土日(3)
 土曜日の夜、貴美がアパートの入り口から何気なく三階の自室に目を上げると、彼女の部屋の明かりが煌々とついていた。数日前からギブスも外れ、リハビリでの通院こそ続けているが直樹は一応アルバイトも再開した。だから、本来ならば電気は消えてなければならない。
 なのについている。
 この時点で貴美が思ったことは、
(またか……)
 だった。
 そういうのも彼女の恋人であり同居人の高見直樹という青年は時々部屋の明かりをつけたままで出かけてしまう。もったいないから確認して出掛けろとは、口が酸っぱくなるほどに言っているのだが、一向に治る気配が見受けられない。むしろ、最近はその頻度が上がっているような気もする。
(二−三発ぶん殴ってやる)
 そんなことを考えながら、彼女はアパートの階段をとんとんと上がる。彼女の部屋は三階、一番奥の角部屋、静かな廊下をカツカツとパンプスの音を響かせ、部屋の前へ……扉の前に立ったとき、彼女の動きが止まった。
 ハンドバッグから取り出した鍵を片手に彼女はジッと扉を見つめる。
 数秒の沈黙、小さく頷き、彼女は回れ右。再び、廊下を歩き、階段を降りた。
 そして、数分後……
「この狐さんがいる限り、泥棒は許しませんよっ!! りょーやんさん!!!」
 武闘派狐の右アッパーが中で部屋の片付けをしていた隣人──浅間良夜の顎をモロに捉えていた。

