里帰り(2)
すごい田舎からちょっと都会を通り過ごして、少し田舎へ。新幹線と私鉄を乗り継いで良夜はようやく実家の最寄り駅にたどり着いた。
「家までどのくらい?」
「十分かなぁ〜」
懐から見上げる妖精さんは既に白いトイレットペーパードレスではなく、ワインレッドのドレス姿。普段のゴスロリドレスと比べてスカートの丈は長く、フリルは少なめ、背中が大きく開いて見ようによっては色っぽいのだが、全体的には落ち着いた感じだ。それに対し、アルトはついさきほどまでブリブリと文句を言っていたのだが、それもようやく落ち着いた模様。何もかも気に入らないらしいが、何より気に入らないのはブラがないことらしい。必要あるのか? と思うが、必要なようだ。
「そう? だったら早く帰ってコーヒーを淹れましょう? ドリップパックでも上手に淹れるとおいしいのよ?」
言って彼女は良夜の手元に視線を向けた。そこにはビニール袋が一つ、ブラブラと揺れている。中身はスーパーで買ったドリップパックのコーヒーが一袋、おもちゃ屋に寄ったついでに買わされた代物だ。高いものでなし、良夜自身も一日一杯くらいはコーヒーを飲まないと落ち着かない気もする。しかし、当たり前の権利であるかのごとくに言われると少々腹が立つ。
「……遠慮、ないな? お前」
「今更でしょ?」
「……確かに今更だ。うち、緑茶なんだよ。真夏も水出しで飲むし」
「緑茶ね……飲み慣れてないのよ」
「一週間もうちに居たらなれるんじゃないか?」
片側一車線の道を良夜は肩を竦めて歩く。全体的な雰囲気は春休みに帰ったときのままだが、よくよく見れば、そこかしこに新しい店が立ったり、田んぼが宅地に変わったりしている。大学周辺のまったく変わらないド田舎に比べれば、驚くほどの早さで変化し続けていた。
「何か……急に開けてきたな、この辺」
「そうなの?」
ひょっこりと胸から顔を出すアルトを見下ろし、良夜の足は普通の道路から広めの河に掛けられた橋へとさしかかった。
「そう言えば、ここの土手も高校卒業するくらいまではぺんぺん草ばっかりだったんだけどなぁ……」
今では両側とも綺麗に護岸され、芝生が植えられている。もっとも、高校二年の夏、台風で少し上流の当たりが滅茶苦茶になったのだから、護岸もしてもらわなければ困るのだが……
「ふぅん……寂しい?」
「まあ、多少……」
そんな話をしているうちに良夜は八階建て、大きなマンションの前に足を止めた。
「ここ? 立派な所ね……」
「バブル崩壊直後で安かった……らしい、詳しくは知らんけどね。興味ないし、家なんて雨風しのげれば充分だよ」
「ほんっとぉぉに、良夜って物事に頓着しないタイプね。ねえ、何階? てっぺんだと景色が素敵そうね」
「六階……田んぼと道路くらいしか見えないぞ、タダの住宅地だし……」
一応オートロック。キーホルダーの中で数か月、居眠りをし続けていた実家の鍵に仕事をさせる。カチンと鍵は当たり前に開き、二人はエレベーターに乗り込んだ。アルトはそれが珍しいのか、ヌクヌクの懐から這い出し、良夜の頭の定位置にお尻を落ち着け、まわりを見渡す。その姿は丸でお上りさん。自宅は喫茶店、そばにあるのは学生マンションばっかりという住環境では、マンションというのはちょっと珍しいのかもしれない。
「4LDK。全戸南向き、駅まで徒歩八分……だけど、良夜は十分かかった」
エレベーター内に張られたチラシを読み上げる声も、どこか気後れを感じさせる物。それでも嫌味を言うことを忘れないあたりが性悪妖精の性悪妖精たる所以だ。
「ゆっくり歩くのが良いんだよ。寒いんだから」
チーンと音を立ててエレベータが開くと、そこは既に六階、一番端っこ、角の部屋が良夜の実家だ。角部屋には門扉とポーチがあって、その内側には母親が育てている植木鉢がいくつか並んでいた。
「ただいま……っと」
「お邪魔します……っと、誰かいるの?」
「冬休みだから、ねーちゃんはいるかもしれない……てか、多分、いる」
鍵を開けて玄関から廊下へ……数メートルもない廊下を行き過ぎ、良夜は十畳ほどのリビングダイニングへと入った。大きな食卓と食器棚やテレビ、窓際に置かれたソファーとその上に置かれている“置物”、懐かしい我が家のレイアウトはまったく変わっていない。変わらぬ我が家というものはやっぱり良いものだと彼は思う。
