里帰り(10)
 某県某所にはカフェレスト『ぺ・る・る』という店がある。大通りから数歩入ったところ、田んぼのど真ん中にぽつんとある小さなお店だ。そのフロアの一角でモップを片手にため息をついている女性がいた。
「はぁ……どーして、私ってこんなに男を見る目がないんだろう……?」
 彼女には先日までつきあっていた男性がいた。正確に言うと、昨日の午後六時三十五分まで。この少し前、よりにもよって、彼女がつきあっていた男性は見知らぬ女性とこの店にやってきた。彼は彼女がこの店でバイトしている事は知らなかったようだし、彼女にも教えた記憶はない。
 だから、彼は最近評判の良いこの店に新しく引っかけた女を何気なく連れてきたらしい。
 店の入り口、なったドアベルに呼ばれて駆け寄ったら彼と見知らぬ彼女が肩を抱いて入店してくるところに遭遇した。もちろん、その場で大げんかを始めるほど彼女は子供ではない。ただ、伝票の裏側に、
『二度と電話してくるな、このクソやろう』
 と走り書きをしておいただけ。この伝票に記載されている時間が昨日の午後六時三十五分だった。
 で、実際にその夜は電話がなかった……
 昨日の夜は思いっきり泣いてしまったが、今となっては、あの男のどこが良くてつきあってたのか、いまいち判然としない。ほかに適当な相手が居なかった。話してみたら割と話があった。一緒に歩いて恥ずかしくない程度に見栄えが良かった……などなど、あげてみるといくつかあげられない事もなかったが、一番近いのは……
「初恋の人に似てたんだよね……」
 ボーッとしてるときの横顔とか、あの人に似てるような気がする。中学の時の甘い記憶……友達と何かを楽しそうに話している横顔やぼんやりとしていたときの横顔……真っ直ぐに前から見つめる事も恥ずかしくて出来なかったあの頃、好きとも言えなかった頃が一番幸せだったのかも知れない。
 そんな事を思い出しながら、彼女はモップの柄にあごをついて呟いた。
「元気かなぁ……浅間くん……」

 さて、四日、この日、某県某所浅間家に居候している妖精アルトちゃんはご機嫌斜めだった。と、言うのも外は雪にこそなっていないが、みぞれ交じりの冷たい雨が降り、とても寒い。てか、雪が降ってるときよりもみぞれの降ってるときの方が絶対に寒いと思う。昨日一昨日は『寒いから外出禁止! 一日ごろごろする!!』と堅く申しつけていたのだが、今日はオーストラリアから小夜子が帰ってくる。迎えを命じられた良夜は出掛けざるを得ない。だから、不機嫌。ついでに良夜が入れたコーヒーは今日もまずいし、トーストは焦げ気味で美味しくない。ふて腐れた表情でザクザクとトーストの切れっ端をつついていると、良夜がチョンと彼女の頭を指先でこづいた。
「だったら、留守番でもしてるか?」
「良夜があの駄猫を連れて行くんなら、留守番してるわよ。小夜子も駄猫が来てくれたらうれしいんじゃないのかしら?」
「乗せると暴れるんだよ。車に乗せるときはいつも予防注射だからな」
「良夜は私とあの駄猫、どっちが大事なのよ!?」
 朝食、二人仲良くトーストを囓りながらの会話、アルトが言うと良夜の手が止まる。そして、浮かべられる苦笑いが何となくバカにされているような気がした。
「武王だよ……っと、さてと、しゃーない、ねーちゃん迎えに行くまで時間もあるし、茶店でも行くか? もうちょっとしてからだけど」
 良夜が面倒くさそうに言うとアルトの顔が自分でも自覚できるほどにぱっと明るくなる。声のトーンも一オクターブ跳ね上がって、八つ当たりしていたトーストの切れっ端をストローに突き刺し、彼女はぽーんとテーブルの上から飛び上がった。
「今すぐが良いわ!!」
「……お前、ホント、現金だよ……せめて昼飯時まで待てないのか?」
 肩の上にひらりと着地、良夜の横髪を強く握りしめて、アルトは良夜の苦笑いを覗き込む。そして、彼女はひときわ大きな声で言った。
「待てない!!」

 とは言っても結局喫茶店へと向かったのは十一時を少し回った辺りだった。小夜子の乗っている飛行機が昼の三時くらいだから、余り早いと車の中で長く待つ羽目になるぞ、と言われてしまえば、アルトも引っ込まざるを得ない。
