晴れ舞台(1)
 今を去る事六年前、吉田貴美十四歳の新年正月、彼女は鼻高々だった。
「えへへ、どーよ? なお」
 薄桃色の地に色鮮やかな白梅が染め抜かれた振り袖に、金糸銀糸がふんだんに使われた帯、どちらも母親がお嫁入りに持参してきた物。お古だが大事にされていたそれは決して色あせることなく、彼女を美しく飾り立てる。それを見つめるお隣さんで幼なじみ兼恋人の直樹くん、ぽかーんと口を開けてたった一言。
「うわぁ……綺麗……」
 魅入られたように呟かれた一言は万の美辞麗句よりもうれしく、彼女の鼻をさらに高くさせる。
「ふふ、惚れ直した? 自分で言うんもあれやけど、こんな美人を彼女に出来てんだから、自慢していいんよ?」
「……自分で言わなきゃ、本当に自慢できるんですけどね」
 苦笑いを浮かべるジージャン姿の青年……と言うよりもまだこの頃は少年と言うべきだろうか? 人よりも小柄な中学生をどう表現するかは悩み物なれど、彼女にとっては最愛の恋人。彼の手をギュッと握りしめ、彼女は満面の笑みを浮かべて言う。
「イコ! なお! 初詣!!」
 と、まあ、ここで終われば割といい話。しかし、彼女の不運はこの後に待っていた。
 毎年、貴美は元旦の食事を食べ過ぎる傾向にあった。まず、自宅でお雑煮とおせち料理。次いでお隣さんの高見家でお雑煮を二杯とおせち料理。自宅よりも直樹の家の方でお雑煮をお代わりするのは、吉田家はすまし仕立てで高見家は味噌仕立てだから。貴美は味のはっきりしないお吸い物よりもはっきりしている味噌汁の方が好き。
 そして、おせち料理。おせち料理は吉田家の恵、高見家の柊子、二人競作なので味は同じなのだが、高見家の方にはプラスアルファがある。
 分厚いボンレスハム。
 元をたどれば、これの出所は吉田家に毎年届くお歳暮だ。高見家のおせち料理に鎮座しているのは、そのお裾分けでしかない。だから、当然、貴美の家でも食べられる。
 だが、違う。吉田家で食べるのと高見家で食べるのとでは、同じボンレスハムでもその性能が全く違う。
 カットである。
 ごく普通、常識の範疇でしかカットされない吉田家に対して、高見家は分厚い。その家の主婦の性格を表すように異様に分厚い。縦に置いても倒れない厚さという奴だ。こいつをトースターで軽くあぶって食べると、まあ、なんて言うか、涙が出るくらいに美味しい。家で食べるハムと同じハムだとは思えないくらいに美味しい。美味しいものは食べなきゃ損である。
 上記のような理由から貴美は元旦は毎年食べ過ぎるというのが恒例行事であり、松が明ける頃にはダイエットと大騒ぎし始める所までがお約束だった。
 で、着物という物は結構体を締め付ける。特に直樹の分を吸収してるんじゃないんだろうかと思うほど発育が良い貴美は、平気な顔をしている物の実の所はかなり苦しかった。
 食べ過ぎアンド締め付け過ぎ、半ば以上自業自得ではあるが、辛い物は辛い。家から歩いて十五分ほどの所にある神社へとたどり着いた頃には、彼女の体は生理的欲求にさいなまれていた。
「……ごめん、なお……我慢できない。ちょっと、お手洗い……」
 上と下、両方からあふれそうな何かをグッとこらえながら、彼女は呟き、トイレに向かう。ついた先は割と小綺麗な和式のお手洗い。掃除が行き届いているのは良いのだが、掃除したばかりなのか床は少々濡れ気味なのが気になる。せっかくの晴れ着を汚さないよう、慎重の上にも慎重を重ねての行為は少々面倒くさいが、これも食べ過ぎちゃったのと美しいスタイルのせい。細心の注意を払い、裾が汚れないよう、長い袖が濡れた床に触れないよう、彼女は細心の注意を払って用を足す。
 出す物出して、さっぱり、すっきり。晴れやかな顔で水洗のレバーを蹴っ飛ばし、彼女は乱れた晴れ着を調えようとして、はたと気づいた。
「……おっ、帯……ほどけちゃってる……」
 この時、自分の顔から血の気が引く音を彼女は聞いた。
 いつまで経っても帰ってこない貴美を心配し、直樹がトイレに迎えに来るまで約十五分。その十五分を彼女は、個室の中で結び方を知らない帯と悪戦苦闘し続ける事に費やした。もっとも、直樹が来たところで根本的な解決になるはずもなく、彼女は直樹に脱げてしまった着物と帯を持たせ、自分は襦袢の上にジージャンという愉快すぎる格好で家に帰るという恥辱の元旦を過ごした。
