ゴールデンウィーク(一日)
 運転免許センターまでは車で三十分ほどなのだが、公共交通機関を利用するなると、電車とバスを乗り継いで一時間ほどかかる。車だと郊外を突っ切るバイパスを使えば直行することが出来るが、電車とバスなら目的地に対して明後日の方向にある旧市街まで電車で出て、そこでバスに乗り換えなきゃならないからだ。バイパス上で運行しているバスでもあればいいのだが、そんな便利な物はない。どこのバス路線も赤字なのだ。モータリゼーションバンザイ。
 更に言えば、電車は一時間に一本しかなく、受付締切の九時に到着するためには八時過ぎに到着するように出発しなければならない。だから、駅には七時に行かなくてはならず、良夜の家から駅まで歩いて三十分弱かかる。すなわち、良夜が九時に免許センターへ到着するためには、六時半に家を出なければならない。車なら八時過ぎに出ればいい計算なのに……

「ありがとうございました」
 胸に抱いていたぬいぐるみ、ソプラノちゃんを助手席に座り直させると、良夜はぺこっと運転手である美月に頭を下げた。
「いいえ、気にしないで下さい。帰りは良いんですか?」
 いつも通りの笑顔を見せる美月は窓から顔を出してそう言った。
「あぁ、帰りの時間はアルトが忙しくなる時間ですから。電車で適当に帰ります」
「それじゃ、試験、がんばってくださいね」
 愛車の窓を閉めた美月はそう言って鼻歌交じりにアルトへと帰って行った。
 文頭に書いたような理由から、当初良夜は直樹にバイクで送ってくれないか? と話を持ちかけた。しかし、あいにく直樹は免許を取ってから一年が経っていないためタンデムは出来ないとの理由で断られてしまった。諦めて六時半に起きて電車で行こうか、と考えていたところに貴美が、自分が美月の代わりにモーニングの時間を働くから、美月に送ってもらえばいい、と言う提案をしてくれた。そう言うわけで、良夜は六時半に出発せずに済んだというわけである。
「さてと、受付はどっちかな……」
 走り去るパステルカラーのスズキアルトを見送っていた良夜は、広大な駐車場から建物へと歩き始めようとした。
「そっちは建物の裏になるわ。こっちから行った方が良いんじゃないかしら?」
 言われてみれば、そちらは実技試験用のコースがある側で、受付とは逆の方向だ。
「あっ、さん……きゅぅ?」
「おはよう、良夜。今日も良い天気ね、五月初日から五月晴れ、素敵だと思わない?」
 フヨフヨと目の前でホバリングをしている物体、それが何なのか、良夜は一瞬判らなかった。いや、判ることを頭が拒否していた。彼女がこんな所にいて良いはずがない。
「あら、どうしたの? 顔が間抜けよ」
 アルトの端正な顔が良夜の真正面へと滑り込む。そこまでされて、ようやくこの物体を受け入れることが出来た、不本意ながら。
「どうしてここに居るんだ!!!」
「付いてきたからよ」
 臆面することなく言い切るアルトに、殺意を覚えた。良夜はポケットから携帯を取りだし、美月の携帯番号を探し出す。まだ、そんなに遠くまで帰ってはないはずだ。
「残念だけど、美月、運転中はドライブモードにしてるわよ」
「帰れ!!」
 アルトの言うとおり、美月の携帯はドライブモード、いくらコールしたところで美月が気づくのはアルトに帰ってからだろう。
「アルトに帰ってから、また、こっちに来させるの? 随分と……迷惑をかけるのね?」
「迷惑をかけてんのお前だ!! 遊びに来てんじゃねえぞ!!」
「警察のテリトリーであまり大声を出さない方が良いわね、通報されるわよ」
 いくら怒りをぶつけたところで、どこ吹く風。アルトはそれを受け流し、平然としている。
「頼むわ……突拍子もない行動をするのは止めてくれ」