「ケーキアンドレスト『ぺ・る・る』……ね。見栄えは良いじゃない?」
 車を止めた駐車場、良夜の懐から顔だけをひょっこりと出し、彼女は店構えを見上げる。白を基調としたこぢんまりとした店はアットホームなイメージを抱かせ、好印象だ。壁沿いに表通りへ出ると、小さな門があり、そこから店の入り口へと続く空間は決して広くはないが丁寧に手入れされてそうな庭になっていた。もっとも、時期が時期とあってそこを飾る花々がないのがちょっぴり残念。春先にもう一度来てみたいな、とアルトは感じた。
「ふぅん……良く、こんな店なんて知ってるわね? 来たことあるの?」
「いいや。新聞のローカル面に載ってた。で、その記事を持ってきたらセットのコーヒーが半額」
「……せこい……」
 潜り込んだ懐がやけにガサガサしてると思ったら、そんな物を詰め込んでいたのか……とアルトの肩から力が抜ける。正直、余り期待は出来ないなぁ〜と思う。偏見かも知れないがそー言うサービスをしてる店は大抵余り美味しくないか、出来たばかりの店。どうせ、切羽詰まって知り合いの新聞記者とかに頼んで記事をねじ込んで貰ったのだろう。
『ちり〜ん』
 ドアベルが甲高い澄んだ音色を立てる。出迎えたのは二十歳前後の若いウェイトレス、空色のスカートの上にエプロンを組み合わせたエプロンドレスは喫茶店のウェイトレスとしては標準的、可もなく不可もなしと言ったところ。
「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」
「二人よ!」
 と自己主張してもウェイトレスには通じず、良夜だけがポンと胸元から出ているアルトの頭を軽く叩く。
「ええ」
 控えめな声で彼が返事をすると、彼女は余り人影の見えない店内に案内をし、良夜に好きなところに座るように促した。促されて良夜が選ぶのはやっぱり隅っこの余り目立たない席、余った空間に無理矢理入れましたとでも言いたそうな二人がけのテーブルに彼は腰を下ろした。
「相変わらず、隅っこが好きなのね? ゴキブリ?」
「……誰のせいだと思ってんだ? お前が居なかったら、カウンターにでも座ってる」
 分厚い一枚板のテーブルは既製品ではなくオーダーメイドらしい。作りはしっかりしているし、木目も美しい。それに気づいてみると、目につくところはすべて木で作られ、木目が自然と店内を装飾している。きっとオーナーのセンスが良いのだろう。店構えは完全に負けだと思う……のだが、
「そうか? ふぅん……良くわからねーな」
 などと言って良夜は机の上に置かれていたメニューから顔も上げない。そのメニューだって焼き板の表紙が使われていて、結構センスの良い物なのだが、この男はそう言う事にはさっぱり気がついていない。大事なのは好物のチーズケーキをレアにするかベイクドにするのかの方らしい。
「……お願い良夜、もうちょっと色々な事に興味を持って……お店の人が可哀想になってくるから」
「どーせ、お前だってコーヒーがまずかったらぶりぶり文句言う癖に……」
 良夜がパタンとメニューを閉じるとすぐにウェイトレスがテーブルに顔を出す。この辺りの教育の良さも喫茶アルトよりかはちょっぴり上。貴美はやっているのだが、美月だけだと呼ばれなければ気づかないという事がままある。
「ご注文はおきまりでしょうか?」
 ちょっぴり太め(アルト基準)のウェイトレスに声を掛けられ、良夜はサービスセットとそのデザートにレアチーズケーキとホットコーヒーを注文する。コーヒーは食事と一緒、飲ませないとアルトがうるさいから……と彼は言っているのだが、アルトにそのつもりはあまりない。
「はい、かしこまり……えっと、あの……」
「ん? なに?」
 ウェイトレスの鑑のように守られていた手順が止まる。大きな瞳が良夜の顔を覗き込むと、良夜も不審そうに彼女の顔を見上げる。その間、無視されているというか、片方の眼中には最初から入ってないというかな妖精さんがキョロキョロと二つの顔を見比べる。
 そんな時間が一分、意を決したように彼女は言った。
「もしかして、お客さん……共和中の浅間君?」
 それに良夜が「そうだけど?」と答えたとき、彼女の顔がぱっと明るくなったのをアルトは気づいていた。