「顎がグラグラする……」
「りょーやんさんの顎はガラスの顎ですっ! もっと鍛えなければ、世界は目指せませんっ!」
「狙わない」
 ムチウチになるかと思うような衝撃、ぶん殴られた顎と縦に揺らされ朦朧としかけた頭を抑え、良夜はつぶやく。立ち上がろうにもゆらされた脳みそのおかげで、足が言うことを聞きやしない。その隣では彼の顎を思いっきりぶん殴った女性、たぬ吉がぴょんぴょんと飛びはね、勝利の小躍りを実施中。ズボン姿だから見ていてもつまらないし、腹立つことこの上ない。
「って、人んちで何してんよ? 返答しだいじゃ、警察に突き出すよ?」
「部屋の片付けだよ……昼間、電話したろう? LinuxのCD、借りるぞって」
「それは聞いた……で、何で部屋の片付け?」
 貴美に尋ねられると良夜は顎を抑えたまま答えるも、貴美は不審そうな表情で良夜の顔を見つめるばかり。斜め上から覗き込むような視線には、不信感が束になって包まれていた。
「わぁい、勝利ですぅ〜狐さん、最強ですっ!」
「……直樹と一緒に探してたら、部屋がすごいことになったんだよ」
 その視線にうんざりするようなものを感じながら、彼は視線をようやく片付いた部屋に戻した。今でこそ、そこそこ見られるだけの部屋になっているが、彼が片付けを始めたときはほんとすごかった。足の踏み場もないというか、足を踏み入れたら怪我しそうな空間。良夜も悪いが、それよりはるかに責任があるのは直樹だと、良夜は思っていた。
 良夜がパソコンデスクや本棚を探している間、直樹はなぜかクローゼットや衣装ケースの中を探し始めていた。そんなところに入ってるわけがないと言っても、直樹は「そうですか?」と言いながら、似たようなところを探す。流石は鍋一つ探すだけで部屋をぐちゃぐちゃに出来る男は違うと感じざるを得ない。
 そんな説明をし終えると、貴美は改めて部屋の中を見渡し、見渡し終わると良夜の顔に視線を戻す。説明の甲斐あってか、その表情からは不審の色は一応鳴りを潜め、いつもヘラヘラとした物に戻っていた。
 そして、一言。
「綺麗じゃん」
「綺麗にしたんだよ! 野郎がいる間はさっぱり片付かねーし、実習は今朝から三行しか進んでねーし、もう、やってらんねーよ!!」
 我慢の限界、ペタンと腰を抜かしたまま、良夜は大声を上げる。もっとも、それが柳に風、暖簾に腕押しなのはいつもの事。
「部屋を片付けるときは、なおにお小遣い上げて部屋から追い出さなきゃダメなんよ?」
 貴美の冷静且つ子供を相手にしているような口調に、良夜の怒りはもって行き場を失う。失った怒りは──
「これでりょーやんさんには二戦二勝、不敗です〜」
「うるさいよ……たぬ吉さんも。殴るときは相手を確かめて殴ってくれ」
 と、未だに勝利の小躍り、絶賛実施中のたぬ吉へと向かった。それでも少々勢いが足りないのは、たぬ吉という女性をあまり知らないからだ。
「確かめた上で殴ってますっ! ちゃんと声もかけましたっ!」
 なぜか、ものすごくうれしそうな声と表情で彼女は言う。その言葉に良夜が思い出してみれば、確かに「りょーやんさん」と声をかけられたような気もする……って、判った上であんなに力一杯殴ったのかと思えば、荒ぶる怒りは彼女の飼い主へと向かうしかなかった。
「……宮武! 手前の彼女、どうしてくれ……──って、あれ、宮武、いねーの?」
 いるかと思った哲也に声をかけても返事はなし。周りをキョロキョロと見渡してみても、そこに見慣れた同期の桜は見受けられない。
「哲也さんはお留守番ですっ! 部屋でパソコンと睨めっこして、うなってますっ!」
「あっ……宮武もあの授業取ってたな……コピーさせてもらおう」
 打てば響く声でたぬ吉が答える。その声に良夜の両手がぽんと叩き合わされる。ノックアウトされていた下半身にもようやく力が入り始めた。良夜はやや緩慢な手つきと足取りで立ち上がると、貴美とたぬ吉の間を通り抜け、玄関へと向かおうとした。
 しかし、その声はやっぱり打てば響くようなたぬ吉の声によって押し止められることとなる。
「哲也さんもできてませんっ! 哲也さんは今日は夕方まで寝てた上に、二日酔い中で頭、朦朧としてますのでっ! きっとりょーやんさんよりも進んでませんっ!」
「どったの? テッちゃん」
 元気なたぬ吉の言葉、それに対する良夜の質問を貴美が先に代弁した。
「はい、今朝は十一時くらいまでずーっと飲んでましたのでっ!」
「……それは朝じゃなくて昼だ」
「誰と?」
「はい、いつもの三馬鹿ですっ! ちなみに私も飲んでましたが、三馬鹿の中には入れないでくださいっ!」
「ふぅん……やつらも元気やね」
 良夜の軽いツッコミを無視して、貴美とたぬ吉は話を進める。ちょっぴり寂しい。
 いつもの三馬鹿とは宮武哲也を筆頭に青葉透、竹田健二の三人、いつもつるんでいるので二研の中では『三馬鹿』と称されていた。もっとも、最近ではここにたぬ吉を含めて『四馬鹿』、『幸せを運ぶ四つ馬鹿のクローバー』などと言う楽しい呼び名も使用され始めているのだが、たぬ吉はそれを猛烈に拒否していた。
「はい、先週、健二さんが地元に帰って、彼女とデートしてきたそうなので、それを肴においしいビールをいただきましたっ! なんと! 三回もエッチしたそうですっ! 元気です! 若いです! 直樹くん並の絶倫ですっ!」
「いや、最近、そんなに激しくしてないから」
「そーなんですか?」
「ほら、りょーやんのいない隙にこそこそやってるから、余裕、ないんよ」
「吉田さん、可哀想ですっ! りょーやんさんは気をつかうべきですっ!」
「そだよ? りょーやんが毎晩三時くらいまで帰ってこないって決めてくれれば、私らも気兼ねが減るんよねぇ」
 今まで半ば無視するように話していた二人、その顔が一斉にこちらを向く。タレ目が二組、良夜の顔を批判がましく見つめる。その批判の視線に良夜の表情も思いっきり苦い物に変わった。そして、彼は声を荒らげる。
「お前ら、女二人で猥談してんじゃねえ! ああ、もう、良い。俺、帰ってレポートの続き、するから……じゃぁ、な」
 批判がましい視線もそうだが、大体において良夜はこういう猥談を女性がするというのはどうも好きになれない。女性には女性らしくあってほしいというのが彼の持論。そして、貴美は学内で猥談の女王と呼ばれている。ここでも良夜と貴美は妙に反りが合わない。
「あっ、りょーやん。CD、持って帰らんの?」
「ああ……もう、何か、どーでもいいや……時間もないし……どう考えてもあと二十四時間以内に終わる自信、ないから」
 立ち去る背中に声をかけられると、良夜は振り向きもせずに答える。そして、ひらひらと数回手を振り、良夜はがっくりと肩を落として部屋を辞した。今日一日、せっかく美月とのデートも取りやめでレポートを進めようと思ったのに、まったく進まず仕舞い。どう考えても無駄にした一日が惜しくてしかたがない。しかも、彼を見送るその背後では……
「んじゃぁ、タヌちゃん、テッちゃんに振られたんなら、うちで飲む? 発泡酒だけど」
「いただきますっ! 発泡酒のチープな味、大好きですっ!」
 などと女同士の楽しい飲み会が始まる様子、羨ましくないと言えば大嘘だ。しかし、釣られて酒でも飲めば、来年もプログラム実習の授業を浮ける羽目になる事必至。
「はぁ……」
 巨大なため息一つ、彼は一人、自室に帰った。

