ゴールデンウィーク(三日)
 二日は全く波風のなかった一日だった。昼飯をアルトで食って、アルトに軽くストローで刺された以外は何の事件も問題もなく終わった。ベッドの中で『あれ、今日、何やってたっけ?』と言う疑問を覚えるくらいになにもなかった。一日をメチャクチャ無駄に使ったような気がする。そんなわけで、今回は三日のお話。
 
 『彼』は永い眠りの中にいた。滑らかだったボディには大小数々の傷が刻まれ、大地を踏みしめる二本の足は力なく潰れてしまい、廃棄処分されることすら忘れ去られた身。そんな『彼』を見つけたのは、普段ならばそこに決して近付くことない女――吉田貴美であった。
 その日、貴美の上司である美月はゴールデンウィークの連休を取っていた。一応、いつもと同じ時間に目覚め、祖父と一緒の朝食を取った後は出勤してきた貴美に後を任せ、自室の掃除に取りかかっていた。彼女の部屋は、布と綿で出来た同居人のおかげで、すぐに綿埃が部屋の隅に溜まってしまう。こまめな掃除が出来ない分、出来るときは徹底的にやらなければならない。それが終わったら、その同居人達の身だしなみを整えてあげる。これもこまめには出来ないので出来るときは徹底的にやる。なかなかに充実した休日になりそうだ。
 そんな充実した休日を過ごす予定の上司に後を任された貴美が、まず最初に取りかかったのはゴミを従業員用駐車場の片隅に持って行くことだった。そこに毎朝美月がゴミを出していることは知っていた。知ってはいたが、ゴミを出す係ではなく、徒歩通勤でもあったため、彼女がそこに近付くのは初めての経験だった。
「結構……重いよね、これ」
 どっこいしょと十八の乙女――生娘じゃないけど――とは思えない声を上げ、貴美は大きなゴミ袋を駐車場の隅に置いた。大量の生ゴミが出るのは飲食店の宿命みたいな物だ。野菜屑だの卵の殻だの食べ残しだの……パンの耳も出るのだが、こっちは貧乏な学生の非常食として需要があったりする。『アルトのパンの耳』と言えば、最後の非常食として大学では有名なのだ。それに数多くの人間が救われた。救われる人間が『学生』限定でない辺りがどうかしている。
 美月のアルトと和明のなんだかよく解らない古い車、その二台がここに止まっていることは知っていた。しかし、それがあることを知ったのは今日が初めてだった。貴美は好奇心が命じるままにそれに近づき、傷と埃と汚れとぺんぺん草に覆われた表面にぺたりと触れた。
「……動かないのかな?」
 数秒ほどそうした後、店内でコーヒーを飲んでいる直樹の元へとかけていった。
「なお、面白い物があったよ。店長、ちょっと良いですか?」
 数個の雲がぽっかりと浮かぶ空の下、貴美の嬉しそうな声が響き渡った。
 ゴールデンウィーク休み中の喫茶アルト、本来の業務とは全く関係のないことであわただしくなりそうだった。
 
