里帰り(6)
さて、ついに大晦日。この日一日、ボードを削り続けることに費やした。もちろん、原因はテレビの上でのんきにその作業を見物し続けているバカ妖精だ。彼女が飼い猫の武王と乱闘、照明器具を天井ボードもろともぶっ壊したのが原因。明かりはつかないし、穴からすきま風は入ってくるしと、直さないことには正月早々嫌な気分で過ごす羽目になる。
「で、直せるって安請け合いしたあげく、一日がかりだった訳ね……」
「意外と難しい物だったんだよ、うるさいな、おまえ……」
直したばかりの天井に新しく買ってきたばかりの照明器具を取り付け、スイッチを入れる。心なしか、昨日よりも明るい光。生まれたての光が照らし出す居間は、石膏ボードの切りカスで一面真っ白く塗りつぶされていた。天井の穴は十センチ四方程度だったのだが、そこに散在しているボードの切れっ端はどう見てもその数倍では効かない。ボード自体は高校時代、何回かバイトさせてもらった建築屋でもらってきたゴミみたいな物だから、いくらムダにしても特に惜しくはない。惜しくはないのだが、これを片付けなきゃいけないのか? と思うと、げんなりした気分になる。
「割れた、欠けた、潰れた……ホント、どれだけ無駄に使った事やら……」
「本当にいちいち、おまえはうるさいな……」
ふてくされ気味に答えながら、彼は押し入れの中から掃除機を引っ張り出し、かけ始める。その頭にテレビの上で他人事のようにくつろいでいたアルトがぽーんと飛び移り、長い髪を良夜の前髪の前に垂らして声を掛けた。
「ねえ、そろそろ晩ご飯の時間だと思うの。どうするの? 自炊? 外食?」
「……作るのもかったるい……が、どこかのバカのせいで余計な照明器具まで買ったせいで無駄遣いはしたくない……」
ガーガーと大きな音を立てて掃除機を動かすも、畳の細かな目に入り込んだ埃はそうそう吸い取りきれる物ではなく、自然と良夜の手にも力がこもっていく。それをアルトは良夜の頭の上から見下ろし、ちょいちょいと軽く髪の毛を引っ張った。
「私も多少悪かったと思ってるけど、あそこで惰眠をむさぼってる駄猫が悪いのよ? 七三くらいで」
「どっちが七だ?」
「もちろん、駄猫」
頭の上からの声を良夜はほとんど信用していなかった。アルトの話を聞くに、悪いのは武王の方だろうとは思う。が、猫が弁明できないことを良いことに、アルトが好き放題言っているような気もしていた。
「……良夜、私のこと、全然、信用してないでしょ?」
「されると思ってんのか? 自分が」
そんな良夜の心根を察したのか、彼女は良夜の前髪にぶら下がりジロッと三白眼で彼を見つめる。その顔を見返しながら良夜も答えた。答えた言葉にアルトはブンブンと大きく首を振る。
「ううん、私、私がもう一人いたら、そいつのこと、絶対に信用しないわ」
言い切られれば二の句も告げない。掃除機を掛ける手が止まり、視線は彼女の大きな金色の目に釘付け。ひとしきり、それを見つめた後、ため息が一つこぼれ落ちる。
「……おまえってすごいな……いろんな意味で」
前髪にぶら下がるアルトを右手で払いのけ、良夜は中途になっていた掃除機に再び力を入れる。払いのけられたアルトは頭の上、指定席に戻って彼の掃除の監督さん。
「そっち、思いっきり残ってるわよ。後、テレビの下のガラス戸、埃まみれよ? 雑巾で拭きなさい」
あれやこれやと的確な指示を良夜に下す。それにへいへいと投げやりな返事を返しながら、彼は掃除をし続けた。そして三十分。
「やーっと終わった……何が悲しくて住んでない家の大掃除やんなきゃいけないんだぁ〜?」
畳の目に詰まったボードの削りカスはすべて掃除機の中。ついでに、テレビの裏側も掃除機をかけたし、隅っこにたまっていた猫の抜け毛も片付け、窓ガラスなんかも雑巾できれいに拭いた。良夜が汚した居間は彼が汚す前以上にきれいになった。
「たかだか、八畳の居間を掃除したくらいで、大掃除とか言うんじゃないわよ。それでご飯は?」
「……おまえ、さっきからご飯ご飯って、二条さんか?」
