里帰り(完)
里帰り最終日、良夜はアルトと二人での朝食を少し早めに終わらせると帰宅準備に取りかかっていた。とは言っても、こっちに持って来てたのは美月が作ってくれたお弁当のバスケットと携帯電話と財布だけ。準備なんて言うほどの物はあまりなかった。強いて言えば、美月に頼まれたお土産をどうやって持って帰ろうかと悩むくらい。それも美月が渡してくれたバスケットの中に詰め込めば話は終了だ。
「さてと……電車の時間まではまだあるな……」
「じゃぁ、どこかの喫茶店でコーヒーでも飲んでから行きましょ? ぺ・る・るは……体裁悪いわよね、相川さんじゃない人がいるから」
「……うるさい、腐れ妖精……気づいてたんなら言えよ」
「何で私が良夜のフラグ立てに協力しなきゃ行けないのよ? 馬鹿馬鹿しい。美月にチクルわよ?」
頭の上に座ったアルトがガンッ! とかかとを額に叩き付ける。木靴じゃないから痛くはないが、うっとうしい事に変わりはない。視野の上部、ぎりぎりでぷらぷらしている足を右手で払いのけて、良夜はリビングの椅子に腰を下ろした。
結局、鮎川という女性の事は家に帰ってきてから卒業アルバムをめくって顔と名前だけは思い出したのだが、思い出というか、印象に残っている女性ではなかった。覚えている事と言えば――
「良く視界の隅っこに居た……ような気がする」
だけ。そう言うとアルトはなんか言いたそーな顔はするのだが、特に何も言う事はせず、ただただ、日本海溝よりも深そうなため息を一つつくだけ。それを見て良夜が「言いたい事があるなら言え」と「言わない」というやりとりを昨日の夜から十回ほど繰り返していた。
「まあ……別に良いけどさ。さてと、まだ、時間はあるよなぁ……ゲームでもすっか……」
携帯電話のゲームを呼び出す。暇に耐えきれず、こっちに来てからネットで落としたゲームだ。それをピコピコと始めると、アルトはやっぱり何か言いたそーな顔で見つめているが、きりがないので無視する事にする。久しぶりに明るい日射しが差し込むリビングで、良夜は我ながら暇だなと思いながら、携帯電話のパズルゲームをし続けた。
そんな時間が十分くらい続いた。
「りょーやくん」
「んあ?」
自室で本を読んでいたはずの姉がリビングにひょっこりと顔を出した。オーストラリアに行ってたはずなのに、なぜかお土産にマカダミアナッツ入りのチョコレートと雷おこしを買ってきた小夜子だ。明らかに帰国してから、空港の売店で買ったと判る。
「文句言うんならね、返して貰っても良いんだよぉ?」
「いや、一応食うけど……」
ゲームにポーズをかけて、彼は間延びした声と眠たそうな視線を向ける小夜子の顔を見上げた。
「だったら、文句は言わないの。それでね、りょーやくん、今日帰るんでしょ? ねーちゃんが駅まで送ってあげるんだよぉ?」
「えっ? いや、歩いて十分だけど……?」
「……じゃあなくて、新幹線の駅まで。乗り換え、面倒でしょ?」
やっぱり間延びした声で言われると、珍しいな……と思う反面、飛行場への送り迎えをさせたんだからそれくらい当然かなと思う。それに何より、アルトの反応が早かった。
「ラッキー! 今日も寒そうなのよね、外は」
カツンとかかとを額にぶつけて歓声を上げる。乗っていく気満々、とても断れる雰囲気ではない。外は快晴ではあるが、快晴であるからこその放射冷却、起きてきたときのリビングなんて震えるほどに寒かった。
「ああ、ありがとう。じゃぁ、頼むよ」
素直に返事をすれば、頭の上ではアルトもやっぱり素直に「やったー」と歓声を上げる。本当に冷え性なんだなとの気持ちを込めて上に視線を送ると、アルトのかかとが再び、彼の額に叩き付けられた。
「うん、それじゃ、ねーちゃん、車出してくるから」
「えっ? まだ、早いよ?」
「今から出たら一本早い便に乗れるよぉ? それにねーちゃん、本屋さん、帰りに寄りたいの」
そう言い置いて彼女はリビングを後にする。そして、数分の待ち時間を与えたかと思うと、服装もロングのフレアスカートに明るい色のセーターに、未だ寝起きだった顔もすっかりお化粧されて、出掛けるに十分な格好と化していた。
「早いね……」
