ゴールデンウィーク(最終日)
 ゴールデンウィーク最終日が始まるちょっと前、平たく言うと五月六日午後十一時十五分。喫茶アルト従業員駐車場は、投光器の薄暗い明かりに照らし出されていた。良夜と直樹の二人は、昨日の夜からこの時間まで、ほとんど休むことなくバイクを弄り続けていた。昨日の午後、直樹のバイトが始まる直前に二研の三年生が直樹の頼んでいたスクーターのパーツを喫茶アルトに届けてくれたから。今日は直樹のバイトが休みだったってのもある。
 直樹は、届けられたパーツを見た途端、良夜の都合も聞かず、美月と和明の二人に『今夜、駐車場貸してください!』と頼み込んでしまった。もちろん、良夜も早く直したいという気持ちが強かったので、それからずーっと付き合ってバイクの修理を続けている。主な担当はボディの補修と力仕事。直樹は技術的な部分全般。
 で、気がつけばこの時間。途中、何時間か、アルトのテーブルに突っ伏して寝てたような気はする。一晩中駐車場でバイク弄ってるわ、テーブルの上で仮眠は取るわ、もう、最悪以下の客を二十六時間ほど演じきった。でも、それももうすぐお仕舞い。二十四時間ほど前まで、素っ裸だった美月のスクーターは、良夜にパテとスプレー缶でお色直しをして貰ったボディを纏い、解体屋で拾ってきたようなパーツを直樹に組み込んで貰い、スポーティだった元の形を随分と取り戻してきた。
「しかし、二人とも良く飽きないね……私は飽きた」
 飽きた、貴美がその言葉を吐くのはこの二十四時間で優に三十回を超えた。この三時間だけでも十回は言っている。その割りには貴美もアルトの営業時間外はずっとここに座って、古い投光器を抱えて直樹と良夜の手元を照らし続けていた。ほとんど寝てない上にアルトでのバイトもきっちりとこなしている。タフな女だ。
「もうすぐ終わりますよ……っと、良夜君の方は?」
「俺ももうすぐ……げっ、舐めた……袋ナット、代わりある?」
「ありますよ……げっ、ズルズルじゃないですか。外れるかな……」
 楽しそうにバイクを弄る男の子二人、退屈そうに投光器を抱えた女の子が一人、そして、その三人を楽しそうに見つめる妖精さんが一人。
 アルトも昨日の夜からほとんど寝ていない。寝ようとはしたのだが、二階で寝ている二人と違い、一階店舗で寝ているアルトには、窓の外でうろちょろする投光器の明かりがまぶしすぎた。昼寝ならどんなに明るいところでも眠れるのに、夜に寝るときは小さな明かりでも気になってしまう。自分でもおかしいとは思うが、眠れない物は仕方がない。結局、良夜の頭の上やスクーターの上に座って、一晩中作業を見物していた。途中、居眠りを仕掛けた良夜の髪を引っ張って起こすという重要な任務を勝手に担っていた時間もある。そんなアルトは、良夜と直樹の『もうすぐ』という言葉を聞いて、ポンと自分の座っているシートを一つ叩いた。
「もうすぐらしいわよ……私は全然寝てないけど、あなたは一年以上も眠っていたのね。良い夢は見れた? 素敵な夢の途中なら怒っても良いわよ。でも、代わりに素敵な現実を見せてあげるから、それで帳消しにしてあげなさい」
 美月のスクーター改め良夜のスクーターが一年の眠りから覚めたのは、『明日』が『今日』に変わるまさにその瞬間だった。その事実に彼を起こした四人が気づくことはなかったけど。