「格安のバイクを見つけた?」
 いつものようにアルトのランチタイムを食いに来ていた良夜、珍しく直樹は同じ席には見えない。貴美がバイトをしてて、なおかつ、他に用事がなければ、直樹はコーヒー一杯でこの席を占領し続けている。占領させ続けられていると言うべきか? しかし、今日は居ない。直樹のオートバイはアパートの駐輪場にあったが、部屋には人が居るような気配はなかった。だから、てっきりこっちに来ていると良夜は思っていた。
「うん、それもここの裏にね」
 良夜の食事が終わったころ、食器を下げに来た貴美が砕けた口調で話をしていた。珍しく営業用人格ではない。
「もしかして……美月のスクーターかしら?」
 思い当たる節のアルトは、ストローで飲んでいたカップから顔を上げてそう言った。
「そりゃありがたいけど……どうしたの?」
 数日前に免許を取ったばかりの良夜は安いバイクを捜していた。大学が始まったら二研でも捜して貰うつもりだった。大きなバイクなら卒業生達も新天地へと持って行くのだが、原付だと置いていくことも多い。在学中に原付から大きなバイクや車に乗り換える学生も多い。そんな乗り手の居なくなったバイク達を安く買い取り、メンテナンスしたり、弄って遊んだり、新しい乗り手に安く譲ったり、そんなことも二研の活動の一つになっていた。ただ、一度二研の洗礼を浴びたバイクは中がどう弄られているかが判らない。二個一、三個一は当たり前、中にはボアアップをしたり、レース用のパーツが組み込まれていたり、保安部品がなかったり、最悪、50ccのボディに100ccのエンジンが組み込まれていたりと、恐ろしい代物だったりすることもある。
「美月さんが乗らなくなったバイクが、アルトの駐車場に転がってたの」
『転がっていた』に多少の不安を覚えるが、美月が乗っていたバイクなら少なくとも、改造はしていないだろう。その点は二研お下がりよりかは安心出来る。妖精のステッカーくらいは貼っているかも知れないが。
「でも、本当にただで良いの?」
「本体はね、美月さんと店長にも確認済み。経費と修理代は実費。今、なおが見てるよ」
「……普通の人なら、ただでも要らないと言うわよ、きっと」
 アルトの言葉に猛烈に悪い予感を感じた。最近、外したためしがない。そして、今回も外れなかった。

「本当に動くのでしょうか?」
 無造作にひっくり返されたバイクを覗き込む直樹、その背後から、店のことを貴美に任せた和明も覗き込んでいた。
「多分大丈夫です。エンジンのダメージは少なそうですから」
 和明の話によると、このバイクがここに放置されてからすでに一年以上が経過している。ガソリンやオイルなどは交換する必要があるが、それさえやればエンジンはおそらく回るだろう、それが直樹の見立てだった。
「これ? 凄いな……」
 埃まみれ、泥まみれ、ついでにぺんぺん草まみれのそれは、すでにどこのなんて言う車種なのかも良夜には判別することが出来ない。しかも、ボディはボロボロに傷つき、割れてしまっている。確かに、ただでも要らないよな……これ。
「美月がね、盛大にすっころんだのよ。で、慌てた和明と美月の両親が、あの車を買い与えたわけ。半分は自分で出したみたいだけど」
 もちろん『あの車』とは美月の妖精まみれの車のことである。
「車だと転ばないでしょ?」
「そんなに転びまくったわけ?」
「転んだのは一回だけ。ただ、その一回、転んだところに車が突っ込んできたのよ」
「よっ……良く生きてんな」
「バイクから放り出されて、車にはねられたのはあのスクーターだけだったもの。当人は腕をすりむいて全治四日」
「運が良いのか、悪いのか……」
「妖精が付いてるから私は運が良い、って言ってるわ、信じられる?」
「お前か?」
 当然だが、全く信じられない。この世俗の垢にまみれた妖精にそんなファンタジーがあるはずない。
「……私はその時、アルトでコーヒー飲んで、昼寝をしてたわ」
 そんな良夜の思いを察したのか、アルトは少々不機嫌そうだが、実際にファンタジーなんてないことはアルト自身が一番よく知っている。喫茶店でコーヒーを飲んでるしか能のない空飛ぶ人形なんだと言うことを、ボロボロになったスクーターを押して帰ってきた美月を見たとき、嫌と言うほど思い知った。
 ちなみに、この時だけは何事にも動じない和明も、座っていた椅子から転げ落ちるほど動転した。
 二人をそれだけ心配させた美月は、と言うと、こっちは至って平気。『服が破れちゃいましたね』といつものように笑って見せただけ。事故処理も自分でさっさとやってしまい、目の前でスクーターにひっくり返られ、そのひっくり返ったスクーターと接触してしまった哀れな運転手から貰ったいくらかのお金で、もう一度スクーターを買おうとまでしていた。で、慌てた両親と祖父が寄って集って説得して、あの車を買い与えた、と言うわけである。なければ生活できないことは、彼女の家族も嫌と言うほど知っている。
「あれ、良夜君、いつから来てたんですか?」
「こんにちは、浅間さん」
 少し離れたところで肩に乗せたアルトと話していた良夜に、バイクを見ていた二人が気づき、声をかけた。
「こんちゃ……で、直樹、直りそう?」
 あまりオートバイに詳しくはない良夜の目には、直りそうには見えなかった。しかも、車に撥ねられたという話を聞けばなおさらだ。
「外装ほど、中身のダメージはひどくないと思います。掃除してガソリンとオイルとプラグを交換したら、キックで回りますよ……多分」
「へぇ、そりゃ助かるな。ボディはパテで補修? 他は?」
「フロントフォークとリアショックかなぁ……二研の部室に合うのが転がってたら良いんですけど……それと錆も落とさなきゃ……休み明けまでに直るかな?」
「手伝うよ」
「手伝ってくれなきゃ直りませんよ」
 壊れたバイクの前で楽しそうに話す二人の顔を、アルトは良夜の肩の上から交互に眺めていた。この手の顔を彼女は今まで何回も喫茶アルトで見てきた。こう言うとき、楽しそうに話しているのは男達だけ、女は冷めた顔で仲間外れになるのが相場だ。そして、アルトも一応は女、多分、自分もあの時の女学生と同じ顔をしてるんだろうな、と思う。馬鹿なことには付き合ってられないと思いながらも、馬鹿なことに一生懸命な男がちょっと羨ましい。
 