 良夜は本当に泣きそうになっていた。泣いていたかも知れない。
「そうね、考慮に入れて、前向きに検討してみる価値があるとは思うわ」
 どこの政治家答弁なんだか……
 

 アルトを送り返すことを諦めた良夜は、アルトにくれぐれも妙な行動はするな、したら置いて帰ると言い含めて講習を受けるための手続きを始めた。アルトの返事は非常に気持ちいい物であったが、気持ちいい返事であればあるほど不安が増してくる。もっとも、いやいや、渋々と言った返事なら、もっと不安になるに決まっている。存在そのものが彼の不安だと言っても良い。
「カップコーヒーしかないのね、ここ。それにあまり美味しくないわ。モカがこれなら、ブレンドはきっと泥水ね」
 早速コーヒーを要求したアルトに、良夜が渋々モカブレンドを買い与えると、それを一口飲んだだけで不満をいくつもたれ始めた。ただのブレンドコーヒーやジュースよりも三十円も高いのに……
「文句があるなら、水でも飲んでろよ……それにこんなもんだろう?」
 アルトの飲み残しを飲み干し、カップをゴミ箱に投げ捨てて、良夜はそう呟いた。
「良夜、貴方も一応は喫茶アルトの常連なのだから、少しはコーヒーの味も覚えなさい。それとも、可愛い妖精さんに夢中でコーヒーの味なんて判らないのかしら? だとしたら、悪いのは私ね……」
 アルトの勝手な言いぐさが終わる頃、ようやく原付講習が始まった。
「……飽きたわね、良夜」
 始まって、アルトがこんな事をほざき始めるまで僅か五分。まあ、良夜自身も、こりゃつまらないなと思っていたところなので、異論はない。しかし、いくら何でも早すぎる。確か事前説明では、三時間はこのつまらない講習は続くと言われた。午前中が講習で、午後から試験、その試験に合格すれば、めでたく免許がいただける、と言う運びになっているそうだ。面倒くさいことこの上ない。この上ないところにもう一個、面倒の種が目の前に転がっているのだから、頭が痛くなる。
「じゃぁ、寝てろ……」
「そうね、そうするわ」
 良夜の提案をあっさりと飲み込んだ彼女は、コロンと寝転がると数秒後にはスピースピーと心地よさそうな寝息を立て始めた……良夜のテキストの上で。どこぞの天下り会社が作ったテキストは決して面白い代物ではない、しかし、それでも読めないとなると腹が立つ。つまらない講習の時間を潰すための道具はこれ以外にないのだから。
 ひょいとアルトのスカートを摘んで、良夜は本の上から下ろす。
 数秒後、寝返りを打ったアルトが本の上に帰ってくる。
 次は羽を摘んで、隣の空いた席に置く。
 ころころと転がって本の上に戻ってくる。
 じゃぁ、机の下に置いてみよう。研究者にとってもっとも必要とされる能力は試したいと思うことを試す好奇心、とはある教授の口癖である。良夜も研究者としてかくありたいと思うことにした、たった今。
 寝たまま――なのだろうか?――羽ばたいて本の上まで帰って来やがった。すげー、こいつすげー。かっくんと脱力したまま、羽だけで器用に帰ってきたよ。邪魔だけどちょっと嬉しかった。
 今度は、彼女の体を摘んでポイと手首のスナップだけで他の席へと捨ててしまう。フワフワっとやる気のない放物線を描く彼女の体は、どこの誰とも知らないおばさんのテキストの上に見事着地。アルトが見えないおばさんは、気にすることなくアルト越しにテキストに退屈そうな視線を走らせている。
 しかも、アルトは寝返りを打つこともなく熟睡したままだ。どうやら『テキストの上』なら、そのテキストが誰の物でも良いらしい。うむ、なかなか興味深い実験結果だ、帰ったらレポートにまとめよう。誰にも提出しないけど。
