土日(1)
その日、三島美月嬢はとってもご立腹だった。せっかくの土曜日、公休日、朝からおめかしして良夜が遊びにきたらどこかに行っちゃおうかなぁ〜などと思っていたのに、
「あっ、りょーやん、なおと二人でレポートに頭抱えてる」
と、朝一番、同僚の吉田貴美に言われてしまったからだ。
「えぇぇぇぇ!! どーしてですか!? 明日にしたら良いじゃないですか〜! 良いですか? 明日でも良い事は明日するのが長続きのコツなんですよ?」
「専門イタリアンだからって、思考形態までイタリアンなんやね……そのうち、砂漠の真ん中でパスタ茹でんじゃないの? 美月さん」
貴美は軽くため息、ポンポンと肩を叩き、良夜の都合という物を彼女に教えた。それはそんなに難しい話ではない。要するに月曜提出のプログラム実習が土曜日の朝の時点で数行しか進んでいない。レポート程度ならアルトのいつもの席でやっても良いが、プログラム実習はパソコンがないとお話にならない。故に、今日はいけない。
「何も私が休みの日に……どうしてですか?」
「そりゃ、一日で終わらないからじゃない? ちなみに私は提出済み〜」
貴美は『明日やれば良い事を明後日にやってる』バカに対して情けをかける女ではなかった。プログラム実習はソースのコピペ禁止、バレたらコピペした方はもちろん、させた方も再提出。「ガンバんな」の一言だけをプレゼントして、さっさとアルトのバイトへとやってきていた。
「私の見立てだと、今日一日どころか、月曜の早朝までソースいじくり回して遊んでんじゃない?」
「うう……じゃぁ、良夜さんも直樹くんも今日明日は来ないんですかぁ?」
貴美が軽く言うと、美月の黒目勝ちな瞳に涙が浮かぶ。ここでの涙は『良夜に会えない』と言うよりも『どうやって土日の暇つぶしをしたらいいの?』の気持ちの方が強い。
「そういうこっちゃね、まあ、明日は私が遊びにくっから」
ぽ〜んぽんと二度ほど肩を叩き、彼女は美月に言う。明日は彼女の方が公休日なのだが、きっと家に居てもしかたがないから遊びにくるつもりなのだろう。
「うう……解りました。では、今日はお掃除です。お掃除しか私が暇を潰せる手段はありません」
「暇つぶしで仕事、すんな」
貴美が呆れ顔と声で言っても、美月はそれを聞き流した。ガックリとうなだれ、彼女はきびすを返す。せっかくの真新しいワンピースも、せっかく昨日枝毛ケアに二時間かけた髪もすべてが水泡。重い足取りで部屋に帰った。
その頃の浅間良夜と高見直樹。パソコンデスクには良夜力作のデスクトップ型が一つ、その前でカタカタとキーボードを打つ良夜、床に置かれたテーブルの上では中古のノートパソコンを持ち込み、直樹が同じようにキーボードを叩いていた。
「直樹……吉田さん、もう提出したってマジ?」
「……マジですよ……」
二人は特に視線を合わせることもなく、ボソボソと二人は会話をしていた。
「ソース、残ってねーか? 書き換えちまおうぜ……」
処理の順番を変えたり、インデントの量を増減させたり……そういう小手先の手段を使い、コピーしたソースだとバレないようにする手段もいくつかある。実際にそういうことをしている友人もいる。特に直樹が使っているノートパソコンは貴美との共有品だ。ソースが残っている可能性は決して低くない。
はずだが、直樹の答えは素っ気ないものだった。
「……提出物はフラッシュメモリに入れて、持ち歩いてますよ……吉田さん」
「何でっ!?」
ギシッと安物の椅子が軋み、良夜が振り向く。しかし、直樹は特に視線を上げることもなく、ただ端々と、それでいてどこか苦々しそうな口調でつぶやき答えた。
「……嫌がらせでしょ? 絶対」
直樹は最後の最後まで、決して顔を上げることはなかった。
再び彼女が部屋から出てきたとき、その姿は洗いざらしたジーパンとトレーナーになっていた。一組だけ持っているお掃除専用の服装、ずいぶん前から掃除をするときといえばこの恰好だ。
「んっ……と、庭の草抜きはこの間しましたし……洗濯物はクリーニング屋さんに出しちゃいました……後は窓拭きくらいですかねぇ……」