 と、その頃のアルトちゃん。彼女は未だ事務所兼倉庫の中にいた。
「ぜぇ〜ぜぇ〜半日かかって理解したわ。私の体力ではドアノブは回らない」
 荒い息、溢れ出る汗、日の光を溶かして作ったようなブロンドヘアーも暴れ回ったせいでグショグショだった。彼女が今日半日で学んだこと、それは『ドアノブは意外と強情』ということだった。もう、本当にてこでも回らない。ビクともしない。
「はぁ……美月の事だから、いつ、気がつくか判らないわよ……」
 深いため息、時期的にはホットという所だが、今の気分はキンキンに冷やしたアイスコーヒーが欲しい。それを一気に飲んだ後は、冷たいシャワーと水風呂、体を芯まで冷やした後で改めてホットコーヒーというところだ。しかし、窓一つ、換気扇一つない倉庫に取り残された身では、そんな贅沢など夢のまた夢。豆は文字通り売るほどあるが、ローストも出来なければ、そもそも、水の一滴もない。
「どうしようかしら……?」
 古びた事務机の上にペタンと足を投げ出し、彼女はねずみ色の壁と天井を見上げる。外は既に夜になっているだろう。アルトの営業も終わったころだろうか? 良く考えてみれば、電気の一つでもつけておけば美月じゃなくても貴美か和明は気づいたかもしれないのだが、夜目が効くアルトは電気をつけるということすらコロッと忘れていた。第一、ドアノブ相手に格闘するのが一生懸命で、それどころでもなかった。
 グルグルぅ……
 空腹にお腹が鳴る。朝から食べたのはクッキーが一枚とコーヒー一口、スレンダーな妖精さんにダイエットの必要はないのだが、心ならずも絶食ダイエット、真っ最中。聞き分けのないお腹を抑え、彼女はどうしたものかと思案にくれる。
「良夜も下手したら月曜日までこない公算が……? ああ、そうね、こないんなら、呼べば良いんだわ」
 改めて気づく、自分の愚かさ。それを素直に認め、彼女は全身筋肉痛の筋肉に最後の命令を下し、立ち上がる。
「何て馬鹿なのかしらね、私って」
 トンっと飛び上がって、事務机の上にあるファックス付きコードレスフォンに彼女は取り付く。身の丈もあるような受話器を全身全霊の力を持って、よっこいしょと持ち上げる。ガチャンと大きな音を立てて、受話器はグレイの天板の上に転がった。
「えっと……良夜の携帯の番号は……090の……××○×△□……と」
 これまた顔ほどもあるようなボタンを一つ一つ、両手を使って彼女は押す。彼女の声は電話越しに伝えることは出来ないが、無言電話は小さな妖精さんからの電話と決まっている。きっと良夜なら来てくれるはずだし、来なきゃ、一晩中鳴らしてやる。
 そんな意気込みを持って、彼女はプッシュボタンを押しつづけた。

