる二つの足音。市民病院から駅に戻る道は緩やかな下り坂が延々と続く片側一車線の市道だった。その両側にはみずみずしい青葉を湛えた立木が整然と植えられ、のんびりと散歩がてらに歩くには丁度良い。
 その歩道を歩く見知らぬ女性、アルトはその頭に足を投げ出し、まぶしい木漏れ日を全身に浴びていた。お腹は相変わらずに空いてはいるが、帰宅するための足を確保できたことは彼女に多少の余裕を与えてくれた。
 この二人の足取りは決して速いものとは言えない、それでもアルト自身が飛ぶよりもずっと早い。大きなトラブルもなければ二時間後には喫茶アルトで美味しいコーヒーにありつける。良夜のアパートは駅と喫茶アルトの間だから、まっすぐに帰らず、良夜のアパートに攻め込んでも良いかもしれない。居るにしても居ないにしても、何か食べ物くらいはあるだろう。
「でさ、盛り上がり過ぎちゃって、お互いゲーゲー、もう、凄かったわ」
「ばっかじゃないの? せっかくツーショットにしてあげたのに」
「ほら、ドツキあった男同士に友情が芽生えるように、ゲロを吐きあった男女に愛情が目覚めるって事――」
「ないない、絶対にない。こりゃ、ただのお友達に定着しちゃうわ」
 足下の二人はバス停を出てからずーっとそんな馬鹿話ばかりをしている。恋愛の話、新しい音楽の話、新しいレストランの話、阿吽の呼吸であっちこっちに変わる話題は、第三者が聞いていても半分程度しか理解できない。それでも、アルトはこの手の会話を聞いているのが好き。理解できない断片的な話から、会話の主の生活を想像してみるのだ。喫茶アルトで居るときにも良くやる遊び。パズル、と言うよりも福笑いに近い。トンチンカンな生活を想像して、笑ってしまう事が多い。そのいい加減な想像図のままに適当なあだ名を付けられている常連客も居たりする。
 バス停から丘を下りきるまで二十分ほどかかった。あと十分も歩けば駅前のロータリーが見えてくるはず、この辺は多少の見覚えがある。回りに建っている建物は十年前と違うが、道自体は変わっていない。
「あっ、そうだ。本屋、行かなきゃ」
 もうすぐ、駅前というところで、アルトの座っていた女性が、もう一人の女性にそう言った。
「あら、じゃぁ、ここまでね、ありがとう。助かったわ」
 本屋へと行くのならば、いつまでもここに座っている必要はない。すぐに出てくれるという保証もなければ、本屋だけで済む保証もない。アルトは聞こえていないのは判っているが、一応は挨拶の声を掛けた。
 さてと、次は誰を足代わりに使いましょうか……と、本屋へと舵を切った女性の上で回りを見渡す。疲れてるし、お腹も空いてるから、真っ直ぐ駅へと向かってくれる人が良いんだけど……等と一方的な都合で物事を考えアルトの目に一人の男が映った。
「良夜! うそ、良夜なの! 良夜!」
 対向車線の歩道をあわただしく駆ける良夜の姿。最初は見間違えかと思った。彼がこんな時間にこんな所にいるはずがない、授業を受けている時間なのだから。しかし、もう一度、目を凝らしてみても、やっぱり良夜にしか見えない。
「探しに来てくれたの?」
 きっとそう、でなければ彼がここにいる理由が考えつかない。そう思ったら、涙がにじみ、じっとしてなど居られるはずもなかった。反射的に女性の頭を両足で蹴り、宙へと舞い上がる。かなりの交通量がある片側二斜線の国道、普段ならば空腹を抱えて一息で飛び越えようとは思わない距離、しかし、今の彼女にとって、そんなこと、なんの苦にもならない。
「良夜!!!」
 彼女の目には良夜しか映っていなかった。

 背中に美月の痛い視線を浴びつつ、良夜はロータリーの信号が変わるのを待っていた。一番近い店は、道路を渡って百メートルほど行ったところにあるコンビニ。出来るだけ背後の恐い視線を意識することなく、信号が変わると軽く駆け足でコンビニへと向かった。
「とりあえず、美月さんに何か甘い物でも買って置くか……」
 甘い物を貢いで怒りの矛を収めて貰う、安直ではあるが女性経験の少ない良夜には、それくらいしか彼女の怒りを収める術は知らなかった。しかも、その知識を得たのは実地ではなく、ゲームの中。情けないったらありゃしない。