「仕方ないじゃない? 今日は一日、良夜がガリガリボードを削ってたせいで、三時のおやつも食べてないんだもの」
頭の上から言われ、良夜は「ああ」と急に思い出す。ちょうど三時くらいは一番作業に熱がこもっていた時間帯だ。おやつどころか休憩も入れず、作業に熱中していた。
「腹が減ったんなら言えばいいだろう?」
「まあ、私も良夜の百面相が楽しくて言い忘れてたんだけど」
どんな顔をしながらやっていたのか、自分ではわからないが、アルトが言うにはボードをカッターナイフで削りながら、表情がころころ変わっていたらしい。明るくなったり、暗くなったり、眉と眉の間に深い谷を作ってみたり、頭を抱え込んだり、失敗したボードの切れっ端をゴミ箱に叩き付けたり……
「心の病を患ってる可哀想な人かと思っちゃったわ」
「……悪趣味、おまえ……まあ、ともかく飯だな。何か作るか……金もねーし」
「あら、作るの?」
「作るの。お前のせいで金がないんだよ」
「七割は駄猫の責任。残り三割は私のこの愛らしい笑顔に免じて許しなさい」
前髪の向こう側にアルトの小さな顔が滑り込む。口角をわずかにあげ、大きな金色の瞳が優しくゆるむ。確かにそれは愛らしいと呼ぶにふさわしい。ふさわしいが――
「金を払ってみるほどの物でもねーな」
「だったら、見せない」
ふっとアルトの表情から笑みが消え、彼女は一度だけべーっと舌を出した。そしてトンと良夜の鼻っ柱を蹴っ飛ばし、彼女は頭の上に舞い戻る。見せないといった言葉を裏付けるように、頭のてっぺん、いくら見上げても見えない場所に陣取ると、ぎゅっと強く良夜の髪を握りしめた。ほとんど気にならないような重みを頭の上に感じながら、彼はきれいになった居間からキッチンへと抜ける。
「ナァ〜?」
その背後に先ほどまで寝ていたはずの武王も続く。すぐそばで掃除機をかけられようとも居眠りを続けるあたり、武王は武王の名の通り、肝の太い猫だと良夜は思う
「武王……お前に食わせる物はないぞ?」
武王には毎朝必要な量の餌を与えている。与えているが、彼は誰かがキッチンに入ったらその後に続き、何かを訴えかけるような視線で見つめ続けるのが日常。おかげでぶくぶくぶくぶく太ってんだ、こいつは。
「無視したらいいじゃない?」
アルトは簡単にそういう。
「……でもなぁ……」
スリスリ……対面キッチンの奥へと入った良夜の足下、くるぶしのあたりに丹念に彼は体をこすりつける。時折、良夜の顔を見上げ――
「ナァ……?」
何とも言い難い声と表情でひと鳴き。大きな瞳が良夜の良心をえぐる……ような気がする。
「いつもの間抜け顔じゃない。心にやましいことがあるから、純粋に動物の顔が見られないのよ。私は無視し続けられるわよ。むしろ、タマネギでも食わしてやろうかと思うくらいだわ」
「お前、心がすさみすぎ……」
「昨日、私がどれだけこいつにイヂメられたと思ってるのよ!?」
アルトの言い分を「はいはい」と適当に聞き流し、彼は身の丈よりも大きな冷蔵庫を開ける。どうやら、小夜子は一人暮らしになってからもそこそこ自炊をしていたらしく、冷蔵庫の中には結構な食材が眠っていた。その中から、今夜は鶏の胸肉を取り出す。これを塩コショウで焼いてメインディッシュ、付け合わせには冷凍の野菜ミックスでも炒めればいいだろう……そんなことを考えながら、未だ頭の上で「自分は武王にどれくらいいじめられたか?」を切々と語り続けるアルトに声をかけた。
「どうせ、お前の方からちょっかい出したんだろう? 日頃の行いが悪いんだよ」
「こんな行いかしらっ!?」
「いってぇ!! 武王にやられたからって俺に仕返すんじゃねぇ!!」
「ふんっ! ちっとも私のことを信用しない良夜が悪いのよっ!!」
さくっ! 良夜の頭にストローが突き刺さる。悶絶する良夜を武王が慰めるように一声鳴いた。
「ニャァ?」
「今の鳴き声は『やーい、このヘタレぇ〜根性なしぃ〜』って鳴き方だったわよ?」
傷口をがつがつとかかとで蹴っ飛ばしながら、アルトは言う。でも、良夜は武王君は決してそんな子じゃないと信じていた。
「ニャァ……」
真実は武王だけが知っている。