 ちなみに女の数え十五歳は厄である。

「私はこの時思ったわけなんよ。自分で着たり脱いだり出来ない服を着るのは止めようって」
 営業終了後の喫茶アルト、そのフロア、貴美は美月といつもの席に腰を下ろし、売れ残りのケーキでちょっとしたお茶会を催していた。バイト終了後のちょっとしたお楽しみ、今日の話題は目前に迫っている成人式の事。しかし……
「それでは、吉田さんは行かないんですか? 成人式」
「まあ、晴れ着着るのも地元帰るのも面倒くさいし、そもそも、火曜日必修が入ってんだよね……サボれない授業だし、まあ、パスやね」
 小さなフォークをショートケーキのイチゴに突き刺しながら、美月が尋ねると貴美は大きく頷く。そして、彼女も美月と同じくショートケーキの大きなイチゴをぱくりと口に運ぶ。甘くて大きなイチゴを囓るとごく自然に頬がほころんでしまう。
「良夜さんは?」
「りょーやんも行かないんじゃないのかな? 同窓会は済ませたって言ってたし……応用工学はりょーやんも取ってるから火曜日はサボれないんじゃないんちゃう?」
 美月に聞かれ、貴美はむしゃむしゃと大粒のイチゴを囓りながら答える。
「それじゃ、直樹くんは?」
「私が行かないのになおが行くわけないじゃん。地元に帰るお金なんてなおにはないしね?」
 二つの質問に貴美が答えると、美月はフォークの先端で生クリームをつつきながら、「ふーん」となにやら考え始める。そして、一瞬ののち、それじゃ……と言葉を続けた。
「成人式の日は皆さんでぱーっと宴会でもしませんか? ぱ〜っと。これでもう誰にはばかる事もなくお酒も飲めますし」
「良いね。今まで誰かにはばかった事なんてないけど……うん、美月さんも来る?」
「もちろん、最初から行く気ですよ〜」
「一人だけ二十二歳なのに?」
「うわっ、吉田さん、ひどい〜」
 貴美がウィンクと共に軽口を叩けば、美月はぷっとほっぺたを膨らませる。直後に二人の明るい笑い声がフロアに響き、照明を落としたフロアはぱっと花が咲いたように明るくなった。
「あっ、アルちゃんも来るんっしょ?」
「アルト、吉田さんが聞いて――いったぁ〜髪、思いっきり引っ張られました……もう、吉田さんがアルちゃんって言うから……」
 貴美の質問に笑っていた美月の瞳に涙が浮かび、貴美の顔を睨み付ける。それでも愛嬌のある顔に迫力はなく、貴美はクスクスと楽しそうに笑い、それにつられて美月も黒い瞳をまん丸に開いて笑い始める。
「一回だから、アルちゃんも来るんやね? 真冬だし、鍋も良いかなぁ〜」
「すき焼きなんか良いんじゃないんですか? 今年の白菜は美味しいですよ」
「おっ、良いね? すき焼き、日本酒、シメはうどん、うん、完璧やね。じゃぁ、食材、アルトで段取りしてくれる? お金は後で払うから」
「はぁい。お肉に白菜、糸こんにゃくにお麩〜ちゃんとそろえておきますね?」
「焼き豆腐もね?」
 営業終了の喫茶アルトは薄暗くも華やかな話し声が響き渡り、お話に愛らしい花がいくつも咲いていく。ケーキもコーヒーもとっくになくなっちゃってるけど、それでも二人と妖精一人の話はとどまるところを知らない。あれやこれや――特に美月自身の成人式の話とか――に花を咲かせれば、あっという間に時間が過ぎ去ってしまった。
「あはは、じゃぁ、美月さんは成人式、ずっと居眠りしてたん? ……と、そろそろ帰らなきゃ、なおが帰ってくるまでにご飯の用意が終わんないや」
「それで晴れ着によだれたらしちゃって〜大変でした……って、もう、そんな時間ですか? じゃぁ、お風呂入って私も寝ますね」
 腕に巻かれた腕時計が直樹帰宅まで後小一時間もない事を教える。それを一瞥、貴美はとっくに空っぽになっているケーキ皿とコーヒーカップを二人分、トレイの上に乗せて立った。
「あっ、良いですよ? 私、持って行きますから」
「良いの良いの、帰りがけに放り込んでおくから」
 遠慮する美月ににこやかに声を掛けて、貴美はその場で美月と別れる。向かう先はひとまずキッチン、シンクの中に放り込んでおけば明日にでも美月か老店長が洗うはず。ただでケーキとコーヒーを貰ったのだから、これくらいはおやすいご用。そこから裏口に抜けると、街灯が夜なお明るい国道っぺり。時間はすでに深夜近くではあるが、無駄に明るい街灯のおかげで女の一人歩きもそんなに怖くない。
