土日(4)
 日曜日……早朝、喫茶アルトの事務所兼用倉庫に閉じ込められて早十五時間の妖精アルトちゃんは飢えと渇きに苛まれていた。
「みっ……ミミズ……はいらない」
 軽いボケをやってみた所で突っ込んでくれる誰かさんはいない。そもそも、そんなことをやっている暇はない。いくらやってもドアは開かない。いくら良夜に電話をしても、相変わらず携帯電話会社のお姉さんが優しく語りかけてくれるだけで、何の役にも立ちはしない。こうなることなら、部屋の電話番号も聞いておくべきだったかと思うが、後悔先に立たず。そもそも、彼の家に電話が付いてるかどうかもよく知らない。最近は部屋に固定電話を引かない学生も多いそうだし……
 今後の事は一眠りして考えようと思ったけど、喉の渇きと空腹とでこんな時間に目が覚めた。正直、やってられない。
「お腹はともかく、水よ、水……干からびちゃう」
 そうつぶやき、彼女は倉庫の棚を一つ一つ確かめていく。ミネラルウォーターとは言わない。せめて缶ジュースでも転がっていれば、と彼女は考えながら、棚の中をチェックしていく。この際だから普段は絶対に飲まない缶コーヒーでも良い。
 いろいろな物が無造作に置かれる棚、手前にある小物の類をどかし、奥へと入る道を作る。普通の人なら鼻歌まじりに片手で出来ることも、身長十七センチの妖精さんには全身運動。絶食ダイエット中に全身運動は厳しすぎる。その挙句、たどり着いた先に何にもないどころか、ペットボトルはペットボトルでもサラダ油のペットボトルだったりしたら、疲労感は一気に数十倍だ。
「……サラダ油って飲めるのかしら?」
 疲れ切った脳裏に間抜けすぎる思いがよぎる。一瞬だけストローを握った右手に力がこもる。
「プツと刺して一口だけ……──って胸やけするだけよね……」
 ブンブンと大きく頭を振って、マヌケな計画を追い出す。そして再び、彼女は小物類をどかし、発掘調査を再開し始めた。
 探すは飲み物、もしくは食べ物……
 そんな重労働で時が小一時間程過ぎる。彼女はついに見つけるのだった。ペットボトルに入った水、しかも二リットル、六本、一ケースまるごと。浴びるほど飲んでもおつりが来る。
 ただし、賞味期限は半年前。
「……そう言えば、ずいぶん前、テレビでやってたらしいわね……」
 何年か前、そう言う番組がテレビであったらしい。アルト自身は見ていないのだが、美月は見ていたらしく、割りと何でも感化されやすい彼女が、翌日、さっそく買ってきて……
 と、ダンボールのケースから中を覗き込み、彼女は当時の記憶を小さなおつむの中から引っ張り出す。
「で……災害が起こるわけでなし、そのまま倉庫に放り込んで忘れてたのね……だから、もっと良く見なさいって私は言ったのよ!」
 すぐ出る答え、しかし、それが状況をよくするわけではない。怒鳴った所で、目の前にある半年前に賞味期限の切れた水が新品になるわけではない。
「……水の中毒って怖いのよね……」
 水中りになってお腹ピーピー……なんて事になったら、きっと恥ずかしくて死んでしまう。しかし、喉はこうしている間にもどんどん乾いていく。特にこのペットボトルの山を見てからという物、彼女の喉は痛いほどに渇きを主張し始めていた。
「……大丈夫……じゃないかしら? 特に澱みがあるみたいにも見えない……」
 上から覗き込んでいる分には、水中に違和感を感じることは出来ない。少なくともここから見ているだけなら、非常においしそうな水といっても良かった。
 しかし、賞味期限半年オーバー……しかも、その半年の中に真夏と呼ばれる期間が含まれているのが怖い。怖いけど喉は乾いた。それも文字通り死ぬほど。
「……くぅ……それもこれも全部良夜が悪いのよ!!! 覚えてなさい、良夜!!! 次にあったら絶対ぶっ殺してやるわ!!!」
 喫茶アルト事務所に妖精の剣呑な叫び声が響き渡る……も、それは誰の耳にも届きはしなかった。

「へっくしゅん!」
「風邪ですか?」
 ようやく復旧したパソコン、向かう良夜の口から大きなくしゃみが響く。それにバイトから帰ってきた直樹が声をかけると、良夜はクチュクチュと手で鼻を抑えながら「かなぁ……?」と曖昧な返事をした。
「所で、直樹……」
「なんですか?」
「何で、お前はそこでノートパソコンイジってんだ?」
「……部屋に帰ったら、吉田さんが歌って、たぬ吉さんが踊ってました」
 直樹の答えは必要にして充分。良夜は「あっ、なるほど」とだけ返事を返すと、キーボードの上に置いた指を動かし始める。カタカタパチパチ……時々エラーの警告音なんかも響き渡る。その度に滞りもするが、二人の指先はそれぞれのキーボードを軽快に叩きつづけていた。
「なあ……宮武の奴、進んでるかな?」
