ゴールデンウィーク(四日)
雨が降っている。シトシトと静かに。晴れていたならば太陽が天頂付近に近付く頃、でも、今日は一度もそれを目にしては居ない。この調子なら、夕日も見られずに終わるだろう。アルトは雨が嫌いではなかった。どちらかというと、好きな方かも知れない。何もかも洗い流すような激しい雨が窓ガラスに作る模様を美しいと思うし、シトシトと静かに降る雨の日の静まりかえった店の雰囲気も素敵だと思う。何より、雨に洗い流された澄んだ空を見上げるのが好き。
そんな雨の中、良夜と直樹はバタバタと駐車場の中を駆け回っていた。ばらしたスクーターに防水用のシートをかけているのだ。
今朝、アルトが起きたとき、彼女の美しい金髪は持ち主の意志に逆らいあらぬ方向へと飛び跳ねていた。こういう日は湿度が高く、すぐに雨が降る事が多い。そして、窓の外を見てみれば低くたれ込めた空。その二つから、アルトは昼前には雨になると断言したものだ。しかし、良夜はテレビの『雨は夕方から』という予報の方を信じた。信じた結果が、雨の中でかけずり回る羽目になっている。全て自業自得、だから、同情はしてあげない。
「今日は開店休業ですね」
アルトが張り付く窓に和明も近づき、小さく独り言を呟いた。元々ゴールデンウィークだから客足は悪い。そして、雨が降った日も客足が鈍る。二つ重なれば開店休業になるのも当たり前。それでも和明の声に暗さは見あたらない。いつものように穏やかな笑みを浮かべた静かな口調。少しは悲壮感を持っても良いのに、経営者なんだから、とアルトは思う。美月の方は売り上げが下がっていると露骨に落胆するのに。もっとも、客が居なくて静かな店内も素敵だと思うアルトに、そんなことを言う資格はないのかも知れない。
和明もしばらくの間、窓から雨の中で駆け回る二人へと視線を向けていた。そして、二人の作業が終わりに近付いた頃になり、その身をコーヒーサーバの前へと動かした。ドリッパーと豆を用意して、いつものように静かな手つきでコーヒーを煎れる。それが二人のためであることはアルトの目にもあきらか。他に客は居ないのだから。もっとも、あの二人が客と言えるかどうか、それは微妙だ。そもそも、注文なんてしてないのだから。
アルトはトンと窓枠を一つ蹴り、和明の前へと舞い降りた。そして、今度は耐熱ガラスで出来たサーバに頬を寄せ、そこに滴り落ちるコーヒーの温かさを全身で楽しんだ。随分と長く雨を眺めていたせいか、濡れているわけでもないのに体が冷え切っているような気がする。しかし、心地良いのもしばらくの間だけ。元々、暖められていたサーバは中のコーヒーが増えるに従い、温かいから熱いへと変わっていく。もうしばらく『温かい』のままで居てくれたらいいのに、と思いながら、彼女は貼り付けていた体を離し、代わりにそのサーバを背もたれにペタンと冷たいステンレスの上に足を投げ出した。静かに目を閉じて、コーヒーの香りと背中に感じる少し熱いくらいの温もり、それだけに心を集中させた。
「わぁ、ひどい目に遭いました〜」
「吉田さん、タオルある?」
アルトの至福の時間は、二匹の濡れ鼠に打ち切られてしまう。ふぅ、と軽くため息をついて二人へと視線を向けると、ポタポタと雫の落ちる前髪、思っていたよりも雨脚は速いようだ。なんと言ってからかってやろうかと思案に暮れていると、良夜の顔に貴美の投げたタオルが当たった。隣に立っている直樹の方は、顔に当たらず頭の上を飛んで行ってしまったのはちょっとしたご愛敬。その意味を解した直樹がひどく情けない顔をして落ちタオルを拾った。背中に哀愁が漂っている。チビの気持ちは痛いほど良く解るアルトだった。アルト本人は決して認めないけど。
アルトのもたれていたサーバーが和明の手によって持ち上げられた。背もたれをなくしたアルトは、重力が命じるままにキッチンの冷たいステンレスの上にコテンと倒れ、そのまま遠ざかるサーバの底を見上げた。今から良夜の席に行けば、あのコーヒーにありつけるかな、とも思うが何となく立ち上がるのがおっくう。だから、寝転がっている。コーヒーは欲しい、でも、立ち上がるのは面倒……良夜が来ればいいのに、と我が儘なことを考えていると、その考えていた人物の顔がにゅっと彼女の視界に滑り込んできた。
「……お前、何やってんだ?」
ガシガシと無造作に髪を拭きながら、アルトの顔を見下ろす良夜。その顔は珍獣でも見るかのような顔をしている。
「何をしていると思うのかしら?」
とは聞いてみたものの、自分でも今ひとつ何をしているつもりなのかはよく解らない。判らないから聞く、人として正しい行為。アルトは人じゃないけど。
「うち捨てられた哀れな着せ替え人形の物まね?」
「喧嘩を売っているのなら、買うわよ? お金は払わないけど」
細い眉を僅かにひそめ、良夜の顔を下から見上げる。彼はその顔に冗談、とだけ笑って言葉をかけた。
