里帰り(3)
「りょーや君、お風呂、空いたよぉ?」
 リビングでテレビを眺める良夜に、小夜子が声を掛ける。顔を上げれば青がまぶしいパジャマ姿の小夜子がガシガシとタオルで頭を拭いている姿が見えた。なお、風呂の掃除をしたのは良夜だが先に使ったのは小夜子、理由は「おねーちゃんだから」。やってられないこと甚だしい。
「んっ……」
 半分ほどずり落ちていたソファーから体を起こし、良夜は立ち上がる。ペタペタとやる気のない足取りで姉の横を通りがかると、彼女は頭を拭く手を止めて、彼に声を掛けた。
「下着とパジャマは脱衣所においてあるからぁ〜」
「さんきゅー」
「日本人なら『ありがとう』だよぉ?」
 そんな間延びした声を聞き流して、脱衣所へ。引き戸を開くと、彼の髪がぐいぐいと力強く引っ張られる。もちろん、犯人など考えるまでもない。
「……見たいのか?」
「見せたいの? ロリ」
 嫌味にかぶせられる更なる嫌味に良夜はチッと舌打ち。頭の上からアルトをつまみ上げると、つい今しがた閉めたばかりの引き戸に手をかける。
「ちょい待ちなさい」
「何だよ……やっぱり、見たいのか?」
「だから見せたいの? って、会話の無限ループね。ともかく、先に私が使うわよ」
「はぁ?」
 間の抜けた声で彼女の羽から手を離すと、彼女はふわりと宙に舞い上がる。そして、着地する場所は、浴室へと続くドアのドアノブだ。
「あのね、良夜。これは私の優しさなのよ?」
 ピシッとストローを良夜の方へとまっすぐに向け、彼女は薄っぺらな胸を張る。その態度は物の道理を知らぬ子供に、簡単な問題を解説している教師のよう。ふんぞり返った彼女を見下ろし、良夜が「何が?」と尋ねれば、彼女はやっぱり胸を張ったままに答えた。
「じゃぁ、貴方はお風呂上り、せっかく温もった後に、私が出るのを待つつもり? 寒いわよ、きっと」
「……じゃぁ、お前が待つのか? 俺が出るまで」
「それは良いの。バスタオルでもお布団代わりにしてるから」
 アルトのストローが良夜の顔からつーっと動く。動いた先には小さな台が一つ、置かれているのは良夜の下着とジャージ、それに真っ白いバスタオルだ。柔軟剤が使われたバスタオルは見るからにふわふわ。確かにアルトのサイズならば、十分、掛け布団として通用するだろう。
「……まあ、確かに……早めに出てこいよ?」
「ええ、分かったわ」
 良夜がドアを開けば、彼女は服を着たまま浴室へと消えていく。そして、良夜はその浴室に背を向け、彼女が内側から声を掛けるのを待った。
 ──三十分。
「へーっくっしゅん!」
 温もる前でも十分に寒かった。

 さて、お風呂上り、ジャージ姿の良夜はさっさと自室に向かった。普段なら寝るにはかなり早い時間だが、やることも特にないし、何より、なんかもう、今日は色々と疲れきっちゃった。姉小夜子も読書タイムに突入した以上、もはややることは寝ることくらいしかない。
「♪私を月に連れて行って〜星々の間で歌わせて〜♪」
 頭の上にはお風呂上がりだがワインレッドのドレスを着ているアルトの姿。久しぶりに湯船に浸かって身も心もリフレッシュしたのか、上機嫌で鼻歌まで飛び出している。
「家だといつもキッチンの水風呂なのよねぇ……これからは時々良夜の家でお風呂を借りようかしら?」
「毎度毎度、脱衣所で三十分も待たされたら、たまんねーけどな……」
 頭の上からアルトが顔を出すと、アルトの美しい金髪がサラサラと流れる。今日はシャボネットや台所用洗剤ではなくちゃんとシャンプーとリンスを使ったのだろう、金髪の輝きがいつもよりも一味違う……ように見えた。
「あっ……そうだ」
 ドアの前、足を止めると良夜はアルトの顔を見上げて言う。
「驚くなよ?」
「何を?」の返事を待つよりも先に彼は自室のドアを開く。開いて明かりをつけるまでわずか数秒。その数秒をアルトは絶句するために使った。
「なっ……何、これ?」
「まあ……驚くよな……」
 呆然とつぶやかれる声に言葉を返しながら、良夜は半ば諦めた様に部屋を見渡す。六畳ほどの洋室、四つの壁は全て本棚が並べられ、窓すら潰されている有様。並べられてる本はと言えば、推理小説から時代小説、古典の現代語訳があったかと思えば、ライトファンタジーとサイバーパンクがその両脇を固める。良く探せば吉田貴美の大好きなBL新書本やフランス書院なんぞもあるかもしれない。そんな本棚の真ん中にシングルベッドがポツンと一つだけ。他には何にもない。これが良夜の部屋だった。