「……部屋の明かり、消えてましたよ、哲也くんの部屋」
「……野郎、諦めたか?」
「かも知れませんね……哲也くん、この授業は落としても良いみたいな事、言ってましたから」
 特に手を止めるでなし、顔を合わせるでなし。パソコンデスクに向かう良夜と座卓でノートパソコンを弄る直樹、二人の会話が散発的に起こる。互いに眠気を紛らすための会話、そんな感じの言葉を掛け合いながら、二人は実習を進めていた。
 そんな時間は空がゆっくりと白み始めるまで続く。続く時間を断ち切ったのは、直樹の小さな声だった。
「ああ……一応、終わり……」
 東の空が白く輝き始める頃、直樹が力なくつぶやく。力のない声、弱々しくそれは、精魂使い果たしたというにぴったりだ。
「マジ? 後でちょっと見せてくれ……」
 それに対して未だ五合目付近をうろちょろしている良夜は顔を振り向かせる。数時間ぶりに見る直樹の顔は目の下に薄く隈が張ってどこか痛々しいが、それと同時に晴れやかでもあった。
「makeが通ったら……悪いんですけど、僕、三十分くらい、仮眠します……起こしてください」
「……ああ、了解、お休み……」
 良夜が答えると、直樹はのそのそと起き上がり、良夜のベッドの上に倒れ込む。服も着たまま、膝から先はベッドの外側、それでも心地良さそうな寝息は数十秒とかからず、聞こえ始める。
「はあ……羨ましい……」
 羨望の囁きと寝息、ノートパソコンがカリカリとハードディスクに何かを書き込む音だけが、黎明の部屋に響く。そろそろ電気は消すべき時間帯。だが、立ち上がる事すら彼は億劫だった。
 羨望に立ち止まった指先と意識を良夜はキーボードとモニターに戻す。薄暗い夕日の壁紙とテキストエディタの白い背景色、そのコントラストが目に痛い。目尻を抑えて彼は数十秒前まで考えていた場所へと思考を戻す。
「……えっと……アレ……やべ、計算できねえ……ここの論理演算……あれ……おかしい?」
 それまで軽快に動いていた指が、電池が切れたように動きを止めた。止めた代わりに唇だけがブツブツと不規則な音を発し始める。先ほどまでは直樹にも聞けばよかったのだが、その直樹も今は夢の中。聞くどころか、下手に声を上げることすらはばかれる。
 立ち止まる指先、左手で頬杖を突き、右手にペンを握ってメモ帳に走らせる……つもりがそれすら動かない。何を書いて良いのかが判らない。と言うか、既に自分が何を考えていたかも意味不明。論理演算の式を考えていたような……単にデータの並び替えをやらなきゃいけなかっただけのような……
 カツカツとペン先でメモ帳にリズムをとりながら、彼は思考を取りまとめるため、そっと目を閉じる。
「えっと……だから……ここの計算結果が偽だったら、あっちが蜀で……そっちが呉……ふわぁ……むにゃ……」
 閉じた目の代わりに大きく開くは口、力の抜けきったあくびとマヌケな寝言がそこからこぼれ落ちる。彼の瞳が次に光を取り戻すのは──
 お昼と呼ばれる時間だった。
 彼が目を閉じ、夢の世界に逃げた頃、カリカリと一生懸命演算を続けていたノートパソコン、その液晶画面には顧みる者もいないというのに
『Syntax Error』
 と言う親切なメッセージが一行、燦然と輝いていた。

 さて、バカ三人はさておき、三島美月さん。いつも通りの目覚め、ものすごく良い夢を見てたような気がするのだが、それも霞む脳裏に浮かんでは消えていくだけ。
「ふわぁ……良く寝ました……」
 三十分、ベッドの端っこに座ってボーッとするといういつもの儀式を終わらせ、大きく背伸び。頭と心に新鮮な空気をたっぷりと送り込む。
 目覚めた頭が体に命令を与え、彼女はのんびりと立ち上がった。そして、クローゼットの中から糊の効いた制服を取り出し、着替えて階下へ……トントンと軽やかな足音を立てて、フロアに入るとそこでは祖父の和明だけではなく、同僚、ウェイトレス姿の吉田貴美と常連客の一人、狐のたぬ吉が帽子を目深にかぶって座っていた。
 カウンター席を二人並んで仲良くモーニングコーヒーを傾ける二人、そのそばまで近づくと美月は不思議そうに声をかけた。
「あれ? 吉田さん、凄く早くないですか?」
「早めに来てって言ってたん、美月さんじゃん……って所なんだけど、昨日の夜、たぬちゃんと飲んでてさ……仮眠したら起きれそうにないから、そのまま来ちゃった」
「昨日の夜というか、明け方までずーっと飲んでました! 夜行性の私もさすがに辛いですっ!」
「また未成年が深酒ですか? 良くないですよ、そういうこと」
 心なしか覇気もなく口調も緩慢な貴美に対して、たぬ吉の方はいつも通りにノリノリハイテンション、どこが辛いのかは良く判らない。対照的な二人に声をかけ、美月はキッチンへと足を向ける。