「りょ…や…!」
 誰かに呼ばれた……ような気がした。それも良く知る声で。忙しく動いていた足の速度がゆるまり、やがて完全に停止してしまう。
 しかし、振り返ってみても一台のバスと数台の自家用車が行き過ぎただけ。その後には彼を呼んだ誰かさんの姿は見えない。何度回りを見渡しても、彼の知った顔は一つも転がっては居ない、それどころか、彼の方を向いている人影すら見えない。
「まさか……アルトか?」
 あの小さい体ならば、視界に入らなくても不思議ではない。
「アルト?」
 アルトの寸法も考え、もう一度、今度は足下から上空にまで視線を巡らせる。何気なく踏み出した一歩で踏みつぶす、なんてことはしたくない。
 何度視線を動かしてみても、彼女の姿は見えない。声が届く範囲からなら、十分に自分の元へとやってこられるだけの時間を費やして、周りを見回しても見つからない。まさか……幻聴を聞くほどに心配してるだろうか? そこまで心配しているつもりはないのだが……
「気のせい……だよな」
 自分自身に言い聞かせるように小さく呟き、彼は少し行ったところにあるコンビニのドアを押して入った。

 感無量に飛び出したアルト、四つの車線のうち、三つめ車線までは普通にクリアーが出来た。しかし、最後の車線には先ほどアルトを乗車拒否したのと同じ会社のバスがいた。アルトの羽はあまり性能が良いわけではなく、高度も二メートルが限度、しかも、一度高度が落ちると上がるのに少々努力が必要になる……と言う話はすでに語られた話。で、バスという乗り物の高さは優に二メートルを超している。
「わっ!」
 視線は良夜に釘付けだった。だから、バスに気がついたときにはホバリングで止まれない距離に達していた。そうなると、かわすしかない。
 上、性能的に無理。
 右、バスの進行方向。
 左、しかない。
 一瞬の判断で、左側へと体をひねる。どういう力学を利用して方向転換をしているのかは当人にも判らないが、髪の先端をバスのボディに擦りながらも、バスを辛くもクリアー。したつもりになったら、そこには彼女の性能ギリギリの高さを誇るミニバン、それを跳び箱の要領でクリアー……しきれず、顔面からスライディング。しかも、この車のオーナーはあまり洗車をしないタイプらしく、屋根の上は埃だらけ、アルトはその屋根をオーナーに変わってぞうきん掛けをしてしまった。
 屋根の中頃で止まったアルトは、コロンと寝返りを打ち、仰向けになって五月晴れの空を見上げた。さっきまで見えていた飛行機雲は随分細くなり、そこにあったことを知るものでなければ、その痕跡を見付けられない。
「……良夜の所為だわ」
 車の作る少し強めの風、五月のちょっと暑めの日差し、自家用車のほどよい揺れ、そして、十分すぎるほどの疲労、全てが誘う安らかな眠り。しかし、それを逆恨みで制する。
「良夜がちゃんと私のことを見付けてくれれば……帰れたのに……」
 彼が振り向くより先に車の上をぞうきん掛けした事実を都合良く忘れたアルトは、埃に汚れた顔を埃で汚れた腕で拭いた。汚れたもので汚れたものをいくら拭いても、汚れが広がるばかり。
「良夜の馬鹿……貴方以外、誰も見えないんだから、ちゃんと見てなさいよぉ……」
 何度目かに腕を動かしたら、グジュッという濡れた音が聞こえた。それを誤魔化すように何度も腕を動かし、アルトは埃だらけの屋根の上に立ち上がった。ボディに突っ込んだ顔がズキズキと鈍く疼く、でもそれだけだ。羽も動くし、手足に大きな怪我はない。ダース単位の不幸の中、これは貴重な幸運。
 時速四十キロの車から見下ろす道路は、彼女の決意を鈍らせるに十分な速度で後ろへと流れていく。髪とおしぼりドレスをはためかせる風の中、彼女は数秒の間、それを黙ってみろしていた。
「良夜……捜してるわ」
 もう一度、顔を腕で擦り、目の回りだけでも汚れをぬぐい去る。そして顔を上げ、遠くを見る。それは良夜が走っていった方向。下を見なければ恐くない。