「許してあげるから、席まで連れて行ってくれるかしら? 和明がコーヒーを用意しているわ」
白いドレスの袖に包まれた細い腕を良夜に伸ばすと、彼の冷たい手がそれをつかみ、ひょいと彼自身の肩へとアルトの体を乗せてくれた。この二ヶ月弱の期間に、ここと頭の上はすっかりアルトの指定席になっていた。どちらも他に腰掛ける者など居ないのだが。
「へぇ、さすが店長、気が利くな」
「あら、私だってちゃんと貴方には忠告してあげたはずよ? 雨が降るって」
「あぁ……まあな、聞いときゃ良かったと思ってる」
少し嫌みっぽい言い方をすると、良夜はばつが悪そうにアルトから視線を外した。
濡れたシャツはアルトの小さめのお尻を滑らせ、座り心地が悪い。ずり落ちないようにするためには、普段よりも良夜の頬に引っ付くしかないのだが、引っ付くと今度は冷えた頬が体に密着して冷たい。仕方ないから、良夜の頬に自分の方を貼り付けて、少しだけ暖めてあげる。風邪を引かれると迷惑だから。
「おっ、幼児は体温が高くて良いな」
「やっぱり、ロリね。馬鹿は風邪を引かないけど、ロリは風邪を引くのよ」
「馬鹿でもなければ、ロリでもないって」
「馬鹿でロリな童貞は風邪を引くのかしらね?」
「人の話を聞け」
良夜は二言目には、話を聞けと言う。もちろん、アルトの耳は順調に機能している。聞いた上で、嫌みと嫌がらせと悪口と軽口を言ってる。そのたびに良夜の顔がコロコロと変わるのが楽しい。
「聞いてるわよ、聞いた話を総合して、良夜は彼女が居なくてロリで馬鹿な童貞と判断したのよ」
手に持ったストローを振って一息に言い切る。良夜はぽかーんとした顔になった。この顔はきっと呆れている。
「もういいや……コーヒーでも飲もうぜ……」
そして、無力感と脱力感に捕らわれる。本当にコロコロと表情が変わるのは見てて飽きない。
良夜が席にも着くと、一足先に席に直樹と二つのコーヒーカップが並んでいた。
「残念でしたね、雨降っちゃって」
「まぁな、こればっかりは仕方ないよ」
手に持っていたタオルを椅子に引き、濡れないようにしてから席に座る。それを見ていたアルトは、珍しく気が利くわねと少し感心したのだが、なんてことはない、貴美にそうするように言われていただけ。ボタボタになった椅子の後始末をするのは店員以外になく、今日は美月が一応休みなのだから。
アルトは良夜が席に着くと、その肩からトントンと軽やかにテーブルの上へと降りた。そして、いつものようにストローでチューチューとコーヒーを吸い上げる。やはり、コーヒーは香りと温かさだけではなく、味を楽しむが一番。口に含めば香りと暖かさも十分に堪能できる。
「お疲れ様でした。お昼は何になさいますか?」
営業人格の貴美が近付き、ニコニコと営業スマイルでいつものようにメニューを手渡してくれる。良夜は未だこれに慣れていないのか、この笑顔を見るたびに軽く引いている。『何か企んでいるような気がする』らしい。と言うか、貴美は良夜が引くのをおもしろがって、余計に慇懃な態度を取っているのだとアルトは思う。
「えっと……それじゃ……カルボナーラとコーンスロー」
「僕は……チョコワッフルです」
「売り切れです」
営業スマイルを一切崩さず、貴美はきっぱりと言い切る。それを聞いた二人、ついでにアルトも怪訝な表情を見せる。朝から客らしい客は片手で数えられる程度しか来ていないのに、売り切れて居るはずはない。更に雨が降り出してからは一人も来ていない。和明の言ったとおり、本当に開店休業になっている。
「だったら――」
「今日は、デミグラスソースのオムレツ、デニッシュサンド、ハニーフレンチバケット、たっぷりサラダのワンプレートランチ、チーズと明太子のトースト、温野菜のサラダ、しかありません」
良夜の注文を遮ったのは、貴美の口から流れ出る聞いたことのないメニュー。いくつかは、日替わりランチの中に入っていたような気はするが、レギュラーメニューには載っていない。アルトも良夜と一緒に毎日メニューを見ているのだから、間違いない。もっと良夜は、毎日メニューを見ても平日は『日替わりでブレンド』としか頼まない。日替わりランチは安くて量が多いから。ケチである。
「えっと、お客さんも居ないことだし、新メニューの試作品を作ったんですよ」
アルト達三人の疑問に答えたのは、休みの癖に朝から店内をうろうろしていた美月だった。一応、私服なのは、本人が休んでいるつもりになっているからなのだろう。しかし、朝からずっと細々とした雑用をしていたと思う。
「そう言うこと。試作品だから、お代は要らないけど、後でレポート提出ね」
営業用人格ではなく、素の貴美が美月の言葉を補足した。
「へぇ、そりゃ良いけど……レポートって……」
「僕ら、そんなに料理の味なんて判りませんよ?」
「もちろん、精密機械のレポート並みの完成度を要求」
