Stray Pixie(2)
駅に向かって雑踏を駆け抜けていたアルトちゃん、ただいまバスに乗車中。あっれぇ?
アルトはちょっと前まで、気持ちよく他人様の頭を踏み台に雑踏を駆け抜けていた。国道を走るトラック、吹き抜ける風、虫の声しか聞こえないアルトの周りとは違い、ここは様々な音楽であふれかえっている。その音楽達に合わせ、いくつも頭を踏み越えていく。雑踏はステージ、歩き行く人の頭は舞台装置、四角い立木の隙間から覗き込む雲達が観客、おしぼりドレスの衣装がちょっぴり残念。アップテンポな曲が聞こえたら大きく隣の頭まで飛んで、スローテンポな曲が聞こえたら飛ばずにステップだけ踏んで、スピンを入れたり、宙返りしてみたり、目的が手段に取って代わられるのにさしたる時間は必要なかった。
新しい目的地を見付けた。その目的地は、自宅である喫茶アルトでもなければ、寄り道先の名前も知らない喫茶店でもなく、飛び移れそうな頭。今度は今までよりも随分と高い、頭一つ分くらい他の人よりも大きい。飛べるかしら? 曲も良い感じにアップテンポ、飛べるわ!
判断は一瞬、一瞬先には曲調が替わってしまう。見知らぬ人の頭で大きく膝を曲げ、一気に全身の力を解放! 思い描いたままの放物線を描き、高い頭へと着地を決める。
「市内巡回バスをご利用いただきありがとうございます。このバスは市民病院、市役所、図書館……」
プッシューッと圧縮空気の抜ける音。アルトが着地した頭は『背の高い人』ではなく『バスのタラップに足をかけてた人』の持ち物だったって事に気がついた時には、バスの乗車口は固く閉ざされていた。本日二度目のドライブはバスだった。
「貴方のせいよ?」
最後に飛び乗った頭の持ち主は、仕事中と言った雰囲気のサラリーマン。ちょこんとその頭の上に腰を下ろし、アルトは小さくため息をついた。リズムに乗って、頭に乗って、調子に乗って、電車に乗る気が、バス乗った……ラップみたいね、とちょっと自嘲的な笑みになってしまう。
バスがどちらに向いて走っているのかはよく解らないが、次の停留所で降りればいい。そして、逆方向に走るバスに乗れば万事問題なし。まだ、迷子じゃない。帰り方は判ってるんだから、迷ってなんか居ない。
そのバスは今朝乗ったおしぼり屋のライトバンよりかは、随分と乗り心地が良い。小さな振動は逆に心地よく眠気を誘う。何時かしら? とバスの中で時計を捜せば、お昼を少し過ぎた時計が見つかった。普段なら良夜が食事をしに来る頃……自分が居ないことに気がついただろうか? 居ないことには気付いても、ゆっくり食事が出来るくらいしか思わないかも知れない。うん、むかついた、むかついて眠気も飛んだ。
ゴトゴトと揺れるバスは小高い山へと登っていく、大学や喫茶アルトのある辺りと似ている雰囲気かも知れない。多分、こっちの方が人には快適なのだろうけど……ほんの一日前まで居て今日中に帰る――予定の――場所と似ているだけの場所なのに、随分と懐かしいと思う。次の停留所は市民病院前、喫茶アルト周辺以外ほとんど『馴染みのない場所』だけど、中でも『病院』という場所は更に馴染みがない。なのに、そこに向かう道を『懐かしい』と思う。変な感じ。嫌ではない。素敵だと思う。理由は説明できないけど……こんな話を良夜にしたら、きっとまた馬鹿にされるだろう。理数系の人間は情緒がない。
運の良いことにそこのバス停で降りる客が数人ほどいた。その一人の髪につかまってバスを降りる。山の中腹に作られた市民病院、病院という建物と大学という建物は少し似ていると思う。装飾が少ないコンクリート製の建物、画一的な個室が沢山あるところも似ている、似たロケーションに似た建物、ますます『懐かしい』
今、乗ってきたバスは下り便だから、乗るべきは上り、一時間待ちと言ったところ。バス停の時刻表に腰掛け、五月晴れの空を見上げる。空はどこに行っても同じ、同じだから、アルトで居るときと同じように何時間でも眺めて待っていられる。おしぼりのドレスをたくし上げる。ちょっと動いただけで落ちるのは、胸が極限まで真っ平らに近いから、と言う事は意地でも認めない。