「うん、早着替えはOL必須スキルだよぉ?」
「……教師ってOLなの?」
どういう訳か胸を張ってる小夜子の顔と、それをぽかんと見上げる良夜の顔を交互に見つめ、頭の上からアルトが尋ねる。何となく違うような気がした。
と、言うわけで姉のスィフトに乗って良夜は新幹線が乗り入れている駅へと向かった。良く晴れた冬の外はやっぱり寒くて、在来線でのんびり行くよりかは、やっぱり車で送ってもらう方が楽。良夜は助手席の窓から正月明けの町をぼーっと眺めていた。
「りょーやくん」
カーステレオから流れる流行曲に合わせ、鼻歌を歌っていた小夜子がふいに声を掛けた。その声に、良夜は運転席側に視線を向ける。向けた先では小夜子もまた顔だけは前に向けているが、視線はちらちらと良夜の横顔に送っていた。
「来年、就職だよね?」
ああ、その話か……と良夜は窓枠に預けた肘で頬杖をつきながらに思う。そして、視線を前方へ向けて答えた。
「まじめな話なら、家ですれば良かったのに……」
前方の信号が赤に変わり、一つ前の車が止まるに合わせて彼女もブレーキを踏む。車がぴたりと止まると、カリカリとギアのかみ合うような音をさせてサイドブレーキを引いた。車が完全に止まると彼女はハンドルから手を離し、トンと右肘を窓枠の上に乗せて頬杖とした。こういう仕草は姉弟で同じ、とは頭の上で事の推移を見守っていたアルトのお言葉。
「読書しながら、お話しできないじゃない?」
「……家族関係より読書を優先する人生、考え直せよ……」
冗談とも本気とも着かぬ表情と口調で彼女は言う。それを本気だと思ったのは、長年弟として生きてきた男のカンみたいな物。呆れても無駄だと思う一方で、呆れずには居られない。その感情をそのまま憮然とした声と表情で、彼は表した。
「良いの、運転しながらでもお話しできるから……それでね?」
それを小夜子はやっぱり適当に聞き流す。良夜の周りはこんな人間ばっかり。どうしてなんだろう? と年始そうそう思ったり思わなかったり……そんな良夜の心を知ってか知らずか、彼女は視線を信号へと向けたまま言葉を続けた。
「就職、こっちに帰ってくる事とか考えちゃダメだよ?」
大したことない話だろうな……と思っていた心に小夜子の言葉がポンと入り込み、良夜は「えっ?」と前を向けていた顔を小夜子の方へと向け直した。
「……ああ、別に考えてなかったけど……」
「考えてないって言うのも、ねーちゃんとしては寂しいんだけどなぁ……」
ぼんやりと答えると姉はチラリと横目で良夜に視線を向ける。向けられた視線は少し苦笑い、大きなメガネの向こう側から良夜の顔を見やり、彼女はポンと一つ良夜の額を小突く。
「いや、就職自体をね……ねーちゃんも割かしのんびりしてたじゃん?」
「うん、のんびりしてたから、学校の先生以外になる職がなかったんだよ? 大変だよねぇ〜人生」
「だけって……」
「教師なんて、学歴と資格とコネさえあれば誰だって出来る商売だよ? まあ、ねーちゃんの事はともかく……やりたい職業があるんならそれのための勉強やって、ないんなら少し考えてみて……特にりょーやくんは理系なんだから卒論や研究も就きたい仕事に関わった物じゃないと、就職活動で後れを取っちゃうんだからね……」
言葉は冗談めかした口調で始まるも、次第に真剣みを帯び始める。それを聞くがごとに、彼女の話の内容よりも彼女がまじめな顔をして進路相談をやっているという信じられない事実に良夜の顔は、自身でも判るほどにぽかーんとした物へと変わっていった。
「って、どうしたの? 顔が間抜けだよ?」
「間抜け顔は生まれつきだよ……図書館で本読んでるだけで給料貰ってるんじゃないんだなぁ……って思っただけ」
「うんうん、淫行女教師も時々はまじめになるのね。私、感心しちゃったわ」
頭の上で事の成り行きを見守っていたアルトまでもが驚きの声。同意を求めるようにアルトが良夜の顔を覗き込む。それを片手で払いのけながら、彼は姉の顔をマジマジと見つめる。
「これが食い扶持だよ? やれと言われれば、あと二時間はお説教できるんだからぁ〜特にりょーやくんは不出来だから」