 ゴクッと軽く生唾を飲み、意を決して冷たいボディを両足で蹴る。浮かび上がった体は、つかの間、足下の車と体が一緒の速度で動いていた。その速度域は、風の音がうるさいはずなのに、何故か静かだと感じる不思議な世界だった。しかし、すぐに分厚い空気の壁が、非現実的な世界からアルトを無理矢理引き戻す。かなり恐くて……それと同じくらい気持ちいい。バンジージャンプを楽しむ人間の気持ちがわかった。
 数秒掛けて歩道へと戻ってきた。駅の方向は判っている、でも、良夜は反対方向へと走っていった。どっちへ向かうべきなのだろうか? 彼女は迷わず、駅の反対側へと羽を羽ばたかせた。別に劇的な再会を期待しているわけじゃない。ただ、乗り慣れない電車で帰るよりも、良夜のスクーターで帰った方が楽だから、それに、帰りに何処かでご飯を奢らせるのもいい。それだけのこと。良夜がいつまでもここでウロウロするのが可哀想だと思ってるわけじゃない。
 いくつもの言い訳を考えながら、アルトは数分前に女性達の頭の上で見た景色を対向車線から見上げる。駅への道順はいくらでも見つかるが、良夜への道順はどこにも見つからない。それは当たり前の話なのに、アルトの気持ちを暗くさせる。彼女は、今日初めて『迷った』と思った。
「確か、こっちに行ってたわよね……」
 フラフラキョロキョロとしながら、いくつもの頭を踏み越える。さっきほど気持ちよく飛べない理由が自分でも判らない。気持ちよくは飛べないけど、速度だけはさっきと同じ、もしかしたら、少しだけ早いかも。
 所で、普通の人間でもキョロキョロしながら雑踏を歩いていれば、正面から来る人間にぶつかってしまう。それが、正面から来る人に、見付けて貰えない妖精さんならどうなるだろうか? 答えは簡単、手加減なく体当たりをかまされた挙げ句に謝っても貰えない。
 ドン、とやけに香水の臭いがきつくい派手目のお姉様の柔らかな胸にアルトはぶつかった。完全に無防備な方向からの体当たりは、アルトの華奢な体を落下させるに十分な力を持っていた。ぶつかった事よりもその胸が必要以上に柔らかかったことの方がむかつく。
「もう……無駄に大きな胸を晒して!」
 ペタンと地面にしりもちをついて、胸に当たった何かに首をかしげる女性を見上げた。落ちたショックでずれたおしぼりドレスを直すと、嫌でも貧相な胸に見ざるを得ない。ちょっと、悔しい。いや、悔しくなんかない! 私はスレンダーなだけ、私はスレンダーなだけ。何度も呟いて自己暗示を掛ける。
 いつまでも貧相な……いや、スレンダーな胸を見つめて自己暗示を掛けている場合ではなかった。彼女には良夜を捜すという重大な任務があった。トンッと地面を蹴り上げ、宙へと舞い上がる。適当な踏み台があれば楽なのだが、何もないと小さな羽を一生懸命に動かさなければならない。実はこれが結構たいへん。結構疲れる上に、気を抜くと水平に飛び始めてしまう。しかも、ここは街の雑踏の中、いくつもの足や膝がアルトの小さな体を容赦なく蹴り飛ばしてくれる。
「イタッ! あっ! もう!!」
 ストローを持っていたら、ここを血の海にしてしまうところだったに違いない。
 僅か、一メートルばかり上昇するのに、たっぷり二分はかかった。まだ、半分かと思うとうんざりしたが、その半分すら無駄にする一撃を加えられた。彼女の真横にあったドアが開いたのだ。正面や後ろの足には注意をしていたが、真横までは注意してなかった。
 開かれたガラス戸は、彼女の横っ面をひっぱたき、せっかく時間を掛けて上昇してきた一メートル少々の高度を、一気にゼロへと戻してくれた。再び、冷たい地べたにしりもちをつくアルト。また、ちょっぴり涙が出た。
「ちょっとは注意しな……りょ! ……やぁぁぁ……」
 怒り、そして喜び、再び怒り。めまぐるしく変わってゆく彼女の表情には、ちゃんと理由があった。ドアを開いた男が良く見知った顔の男であり、更にその男が明後日の方向を向いていたからである。
 まあ……不可抗力なのだが、彼の間の悪さは天下一品だった。

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