ここで一時間待って、バスと電車を乗り継いだら、懐かしの我が家。ちょっとした冒険よね、と思うと少しだけ心が躍ってしまう。良く考えたら、一人で電車やバスに乗るのは今日が初めての体験だ。
「浅間です……あっ、美月さん? 今、おしぼり屋さん出ました……来てるのは間違いなさそうなんですけど……」
目的地の場所も聞かずに飛び出したドアホウ様浅間良夜が、携帯電話という文明の利器を駆使しておしぼり屋に到着したのは、ランチタイムの終わりが見え始める頃。和明が『大事な物を一緒に出してしまった』と連絡しておいてくれたおかげで、おしぼり業者の所で余計な説明をせずに済んだのは助かった。『喫茶アルトから来ました』と言うだけで、アルトから出たおしぼりのカゴとそれが積まれてきた車などを見せて貰うことが出来た。
しかし、そこのどこにもアルトの姿もなく、居たような気配、痕跡の類は一切見付けることが出来なかった。まあ、良夜に『気配』などと言う物を感じられる特殊能力も、微細な痕跡まで見付けられるほどの鑑識能力もあるはずはないのだから、あまり当てにはならない。
とは言っても、全く収穫がなかったというわけではない。
「軽い物ですか? だったら飛んでいってしまったかも……」
その話をしてくれたのは、アルトからおしぼりを回収していった車の運転手だった。彼の頭に触れていった『何か』、それはアルトだと良夜は直感的に思った。奴が他人様の頭を踏み台にして空に舞い上がるのはいつものことだ。良夜の頭もしょっちゅう踏み台代わりにされている。車内から逃げ出したときに、この運ちゃんの頭を踏み台にしたのだろう。
良夜はその運転手に礼を言って、おしぼり屋を後にした。外に飛び出したと言うことは、いくら捜しても、何時間待っていてもここで奴と再会できる可能性はゼロと言って間違いない。
「とりあえず、この辺をしばらく捜してみます。アイツの足なら、そうそう遠くへは行けないと思うんで」
美月とつながっていた携帯を切り、無造作にポケットにねじ込む。そこにはクシャクシャに丸めたアルトのドレスと、それに包まれたストロー。ねじ込んだ携帯電話の代わりにストローを取り出し、それを日にかざす。銀色に輝く材質不明の管、通称ストロー、指揮棒、教鞭、鞭、剣、針、何にでも使える便利な小道具。アルトはこれをいつも大事に……人の手に刺したり、足に刺したり、頭に刺したり、ろくな使い方してないよな、これ……本当に大事にしているつもりがあるのだろうか? ちょっと確信が持てない。とりあえず、なくしたり折ったりしたら理不尽な怒りを買ってしまいそうなので、もう一度ドレスに包んでポケットにねじ込む。
ともかく、アルトがここまで無事に出て来ていると言う事を確認できただけで、ある程度は気が落ち着いた。少なくとも、店員の誰かに丸められてゴミ箱に捨てられた挙げ句、焼却所で灰になっているって事はないだろう。それが判っただけでも、ここに来たかいはある。
おしぼり屋の店舗前に止めて当たったスクーターにまたがり、エンジンを掛ける。セルは壊れたままなのでキックで掛けなきゃならないのがちょっと面倒くさい。数回キックを踏み込めば、ペンペンといういつものちゃちなエンジン音が控えめに空へと吸い込まれていく。
「さてと……どこから捜すかね……」
全く手がかりなどないのだが、良夜は何となくあの馬鹿妖精を見付けられる、そんな気がしていた。ただ、見付けるためにはそこそこに手間暇を掛ける必要もあるような気もしていた。
ぼんやり三十分、アルトは店で過ごすのと同じように空と風景を眺め続けていた。いつもなら、さしたる苦はないのだが、今日はかなり辛い。理由は三つ、回りに誰もいないことと、コーヒーの香が全然しないと言うこと。思いの外、この二点は暇つぶしの大きな役目を担っていたようだ。
「朝から、飲まず食わずなのよね……」
そして、これが三つめ。バイトの帰りに良夜が食べていたコンビニのおにぎり、それを少し貰ったのが最後の晩餐。それも、乗り物酔い気味だったので、あまり沢山は食べていない。飲み物も缶の緑茶だったし。それから優に半日以上、何も食べていない計算になる。そりゃ、誰だって腹が減るってもんだ。