着替えが終わり、ブツブツと予定を組みながら彼女は階段を降りる。荒れた指が一度三本ほど折れ、すぐに二本が伸びる。結果、折れた指は一本だけ。それとて、フロアまで降りた美月が大きなガラスから差し込む晩秋の明かりに目を細めると、半分ほど伸びかけた。
「うう……お掃除もあまりすることがありません……それもこれも良夜さんが最近、私を放置するからですよね。ほうちぷれいですぅ〜」
解ってんだか解ってないんだか、多分解ってないお言葉を彼女は吐き、ほっぺたを膨らませる。その膨らんだほっぺたにチョンと小さな感触、ついで耳を隠す髪がわずかに揺れると、美月のほっぺたが途端に引っ込んだ。
「あっ、アルト?」
チョイと一度だけ髪が揺れる。七割以上確認のためだったとはいえ、それが確かめられると美月の暗かった表情は途端に明るい物になった。彼女は頬と髪、そして肩から伝わる妖精の存在感に頬を緩める。
「アルトも良夜さんに放置されてるんですね。放置仲間」
うれしそうに言うと返事は二回の合図、あれ? と美月の足が止まり、何も見えない肩口へと視線が動く。
「違うんですか?」
一度……店員以外誰もいないフロア、その片隅で美月はうーんと顎に手を当てて小首をひねる。
「もしかして、後でアルトだけ良夜さんのおうちに行くんですか? ダメですよ、邪魔したら」
クイクイ、今度もまた二回、しかもさっきよりも少し強め。ますます美月の首が斜めに倒れていく。
「……ふぇ? 良夜さんに遊んでもらってないんですよね? でも、放置仲間じゃなくて、別にアルトが行く訳でもなくて……わけが解りません……あっ!」
考え込んでいた美月の両手がぽんと薄っぺらな胸元でぶつかり合う。
「良夜さんとアルトは心が通じてるんですねぇ〜やいちゃ──いったぁ!!」
力一杯髪が二度引かれ、彼女の耳元でブチブチと嫌な音がする。激痛、髪を掴んで反射的にしゃがみ込んだ。
「痛い痛い!! 心が通じ合ってるから、いなくても平気なんじゃないんですか〜〜〜痛いです〜痛いです〜〜〜」
ブチブチ……涙目というか、マジ泣き。美月が頭を抑えて泣いていると、一旦、キッチンに消えていた貴美が再び顔を出した。
「お客さん、暴れられるんでしたら、出て行ってくれませんか?」
「はうっ!? 営業人格で声をかけられました! もしかして、今日の私、お客さん扱いですか? フロアーチーフさんなのに!?」
「私服でうろうろして、仕事もしないで、アルちゃん相手に遊んでる人なんてお客さん以下やけどね」
ウルウル……頬に涙を流しながら美月は貴美を見上げる。下から見上げると、否応なく大きい胸元が目についてしかたがない。美月はそこからこっそりと視線をそらしながら、立ち上がった。
「アルトがいじめるんですよ?」
「うん……どーせ、『遊んであげてんのは私の方」って意味でしょ? 騒いでないで……店長が暇なら事務所で在庫の整理してって」
貴美が言うと、肩口の髪が一度だけ揺れる。なるほど……と、美月は得心した。が、続く貴美のお言葉に再び、大きな目をまん丸く広げ、ほっぺたが膨らむ。
「ふえぇ〜? 在庫整理ですかぁ……」
「いやなん?」
問われ美月は、こっくりこっくりと何度も首を縦に振る。
「事務所に引っ込むと……お店の雰囲気が伝わってこなくて、寂しいんですよ〜事務所に引っ込むくらいなら、紅茶の練習でもしてた方が仕事してる気になるかなぁ〜って」
だから、最近の美月は帳簿の整理も事務所ではなくフロア隅のカウンター席かトイレ前のあまり人気のない席を占領してやることにしていた。この辺ならフロアの様子も良く解り、寂しくない。キッチンでないと出来ない調理はともかく、他の仕事はできるだけフロアでやっていたい、と言うのが美月の本音だった。
「美月さん、回れ右」
などと言う説明を貴美にすると、彼女は軽く額に手を当てながらそう言った。
「にゃぁ?」
何だろ? と思いながらも、美月は言われたままに彼女に背を向ける。直後、小ぶりのお尻を揺らす衝撃!