「うーーーーーん、今日も一日ご苦労さんっと……晩ご飯は何にすっかなぁ〜」
 大きく背伸び、街灯に赤みがかった光が星明かりをかき消す夜空に両手を一度伸ばして、彼女は国道を自宅アパートに向けて歩む。
「余り物のポテトサラダをコロッケにして……後はキャベツの千切りと味噌汁……一品、足りないかなぁ……」
 ぶつくさと夕飯のメニューを口の中で考えていれば、自宅アパートはあっという間だ。窓からこぼれる余所様の明かりを見やり、彼女はパタパタとパンプスを鳴らして階段を上り、自宅玄関の鍵を開ける。
「たっだいまぁ〜ハムたか〜ママ、帰ったよ〜」
 自宅に入ると、唯一の明かりは外から差し込む街灯だけ。その中でがさごそと音を立ててる第三の家族に声を掛けて、彼女はドアに据え付けられた郵便受けの中を覗き込む。すぐに見つかる一枚のはがき。最近はなんでもメールで済ます時代だから、郵便って物は余り来ないのだが、それでも各種請求書なんぞは送られてくるわけで、家計を預かる身としては余りうれしくない話。必要な物だとは思うが、見る度に嫌な気分になる。
「ケータイ……はまだ早いよね……っと、なんだろう?」
 玄関の明かりをつける。暗さに馴染んだ目が視力を取り戻すまで数秒……電球の明かりが照らす玄関の中、への字を書いていた眉が、見る間に緩んでいく。
「おっ……宅配便の不在者通知……援助物資。今度は何かなぁ〜またミカンかなぁ〜? それとも時節柄白菜かなぁ〜白菜だと良いよねぇ〜すき焼きすき焼き〜」
 鼻歌交じりにペラッとひっくり返せば、浮かれ気分が一気に吹っ飛ぶ。なぜなら、そこに書かれている荷物の種類が大問題。そこに書かれた文字は食品ではなく――
「……衣料……服なんて貰ったって、お腹膨れないって……」
 がっかりである。別に服は嫌いじゃないのだが、それが例え親であろうとも、他人が見立てた服を貰っても余りうれしくはない。はぁ……と軽くため息をついて、彼女は大きめの冷蔵庫に磁石でそれを貼り付ける。貰い物に文句をつけるのもどうかと思うが、それでもやっぱり、浮かび上がってた分だけ落胆は大きい。
「今夜の晩ご飯、コロッケとキャベツだけで良いわ……なんか、もう、やる気失せた……ハムたか〜あちょびまちょぉ〜」
 寝室兼用のリビングに明かりと暖房を付け、パッカンとホームセンターで買ってきた衣装ケースを開ける。中には小さくちぎったティッシュペーパーと共に大事な三人目の家族、ハムスターのハムたかくんがいらっしゃる。ひまわりの種を囓っていた彼をそっと抱き上げる。手に伝わる体温が、小さいながらもしっかりと生きていると言うことを教えてくれているようで、彼女の保護欲を存分に刺激する。
「はむたかぁ〜今日は一日何をしてたんでちゅかぁ〜? ひまわりの種を囓ってましたかぁ〜? おいしかったでちゅかぁ?」
 可愛いハムスターくんは貴美の手の上で安心しきったようにくつろぎながら、両手で抱えたひまわりの種をカリカリと囓り続ける。その体をそーっと、高価で華奢なガラス細工に触れるくらいのつもりで優しく撫でる。少しだけ彼は体を身じろぎさせるも、それ以上は動くことなく、貴美の手の中で再びカリカリと種を囓り始めた。
「うんうん、はむたかぁ〜かわいいでちゅねぇ〜もぉ、ママ、食べたくなっちゃいまちゅよぉ〜」
 かっぷぅ〜と大きく口を開いて、手に掴んだハムスターを口元に寄せてみる。もちろん、ただの噛む真似。すぐに止めて「冗談だよぉ〜」などと言ってみる。ただでさえ垂れ気味の目を思いっきり垂れさせた顔は、緩みきってドロドロ。恋人をして、『うわっ、変質者……』の一言で絶句させた代物。客観的に自分でもそうかなとは思うが、それでも可愛い物はどうしようもないし、緩んでしまう物もどうしようもない。
 この至福の時は誰にも邪魔されたくはない。邪魔されたくはないのだが、邪魔してくれる物はいつでも存在していた。
 ピッピッピッ……飾り気のない電子音は携帯電話ではなく、固定電話の方。付けない学生も多い――良夜は付けてない――がタカミーズの部屋にはしっかりついてる。その固定電話が安っぽい音を立てて貴美を呼びつける。無視してしまいたいところだが、固定電話に電話をしてくるのは吉田家、もしくは高見家の実家くらいの物。無視するわけにもいかない。