「おはよう、良夜。良い夢は見れたかしら?」
「……おは……あれ、何でアルトがいんだ?」
 見上げたアルトの姿は、昨日とはちょっとだけ違うけど良く似たドレス、その背後には羽に透けた柔らかな朝日。ここはどこだっけ? 寝ぼけた頭で良夜はボンヤリとアルトの小さな顔を眺め続けた。
「思い出した?」
「思い出した……」
 そう思い出した。日付が変わった辺りにバイクの試運転を始めた三人。大学から向こうへと伸びる長い坂を、数回ずつ上ったり下りたりを繰り返し、前に向いて走ること、曲がること、止まることに問題がない事を確かめた。そんなことをしているうちに、自分達の睡眠不足を思い出した三人は、そのまま、アルトの店内に潜り込み惰眠をむさぼったのだ。一応、ここの住人が招き入れてくれたのだから、不法侵入ではない。招き入れてくれた人物に法廷での証言を求めることは出来ないのとタカミーズには良夜が招き入れたことになっているのは、問題と言えば問題。
「何時だぁ……」
 堅すぎる床に転がして体を起こす。隣ではタカミーズが仲良く抱き合って眠っていた。言いようのない疎外感に涙が出そう。吉田さんが間違えてこっちに抱きついてくれればいいのに……と思ってしまったのは一生の不覚。
「もうすぐ六時、和明は起きてるわよ」
 アルトが起きたのは良夜よりも十分ほど前、普段よりも随分と早い時間。でも、和明はいつものようにいつもの席でパイプを咥えて、床に転がる三人を見つめていた。アルトはここ二十年ばかり、この老人よりも早く起きた経験がない。老人は朝が早い。
「そっか……挨拶してくら……」
 フラフラとおぼつかない足取りで良夜は、自分の指定席に座る和明のそばに近付いた。
「すい――」
「おはようございます」
「ま……あっ、おはようございます」
 頭を下げるよりも謝罪の言葉を言うよりも、彼の挨拶の方が早かった。挨拶の方が早かったから、すいませんを言うタイミングは失ってしまった。
「頑張りましたね」
「頑張った……かな?」
 頑張ったつもりはない。やりたいことを回りの迷惑も顧みずにやり尽くしただけ。迷惑をかけたはずの人に褒められると、お尻の辺りがむずむずしてしまう。
「頑張りましたよ。お疲れ様。美月さんが起きてきたら朝食にしましょう」
 もう一度、老人は良夜の顔を見上げてねぎらいの言葉を与えてくれた。いつも通りの柔和な笑みを添えて。やっぱり、お尻の辺りがむずむずする。
「えっ? でも――……」
「モーニング、好評なんですよ。食べられたこと、なかったでしょう?」
 謝罪の言葉も遠慮の言葉も、この老人は最後まで言わせてはくれない。パイプの中に吸い込まれるように声にならず消えていく。
「今日、日曜日……」
「そうでしたか? 時々、曜日が判らなくなるんですよ。老人ですから」
 立ったままの良夜は、パイプを咥えたままの老人に言う言葉を見付けることが出来ずにいた。ただ、六人で食べた喫茶アルトのモーニングは評判以上に美味しかった。

 ペンペンと乾いた安っぽい音は良夜のスクーターが上げるかけ声。そいつとアルトをお供に良夜は国道を田舎に向いて走っていた。どっちを向いても田舎なのだが、旧市街へ向かい方向とは反対方向だから田舎へ向かう方向。いい加減な呼び名は大学生達が勝手につけた代物。こっちに向いて走って山をいくつか越えれば海に出るらしい。
「海が見たいわ」
 家に帰って軽く睡眠を取って起きたら、お昼を大きく過ぎた時間だった。直したばかりのスクーターに乗れば、いつも半分以下の時間で喫茶アルトに到着。凄く楽ちん。通学もスクーターを使いたいが、近すぎるので許可されない。
 そして、遅い昼ご飯を食べていたら、アルトが上記の言葉を言った。
「泳ぐには寒いぞ?」
「海と言ったら泳ぐしかないのかしら? 発想が貧困なのね」
 大きなお世話ではあるが……海ねぇ……良夜にとって海は身近な物だった。通学のために利用していた電車がほんの数分だけだが、海岸線を走るからだ。登校のときはその海が見えると『始まるなぁ』と思ったし、下校の時はその海を見ると『終わったなぁ』と思っていた。一日二回、数分の海見物。それが生活の中にリズムとして刻み込まれていたのかも知れない。当時はそんなことなど考えもしなかったのに、今、思い出すとそんなことを思ってしまう。『思い出す』その言葉を考えたとき、あの海が、もう『思い出』と呼ばれる存在になっていることに少しだけ驚いた。
「……良夜……良夜!!」
「あっ、ワリィ……」
「寝不足? 事故を起こしても困るし、今度にしても良いわよ」
 頬杖を突いてボォッと、高校時代――ほんの数ヶ月前――に戻っていた良夜の顔を、アルトは心配そうに下から見上げていた。
「違うよ、ちょっと思い出してたことがあっただけ」
「そう……良い思い出かしら?」
「普通だよ」
「じゃぁ、良い思い出だわ」
 ナゾナゾのような会話をしたアルトの顔は、少しだけいつもよりも優しかった、ここの店主のように。
 ペンペンと乾いた安っぽい音を立てて、黒いスクーターは良夜とアルトの二人を乗せて山を上る。シートの上では傷だらけのヘルメットをかぶった良夜が、おっかなびっくりにアクセルを開いている。初めて体感する時速三十キロの風。父親の運転する車から見るスクーターはとても遅く、邪魔以外の何物でもなかった。しかし、体感する時速三十キロはびっくりするほど早い。
『三日もしたらその速度に飽きちゃいますよ』
 試運転の時に直樹がそんなことを言っていた。
『飽きたら、いつでもこっち側に来てくださいね』
 ポンポンと自分のZZRのシートを叩いてそう言っていた。今のところは時速三十キロで十分。こいつももう少しは速度が出る。
 春風はスクーターによって何倍にも加速され、彼の胸元から顔を出しているアルトの金髪を良夜の口元にまで運ぶ。走り始めた頃は、盛んに色んなことを言っていたようだが、その声が風にかき消されることを知ってからはほとんど話さなくなった。代わりに、シャツの中で踵で良夜の胸を叩いてリズムを取っている。何か鼻歌を歌っているのかも知れない。テンポは少し早め、だから、歌っている曲も少し早めなのだろう。良夜もそれに併せて鼻歌を歌ってみる。お互い、何を歌っているかは判らない。だから、きっと全く違う歌を歌っている。でも、同じ歌を歌っている可能性もちょっぴりある。確かめる必要はない。
 低めの山を登ったり下りたるする国道は、他に走る車も少なく、良夜とアルトの貸し切りみたいなもの。信号もほとんどなく、道はずっと真っ直ぐ。こっちに向いて出かけるのは初めて、初めての遠乗りには丁度良いロケーション。調子が悪くなっても、直樹片上を呼びやすい。道の説明が簡単だから。
『あっちに向いてずーーーーーーーーーーーーっと行けば海ですよ』
 店の外まで送りに出てくれた美月が、そう言って道を教えてくれた。車で一時間ちょっと、スクーターだと半分の速度だから二時間かな、と勝手に思っている。
 いくつめかの峠の頂上まで上がると、唐突に視野一杯に蒼が広がった。海だった。良夜が通学電車の中から見ていた海とは全く違う海がそこには広がっていた。あまりにも当然の話、良夜が生まれ育ったところから遠く離れた場所の海なのだから。
「遠いところまで来ちまったなぁ……」
「一時間半って所じゃない、大げさね」
「あっ……あぁ、そうだな、一時間半って所だな」
 路肩にスクーターを止めて、小さな言葉を呟いた良夜をアルトのあきれ顔が見上げた。一時間半か……良夜はもう一度、その言葉を呟くと、再びスクーターを走らせ始めた。先ほどよりも落とした速度で、一時間半をかけてやってきた海をもう一度ゆっくりと見るために。
 しばらく走ると、国道は防波堤に沿って走るようになっていた。アルトは砂浜に出たがっている。良夜もそこで休憩するつもりだった。だから、防波堤の区切りがある場所を探していた。防波堤の下からでは折角の海を見ることは出来ない。その代わりと言ってはなんだが、むせかえるような潮の香りと、波の大きな音だけはそこに海が存在していることを二人に教えてくれる。
 心地よくリズムを刻んでいたアルトの踵が、ひときわ強く良夜の胸を叩いた。ふと、視線を下げるとアルトが防波堤へと上がる階段をその細い腕一杯で指さしていた。