「好き嫌いで仕事してんな!!」
背後から響く貴美の怒声、蹴っ飛ばされたと気づくまでたっぷり十秒。美月はまたもや「ふぇ〜」とまた涙目になって、タタラを踏んだ。
「さっさと事務所で在庫整理! 真面目にやんないと、また蹴るよ!?」
「はぁい! 行きますから、お尻蹴らないでくださぁい!!」
パタパタパタパタ……貴美の罵声を見送りにして、小ぶりのお尻を抑えて美月は事務所に駆け込む。何となく、貴美が追いかけて来そうな気がした──冷静に考えればありえないのだが──のか、彼女は部屋に入るとカチャッと音を立てて、ドアの鍵を閉めた。
「ふぅ〜これで一安心です〜吉田さんはおーぼーですよ」
ドアにもたれかかり、彼女はほっと一安心。吐息をつきながら、トクントクンと鼓動高まる胸を押さえつける。そこに与えられる二度の合図。
「ふぇ? アルト、ついてきたんですか?」
クイッと今度は一度っきり。それに美月の表情は花が咲いたように明るくなる。薄暗い事務所の中もアルトと一緒ならと思えば、苦ではない。彼女は「よし!」と気合を入れ直すと、手近な棚から手をつけ始めた。
「でも、良く考えると私、今日はお休みなんですよねぇ〜吉田さんにあんなに怒られる筋合いはないと思いませんか?」
スティックシュガーの数を数えたり、紙ナプキンの量を確かめたり……動かしたついでに埃が溜まってないかも確認して……ブツブツと文句を言ってる割に、薄暗い倉庫の中で、美月の手はテキパキと動き始めていた。
「えっと……お砂糖はまだある、ナプキンはあまりなくて……ストローも……うーんっと、注文しちゃいますか? それから……あっ……」
大きめの缶を握って彼女の手が止まる。手のひらから少し余る程度の缶は去年、清華が帰ってきた時に買った紅茶のリーフだ。開いてみれば、ほぼ満タン。封を切って数回使った程度でそのまま立ち腐れているって感じだ。もちろん、消費期限なんてとっくの昔。
「……見なかったことに──いたっ! だめですかぁ?」
サラッと棚に戻そうとした手が髪を引っ張られて止まる。彼女は本日乾くことのない目尻にまたもや涙を浮かべ、それを事務机の上に置いた。
「後で持って出ますね? ……ほっ、本当ですよ? ここにおいて忘れたふりをしちゃうつもりなんてありませんから」
うわずった声、額に一筋の汗をたらしながら彼女は言う。それにアルトは答えない。答えないから彼女はいくらでも余計な言い訳を並べ立てた。
「本当ですよ? ちゃんと帳簿にも印をつけてですね、損金として処理するようにするのはどうしたら良いのか解らないので、お祖父さんに聞いて、お祖父さんに聞いたらきっとお祖父さんはにがぁい顔をなされるのですが、それでも怒ったりしないのが逆に罪悪感を感じちゃって、本当はこのまま、ゴミ箱に捨てるか、ここに置き去りにして知らん顔しちゃいたいなぁ〜なんて、全然、思ってません! 知ってましたか?」
ペラペラと美月は一生懸命喋る。でも、何というか言えば言うほど嘘っぽいなというか、最後の方は本音が出ちゃってたなというか……それでもやっぱりアルトは返事をしてくれない。
「います? アルト」
と、彼女が尋ねると“前髪”が軽く引っ張られた。
「ふぇ?」
それもいつもの短い、一度引いてすぐに離すではなく、グィ〜と言う効果音がピッタリの長い引っ張り方。これはそっちを見ろというアルトからの合図であることが多い。美月は「ん?」と思いながら、アルトの引っ張る方向へと視線を向ける。そこは事務机と壁の間のあたり、堆くダンボール箱が積み上げられ、その上にはうっすらと埃の積もった場所。美月の額がまたもやひくついた。