「これ、良夜の?」
 恐る恐る彼女が顔を向けると、良夜は肩をすくめながら答える。
「俺のアパートに教科書とマンガ以外何か本があったか?」
「ロリコン写真集、『ロシアの妖精』全十二巻、かっこイカ臭い」
「サラッと俺の人生を捏造すんな……ねーちゃんのだよ、ねーちゃんの部屋に入りきらないからって俺の部屋に置かれてんだよ」
 置かれ始めたのは良夜が大学に進学した直後から。去年の冬休みに帰ってきた時には既にこんな感じになっていた。
「すごいお姉さんね……」
「文句言うと、すぐに『第二志望も落ちちゃったからぁ〜』って言うんだよ。自分が国立入ったからって……クソ」
 呆然とつぶやくアルトに、良夜は吐き捨てるように答える。
 実際の所、良夜と姉の頭の出来はすごく違うというわけではない。ただ、姉は得手不得手なくまんべんなく出来るのに対して、良夜は理数系は凄く出来るが、文系、特に英語が徹底的にダメという人。そこのところの差がセンター入試の得点差に出て、片や地元国立文学部、片や遠く離れた田舎の私立大学と言う人生の浮き沈みに繋がったのだ。
「それとなぁ……俺、まかり間違って名門校に行っちゃっただろう? 高校……内申が余り良くなかったんだよ。高校時代は中の下をウロウロしてたし」
 で、姉は高校受験に失敗。すべり止め高校で上位三パーセントを常にキープ、特別進学コースに入ってた上に内申が滅茶苦茶良かったらしい。
「ほんと、人生万事塞翁が馬ってよく言ったものね……ということで、私はあっちの本棚の中で寝るから、覗いたら殺すわよ?」
「見られるのが嫌なら、リビングででも寝ろよな、何でここに来る?」
 トンと良夜の頭を蹴ってアルトは宙を舞う。ふわり舞い降りるのは本棚の一つ、その背中に良夜が声を掛けると彼女は叫ぶ。
「猫がいるじゃない!? 私、動物は嫌いなの!」
 ヒステリー気味にアルトが叫ぶと良夜は「ああ」と小さく頷く。少し前にも彩音が飼ってる犬に追いかけられて大変な目にあったとか言ってたし、この間もタカミーズのハムスターにもボコボコにされていた。基本、彼女は動物に弱い。
「ハムスターよりかは強いからなぁ〜武王は」
「うっ、うるさいわよ! ハムスターよりも弱い私よりも弱い癖にっ! じゃぁね! おやすみっ!!」
 本棚の影から顔を突き出し、彼女はやっぱり叫んだ。その叫び声に「お休み」とだけ返し、良夜もまた、ベッドの中に潜り込む。久しぶりの実家だというのに、まわりはすべて本棚。その本棚が与える圧迫感で、まったく落ち着かないが、体は睡眠を欲しているようだ。列車の旅で疲れた体は、数回の寝返りを打ったかと思うと、あっという間に意識を手放していく。
 そして、眠りに落ちたら、次は起きなきゃならないのが世の定め。今回の寝起きは最低だった。
「りょーや君、おきてぇ〜朝だよ? 起きないと大変な事になるよ? 武王が上から──」
 遥か遠くから声が聞こえる。間延びした姉の声……夢うつつで寝返りを打てば──
 ぼふっ!?
「ぎゃっ!?」
 すさまじい音を立てて、良夜の胸元に柔らかくて重くて、もふもふしている物体が落ちて来る。慌てて飛び起きれば、かわいい愛猫武王くんと金色をした瞳と目があった。
「降ってくるよ?」
「降ってくるよじゃねぇ!!! 落とした癖にっ!!」
 意識は一気に覚醒、同時に大声を上げる。そして、しがみつく武王の体を抱きかかえ、彼は腕を枕元に伸ばす。そこに置いてあった携帯電話、開いてみると時間は五時半、もちろん、朝だ。
「おはよう。寝起きがよくてねーちゃん、ビックリ」
 社会人らしい薄化粧、ちょっぴり仕立ての良いスーツを着込んで、姉はぱちくりと眼鏡の中の目を瞬かせる。それを見上げながら、彼はバリバリと寝癖のついた頭を乱暴に掻いた。
「……ありえねえ時間にありえねえ起こし方してんじゃねーよ」
「飛行場まで送ってほしいんだよ。七時半までに」
 姉の顔を見上げながら、ウリャウリャと武王の腹部をもみほぐす。イラつくストレスを一気に解放。武王はジタバタと良夜の腕の中でもがいているが、それを無視するのが武王腹モミの醍醐味。少し余りぎみのお腹がとっても心地いい。彩音の脇腹に恋している陽の気持ちがちょっぴり判る。
「何で俺が……第二志望云々とか言ったら、さすがに切れるぞ?」
 その言葉に小夜子は首を大きく振って、答えた。