さて、食事も終えて、お風呂も入って、つまらない紅白の代わりにレンタルビデオで借りてきたアニメのDVDで時間をつぶす。十年ちょっと前、社会現象になるまで流行ったアニメのリメイク作品。当時、主役もヒロインも良夜より年上だったはずなのだが、この十年ですっかり年齢は逆転、それを思うと何となく感慨深い。
それを良夜は居間の畳の上から眺めていた。クッションを枕の代わりに寝っ転がり、頭の上ではアルトも両足をぽんと投げ出した姿。ついでに少し離れたテーブルの下では武王がうつらうつらと船をこぐ。
「大晦日らしさって物が全くないのは気のせいかしら?」
「お年玉を貰った以上、年末年始のイベントなんて九分九厘終わったも同然だ」
「……ホント、良夜っていろいろなことに無頓着なのね……ところで、今夜も美月から電話があるの?」
「ああ、なんか、十二時前に電話してくるってさ」
アルトの営業が終わり、美月がお風呂に入って、髪の手入れを終わらせて……といった雑事が終わった頃、美月からの電話を携帯で受けるのがここ数日の日課になっていた。話す内容と言えば、店が暇だったとか、今日は何人のお客さんが来ただとか、場合によっては夕飯のメニューや『良夜さんは野菜が足りてない』といったお小言にまで話は及ぶ。そんな愚にもつかない話ばかりだが、美月が弾んだ声であれやこれや語ってくれるのは、決して嫌な物ではない。何より、やることもなくて暇をもてあましてる身にはありがたいことこの上ない。
「後は……アヤの逃走劇くらいか……」
「毎日逃がしてるわね……」
「毎日逃がしてるのはともかく、毎日ちゃんと捕まえてるあたりがすごいと思う」
今夜も逃げられたけど、たった今捕まえました。それはほとんど挨拶のように毎晩語られるお話、それを苦笑いで良夜が聞くのが電話の始まり。その話を思い出したついでに良夜は視線をテレビの上、鴨居に引っかけられた時計へと移す。時間は十一時半を少し回ったところ。時間的に考えれば……
「今夜は遅いわね、逃亡劇が長引いてるのかしら?」
ふわぁ〜と大きなあくびを一つ、アルトはどうにもこの作品がつまらないらしく、先ほどから何回もあくびをかみ殺している。そのあくびの隙間からこぼれた言葉に良夜は「そうだな」とだけ言葉を返す。アルトにはつまらないアニメだが、良夜はそこそこ以上に楽しめている。しかも、ちょうどクライマックス直前、もう少ししたらど派手なアクションシーンが入ってくるはず。迷惑とまでは思わないが、出来ることならもうちょっと……と思っていたのに――
ピッピッピッ……
テーブルの上に置かれていた携帯電話が小さな着信音と振動で主に注目を促す。
「残念だったわね? はい、これでおしまい」
トントンとアルトは良夜の肩口から飛び降り、転がしていたリモコンにとりつく。そして、迷うことなく停止のスイッチを踏みつける。ぷちんとDVDの映像は切れ、代わりに芸能人たちが楽しそうにはしゃぐと年末特番へとテレビの映像は切り替わった。
「切ることないだろう?」
「何なら、テレビも消しましょうか? どーせ、つまらないのは見なくても判るんだし」
「消さなくて良い」
肩口から見上げるアルトをにらみつけ、未だ賑々しく主を呼び続ける携帯電話を取り上げる。確認するまでもなく、通話相手は喫茶アルト。美月も携帯電話は持っているのだが、掛けてくるのはいつも固定電話の方。こっちだと料金は高くなってしまうが、店の経費で落とせるから最終的にはお得らしい。
手にした電話を耳に押しつけ、良夜がもしもしと声を掛けると、スピーカーの向こう側から明るい美月の声が聞こえた。
『もしもし? 良夜さん? 三島ですよ〜』
「はい、こんばんは。今夜、遅かったですね?」
『ええ、おせちを少し作ってましたから』
「えっ? 作るんですか? 美月さんって」
『作りますよ? ほかはどうでも良いですけど、栗きんとんだけは食べないと寂しいですから。だから、それだけは作るんですよ〜』
栗きんとんだけのおせち料理はおせち料理というのだろうか? 口にこそ出さないが、苦笑混じりの表情で良夜は考えてみる。考えてみたところで答えなど出るはずもなく、ただ、良夜は「そうですか?」と笑いをかみ殺しながら答えるにとどまった。