自身が“淫行女教師”と呼ばれてる事も知らずに、彼女は言葉を続けた。そうしてる間に信号が赤から青へと変わる。すると彼女はいったん言葉を句切り、サイドブレーキを下ろして車を進めた。
「巨大なお世話だよ……まあ、一応は考えるよ」
ゆっくりと流れる風景へと視線を移す。市内のメインストリート、オフィスビルが建ち並ぶ目抜き通りへと車は入っていく。調子よく走れるのもここまで、万年渋滞が彼らの車に速度を落とす事を強要する。
「うん、それでね。大事な事。こっちの事は考えちゃだめだよ? 長男だから〜とか、息子は俺だけだから〜とか。りょーやくんは妙なところで妙に優しいからねぇ〜」
車を走らせる小夜子が言うと、良夜は「そうかな?」とぼんやりと答える。自分でそう言うつもりはさらさらないのだが――
「良く言えばその通りよ? 妙なところで優しいって言うのはね。でも悪く言うと『ヘタレ』って事になるの。判る? ヘタレだから他人よりも自分を優先できないの。だから、利用されやすいのよ」
したり顔のアルトが頭の上から良夜の顔を覗き込んで言う。そう言う解説を付け加えられると何となくそうかなぁ〜って気がしてしまう自分がちょっぴり悲しい。
「ねーちゃん、りょーやくんのそう言うところ、大好きだよ? 利用しやすくて」
姉と妖精、二人に利用しやすいと言われればズドーンと良夜も凹む。その上、期せずして小夜子が自分と同じ事を言ったのがうれしかったのか、アルトが頭の上で胸を張っているがむかつく。
「……悪かったな、利用されやすい性格で……」
「クス……でも、他人を利用する人間よりも利用される人間の方がねーちゃん好きだよ?」
「うれしくないよ……」
優しい笑みにも腹黒い物を感じ、良夜の顔が一段と憮然とした物に変わっていく。それでも小夜子はもう一度良夜に微笑みかけ、視線を前方へと向けた。
「でもね、たまにはちゃんと自分の事を優先しなきゃダメだよ? こっちの事はこっちでどうとでもなるんだから、りょーやくんはこっちの事なんて考えないで、ちゃんと自分のやりたい事を選んで欲しいの。ねーちゃんは」
「うん……判った……」
真摯な言葉に良夜も神妙な面持ちと口調で応えると、彼女は表情を緩め、左手を良夜の頭に伸ばした。
ポンと彼の頭を小夜子の手がたたき、くしゃっと頭を撫でる。幼い頃は良くされていた行為だが、ここ何年かはされた記憶がない。幼い頃を思い出させる仕草は彼を気恥ずかしくさせるに十分。視線をルームミラーに向けると、小夜子の手の下で頭を潰されている妖精と目があった。
「ぷっ……」
「ん? なに笑ってるの?」
「ううん、何でもない」
「そう?」
そう言って彼女は手を引っ込める。それで会話はひとまず終わり。渋滞している道路に小夜子が舌打ちするのと、押しつぶされていたアルトが小夜子にギャーギャーと文句を言ってる声、それにステレオから流れる流行歌だけが車内を満たす。
そうこうしているうちに車は駅の駐車場へ……あまり混んでいない駐車場の片隅、空いていたスペースに車は止まる。そしてサイドブレーキを引くよりも早く、小夜子が「あっ」と小さな声を上げ、後部座席のバスケットに手を伸ばそうとしていた良夜を呼び止めた。
「そうそう。こっちの事は気を遣わなくても良いけど……喫茶店のウェイトレスさんだっけ? 彼女。優先してあげなきゃダメだよ? 一方的に彼女設定してんじゃなかったら」
「だから、一方的じゃないって……ストーカーかよ……」
バスケットに手を添えるだけして、良夜は苦り切った顔を小夜子に向ける。肩越しに見る小夜子の顔、眼鏡越しの瞳にはからかうような色が浮かんでいた。
「だって、りょーやくんが喫茶店のウェイトレスをナンパなんて想像できないもん」
「ナンパじゃないって…………――ああ……共通の友達が居たんだよ……で、まあ、その流れみたいな感じ……かな?」
バスケットを後部座席から膝の上へと動かす数秒の間に適当な嘘と事実が半々の言葉でお茶を濁すと、小夜子のは「ふぅん」とだけ答え、ついでに頭の上でアルトが胸を張る。
「愛の妖精と呼びなさい」
絶対に言わない。
「……ならあり得るかな? ともかく、仕事辞めてついてこいとか言うキャラじゃないし、遠距離は保たないよぉ?」