リビングとカウンターで仕切られたキッチンへと入り、良夜はヤカンを探す。テーブルのポットにはお湯が入っているはずだが、ポットのお湯でコーヒーを淹れようとすると、頭の上の妖精がキレる。コーヒーは沸かしたてのお湯で淹れるものらしい。
「ヤカンヤカン……あった」
ヤカンはいつもの戸棚の中、取り出したヤカンにカップ一杯分プラスアルファのお湯を入れ、コンロにかける。お湯が沸くまでの間にマグカップを用意。食器棚から取り出したカップはあらかじめお湯を張り、温めて置くのがおいしさの秘訣らしい。良く判らないが、これもやっておかないと頭の上の妖精がキレる。
「手際がよくなってるのは良いけど……アレは生き物なの? 無生物なの? それともナマケモノ?」
買ったばかりのドリップパックをカップの上に置いていると、アルトが頭の上から声を掛けた。彼女のストローがさす方へと視線を向けると見えるのは窓際に置かれたソファー……と、その上でごろんと寝っ転がり、一心不乱に文庫本をめくっている妙齢の女性だ。長めのスカートのおかげで問題はなさそうなのだが、それでも頭を肘掛けに乗せ、左膝を背もたれに引っ掛けている女性というのは見目麗しくない。
「ああ、あれ? うちの姉貴」
「……生きてるの?」
「ページ、めくってるだろう? 一度本を読み出すと、読み終わるか、火事になって読んでる本が燃え始めるまでは何があっても動かない生き物だから、気にするな」
再び手を動かしながら、良夜はアルトに姉の紹介をした。
少しブラウンがかった髪を丁寧にカールさせた女性、名前を浅間小夜子という。二人の位置からは良く見えないが、分厚い眼鏡と二重の大きな目、それとそのすぐ下にある泣きぼくろが特徴的。良夜の高校時代の友人に言わせると「美人」と言うことらしいが、どこかのエロゲーでなし、良夜自身がそう感じたことはほとんどない。
「化けたなぁ〜って思うことはあるけどなぁ〜リアル姉属性ってありえないって、絶対」
普段なら余人のいるところでアルトと大っぴらに話すこともないのだが、事、読書中の姉に関してその心配はない。耳元で調子っ外れの演歌を熱唱したところで、彼女は絶対に気づかない。
「姉弟ってそんなものかもしれないわね」
「そんなもん、そんなもん……と、出来上がり」
「ああ! また、アクまで淹れたわね……もう、このコーヒーがおいしいということはありえないわ……がっかり」
悲鳴にも似た声を軽く聞き流し、出来上がったコーヒーを食卓へと運ぶ。
「飲む前から決めつけるな……さてと、おやつおやつ……」
「飲まなくても判るわよ」
落胆著しい声を聞きながら、彼はカップを食卓の上に置き、隣の和室へと向かう。和室の収納には、彼の母親が大量のお菓子を放り込んでいるはず……なのだが、今日は珍しく皆無、代わりに一匹のトラネコが鎮座ましましているだけ。
「……また、お前はこんなところに……」
彼と見つめ合いながら、良夜はつぶやく。もう一人の家族「武王≪ぶおう≫」だ。雑種のトラネコで七歳、青みがかったグレイの毛並みが綺麗な彼は良夜の顔をチラリと見ると、トコトコと収納から出て行き、和室の座卓の下に潜り込んで行った。
「あれが噂の良夜の飼い猫? 太々しい猫ね」
「俺のじゃなくて、ねーちゃんの。大学時代に拾ってきたんだよ」
彼を見送り、見送ったついでに座卓の上に置かれていたクッキーの袋を発見。それをリビングに持ち帰り、食卓の上でコーヒーのおつまみとする。
ポリポリとクッキーをかじりながら、あまりおもしろいとは思えないテレビをぼんやりと眺める。それは良夜の手元でコーヒーを「やっぱりまずい」と断じている妖精さんも同じ。良い若い者が、久しぶりの実家でやるにしてはあまりにも怠惰な時間を二時間ほど過ごした。
で、二時間後、二時間も経てば日もどっぷりと暮れて空は真っ暗、部屋には煌々と明かりが灯り始める。部屋の明かりをつけたのは良夜だ。読書中の小夜子は自発的に電気をつけるような女ではない。本が読めなくなるまで読みつづけるし、正面に建っているスーパーの明かりでその気になれば閉店の十時まで、読書が可能だ。その甲斐あっての分厚い眼鏡。