精密機械のレポートって確か、良夜が毎週四苦八苦している奴よね、と思い起こした。時々、ランチタイムにも直樹と二人でレポートを見せ合っていることもある。時々……週に一回の授業だから、毎回くらいなのかしら? とアルトは少し首をひねった。
こうして、突発的料理研究会が始まった。ちなみに和明は我関せずを決め込み、一人、普通に賄い料理を頂いていた。
それが始まると、アルトはテクテクと一杯に食器が置かれたテーブルの上を窓ガラスへと近付いた。しばらくはコーヒーも出てこないし、良夜はタカミーズを気遣って話しかけては来ない。それですねてしまった記憶は、彼女にとって非常に嫌な物だった。今でも、良夜が直樹達に気を使って話しかけてこなくなると、胸につまる何かを感じてしまう。人数が増えるとそれは顕著になってくる。
「意外と子供よね……」
小さく呟く自嘲の言葉。その言葉が良夜の耳に届かなかったのは、アルトにとって幸運なことだった。それが原因でからかわれるのは嫌だし、気を使われるのはもっと嫌。
良夜と直樹は次々に運ばれてくる試作品を、二人で分担して食べ、それについていくらかの批評をしている。そのほとんどが『美味しい』だけで、どこが美味しいとか、どうした方が良いという話はないのだから、批評と呼べる代物にはなっていない。単純に食事をごちそうになっているだけ。一応は『好評』と言うことになるのかも知れない。美月の方は美味しいと言って食べて貰えるだけで満足しているようだが、貴美は少々不満げだ。
「少しはまともな批評が出来ないのかしら?」
今度の呟きは良夜の耳にも届いた。届くように呟いたつもりなのだから、届いて貰わないと困る。
良夜はその呟きを聞くと、アルトの前にオムライスの乗った皿を差し出してきた。多分、お前が批評してみろ、と言ったところだろうか? しかし、アルトはそれに首を振って答えた。朝から庭を走り回っていた良夜達に比べ、窓から外を眺めていただけのアルトに食欲はあまりない。元々、見た目通りに小食な上に、テーブルの上に並んだ普段以上の品数に、見ているだけで満足というのが本音だった。それに、自分が味見の役に立つとは思えない。
しかし、良夜はそれを別の意味に取ったようだ。他のメンバーに『悪い、ちょっと』だけ言い、アルトの体を摘んで席を立つと、そのまま、トイレの中へと入っていった。
「食事中にトイレなんて、マナーがなってないわよ」
「また、すねてるだろう?」
やっぱりね、とため息が零れる。ずれた気の使い方をするから、女にもてない。
「すねてないわよ、にらんでいるつもりもないのだけど?」
「にらんでは……ないよな、確かに」
どちらかというと小馬鹿にした視線を投げかけているつもりなのだが、良夜には伝わっていないようだ。マジマジとアルトの顔を覗き込み、必要以上に不機嫌になっていないことに安堵している。しかし、安堵されるのもむかつく。
「だったら、お前も味見しろよな。コーヒーの味には必要以上にうるさいんだから」
「あら、良夜に一般常識として必要十分な雑学を教えてあげているだけだわ」
「……必要なだけだか、必要以上だかは良いんだけど……味にうるさいだろう? お前」
「コーヒーの味は判っても、料理の味なんて判らないわよ」
「えっ?」
アルトの言葉に良夜が露骨に『悪いこと聞いちゃったぁ……』的な表情を浮かべた。別に亜鉛不足で味蕾が破壊された現代っ子じゃないのだから、同情されるいわれはない。
「だって……私が一度に食べられる量は良夜とは違うもの。オムレツの卵だけ食べて、オムレツ全体の味が判るの? 卵とライスとデミグラスソース、一度に口には入らないわよ、私」
サンドイッチを食べると、パンと中身が別々に口の中に入ってくる。それはそれで美味しいのだが、人間の感じる美味しさとは多分違う。だから、アルトの味見はほとんど役には立たない。
そこまで言ってようやく納得したのか、良夜は「ああ」と何度もうなずいている。ここまで説明しないと理解できなのだから、本当に察しの悪い男だと思う。だからもてない。うん、こりゃ、一生童貞ね、可哀想……
「……何考えてるんだ? その憐れむような視線」
「察しの悪い男はもてないのよ……」
「だから、一つ一つの行動をもてないって所に繋げんな」
「それより、早めに戻った方が良いわよ。便秘だと思われるわ。童貞で彼女なしでロリで馬鹿で便秘って……生きてる価値がないわね」
良夜は何か言いたそうな顔はしたが、困ったように頭をかくだけだった。多分、言っても無駄だということだけはようやく察することが出来たのだろう。
「とりあえず、味見は良いから、少しは食えよ。分担、多いんだから」
「そうね、少しは貰うわ」
そう、少しくらいは食べられそうになった。食事の通り道を通せんぼしていた何かが、少しだけ減ったような気がするから。