「ちょっと! 今の女、誰よ!?」
 数十秒後、『ぺ・る・る』隅っこの席でアルトの怒声が響き渡る。先ほどのウェイトレスは新しく入った客を案内するためにこの場を離れた。当然、美月の姉を自認するアルトちゃんには許せない事態だ。ストローを握りしめる手に力がこもる。細い膝が十分に曲げられ、たっぷりと力がこもる。返答如何によっては今すぐにでも奴を刺す! そんな態度をありありと見せながら、彼女は良夜の顔をにらみつけた。
 が、良夜の答えはその機先を削ぐに十分な物だった。
 ぼんやりと明後日の方向を見上げながら、彼は呟く。
「誰だろうなぁ……?」
 コテン。アルトの顔が木目美しいテーブルにスライディング。低めの鼻がいっそう低くなる。その鼻の頭を押さえながら、彼女は良夜の顔を見上げ……ようとしたが、彼の顔はやっぱり明後日の方向を向いたままだったので、見上げられたのはあごの辺りだけ。刺してやろうかと思いながら、彼女は呆れ声を上げた。
「……えっと……覚えてないの?」
「あのな、中学だぞ? 最短でも六年近く前の話じゃないか……覚えてるわけがないって」
「ちょっと! 相手は貴方の事、覚えてたのよ!? 可哀想じゃない! 今すぐ、思い出しなさい! この女の敵!!」
「……お前、さっきと言ってる事が違う……」
 斜め上からの見下ろす視線、不快感を露わにした顔をアルトは見上げる。まあ、確かに自分でも言ってる事が違うとは思うが、先ほどの意見は『美月の姉』の意見であり、今は『一人の女』としての意見である。立場が違えば言う事が違っていて当たり前だ。
「と、言う訳なので、今すぐ思い出して、恋人が居るってちゃんとお断りすれば、美月の姉の私も一人の女の私も大満足なわけ、OK?」
「断るも何も……別に久しぶりにあった同級生に声を掛けただけだろう? あほくさいな……エロゲーじゃないんだから、久しぶりに会った二人になんかあるとか、あり得ないから」
 冷めた口調で彼は答え、グラスに手を伸ばす。ここでアルトは何となく、良夜が女と縁がなかった理由がわかったような気がした。アルトの目から見ると明らかに『共和中の浅間君』に会えた事を彼女は喜んでいたような気がしたし、そう言う気がしたからこそ強く問い詰めてみたのだが、こいつは……
「アホな妄想してんじゃねーよ……中学かぁ……あの頃のツレとはもう没交渉だなぁ……大手前に合格したの、ツレ内で俺だけだったしなぁ〜」
 などと言ってぼんやりと懐かしい記憶にトリップしていやがる。しかも、どーせ思い出してるのは男友達の事だろう。ダメだ、この男。ここで何かあってもなくても、美月にはこいつと別れるように強く言わなくてはならない、と、妖精さんは強く思った。
 十五分程度の待ち時間、特に会話も交わさず、待ち続けていると先ほど席を外したウェイトレスが帰ってきた。
「サービスセット、お待たせしました」
 食器もコーヒーカップも木製、店内全体が木を大事にしているだけあって、ここでも木。ソーサーもティスプーンも木製というのはちょっと珍しいが、暖かい感じがして悪くない。良夜よりも先にカップに取り付き、胸一杯に暖かく香ばしい薫りを吸い込む。
「それで……私の事、思い出して……――ないみたいだね。ほら、一緒に週番やってった――」
「ああ! 相川さん!?」
 大きな声、ポンと手を叩いて彼は言う。も、彼女の肩と右の眉がぴくりと二ミリほど跳ね上がった事には気づいてない。
(間違えたわね……この馬鹿)
「えっ……ええ、まあ、そんな感じ。久しぶりね。元気でした?」
 わずかに語尾が震えている。よく見ればトレイを握りしめた手が真っ白になるまで力がこもっている。怒っているのか、落胆しているのかは判らないが、内心、ただならぬ物を抱えている事はアルトの目から見ても明らかだった。
「まあ、ぼちぼちかな……相川さんは?」
 が、奴はやっぱり気づいてない。『相川』じゃないことだけは確かなウェイトレスに『相川さん』とうれしそうに声をかけ続けている。もはや、ピエロだ。
「ええ、私も……元気でしたよ……概ね、だいたい、今の今まで」
