ペット(完)
 良夜が自室に帰った直後、三島美月は言いたくて言いたくて仕方のなかったことを一つ言った。
「出しても良いですか?」
 大きな目がパチクリと数回瞬き、彼──ハムタカ君──の飼い主を見上げる。見上げられているのは吉田貴美。もらってきたはずの直樹は見事に無視ぶっちぎり。
「……別に良いですけどね」
 グビッと半分ほどのグラスを直樹が空ける隣で、貴美は気楽に「良いよ〜」と返事をした。そして、発泡酒の缶からラッパ飲み。新品のままで置かれたグラスを横目で見ながら、彼女は空になった缶をゴミ袋に放り込み、言葉をつなぐ。
「あっ、でも、逃さないでね。ハムちゃん、狭い所が好きでさ。捕まえるん大変──」
 が、その言葉は最後まで語られることはなかった。
「吉田さぁん……逃げちゃいました」
「はやっ!?」
 情けない声に貴美が振り向けば、空っぽになった手をわきわきと動かす美月と、その隣で目をまん丸くした直樹の顔があった。
「なおも見てなよ! 逃したら面倒なの、知ってるっしょ!?」
「あっという間だったんですよ! 動いたって……投げちゃうし……」
 噛みつかんばかりの勢いで怒鳴られると、直樹は動かない足を引きずり逃げ腰に。それでも美月は強めの扇風機に髪を流しながら、朱色に染まった頬を両手で抑えていた。
「そうですよぉ〜もぉ、ビックリしちゃって……箱の中にいたときは全然動かなかったのに……」
「投げたのっ!? ちょっと! なおは多少粗雑に扱っても壊れないけど、うちの子は壊れもんなんよ!?」
 のんきな口調は良い具合にお酒が回っているためか? 彼女は貴美に怒鳴りつけられても、動じるような様子は見せず、抜けきった表情でこう言うだけだった。
「ふえっ……? 直樹くんは投げちゃっても良いんですか?」
「よかーないですよ……」 
 キョトンとする美月に直樹はがっくりと肩を落としてつぶやく。もっとも、その声は激昂している貴美はもちろん、美月にも聞こえちゃいない。
「ともかく探して!!」
 と、ここまでが良夜が席を外したわずか十分弱の時間に起きた事件だった。
「……頭、いてぇ……」
 二日酔い、アルトの攻撃、加えてこの事件、良夜の頭痛はもはや救急車を呼んでも良いくらいに悪化していた。しかも、良夜の──
 からから……
 しかも、良夜んちのアヤ(漢字では「悪夜」と書く)も逃走中。部屋の窓もドアも貴美が大急ぎで閉めたはずだから、外には逃げていないだろう。だったら、このまま──
 からから……
 このまま、夢の世界に逃亡しちゃおうかなぁ〜なんて考えが頭の片隅をよぎる。
 からから……
「って、うるさいな、からから……」
「ねえ、良夜、あそこでマイペースにまわり車で遊んでるのは、良夜んちの悪夜じゃない?」
 アルトが頭の上で言うと、良夜はゆっくりとその音の源へと視線を向けた。見れば、まわり車が一つ、おそらくはひっくり返った拍子にゲージから落ちたのだろう。赤と黄色、原色がまぶしいまわり車はアヤちゃんまっしぐらなオモチャ。その中では茶色い物体が一生懸命走っていた。彼女の表情なんてよく分からないが、何となく幸せそうだと感じたのは、良夜の気のせいではないだろう。
「……マイペースなハムスターですね……」
 立つのも座るのも一苦労な直樹が、隣の部屋で呆れる。その言葉に全員、逃げ出したハムタカを探すことも忘れて、大きく首肯。
「ってことは、さっき、足元を走って冷蔵庫に入ったのは、悪夜じゃなくて、ハムタカの方?」
「かも……どっちがどっちか良く解らないけど……」
 良夜のアヤとタカミーズのハムタカは同じ親から生まれた兄弟、とても良く似ている。一応、オスとメスで見分ける方法はあるらしいのだが、ハムスターの飼い主暦数週間の良夜やタカミーズ、飼ったことのない美月やアルトに見分けが付くはずがない。何となく、こっちが見慣れたハムスターだよな……と思いながら、良夜はまわり車の中から彼女を取り上げ、ゲージの中に放り込む。捕まれる最後の一瞬まで逃げ出すことはなく、まわり車を回しつづけたアヤ(多分)、なかなかの大人物なのかも知れない。
「って事で、俺の方は終わり。多分、もう一匹は冷蔵庫の下だぞ」
 丁寧にゲージの蓋を締め、良夜は言った。すると、貴美はドタバタと大きな音を立てて冷蔵庫の下を覗き込む。
「いたっ!! ハムタカぁ〜帰っといでぇ〜ママはここでちゅよぉ〜」
 冷たい床に寝転がり、貴美はお得意の赤ちゃん言葉で語りかけ始める。