「お腹……空いたわね、流石に」
空腹という物は、暇になってくると余計に堪えてくる。
病院の建物に入れば、食事を提供している所くらいはあるだろう、そこでつまみ食いくらいは出来るに違いない。しかし、問題はバスの便。時刻表によれば後三十数分で来る。人間の足なら、病院の売店だか、食堂だかで何かを買って帰ってくるくらいは楽に出来る。だが、自分の足ではどうだろうか? ギリギリだ。病院内部でスムーズに売店を見付けることができ、更に、すぐにつまみ食いできる何かも見付けることができるとして、ギリギリ。どちらかでも捜してしまえば、間に合わなくなる。
「我慢するしかないわね……」
これが彼女の結論だった。長い三十分になりそうだった……
で、三十分後、バスが来た。そして、止まらずに行き過ぎやがった。
「えっ……嘘……でしょ?」
バスという公共交通機関は、停留所に降りる客も乗る客も居なければ止まらないようになっている。そして、今、停留所にいるのは誰にも見えない妖精さんが一人きり。バスの中に降りる乗客が居なきゃ、止まるはずがない。
流石のアルトも、この事実には色白の顔を更に蒼白にさせざるを得なかった。蒼白になった直後、すぐに真っ赤になって怒り狂い始めた。信号みたいな奴。
「ちょっと! 待ちなさい!! 客が居るのよ!!!」
びた一文金を支払うつもりのない奴が、どの面下げて言ってんだかは知らないが、奴は客のつもりだったようだ。
「搭乗拒否! 呪ってやる! お巡りさんに各種道交法違反で検挙されて、免許を取り消されて、運転できない運転手の惨めさをたっぷりと味わうと良いわ!!!」
ぜーぜーと肩を大きく上下に揺らし、あらん限りの大声で呪いの言葉をぶつける。とは言っても、相手の耳には届くはずもなく、ディーゼル臭い排ガスを垂れ流すバスの後ろ姿を力なく見送るしか、彼女にできることはなかった。しかも、大声を出してわめいて暴れたもんだから、胸に巻いていたおしぼりがずれて落ちそうになっている。空しいことこの上ない。
こうなると、次の便――更に一時間後――を待ってもどうなる物かと思えてくる。いくら何でも一時間で一人も来ない病院って事はないと思うが……アルトは事ここにいたって、ようやく一つの可能性を考慮に入れざるを得なくなってきた。
『私は迷子かもしれない』
まだ、『かも知れない』と言っている辺りにちょっぴりの余裕がある。とりあえず、帰る手段は明確なのだ、それに待ち時間が一時間延びたと考えれば、病院の中に潜り込んで食事をかすめ取ることもできる。まだ大丈夫、迷子とは言い切れない。
「一時間待ち?」
「駅まで歩いた方が早くない?」
そして、捨てる神あらば拾う神あり。アルトの腰掛けた時刻表の前に来たのは、二人組の若い大学生風の女性だった。病気持ちには見えないから、おそらくはここの職員か見舞客か……健康そうな病人という変わった人ではないだろう。
「貴女、太ってるわよ。歩きなさい。きっと一時間も掛からないわ」
そう言ったアルトは、腰掛けていた時刻表を覗き込んでいる女性の頭へと飛び降りた。しかし、相変わらず、自分より胸の大きい女は全部『太っている』扱いをする妖精である。僻み以外の何物でもない。
「じゃぁ、ダイエットの必要なあんたのために歩くとしますか」
「そりゃお互い様でしょ?」
アルトの念が通じたのか、二人の女性は駅に向かって楽しげに歩き始めた。三人を見下ろしていた空には、彼女たちの目的地を示すかのように二本の飛行機雲が、線路のレールのように真っ直ぐと空へと伸びていた。
ところ変わって良夜の方。良夜に手がかりはないが、心当たりはあった。アルトの飛ぶ速度と喫茶アルトまでの距離を考えれば、奴が向かう場所はただ一つしかない。駅前である。普通の人間でも、ここから喫茶アルトまで徒歩で帰れと言われるのは、死ねと言われるのも同然だ。アルトが帰るためには、何らかの公共交通機関を使わざるを得ない。電車を使うのなら駅本体、バスを使うのなら駅前のバス停、どちらにしても駅前に来る。
「意外と賢いよな、俺」