(きっと、この一瞬ごとに元気がなくなって行ってるのでしょうね……可哀想な人、相川さんじゃない貴女)
 チュッとストローでコーヒーを一口だけ飲んでみる。まあまあ……和明が入れたコーヒーを百点としたら八十点くらいは上げても良いかもしれない味。
「ねえ、浅間君、覚えてる? 二年の時の校外学習、ほら、釣り堀で鮎、捕まえたよね? “あゆ”」
「えっ? アレ、鮎だっけ……? アメゴだっただろう? 織田の奴が異常に張り切ってたよなぁ〜あいつ、釣り、好きだったから」
「あれ? そうだっけ……“あゆ”だったと思うけどなぁ……“あゆ”」
「鮎はもっと青臭いよ? 俺、鮎だったら苦手だしさ」
「そう? じゃぁ、勘違いだね。あっ、ごめん。仕事中だから……じゃあ、また後でデザートを持ってきたときにでも……」
 肩を落とし、彼女はとぼとぼとカウンターの方へと歩いていく。客商売があー言う態度をなのはどうかと思うが、今日、この時、この馬鹿を相手にしてんならそれも仕方ないだろう……と、アルトはコーヒーカップからストローを引き抜き、彼女を見送った。
 それに引き替え、この馬鹿は……
「ほら見ろ、なんもないだろう?」
 なぜに勝ち誇っていやがる? なぜにそんなに胸を張ってやがる? 数少ない人生のフラグをダイナマイトで爆発させてる癖にどうしてお前はそんなに鼻が高いんだ? と、妖精さんは激しく問い詰めたかった。が、問い詰めても、きっと疲れるだけなので問い詰めない事にする。
「……今現在、なんもなくして行ってるだけよ……貴方が」
「はぁ? 言いたい事があったら言えよな……」
 メインのハンバーグをフォークだけで切り取りながら、彼はアルトの顔を見下ろす。何となく不審そうな顔、その理由はよくわかっている。判っているからこそ、こいつが何となく許せない。ツンとそっぽを向きながら、アルトはコーヒーにもう一度ストローを差し込んだ。
「お前ばっか飲むなよ……あっ、美味しいな、ここのコーヒー……」
「まあ、美味しいわよね……安めの豆を上手にブレンドしてるって感じね。パック詰めがあったら買って帰れば? 和明が喜ぶわよ」
「そうするか……」
 パクパクと特に会話もせずに二人は食事を取る。と言うか、良夜は時々声を掛けているのだが、アルトがそれに対して返事をしないだけ。なんか、今のこいつに話してたら、無駄に疲れそうな気がしたからだ。
「お前な、なんもないって言ってるだろう? 相川さん、中学の時からモテてたからなぁ〜今も彼氏の一人や二人、居るんじゃねーのか? まあ、二人も彼氏作るような人でもなかったけど」
 突っ慳貪なアルトの態度に良夜が妙な気を回したのか、言い訳がましい声で話しかける。しかし、それがアルトの疲労感をよりいっそう強くしている事に、この朴念仁は気づかない。
(……だから、相川さんじゃないわよ、さっきのウェイトレスは……本当に可哀想な相川さんじゃない人……)
 そんなこんなでご飯も終わり。ハンバーグも美味しかったし、焼きたてコッペパンも秀逸。非常に満足なお食事が終わったら、後はデザートのレアチーズケーキだけ。やっぱり、運んでくるのは相川さんじゃない事だけは確かなウェイトレス。チーズケーキが載ってるのもやっぱり木製のお皿、丁寧に塗られたニスが良い具合に反射して暖かみのあるお皿がテーブルの上に置かれる。
 良夜はにこやかな顔――ぶっ殺したくなるくらいににこやかな笑顔で言った。
「あっ、ありがとう。相川さん」
「いえ、仕事ですから……」
 言われた方の笑顔はやっぱり微妙に引きつっていた。とはいえ、喜怒哀楽が顔に出やすい美月に比べれば、その変化は少なめ。短めに切った茶髪が逆立つ事も、大きな目が薄く睨み付ける視線に変わる事もなく、よく見たら口角が小刻みに痙攣してるかなぁ〜ってくらい。それでも、気づく人間はきっちり気づくと思うのだが、どうやら良夜は気づいていないタイプの人間らしい……事はこの二年弱のつきあいでアルトもよく知っている。
「美味しかったよ、ここの料理。相川さん、ここ、長いの?」
 と、うれしそうに地雷原の上でタップダンスを踊っていやがる。しかも、地雷が爆発している事にすら気づいてない。