 これで良夜の平和な講習時間は取り戻された……かのように見えた。しかし、良夜の人生は無駄に理不尽に出来上がっている。見ず知らずのおばさんはテキストを読むことに飽きたのか、開いていたテキストをぱたんと閉じてしまったのだ。
「ギャッ!」
 蛙を踏みつぶしたような悲鳴は良夜の耳にしか届かない。しばしの間忘れていたアルトのことを思い出した良夜は、口の中でヤバッと呟いた。しかし、一応、ヒロイン的立場なんだから『ギャッ』って悲鳴は止めて欲しい。
 間の悪いことに、おばさんは閉じた本の上に手を置いてしまっている。その本に挟まれたアルトは、そこから抜け出すことも叶わずバタバタと小さな手足を動かしもがくしかない。もがくしかないのだが、いくらもがいてもおばさんのぶっとい手の重さには敵わない。数分もがいては力尽きてぐったり、そして、数分ぐったりと休んでいるかと思うと、また、起きて数分もがく。それを何度も繰り返すアルト。見てて飽きない。飽きないのは良いが、その視線があった瞬間、奴は自分の喉を親指でかっ切る仕草をした。あぁ、殺す気だな、良夜は素直に理解した。
「良夜、覚悟は良いかしら?」
「まあ、何だ……優しくしてくれ」
 トイレ休憩まで一時間を腕の下で過ごしたアルト、彼女の心はささくれていた。触るもの、皆、傷つけるわけである。ちなみに彼女を触れるのは良夜しか居ない。世の中、理不尽だ。
 

 そんな感じで講習は終わり、いよいよ試験。額にバッテン傷を作った良夜は解答用紙に鉛筆を走らせていた。アルトは良夜の額を切り刻んだストローを丁寧に拭いている。
 切られた額が痛くて、イマイチ問題に集中できない。しかし、この試験に落ちるわけにはいかない理由が良夜にはあった。それは二研の伝統。
『実技で落ちるのは仕方がない。しかし、学科で落ちる奴は馬鹿だ。馬鹿は笑ってやらねばならない』
「落ちたら、二研の会報に名前が載るのよね」
 良夜は二研の部員ではない。しかし、二研で教本を借りた以上、落ちたら会報に名前を載せられて生き恥を晒す義務がある、とは貴美の言葉。そんな鉄の掟があるのなら、決して借りたりはしなかった。余計なプレッシャーを容赦なく与えてくれる。
「むしろ、その鉄の掟があるから貸してくれたのよね、きっと」
 良夜も絶対にその通りだと思う。その証拠に、貴美がその話を持ち出したのは、良夜に本を渡してから三日後の話である。敵を十分に罠の中に引き込み、そして発動させる。彼女は立派な策士だった。ちなみに直樹は『良夜君は二研関係者じゃないから掟は適用されない』と思っていた。恋人なんだから、貴美の考えくらい読めよなと言う良夜の言葉に、直樹は読めないから付き合ってんですよと苦笑いを浮かべていた。何となく含蓄があるような気がする。
「私も二研の鉄の掟は知ってたのよね。恥ずかしいわよ、特に原付で名前が載ると」
 だったら言えよ、と言いたいが、アルトの言葉に返事はしない。監視のオッサンがさっきからうろうろしているからだ。落ちる落ちない以前に、会場からつまみ出されたのでは話にならない。しかし、アルトにそんなことは関係ないようだ。
「ねえ、良夜、少しは相手をしてくれても良いんじゃないのかしら?」
 どういう風に考えたら、そう言う考えに行き着くのか、その点に関して相手をしてやりたくなった。なったが、ここで一言でも口を開けば、アルトの思惑通りになってしまう。相手にしてはいけない。
 いくら声をかけても無駄だと悟った彼女は、ついに問題用紙の上で大の字になると言う実力行使に出て来た。
 努めて冷静に彼女の体をそこからどける良夜。
 帰ってくるアルト。
 どける良夜。