誰が考えても明白な話を思いついただけで、天狗になってるアホ一匹。スクーターの乾いた排気音をお供に、おしぼり屋の前から駅前のロータリーへと移動する。改札口とバス停、両方を観察し続けられるところ、出来れば暇がつぶせる喫茶店かコンビニでもあれば最高なのだが、残念なことにそんな良い張り込み場所はない。良さそうな場所と言えば、ロータリーの中にある小さなベンチ。休日ともなれば、恋人同士の待ち合わせ場所によく使われる場所。もちろん、良夜がここで誰かを待つのはこれが初めて。その事実に気がついて、ちょっとだけ悲しくなった。
スクーターを止めてベンチに腰を下ろす。何気なく見上げた空には、真綿のような雲が二つ、そして、その間を天頂へと駆け上っていく飛行機雲……今年の夏も暑くなりそうな気がする。
未だ五月だとはいえ、日除けのないベンチは、座ってボケーッとしているのに少々暑い。アスファルトの照り返しも考えれば、いつ来るとも判らない馬鹿を待つには甚だ不的確な場所だ。それに、良夜は彼女のストローを見付けた時、取る物も取らずに喫茶アルトを飛び出してきてしまった。彼もまた飯抜きなのである。朝飯を食っている分、アルトよりかはマシとも言えるが、アルトが昨夜から何にも食わず、空きっ腹を抱えているなど、良夜が知るよしもない。
「腹……減ったよなぁ……」
はからずもアルトと同じ言葉を呟く良夜。目に着くところだけでコンビニ、ファーストフード、ファミレス、喫茶店、食い物を提供してくれるところはよりどりみどり。ポケットの財布には常識の範囲内で食うのならば、昼飯の四−五回は楽に食えるだけの金額は入っている。
「食ってくるかな……飯……」
問題は、見えている店のどれに入ってもアルトが来ても気がつかないという点にある。どの店も改札かバス停のどちらか、もしくはどちらも見えなくなる。もし、入れ違いにでもなったら、アルトが喫茶アルトにまで帰り、美月か和明にその存在を教えるまで、ここで待ちぼうけ……そんなことになったら間抜けも良いところだし、『ほっときゃそのうち帰るだろう』と見捨ててしまうには、良夜の心は冷たく出来ていない。何より、そんなことをしたら、喫茶アルトの出入りを禁止されてしまうかも知れない。
「あっ……ハンバーガーうまそう……」
店から出てくる客の手を視線が追ってしまう。結構、意地汚い。腹減った、腹減ったと考えていると、余計に腹が減ってくる。空腹のスパイラル。
空に刻まれた白い亀裂と改札とバス停、それをボーッとした間抜け顔で順番に眺めていく。本の一冊でもあればと思うが、授業で使う教材すら、アルトに置いてきてしまった。空腹で退屈、ちょっと前のアルトと全く同じ状況。
「早く来ないと、お前の貧弱な体、食っちまうぞぉ〜」
退屈と空腹はどちらも彼の意識を拡散させ、思いついたくだらないフレーズを口に出さずには居られなくなってくる。良夜は鼻歌を歌うように、思いつくままの言葉を小さな声で呟いていた。ちょっと見、ある種の可哀想な病気を背負って生きる人々のお仲間のようだ。
「アルトの胸は美月さんよりも小さいぞ〜〜美月さんも小さいぞ〜」
「……誰が小さい胸なんですか?」
五月の暖かな日差しが三ヶ月ほどに遡ったよーな気がした。ゆっくりとベンチの後ろへと視線を巡らせると、そこには――
「……スレンダーなスタイルが素敵な美月さん、どうしたんですか?」
「吉田さんに仕事を任せてきたんですけど……お邪魔みたいですね」
こめかみが微妙にひくつき、長い髪が逆立つ。レアだと聞いた美月の怒り顔、良夜はしょっちゅう見ているような気がする。
「えっと……じゃぁ、この辺にいて下さい。アルトが通ったら、見付けてくれると思うんで」
「その前に、ゆっくりと、良夜さんが私のことをどう思っていらっしゃるのか、お伺いしてみたいんですが」
「その件に関しては、後日、ゆっくりと時間を設けて、議論を重ねる所存ですので……食事してきます!」
脱兎の如く逃げ出した良夜の背中に、美月の良夜をぶっ殺しかねない視線が突き刺さる。後が恐いが、とりあえずは飯を食おう。怒られるにしても何にしても、空腹で怒られるよりかは、満腹で怒られたい。
本日の教訓、馬鹿に暇を与えてはいけない、もっと馬鹿になるから。