「ううん、私はフロアスタッフだし、ただのバイトウェイトレスだから。本業は一応、大学生だよ」
「そっかぁ、相川さん、中学の頃から勉強、良く出来てたもんな〜」
「そんな事ないよ? 私、全然だったから」
「あれ、そうだっけ? 俺、相川さんに順位で勝った事なかったと思うけど……」
 チーズケーキをつまむ手が止まり、立ったままの相川さんじゃない人を見上げる。不思議そうな表情で小首をかしげると、彼女はフルフルと首を左右に振って答えた。
「ううん、私、いつも浅間くんの下だったよ。ところで浅間くん、今でも浜崎“あゆ”み、好き? 中学の頃、好きだったよね?」
「えっ? そうだったかなぁ……ああ、そう言えば相川さん、一度貸してくれた事があったよね? 好きだったの、相川さんの方じゃない?」
「ううん、私、大ッ嫌いだったよ? “あゆ”、嫌いだよ、“あゆ”なんて大ッ嫌い」
「あれ……そうだっけ?」
「うん、“あゆ”なんて死んじゃえばいいよね、“あゆ”なんて」
 何度も何度も“あゆ”“あゆ”の繰り返し。くどいほど、念入りに言われる言葉にアルトは気づいた。
(鮎川って言うのね、この子……)
「へぇ……そうなんだ……相川さんから借りたと思ったんだけどなぁ……」
「ううん、私、宇多田ヒカルは貸してあげた事があるよ?」
「じゃぁ、そっちと勘違いしてたかな?」
 チーズケーキを食べながら、良夜は名前は知らないけど絶対に相川さんじゃない事だけは確かな女性と会話を続ける。それをアルトもまた良夜のチーズケーキを勝手に奪いながらに耳を傾ける。そして、思う。
(もしかして、名前を勘違いどころか、全く、別人を思い浮かべてるんじゃないのかしら……?)
 だとしたら、相川さんじゃないウェイトレス(たぶん鮎川さん)が余りにも哀れすぎる。そして、良夜が余りにもピエロだが、こっちは同情の余地がないので同情しない。
 そんなかみ合わない会話を続ける内、良夜のチーズケーキがテーブルの上から消え去り、小夜子を迎えに行くにもちょうど良い時間がやってくる。
「あっ、俺、そろそろ帰るわ。明日にはこっち発つから、しばらくこれないけど……また、機会があったら顔を出すよ。またね」
 伝票を片手に良夜は立ち上がる。思いも寄らぬ旧友との再会に彼はご機嫌、ニコニコと微笑みながら彼女に言うと、彼女もまた、にこっと満面の笑みを浮かべて答えた。
「浅間くん、私、五年前からずーっと言いたかった事と、この二時間ばかりで言いたくなった事の二つがあるんだけど、聞いてくれる?」
「えっ? なっ、何……」
 そして、彼はこの期に及んで顔色を赤くする。うわずった声と合わせれば、彼が妙な事を考えて居るであろう事は一目瞭然、胸に耳を押しつけたら、きっと、鼓動が跳ね上がっている事だろう。が、しかし……
(絶対にあり得ないわよ……それだけは)
 良夜の肩の上に飛び移りながら、アルトは心の中で呟く。
「うん。えっとね……」
 ウェイトレス(きっと鮎川さん)はいったん言葉を切る。良夜の赤くなった顔を真っ直ぐに見つめ、満面の微笑みを絶やすことなく、彼女は言い切った。
「出来るだけ苦しみながら三回位死にさらせ、この朴念仁」
「えっ?」
「で、ここからがこの二時間、ずーっと我慢してた台詞。私は相川さんじゃなくてあ・ゆ・か・わ。相川さんは二年の時の女子の一番で、私は三年の時の女子の一番」
 ぽっかーんと口を間抜けに開いた良夜を店内ど真ん中に置き去りにして、彼女はキッチンの方へと消えていく。大股の足取り、どかどかという効果音が今にも聞こえてきそう。
 そして、消えた先から――
「あの!! クソ浅間がっ!!!」
 と言う怒声と食器がたたき割られる音共に響き渡っていた。

 で、取り残された良夜をアルトは見上げ、ぽつりと尋ねた。
「ところで良夜、鮎川ってどんな人だったの?」
「……ヤバい、この期に及んでも全く思い出せねぇ……」
「むっ……むごい……むごすぎる……」

 そして、彼はこの時初めて理解したという……
「人生のフラグ、いくつ潰したら気が済むの?」
 妖精が折に触れて言うこの言葉の意味を。

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