『そうですよ? おいしいんですから。でも、良夜さんはこっちにいないので食べさせてあげませんよ?』
「はいはい。じゃぁ、今夜はアヤ、逃がしてないんですか?」
『ええ、今日は逃がしてないんですよ?』
「えっ……ホント?」
「うそでしょ!?」
逃がしてないの台詞に良夜もアルトも思わず声を上げる。その雰囲気を電話越しにも感じ取ったのか、美月は不服そうな声を上げた。
『……ぶー、良夜さんもアルトもなにげにひどいこと言ってます……すねますよ?』
少々芝居がかった口調で彼女は言う。その声にごめんなさいと苦笑で言葉を返しながら、彼は寝転がっていた体を起こした。そして、テーブルに腕をつくような格好で座り直し、視線だけをテレビの方へと向ける。中堅よりもわずかに若手よりの芸人たちが大して面白くもない芸を披露していた番組も終わりを迎え、代わりにどこかのお寺が映っていた。
『もうすぐ、今年も終わりですね……』
「ええ。終わりますね」
厳粛で静かな空気、それはテレビモニターを通しても十分に感ずることが出来、自然と電話を挟んだ二人の声も落ち着いた物へと移り変わっていく。落ち着いた口調で話すのは、今年一年の思い出話。店内で大げんかをしたこと、それからつきあい始めたこと、アルトをタカミーズにも紹介したことや全員で海に行った話……等々。そんな話をしている内に、テレビの中では袈裟をまとったお坊さんが除夜の鐘をつき始める。
「生でも聞こえてるわね……?」
良夜の肩口で盗み聞いていたアルトがぽつりと漏らす。言われて良夜はテレビのリモコンに手を伸ばす。消音のボタンを押せば、車が走り抜ける音に紛れて重厚な鐘の音がかすかに聞こえた。いよいよ今年も大詰め、カウントダウン。
『今年最後の声と来年最初の声、聞けますね』
「じゃぁ、良夜の来年の台詞は『可愛い妖精のアルトちゃんが美月にあけましておめでとうございますって言ってます』になるのね」
「『可愛い』は言わない」
『えぇ〜〜? 言ってあげてくださいよ〜』
「言わないって。美月さんがそんなことを言うから調子に乗るんですよ?」
「あら、可愛くて美しいのは事実じゃない? これから私のことは『可愛くて美しい妖精のアルトさん』って呼びなさい」
アルトの言葉を伝えるととたんに美月は大はしゃぎ。うれしそうな声で言ってあげての連呼を続ける。すればアルトもその尻馬に乗ってはしゃぎはじめ、年越し直前の厳粛な空気もあっという間にかすれていく。その間も除夜の鐘は順調に数を重ねていき、いよいよ、残り数回……
『あっ、もうちょっとですよ? えへへ、膝の上に目覚ましが――』
がちゃんっ!!
『――ふえぇぇぇぇぇぇぇ!??!!』
言いかけた美月の言葉が止まり、代わりに聞こえたのは耳をつんざく大きなノイズ。耳鳴りが治まると、遙か遠くから美月の悲鳴。ちょっぴり痛む耳を澄ませば、美月が悪夜に向かって呼びかける声が聞こえた。
『逃げちゃ駄目ですよっ!!!』
「……この期に及んで逃がした訳ね……」
携帯に押しつけた耳を澄まし、アルトがつぶやく。その声に大きく良夜が頷いた次の瞬間、やっぱり遠くでピピピッ! ピピピッ! と目覚まし時計のアラームが鳴る。
「目覚まし、仕掛けてたのね…………っていうのが私の最初の台詞」
「……そうみたいだな……っていうのが俺の最初の台詞か?」
そして美月は――
『ふぇぇぇぇぇぇ〜〜〜あやちゃん! ひまわりの種はここにあるんですよ!? だから、ベッドの下から出てきてくださぁい』
だった。
「あけましておめでとう……今年も美月のこと、よろしく頼むわね。私はもう投げたから」
「……頼むから投げないでくれ……」
互いに電話に耳を押しつけたまま、一人の青年と一人の妖精は互いの顔を見やり、ぺこりと頭を下げ……新年早々、深いため息をつく。
「フナァ〜〜〜〜」
そこからちょっぴり離れたところでは、武王が大きな背伸びとあくびをしていた。
なお、美月はアヤを確保するのに、それから小一時間もの時間を必要とした。