「あれ……いつになったら動くのかしら?」
「多分、そろそろ……」
アルトと良夜がそんな会話を交わした頃、やおら彼女は体を起こして静かに言う。
「………………素晴らしいお話……良い一日でした」
間延びした、眠たそうな声が聞こえた。
「動いたわっ! しかも喋った!! あれ、本当に置物じゃなかったのねっ!!」
その声にアルトは猛烈に感動した。
浅間小夜子、二十四歳。地元国立大学国文学科を優秀な成績で卒業、数年前から出身高校で教鞭をふるう現代国語教師。性格は……
分厚い眼鏡と伸びた前髪越しに、眠たそうに半分ほど閉じられた瞳がテーブルでコーヒーとクッキーをつまんでいる良夜を見つめる。ぼんやりとした視線で見つめたまま、彼女は言った。
「……りょーや君、何でこんな所にいるの? 学校、辞めちゃった?」
眠たそうな口調はいつもの事、毎晩遅くまでいろいろな本を読んでいるからいつも眠たいんだろうな、と良夜は思う。思いながら、彼は前に里帰りした時も言われた言葉にため息を吐いた。
「里帰りだよ。この間、連絡しただろう?」
言えば彼女は右手人差し指で宙に何度も円を描き初めて、口をつぐむ。つぐんだ時間は十秒少々回していた指先をピッと良夜に向けて、「ああ」と声を上げた。
「うん……思い出した……かも知れない?」
そう言って彼女はなぜか他人事のように小首をひねる。
「かも知れないって……親父とお袋は?」
「パパ……は転勤して出て行っちゃった。ママも付いて行っちゃった」
間延びした口調で言われ、良夜の思考が完璧に止まる。もちろん、初耳の事態。春休み、三日ほど帰郷したときどころか、二週間ほど前、帰郷の予定を伝えたときにも聞いていない。が、よく考えればその時、この姉から「両親は留守」と言う話を聞いたような気がする。
「ようするに、今、この家に住んでるのはこの小夜子とか言う寝ぼけた女一人ってわけね」
先に話を理解出来たのは、良夜の頭を椅子にぷらぷらと足を振っている妖精さん。彼女に言われ、良夜はガバッとテーブルから立ち上がった。
「んな話きーてねえぞ!?」
「んっと……」
いきり立って怒鳴ろうとも小夜子にとっては柳に風。またもや、頭の上でくるくると人差し指を回して、数秒口をつぐむ。つぐんでいる暇に良夜は椅子から立ち上がると、つかつかと大股で彼女の元へと歩んで行く。その良夜を小夜子は眠たそうな瞳で見上げる。見上げる間も指はくるくると回りつづけ、止まることを知らない。そんな小夜子を見下ろす良夜と見下ろされる小夜子、良夜の頭の上では妖精さんがプラプラと足をフリフリ、事の推移を他人事の視線で見守っていた。
「だって、りょーや君に言っても仕方ないからぁ……」
小夜子が言う言葉は良夜の神経を逆撫でするに充分。カチン! と一気に沸騰すれば、彼はその勢いを殺すことなく声を荒らげた。
「仕方ないからじゃないよ! 親父もお袋も何考えてんだ!?」
良夜は一気に言葉をまくし立てる。まくし立てるけど、やっぱり小夜子はサラッと聞き流す。なぜか、彼のまわりにはこの手のタイプの女性が多い。その一番手は頭の上でくつろいでいる妖精だ。
「だって、良夜、迫力ないもの」
頭の上から降り注ぐ言葉を、良夜も無視。無視したのとほぼ同時に小夜子はやっぱり他人事のように言葉をつないだ。
「でもね、お父さんが転勤したのはりょーや君のせいだよ? りょーや君が第一志望の公立どころか、第二志望の地元私立まで滑っちゃうから、お父さん、頑張ってお仕事してたの。でもね、頑張ったら出世しちゃうの、世の中って。人生万事塞翁が馬だね」
「あっ……うぐっ……」
胸が痛かった。古傷がいたんだ。古傷の痛みに言葉すら出ない。胸を抑えて黙り込む良夜を置き去りに彼女は驚愕の事実をつげる。
「それでね、ねーちゃんも学校、冬休みだから明日からお父さんたちの所に行くんだよ」
「いや、あの……それに付いては、悪かったと反省しているというか、何というか……えっと、ともかく、ねーちゃんが親父たちの所に行くんなら、俺もついてくよ。ここに一人でいても仕方ないし」
精神的なダメージに怒りを持続するだけのエネルギーも失い、彼の口調は一気にトーンダウン。しどろもどろに言葉をつなぐも、劣勢になった立場はさらに悪くなるだけだった。