「あっ、お二人も何か食べます?」
「ぱーす! つまみとお酒でお腹いっぱい」
「いりませんっ! 今日はお肉を食べさせてくれるというので、ご飯、控えめですっ!」
 キッチンの奥から声を声をかけると、二人の答えが帰ってくる。片方の答えに何か引っかかるものを感じながらも、美月は二人分の朝食を作ってキッチンを後にした。モーニングのない土日は少々手抜き、サラダは野菜をざく切りにした物に出来合いのドレッシングをかけただけ、ヨーグルトは果物抜き、余らせるのがもったいない。
 十分少々でそれだけの食事を作り、彼女は大きなトレイに二人分の朝食を載せてフロアに出る。出た所、カウンターの内側では、珍しく貴美がネル前でゴソゴソと手を動かしていた。
「あれ、吉田さんが淹れてるんですか?」
「店長もあっちでくつろいでし」
 美月が声をかけるとネル相手に格闘していた貴美が答える。その手つきはどこか危なげ。祖父のそれはもちろん、美月の手際と比べてもよっぽど悪い。
「大丈夫ですか?」
「いいの、いいの、自分が飲むんだし」
 あくびをしながら貴美は答える。答える間にもネルからコーヒーはサーバーに滴り落ち、表面に浮かび上がった“アク”までもがサーバーの中に流れ落ちていた。
「……ああ……」
 ちょっぴりため息……教えて良いものか、黙ってれば気づかないと思うのが良いものか……考え込む内に美月はその場を行き過ぎ、いつもの席へと食事を運ぶ。席は晩秋、もしくは初冬の光を浴びて今日もあったか、その中心に座る老人に声をかけ、彼女はテーブルに二人分の食事を並べる。
「おはようございます」
「おはようございます、美月さん」
 食事の準備も終わり、美月は和明の正面、良夜がいつも座っている席に腰を下ろす。下ろした孫娘に祖父は穏やかな声をかける。
「いよいよですね」
「はい、今日は楽しくなりそうです〜」
 祖父の言葉に美月は頬を緩ませ、用意されていた熱いコーヒーをクラッシュアイスを敷き詰めたグラスに流し込む。ピシピシと氷が溶ける音、涼しげな音に彼女の頬はいっそう緩む。
「むっ……吉田さん、このコーヒー変な匂いがしますっ! 泥臭い匂いですっ!」
「ありゃ、そう? ……──普通じゃん? もっとお砂糖入れたら?」
「うわっ!? 入れ過ぎです! 甘すぎますっ! 太りますっ! ぶくぶくですっ!!」
 少し離れた所から女性二人の賑やかな声、クラッシュアイスが溶ける音をかき消す声に、やっぱり美月の頬は緩む。いつもとはちょっと違う朝、それはいつもとはちょっと違う一日を予感させるようで、美月にはそれがうれしかった。
「若い女性が三人もいらっしゃると、フロアが華やぎますね」
 同じ声に耳を傾けていた和明が頬に刻まれたシワを一層深くする。その微笑みに美月も微笑を浮かべ、一度だけ「はい」と頷く。しかし、すぐにパッと目を丸くして言葉を続けた。
「あっ、三人じゃないですよ〜四人ですよ? アルトもいますから」
「さて……いるんでしょうかね……?」
「ふえ? いないんですか?」
「さて……どうなんでしょう?」
 意味深な微笑み、老人はゆっくりと目を閉じ、氷の溶けたグラスを口元に運ぶ。その仕草に習い、美月もまた同じように目を閉じる。意識を芳ばしいコーヒーの香りとフロアの静けさに集中……──
「この程度がちょうど良いじゃん?」
「そんなに甘いのが良いんならお砂糖でも舐めてろですっ! これはもはやコーヒー風味の砂糖水ですっ!」
「そうかなぁ……おいしいのに。じゃぁ、たぬちゃんの分、私が貰うね?」
「それは嫌ですっ!」
 出来ない。昼間のフロアを思いださせるような賑やかさ、貴美とたぬ吉の会話は少し離れたここでも十二分に美月の鼓膜を揺らす。
「……今日は判りませんねぇ〜でも、きっといますよ」
「だと良いんですけど……」
 祖父のつぶやきを耳にしながら、美月は焼きたてのトーストをちぎって口に運ぶ。甘いいちごジャムの味にバターがほんのりと塩味のアクセントを加える。毎朝食べてるけど、決して飽きない味。ご飯とみそ汁もたまには良いけど、やっぱり朝食はパンの方がいいと、美月は思う。
 いつも通りのおいしい朝ご飯、いつもよりも少しだけ賑やかに食べ終え、彼女は立ち上がる。
「さあ、今日はいつもよりも忙しいですよ! 頑張りましょう!!」
 明るい掛け声が明るい晩秋の空に響き渡り、バーベキューの日曜日が始まった。

 で、その頃のアルトちゃん。
「すっぱっ!? ものすごく酸っぱ!!」
 賞味期限半年過ぎの水はやっぱり腐っていた。

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