「やっと着いたな……」
「疲れたのかしら?」
「流石に、な」
 二度目の運転で一時間半は長すぎたかも知れない。帰りも同じだけの距離を走るのかと思うと、ほんの少しだけ後悔の念を覚えてしまう。
 良夜が防波堤の上に腰を下ろすと、アルトもその胸元から這い出し良夜の肩の上へと移動した。
「砂浜じゃないのが残念だわ」
 アルトの言葉通り、防波堤の下は消波ブロックがいくつも据えられた岩場だった。穏やかな波がいくつもそれにぶつかり、白い泡を立てて崩れていく。そのたびに潮の香りが強くなっていく、良夜はそんな気がした。
『あっ、コーヒー欲しいな……』
 何となくそう思った。潮の臭いに負けないくらい香りの強い奴、それを少し温めに煎れて貰って、グイッと一息に飲み干したくなった。そんなことを思った瞬間、アルトの金髪が良夜の鼻先を軽く撫でた。毒されたかな? 軽い苦笑が零れてしまう。二言目にはコーヒーを要求する妖精に……
「ねえ……良夜、夕日」
「……確かに夕日だな」
 ゆっくりと水平線に落ちていく夕日、蒼と緋の両極端の色彩、まぶしいが心地良い。そう言えば、夕日をのんびり見たのはいつぶりだろうか? 毎日夕日の時間は家に閉じこもっている、と言うわけでもないはずなのに、夕日を見たと言い切れるのは久しぶりかも知れない。
「素敵だと思わない?」
「……お前に掛かると何でも『素敵』の一言だな」
「一緒に見てるのだもの、それ以上の言葉は必要ないわ」
「それも……そうか……そろそろ、帰るか?」
「……沈みきるまで待ちましょう。長くは掛からないわ」
 その言葉に反し、二人は夕日が沈みきり、そして、水平線の上にまで星が瞬き始めるまで、飽きることなく春の海を眺め続けていた。早く帰らないと、明日の授業がきついな、そんなことが何度も頭をよぎるが、立ち上がることが出来なかった。
 
 その日の夜、喫茶アルトはほぼ十日ぶりに客であふれていた。帰省して居た大学生達が帰ってきたから……便数の少ない田舎の駅で下りて、アパートに帰る前にアルトで食事をすれば、自然と同じ時間にアルトに集まってしまう。喫茶アルトの中は、ちょっとした同窓会のような雰囲気。久しぶりに出会った友人同士が、食事とコーヒーを囲んで、いつもより大きめの声で雑談に興じていた。美月と貴美も久しぶりの盛況を楽しむように右に左に店内を歩き回っていた。
 こうして、ゴールデンウィークは終わり、明日からはまた小難しい授業と賑やかなランチタイム、コーヒーの香りをお供にしたいつもの良夜の日常が始まる。まあ……ゴールデンウィークもコーヒーの香りはいつもお供してくれていたのだけど……

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