 ハムたかに「じゃぁ、ママは電話してきまちゅからねぇ〜」と緩んだ真顔で語りかけ、彼を衣装ケース改造のケージに戻す。蓋がちゃんと閉まっていることを確認すると、彼女はキッチンの電話台へと急いだ。
「もしもし、吉田、もしくは高見」
 無造作に受話器を取り上げ、無造作な応答。やる気のない事甚だしい出方は、相手が誰だか判っているからこそ。電話に出るついでに壁掛け時計を見れば、時間は多少オーバー気味。電話を肩に引っかけ、彼女は冷蔵庫を開く。
『相変わらずな出方ね、貴美?』
 案の定、伝わってくるのは我が母親の声。呆れ口調の声を聞きながら、彼女はコードレスの受話器を持ったままキッチン、シンクの前に立つ。
「何? ママ。そっちで何かあった?」
 肩と首で受話器を挟み込んで、冷蔵庫で眠っているポテトサラダを取り出す。これにツナ缶を混ぜて、塩コショウで味を整えたりと、手慣れた作業をしながら、電話口から聞こえる声に耳を傾ける。
『貴美、成人式には帰ってこれないって言ったわよね? それで、そっちに晴れ着を送ったのだけど、届いてる?』
 聞こえる声にコショウの瓶を振る手が止まる。視線をボールに入ったポテトサラダから、それが収まっていた冷蔵庫へ……磁石で貼り付けられた不在者通知が燦然と輝く。
「不在者通知が来てたよ。明日にでもなおに受け取らせるけど……?」
『ママのお古、前に着たことあるわよね。あれから、太っちゃった?』
「……親でも言って良い事と悪いことがあるんよ?」
『親が言わなくて誰が言うのよ? 成人式に帰ってこなくても良いから、晴れ着着て写真ぐらい撮りなさい』
「えぇぇ〜〜〜」
 あからさまに不機嫌な声と不機嫌な口調。半泣きで襦袢とジージャンで帰ったトラウマが彼女の中によみがえる。元旦早々赤っ恥はかくわ、それを余り仲が良いとは言えない女友達に見つかって、しばらくネタにされるわ、と散々だった女十五の厄年スタート。
『えぇぇ〜〜じゃないわよ。それくらいの親孝行しても罰は当たらないでしょう?』
 その返事を半ば以上予測していたのか、電話向こうの母からもどこか不機嫌そうな声が帰ってきた。
「私が和服嫌いなの、知ってるでしょ? 胸が苦しくなるし、着崩れたら直せなくなるし……」
『知ってるわよ……あのトラウマ、まだ治ってないの?』
「二度と着るもんか、あんな服……」
 パッパッとコショウを振りながら、彼女は吐き捨てる。そして――
「どうしてもって言うんなら、入学式に着たスーツでならいくらでも写真とんよ?」
『はぁ……全く、あなたって子は言い出したら聞かないわね……? でもね、晴れ着なんて後二−三年もしたら、着られなくなるのよ? 今の内に着ておかないと、後で後悔しても遅いのよ? それと、着るにしても着ないにしても、ちゃんと片付けておくのよ? 下手に置いておくとすぐにかびたり虫に食われるわよ』
 とっくに諦めてしまった声が電話の向こうから聞こえると、お話は終了。後は適当に互いの健康を気遣う言葉を贈り合うと、つながっていた電話はぷつりと切れて、貴美の両手が料理に集中し始める。
「……晴れ着かぁ……」
 強硬に嫌がっては見たものの、綺麗と言われてうれしくない女は居ない。特に恋人に褒めて貰えたのは、正直の所、凄くうれしかった。しかし、あのイヤな思い出もそうだし、胸も苦しかった。何よりも正直面倒くさい。
「でもなぁ……晴れ着かぁ……着ようかなぁ……止めとこうかなぁ……」
 乙女心は揺れに揺れる。
 ついでに手にしたコショウの瓶も揺れに揺れる。
 彼女が、
「よし! 着よう、写真撮るくらいだもんね。脱げたって困らんよね」
 と、決断を下した時には、新品同然だったコショウの瓶から半分ほどのコショウがポテトサラダの上にこぼれ落ちた後だった。

「……吉田さん、今日のコロッケ……もの凄く辛いですよね……」
「うるさい、文句あんなら食うな」
 それから小一時間後、珍しく食事に文句を言う直樹を前に貴美は、いつもよりもかなり辛いコロッケを不機嫌そうに囓っていた。

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