「ううん、言わないよ? でもね、ここにお母さん、お父さん、そして私が連名で作ったお年玉があるの。送ってくれないとこれでタクシーに乗って行っちゃう。おつりはあっちでコアラを買ってくるのに使うの。買ってきたら、りょーや君にも抱かせてあげるね?」
 そう言って取り出すのは一通の封筒、ペロッとひっくり返せば『父・母・姉』としっかり書いてある。彼女はそれをゆっくりと開き、中から諭吉さん三名を良夜にご挨拶させた……のも、それはほんの数秒。すぐに戻すと、それを腕に引っ掛けていたハンドバッグの中に放り込む。
「コアラは買えない……って、本当にねーちゃんって汚い……」
 お金の行方をかたずを飲んで見送り、良夜はゆっくりと我が姉の顔を見上げた。すると見下ろす顔を見る見る陰らせ、彼女は良夜の肩をガッシと掴んだ。
「ごめんね。でもね、でもね、罠はね、掛けられるより掛ける方が胸が痛むんだよ? 本当だよ? だからね、りょーやくんには罠に掛けられても掛けるような子にはなって欲しくないの」
 泣き顔まで作り上げ、彼女は言う。もちろん、そんな言葉を信用するなんて愉快な事、彼にできようはずがない。ただ、ジーッと無言でベッドの上から小夜子の笑顔を見上げるだけ。
 見上げる笑顔がチラッとよそ見。帰ってきたときにもやっぱり笑顔だったが、どこか冷たい。その冷たい笑顔の持ち主は一オクターブ低い声で言う。
「……でもね、騙される方が馬鹿だと思うの。おねーちゃん」
「……ほんと……帰ってこなきゃよかった」
 ため息混じりに愛猫をベッドから投げ捨て、彼自身もベッドから立ち上がる。その様子を満足そうに見つめると、小夜子はクルッと良夜に背を向ける。そして一言だけを残して、その場を後にした。
「ご飯、出来てるよ〜」
 その背中を見送り、彼もクローゼットへと向かう。そこは本棚と本棚のわずかな隙間、絶妙に配置された本棚はクローゼットを開くにギリギリの所で邪魔にならない。が、クローゼットの中にも文庫本が並べられているあたり、空間を無駄にしない小夜子の計算高さを見て取れる。そこからジーパンとセーターを取り出し、もそもそとやる気のない手つきと足取りで着替えが終わるまで、たっぷり十分。着替えが終わる頃──
「ぎゃっ!?」
 と言う短い悲鳴が聞こえた。
「ん? どーしたアルト……? あっ……」
 本棚の影から顔を出せば、別の本棚の中でで武王がくるんと丸まって寝ているのが見えた……のは良いのだが、その体の下、脇腹の辺りから白い足がぴょこぴょこ動いているのは、多分、気のせいではないだろう。
「暖かくて、もふもふした物がぁぁぁぁぁ!! 口の中に毛がっ! 毛がぁぁぁぁぁぁ!!!」
 こもった声でこういっているのも聞こえているから、間違いない。何というか……お約束な奴だ。良夜はそう思いながら、武王の体をヒョイと抱き上げた。
「ぷっはぁ!!! 死ぬかと思った!!!」
 本を置かれた棚板、そのわずかな余白に彼女はペタンと座り、いくつも吐息を漏らす。チラッと見た顔は真っ青で、ちょっぴり死相が浮かんでいたような気がするが、気のせいということにしておこう。そこから良夜はプイと視線をそらし、武王を抱いたままで彼女に背を向ける。早めに部屋を出た方が多分身のため。
「アルト、先にリビング行ってるぞ。出かけるから着替えて早めにこいよ」
「えっ? ああ、判ったわ。朝ご飯はパンが良いんだけど」
 ドアの前で背中越しに声を掛ければ、息を整えたアルトが答える。答えに苦笑いを浮かべながら、良夜は言葉を続けた。
「うちの朝はご飯だよ。作ったのねーちゃんだし、コーヒーくらいは煎れてやるから……」
 そして、姉が出て行ったドアをくぐり廊下へ……出る直前、彼は一言だけ言う事にした。
「……やっぱ、お前、まっぱで寝るの止めろ」
 言うだけ言い、武王を抱いたままさっさと廊下へ。数瞬の間が開いたのち、良夜にだけ聞こえる絶叫が4LDKのマンションに響き渡った。
「みっ、見たわねっ!!!」
 その悲鳴に良夜は含み笑いを浮かべる。後で刺されるかな? とは思うが、一瞬でも溜飲が下げられたことが彼には満足。武王の喉の下をこちょこちょと人差し指一本でくすぐりながら、彼の眠たそうな顔を覗き込む。
「良くやった、武王。後で『猫まっしぐら』買ってきてやるからな」
「ふなぁ〜」
 掛けられた言葉を理解したのかしてないのか、ただ、彼は飼い主同様眠たそうな顔と声で一声だけ鳴いた。

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