 静かな戦いだった。ヒステリーを起こした方の負けである。この勝負、勝ったところで良夜に得るものはなく、アルトはこの遊びに満足している。圧倒的に不利な戦いだった。もはや、注目すべき点は良夜の我慢がいつ切れるか、だけである。
 パタン、半ば自棄になって良夜はペンケースを閉じて席を立った。
「あら、もう終わり?」
 彼女の指す『終わり』が、試験の方なのか、机上追いかけっこなのか、それは良夜には判らない。
「終わり、一応、全部、最後まで書いた」
 冷静に、そして、小さな声でアルトの質問に答える。もちろん、指しているのは試験の方。
「そう? 合格してると良いわね」
 そう思うのなら、邪魔するなよ……と、思う気持ちで試験会場から、待合室へと足を向ける。アルトは良夜の肩にぴょんと飛び乗って、いつものように腕を髪に巻き付けた。
「滑ってたら、お前の所為だからな」
「実力に決まってるわ」
「問題用紙の上でごろごろしやがって……」
「それより、早く待合室でコーヒーでも飲みましょう? 喉が渇いたわ」
 だから、人の話を聞け、二分だけで良いから。
「やっぱり、美味しくないわ」
 なんだかんだ言いながら、アルトにコーヒーを買い与えるだから良夜も人が良い。自分も飲みたかったから、と言う理由もあるのだが、コーヒーである必要はない。実際、良夜は大学に入学するまで、こういう場合、コーヒーよりもコーラの方に手が伸びるタイプだったのだ。
 紙コップを持って入った待合室には、すでに数人の人間が思い思いの方法で時間を潰していた。合否の発表までまだ時間がある。
「後……十五分くらいかな?」
「そんな所ね。意外と手間が掛かるのね、免許って」
「誰かさんの所為で余計な手間が増えたしな」
 アルトの飲み残しに口を付ける。言われてみれば、確かにあまり美味しくないような気がする。いつも飲んでいるコーヒーに比べると香りとすっきりとした苦みは少なく、逆に口内にいつまでも残るような嫌な苦みが強い。まあ、飲む前からマズイマズイと連発されれば、どんなに美味しいものでも不味く感じて当たり前なのかも知れない。
「ねえ、バイクはすぐに買うの?」
「ん? ああ……買わないとな、アルバイトも捜したいし……」
 一応、それようにのけてある貯金もある。あまり良い物変えないし、出来れば中古が欲しいところではあるが。
「そう。じゃぁ、買ったら行きたいところがあるの。連れて行ってくれるかしら?」
「近ければな」
「良夜にとっては近いわ。私にとっては遠いけど」
 紙コップのコーヒーが空になった。ゴミ箱までは十歩弱、おっくうだな、と思う。紙コップを握りつぶし、次に立ち上がる時まで捨てることを保留した。
「考えておくよ」
「前向きに考えておいて欲しいわね」
「それも考えておく」
「政治家以下ね……あら、発表だわ」
 アルトの声を合図に、電光掲示板に合格者の番号が灯っていく……その中に目出度く良夜の番号もあった。

 合格したらしたで、もう少々の面倒事があり、そのたびにアルトに邪魔をされたりもしたが、概ね大きな問題もなく無駄な時間と幾ばくかの金と引き替えに原付の免許を受け取ることが出来た。そして、手に入れることが出来た免許証、それを見た二人は、アッと小さな声を上げた。
 免許の写真に緊張した良夜の顔と、その肩にちょこんと腰を下ろして満面の笑みを浮かべているアルトの姿が映っていたからだ。
 慌ててそれを手渡してくれた係の人に写真を見せたが、彼は『免許の写真なんて変に写って当たり前ですよ』と面倒くさそうに答えるだけだった。
「書き換えは三年後の誕生日よね? 覚えておくわ」
 免許の写真と同じ笑顔で彼女はそう言った。

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