 そんなわけで、仲間外れになってしまったアルトは、和明の肩に止まって店内に戻ってきた。直れば何処かに連れて行って貰えばいいし、直らなければ指さして笑えばいい。どちらにしても終わらないことにはアルトの出番はない。それにあそこにいたら、折角のドレスが汚れてしまう。アルトはホワイトワーカーを自称する妖精なのだ。
「なお達、どうでした?」
 休日のアルトにやってくる客は貴重である。貴美はそんな貴重な客が使い終わった皿を洗っていた。そして、和明がキッチンに戻ってくると、顔を上げて尋ねた。
「楽しそうでしたよ」
 そう答える和明の肩からアルトはぴょんと飛び降り、二人から少し離れたところに腰を下ろした。
「まあ……楽しそうなら良いか」
 何かを考えるようなそぶりを見せた貴美は、それだけ呟くとすぐに仕事を再開し始めた。とは言っても、仕事自体は大して残っては居ない。食器を洗い終えれば、後は店番くらいだけ。美月なら伝票でも片付けるところだが、そこは手をつけないルールになっている。
「気になるのでしたら、少しくらいは見てきても良いですよ。どうせ、店も暇ですし」
 貴美が洗い終わった食器を一つ一つ丁寧な手つきで棚に片付けながら、和明は貴美に言った。
「良いです、どーせ、相手してくれませんから」
「男の子なんですね、直樹君も」
「男の子なんです、なおも」
 アルトはそんなことを言う貴美の顔を見上げて、貴女も女の子なんだ、一応、と甚だ失礼なことを考えていた。恋人を『他の女性以外』のものに取られた女の子の顔をしていたから。
「店長こそ、気になるんだったら見てきて良いですよ? お客さん来たら呼びますから」
「いえいえ、二人に付き合うほどの男の子は残ってませんよ、もう」
 元男の子だった老人はほんの少しだけ寂しそうに、でも、それ以上に嬉しそうに微笑んだ。そして、少しだけ仕事の手を止めた二人をアルトは何が楽しいのか、頬をゆるませて見つめていた。