 そして十五分。
「ちょっと!! 出てこないと、餌抜きだよ!!??」
 彼女は切れた。
「我慢が足りない人だなぁ……」
「子供が出来るとキレて体罰とかやっちゃうタイプね」
「子供は甘やかしちゃダメなんですよ?」
「甘やかし過ぎるとこうなるの」
「……って言ってます、アルトが」
「ふぇっ!? 私はスパルタでしたよ〜!」
 寝転がった貴美を尻目に、良夜たち三人はあれやこれやと雑談に花を咲かせる。主な議題は美月は甘やかされてたかどうか。基本的には甘やかされていたらしい。まあ……美月の普段の態度を見れば、良夜も何となくそうじゃないのかとは思っていた訳だが。
 と、三人が適当な雑談に花を咲かせてれば、貴美がキレるのも当たり前。
「……あんたら、他人事かい!!! 特に美月さん!!! 美月さんでしょっ!!! 投げて逃したの!!!」
 スックと立ち上がったかと思うと、美月の薄い胸ぐらを掴んでにじり寄る。こめかみには割と太めの血管が数本、ついで握った拳は白くなるほどに力が込められていた。
「他人事……と言うと、あっちで私が持ってきたブランデーをちびちびやってる直樹くんではないのかと……」
「うわっ!? 僕!?」
 半身逃げつつ美月が名前を上げると、ギブスの足をテーブルの下に投げ出し、のほほんとブランデーを傾けていた直樹がグラスをテーブルに叩きつけた。ちなみにおつまみは、やっぱり美月持参のブルーチーズ、ちょっぴりくせのある所が非常においしい。
「あっ、ほら、僕は怪我人ですから……立ったり、座ったり、手間ですし……」
 美月の胸元からパッと手が離れ、貴美の顔が直樹の方へと向く。そして、大股で数歩、長い足が唸りを上げて空を切る。
「死ね!! なお!!!」
 直樹の額がガラステーブルに強烈なディープキスを噛ました頃、友人を安価で売り飛ばした美月はほっと安堵の吐息を吐いていた。
「危なかったですね、良夜さん」
「……時々、怖いことしますよね……美月さんって……」
 にっこりと笑う彼女を彼氏は戦慄を持って受け入れていた。

 さて。貴美の直樹への折檻も終わり、話は逃亡中のハムタカくんに戻る。貴美が覗いてみた所、彼はちゃっかり持参していたひまわりの種をのんきにカリカリとかじっているらしい。それも冷蔵庫の一番奥、壁と冷蔵庫の足の隙間、非常に狭い所に体を突っ込んでいるそうだ。
「また、面倒な所に入ってますね……」
 四つん這い、お尻を突き上げ美月は冷蔵庫の下を覗き込む。ズボンだった貴美はともかく、スカート、しかも生足、風呂上りと言うのは少々危険……
「刺されたいなら刺されたいって言いなさい?」
「……何でもないです」
 頭の上から降り注ぐ剣呑な声に良夜は体をわずかにずらし、美月の真後ろからちょっぴり右へ。動いた先では貴美が良夜の顔を見上げ、ペチン! と柏手≪かしわで≫を打っていた。
「そういう訳だから……アルちゃん、お願い!」
 訂正、手を叩いた先は良夜ではなく、その頭を椅子代わりにしている妖精。
「嫌よ……と、言ってもやらなきゃどうしようもないのね……ブルマン、一週間ね」
 頭の上でアルトが言うと、良夜は内心『暴利だ』と思いながら、貴美に伝える。しかし、貴美は一瞬たりとて迷うことなく即答した。
「良いよ」
「あら、太っ腹……さすがデブ」
 キョトン……さすがのアルトも暴利だと思っていたのだろうか? サラッと受け入れられる要求に目を大きく見開き、感嘆の声を上げる。そして、良夜はバカだからその言葉をそのまま伝えた。
「太っ腹、さすがデ──ギャッ! 俺じゃねぇ!! アルトだアルト!!」
 みぞおちに右ストレート、腕力こそないが、すさまじい速度と腰のひねり、そして狙い違わぬポイントで的確なダメージを与える鉄拳制裁。こみ上げる何かを必死に飲み込みながら、良夜は耐えぬ笑顔でそれをやってのけた貴美を見上げる。
「伝えなくて良い事は伝えなくて良いん! ブルマン一週間、半分は美月さんに持たせっから。その代わり、怪我させちゃいかんよ?」
「えっ!? えぇぇぇぇぇ!!! ブルーマウンテン、三日分!? そんなぁ〜〜ひどいですぅ……」
 と、貴美がのたまえば血相を変えるの美月の方。バネ仕掛けのおもちゃのように飛び上がり、彼女は半泣きになって貴美にすがりつく。その横顔の情けなさといったらもう……自宅住まいの社会人の分際でどうして、こんなにも毎月毎月、ピーピーになっているのか? それが良夜には不思議でしかたがなかった。