「いいけどぉ……パスポート、持ってるのぉ?」
「持ってる訳ねーだろう……てか、親父達、どこ?」
「……オーストリア?」
軽く小首を傾げて彼女は言う。言われた言葉に良夜も「はぁ?」と小首をかしげる。互いに小首を傾げたまま、小夜子はくるくるとまた指先で頭の上に円を書き始める。
小首をかしげたままの十秒は瞬く間に過ぎ、彼女のほわぁ〜んとした口調が再び、リビングにこだました。
「だから……えっと……レアメタルの採掘してるのかなぁ……小麦粉作ってるのかなぁ……お母さんはコアラを抱っこしてると思うけどぉ」
「小麦粉とかコアラとかオーストリアじゃなくて、オーストラリア! それからレアメタルと小麦粉って全然違うってか、ああ! もう! どこから突っ込んでいいか!! ああ、もう!!! 良いよ! じゃあ、もう、俺、向こうに帰るから!!」
ばたばたと手を無軌道に振り回し、彼は再び声を荒らげる。完璧にヒステリーって奴、先ほどの「第三志望云々」にからんだ逆ギレも少し入っているかもしれない。それも当然だろう。半日掛けて帰ってくれば、両親は自分が知らぬ間に外国住まい。姉も明日からそっちに行ってしまうという。一体、何のために高い金と長い時間、愛ハムスターの身を危険に晒してまで帰郷したのかと思えば、涙が出てくる。
が、その理由はちゃんと存在していた。
「それはダメだよぉ……だって、武王の面倒見てもらわないとぉ」
相変わらず、間延びした声で彼女は言う。そして、「ぶお〜」と間延びした声ながらも大きな声で言えば、リビングと和室をつなぐ襖が開いた。出てきたのは先ほど、収納の中で居眠りをしていた武王くんだ。他の誰が呼んでも来ないが、小夜子が呼ぶと彼は来る。
近づく武王を抱きかかえ、小夜子はソファーから立ち上がる。そして数回、彼の顎の下を撫でると、武王のまるまると太った体を良夜に押し付けた。
「はい」
それだけ言われて良夜は、半ば反射的に彼の体を抱きしめる。武王の体は結構重たい。狭いマンションの中で飼っているせいか、もしくは父親が晩酌のお相手をさせ、時々、ツマミを食わせていたせいかもしれない。彼の体は少々肥満ぎみ。少し余ったお腹のお肉とベルベットのように短く密集した毛皮の触り心地が魅力的……かも知れない。つまめる程度に余ったお腹の肉をつまみながら、彼は小夜子の眠そうな顔を見つめる。そして三秒、良夜は全てを理解した。
「ねーちゃん……まさか……俺に武王の面倒見させるためにずーーーーーーーーっと、親父の転勤、黙ってたのか」
疑問ではなく、確認だった。その確認に小夜子は至極あっさりと首肯して見せる。
「うん、ねーちゃんもね、コアラだっこしたいの。カンガルーとボクシングで戦ってみたいの」
「オーストラリアに行ってもカンガルーとは戦えない。てか、戦いたがるな」
「この期に及んでもツッコミを忘れないのね……立派よ、良夜」
冷静なツッコミに対して、アルトも冷静に突っ込む。しかし、小夜子はまったく意にかえさず、ツッコミに対応することもなく、一方的に言葉を続けていた。
「でもね、うちには武王がいるじゃない? 連れていくのも大変だし……りょーや君も武王が野垂れ死んだら、すごく嫌な気分になるよね? だから、ねーちゃんが帰って来るまで、面倒見てて?」
言いたいことを全て言い切り、彼女はほぉ〜と大きく吐息を吐いた。それを見つめ、良夜は大きく深呼吸、全身全霊の力を使って叫ぶ。
「はっハメやがったな!?」
「あのね、りょーや君、ねーちゃん、前から良く言ってたよね……えっと……」
間延びした声を一旦言い切り、彼女はまたもや頭の上でくるくると指を振る。今度は長め、視線も明後日の方向へと向けて、良夜との視線を切る。視線を切って一分弱、沈黙の時間も一分弱、彼女の顔が戻ってきたとき、半分閉じていた目がしっかりと見開かれ、良夜の顔をまっすぐに見つめる。そして、一オクターブ低い声と、眠気を感じさせない速度で彼女はっきりと言い切った。
「世の中騙される方が馬鹿」
浅間小夜子、二十四歳。地元国立大学国文学科を優秀な成績で卒業、数年前から出身高校で教鞭をふるう現代国語教師。性格は──
腹黒。