「予想通り、あまり壊れてませんでしたね」
 あれからほぼ半日、二人で試行錯誤を繰り返し何とかカウルの類を外し終えた。直樹の予想通り、壊れていたのフロントホークとリアショックだけ。後は消耗品の交換と掃除で走るようにはなりそうだ、と言う診断結果が出た。部品の方も二研所有のジャンクに使えそうなものがあったような気がするらしい。
「なれないことはやるもんじゃないな……手が擦り傷だらけだ」
 カウルの隙間に手を突っ込んだり、ドライバーで手を突いたりと、良夜の手はアルトに攻撃された以上に傷だらけになってしまった。
「慣れるとそうでもないんですよ。それに軍手使わないから」
「暑くない? あれ着けてると」
「手袋ですからね、そりゃ、それなりに……」
 直樹の軍手は油やら汗やらでぐっしょになっている。燃えるゴミ行きかな、と思いながらそれを脱いだ。
「直りそうだな……」
「直しますよ。こいつはまだ走りたがってますから」
 骨組みだけになったバイクを前に、二人はペタンと地べたに腰を下ろしていた。心地よい疲労感と達成感、熱い風呂にでも入ってさっさと寝ちまいたい、良夜はそう思っていた。もっとも、直樹はこれからバイトがある。その辺を考えると直樹への礼も考え考えなければならない。
「こいつが直ったら、何処かに行きたいよな」
 そう言えば、アルトが何処かに連れて行けとか言ってた。近いという話だが、あまり当てにはならない。
「一緒に何処か行きます? 吉田さんも誘って」
「原付で四百について来いって? お前、結構、鬼だな」
「CIDとプーリーとウェイトコントローラーとベルトとマフラーを社外品にしちゃえば、八十キロくらいまでは出ますよ」
「誰が二研廃人仕様にしろってったよ」
「エンジンを100ccの奴に交換しなきゃ、二研廃人仕様とは呼びませんよ?」
 本当はもっと続けていたかった。しかし、部品もなく、太陽も落ちてしまったとなればどんなに望んでも続けることは出来ない。明日朝一番に二研に部品あさりに行き、なければ調達手段を考えなければならない。
「楽しそうですね、お二人とも」
 陰干ししていたぬいぐるみを両手一杯に抱えた美月に言われるまでもなく、今日一日は楽しかった。スクーターしかないけど、二研に入っても良いかな、と思うくらいに楽しかった。それは直樹も同じだと思う。そうでないのに、こんなに楽しそうに笑える奴なんか、絶対にこの世の中にいない。
「でも、ここ、うちのゴミ置き場なんですよね」
 美月の言葉に男二人は夢の世界から、現実の世界――他人様の土地一杯に、工具やら部品やらをばらまいた世界に帰ってきた。
「明日、ゴミ屋さんが来るんですよね。それまでに片付けてないと……全部、捨てます」
 ゆっくりと、今日一日、バイクを弄って遊んでた馬鹿二人が、そのバイクの元の持ち主へと顔を動かした。笑顔の鬼がいた。
「……良夜君、もしかして、これが噂の怒った三島さんですか?」
「直樹、初めてだっけ? レアらしいぞ」
「僕、これからバイトですから」
「テメエ、逃げんなよ!」
 男の友情はもろかった。直樹は逃げようとしているし、良夜は逃がすまいとその手を強く握っている。
「良夜さんこそ、逃げないで下さいね?」
 まだ『良夜さん』扱いな辺りに、彼女の怒りが危険水域に達していないことが判る。しかし、滅多に怒らない人をどうして二回も三回も怒らせてしまうのだろうか?

「良夜、まだ、部品が転がってるわよ」
 結局、バイトを理由に直樹を逃がしてしまった良夜は、太陽が燃え尽きてしまってからも一人、そこの片付けに追われていた。
「美月が、片付け終わるまで絶対に帰すなって言ってるのよね」
「ウルセエ! アルト! ライトが暗いんだよ」
 ストローをペンライトに持ち替えた妖精に追われながら、良夜が片付けを終わらせたのは、アルトの営業も終わりかける頃だった。追いかけましているアルトがちょっと嬉しそうだったことに、残念ながら良夜は気がつかなかった。

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