「経験あんのかよ……?」
不審のまなざしで見上げれば、彼女はわずかに逸れていた視線を良夜に向け、顔を真顔にしていった。
「この間読んだ本にあったよ?」
「……本で読んだ事を人生経験っぽい言い方してんじゃねーよ……」
ガックリ。力の抜けた表情で彼女から視線を外し、外した視線をバスケットへと向ける。そして、両肘をバスケットに突き、組んだ手の上にあごをのせた。
「だって、ねーちゃん、振られた事も振った事もないもん。まあ、それは横に置いておいて……それでもどうしても就きたい職業があるんなら……女なんて捨てちゃうか――」
「……捨てちゃうか……?」
「遠距離でも捨てられない甲斐性を持ちなさい……なぁんてね? 今の時代、世界中どこでも簡単に行けるんだから、家族とか恋人とかで自分の可能性、縛っちゃダメだよ? それがねーちゃんの言いたかった事。さあ、頃合いだね……気をつけてね? ご飯、ちゃんと食べるんだよ?」
姉らしい笑みを浮かべ、彼女はもう一度ポンと良夜の頭を叩く。今度はアルトも上手に逃げ出し、小夜子の華奢な手のひらが良夜の頭を直接、そして優しく撫でる。それを良夜はほんの数秒ではあるが、頭をうつむけ、素直に受け入れた。
久しぶりに撫でられた頭が妙に心地よかった事は、誰にも言わない事にした。
これにて良夜の里帰りは終わり。姉の車を見送り、顔を駅へと向ければ――
高架の上を新幹線が走り去っていくのが見えた。
そして、携帯電話にメールが着信する。
『騙される方が馬鹿なんだよ?』
と。
「やられた……あの女、最後の最後まで引っかけやがって……」
最後の最後まで姉におもちゃにされた良夜だった……
訳だが、姉がおもちゃにするのはこれで終わりではなかった。
数時間の列車の旅、駅を降りてテクテクと喫茶アルトへと良夜は向かう。バスケットの中には美月へのお土産、プロバンスで買ってきた焼き菓子がたっぷり。熱いコーヒーと一緒に食べたいなぁ〜なんぞと思って歩いていれば、あっという間に喫茶アルトの駐車場が見えてくる。
「やっと帰ってきたわね〜懐かしの我が家!」
胸の中からアルトがひょっこりと顔を出し、歓声を上げる。それをモグラたたきの要領でぽこんと叩き、良夜は久しぶりに喫茶アルトのドアベルを鳴らした。
「あっ! 良夜さん、お帰りなさい」
カウンターでお客の相手をしていた美月がぱっと顔を明るくし、パタパタと駆け寄る。満面の微笑みと「お帰り」という言葉に良夜の顔が自然とほころんだ。
「ん? どーかしました?」
「いいえ、ただいま帰りましたよ……と、はい、お土産。ケーキじゃなくて焼き菓子にしたんだけど、その分、数は多めだから。それと地元の喫茶店のブレンド。こっちは店長に」
「ふわぁ〜ありがとうございます! それじゃ、早速煎れて貰いますね?」
来たとき同様にパタパタと彼女は駆け出す。やっぱり、喫茶店の店員としてどうなのかなと思うが、美月らしいと言う事で良夜を含めて誰も文句は言わない。そんな美月が和明の元へと駆け寄るのを見送り、良夜はいつもの席へと足を向けた……ら、
「良いなぁ〜ねーちゃんもプロバンスの焼き菓子欲しいなぁ……」
嫌ってほど聞き覚えのある声が聞こえた。
「……えっ?」
「ねーちゃんに焼き菓子なんて買ってきた事ないのよねぇ……りょーやくん……そんなに彼女が大事なんだぁ……」
いつもの席から国道側へ三つ目のテーブル、コーヒー片手に新書本を読んでいる姉の姿があった。
「何で!? 何で、ねーちゃんがここにいんの!? どこでもドアか!? ついに開発されたか!?」
「りょーやくん、この世の中にはね。飛行機って言う便利な乗り物があるんだよ?」
取り乱す良夜を尻目に小夜子は淡々と答える。そして、新書本に掛けられていたブックカバーをペラッと剥がす。そこから現れるのは西村京太郎、トラベルミステリーの文字。
「と、まあ、こんな感じで簡単に来られちゃうわけだから、りょーやくんは実家の事なんて気にしないで、自由にしたら良いんだよぉ?」
したり顔で話す小夜子を呆然と見つめ、良夜は絶対に気にする物かと心に決めた事は言うまでもない。