「あっ、あそこは手をつけると……ハマっちゃいますよ?」
長らく掃除もしていない場所、それは歴代ウェイトレスのお姉さん方すら見て見ぬふりをし続けてきた場所である。もちろん、貴美と美月も年末の大掃除ですら手をつけなかった。大体はゴミだと思うのだが、中には美月が子供の頃に使われていた育児用具なんかも置いてあり、うかつに全部捨てることもできない。
「お母さんの嫁入り道具とかもあるから、下手に捨てられないんですよ。知ってるでしょ? アルトも……」
そう言って彼女は一番上にあった箱の一つをカパッと開く……──瞬間、マッハの速度で彼女はそれを閉じた。
「こっこれは……アルト、見ました?」
震える声で問うと、答えは一回。美月の背中に嫌な汗が流れる。
「……良夜さんには絶対に秘密──」
が、今度は二度。
「ふえぇ〜〜〜バカがバレちゃうじゃないですかぁ〜〜」
美月の目からまた涙が溢れ出す。なぜなら、そこにあったのは数年前、未だ専門学校に通っていた頃、美月がこっそりと隠し込んだペーパーテストの解答用紙だったからだ。それも珍しく例のおまじないがご利益を発しなかった時の奴。
「と、言うわけで、ここに手をつけちゃダメなんですよ? 解ってくれましたか?」
泣いた顔がパッと明るくなって、彼女はくるりとダンボール箱たちに背を向けた。しかしすぐに足が止まる。
「……良く考えたら、さっさと処分しちゃった方が良いんですよね?」
確認するような口調、問われた相手は髪ではなく、ほっぺたをチョンチョンと数回叩くだけ。どーでも良いか、好きにしろと言った意味合いの合図。美月は事務所荒らしよろしく、キョロキョロとまわりを見渡し、再び、ダンボール箱の蓋を開く。一番上で燦然と輝く、赤点答案、しかも、一枚ではなく二枚。どちらもイタリア語のテスト、片方は本試験で片方は追試一回目。記憶が確かなら三回追試を受けて三回目にお情けで単位を貰ったような気がする。
「アルトがちゃんとおまじないの効果を出してくれないから、三回も受けるハメになったんですよ? それに三回も追試を受けたのに本場のイタリアでは全然役に立ちませんでしたし……」
そう言いながら、二枚の答案用紙をくしゃくしゃと丸めて一安心、一安心するとそれまで見えていなかった物も見えてきた。
「あれ……? これは……あぁ!!!」
握りしめた答案用紙がポロッと手から落っこち、彼女の手が一抱えもあるようなダンボール箱をヒョイと抱き上げる。そして一目散に彼女は事務所を後にした。
「吉田さん! 吉田さん! それにお祖父さん!! 良い物見つけちゃいましたぁ〜〜〜!!!」
その頃の浅間良夜と高見直樹。
ビーーーーーーーーーーーーー良夜の部屋に大きなビープ音が鳴り響く、と、同時に上げられる家主の悲鳴。
「げぇぇぇぇ!!! ハングしたっ!?」
何を押してもパソコンは無反応、保存していないデーターを助ける術は彼に残されちゃいない。
「えっ!? どうしてですか?!」
「……某巨大掲示板でブラクラ踏んだ……」
「あの……実習、やってます?」
もちろん、彼はやっていなかった。
そして、十数秒の後のアルトちゃん。
「……また、忘れられたわ」
明かりは消し忘れてなくても、アルトは振り落としていく、三島美月とはそう言う女性だった。