 さて、ところ変わって良夜の部屋……ではなく、タカミーズのお部屋。
「でさ、テッちゃんは未だにたぬちゃんに手、出さないん?」
「はい! 哲也さんはへたれです! 根性なしですっ! イン(ぴー)です!」
「なおなんて、手出しするまで四年もかかったんよ? がっつく男もアレやけど、いつまで経っても手出ししない男もアレやね」
「アレですっ! アレなんですっ! ところでアレって何ですかっ!?」
「アレといえばアレだよ?」
「なるほど! アレといえばアレですねっ! 了解ですっ!」
 女同士二人の楽しい飲み会は絶好調、貴美もたぬ吉も飲むといえば家で相方と一緒ということが多く、女二人きりというのはあまりない。そのせいか、盃を重ねる速度は普段よりも幾分早め。たぬ吉はもちろん、普段酔わない貴美も今日は珍しく頬と吐息を朱色に染めていた。
 ピリピリピリピリ〜〜〜
 そんな二人を邪魔する電子の音。楽しげだった会話が止まり、たぬ吉の狐耳がピククン! と動く。
「なおちゃんさんですかっ!? ラブラブ帰るコールですかっ!?」
「んぅ〜〜私、この着信音使ってないんやけど……──ありゃ、りょーやんの電話じゃん」
 貴美が顔を動かせば、先ほど、たぬ吉のアッパーを喰らって良夜がノックダウンを喰らってたあたりに青い携帯電話が転がっていた。多少型遅れ、ワンセグもついてない携帯電話は良夜が使ってる奴だ。
「じゃぁ、アルトのおねーさんからのラブラブお休みコールですねっ! ドキドキですっ!!」
「美月さんはもう寝てると思う……んっと……」
「じゃぁ、ラブラブ浮気電話ですっ! チクって修羅場ですっ!」
 なぜかごっつい嬉しそうなたぬ吉を尻目に、貴美は四つん這いになって携帯電話に手を伸ばす。小刻みに震える電話を手に取り、ジーッとそれを見つめた。
「出るんですかっ!? ここはやはり、『私の良夜に何のよう!?』と言ってやるべきです! 修羅場です! 血みどろの修羅場が待っていますっ!」
「たぬちゃん、親しき中にも礼儀ありって言葉、知ってる?」
 本当にめちゃくちゃ嬉しそう、たぬ吉はノリノリハイテンションに言葉を紡ぐ。貴美は飽きれたような表情を見せながらも、未だ震えつづける携帯電話を手の中で転がした。
「知りませんっ!」
「知らないんなら、仕方ないね」
 言い切るたぬ吉、どこか遠い目をし始める貴美……数秒の沈黙の後、彼女は電話を開く。そして、誰からの電話かもろくろく確かめることなく、無言のうちに電源を──
 叩き斬った。
 叩き斬った電話をベッドに投げ捨て、彼女は桃色の吐息を吐きながら女友達に断言する。
「よしっ! これで邪魔物は消えたよ! さあ、お酒のもうっかっ!? たぬちゃん!」
「はい! 今夜は徹底的に飲みましょっ! 女同士でっ!」
 貴美は飲むといえばいつも家で相方と一緒ということが多く、女二人きりというのはあまりない。そのせいか、盃を重ねる速度は幾分早め。普段酔わない貴美も今日は珍しく頬と吐息を“酒≪しゅ≫”色に染めていた。

『お掛けになって電話は現在、電波の届かない場所にあるか、電源が入っておりません……──』
 そして、一方、喫茶アルト事務所……某携帯電話のお姉さんがやさしく妖精に一つの事実を教えてくれていた。
「……電源、切ったわねぇ……良夜……ぶっ殺すぅ……」
 ストローを握る手に力がこもる、ブルブルとふるえるほどに。

 そして、その頃の浅間良夜くん。
「……えっと……これがこうであれがあーで……ここの代数をこっちのコマンドの因数にして……」
 彼を狙う殺意が致死量に達している事も知らず、パソコン画面に向かって頭を抱え続けていた。

 その頃の三島美月さん……
「ふえぇ……りょーやさん、そんなぁ〜ダメですよぉ〜それはいきなりハードルが高いですぅ〜ふにゃぁ……ダメだって言ってるのにぃ……むにゃむにゃ」
 にまぁ〜と緩んだ笑みを浮かべ、彼女は妖精柄のシーツとパジャマに包まり、かなり幸せな夢を見ていた。この時、彼女は口にすることもはばかれるような大胆な夢を見ていた……らしい。
「…………………………もっと……」
 このつぶやきは他よりもはるかに小さいものだった。

 土曜の夜は平和というには程遠く過ぎようとしていた。
 ごく一部を除いて。

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