「じゃぁ、このまま、うちの子が出てこなくても良いん!?」
「いっそのこと、冷蔵庫の下で飼っちゃうとか……──ひゃっ!? 髪の毛、つかまないでくださいぃ〜〜〜禿げますからぁ〜〜〜」
 こめかみにダースで血管を浮かべ、貴美が美月の黒髪を掴むと話は終了。かくして、アルトは引越し以来一年ちょっと、一度も掃除がなされていない冷蔵庫の下へと潜り込むことが確定した。
「……下水管の次は冷蔵庫の下……ダイハードのブルースウィリスじゃないわよ、私は」
 ぶつくさと文句を垂れ流しながら、彼女は良夜の頭から肩へとのそのそと降りる。肩から床へと降りるのも、飛び降りる訳ではなく、良夜の体をロッククライマーよろしくつたい降りる始末。最後の最後、足首まで降りた時点でようやく彼女は、ぽ〜んと一対の羽に仕事をさせた。
「あっ、ストローは置いていけよ?」
「どうして? ここなら落としてもすぐに回収出来るわ。ストロー持ってないと、手が落ち着かないのよ」
 右手に掴んだストローと良夜の顔を見比べ、彼女は不思議そうな声で尋ねる。それを見下ろし、良夜はやや芝居がかった仕草で肩をすくめて見せた。
「……相手は小動物だぞ? 刺したら死ぬか大怪我だ」
「りょーやん見たく、刺す気!? ダメだかんね! うちの子はりょーやんやなおみたいに丈夫にできてないんだから!」
 良夜が言うと、それを聞いていた貴美は悲鳴のような声を上げた。大絶叫、そして、なぜから良夜の胸ぐらを掴んで拳を振り上げる。一触即発、アルトがストローを置いていかなきゃ、確実に、そしてなぜか良夜が殴られることは誰の目にも明白だった。
 しかし、その雰囲気は美月の何気ない一言によって霧散した。
「でも、直樹くんは小動物扱いじゃないんですか?」
「あっ……それは難しい……ちょっと悩ませて?」
 美月の一言で、貴美は良夜の胸ぐらからパッと手を離し、額に指を当て、本気で悩み始める。
「そこまで悩まなきゃいけないんですか……?」
 と、相変わらず、ガラステーブルで今度はワインをちびちびやっていた直樹は軽く凹んだ。ちなみに、奴は今回、マジで立ち上がるつもりはないらしい。
「もぉ、どーでも良いわよ。じゃぁ、置いていくわ……──ねっ!」
 サクッ……と良い音。恐る恐る、良夜がうつむくとそこには彼のつま先の上で直立するストローがあった。
「いってぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!」
 直後、良夜はもんどり打ってのたうち回る。それをアルトはもちろん、女二名も華麗にスルー。見向きもせずに、見えないアルトが冷蔵庫の下に入り込むのを見守りつづけていた。
 そして、十数分……涙は枯れ果て、痛みも消えかけた頃、アルトは帰ってきた。
 ズタボロになって。
 髪の毛はクシャクシャ、ブラの片一方は破れてわずか過ぎるふくらみが丸見え、パンティがずれて半ケツ……金色の瞳には大粒の涙。つま先の恨みも忘れ、良夜は四つん這いになって、彼女の顔を覗き込んだ。
「……大丈夫か?」
「……良夜、貴方、土佐犬と素手で戦える?」
 涙目が良夜の顔を見上げ、彼女は鼻をすすりながら尋ねる。
「……いや、無理」
 良夜が答えると、彼女はその答えに満足げにゆっくりと頷いた。そして、絶叫、大絶叫。
「サイズ、十分の一よ!? 私!! 怖いから!! 素手だと死んじゃうから!!! と、言うわけでリベンジに行ってくるわ、ストロー返しなさい」
 ズイッと彼女は手を差し出す。差し出した手に、自分の足から抜いてたストローを、良夜は投げ渡した。彼女はそれを手にするとヒュン! ヒュン! と数回素振り。汚れた腕でゴシゴシと涙を吹いて、彼女は──
「よし!」
 と、気勢を上げる。
 そして、さらに数十分……
 その間、少々と言わずに不安な表情を貴美が見せるも、良夜は割と平気な顔で答えていた。
「まあ、大丈夫だろう? 捕まえることは出来なくても、怪我をさせることはもっと無理……てか、この流れだと……──」
 数十分が過ぎた時、ハムタカくんは元気な足取りで冷蔵庫の下から這い出してきた。その口には……
「おっ、おぼえてなさい……絶対に……絶対に殺してやるんだからぁ……」
 そのお口には、白目を剥いた妖精さんが一人、真っ裸のすっぽんぽんと言うあられもない姿で右手を咥えられていた。彼は冷蔵庫の下から這い出すと、咥えていた右手をペッと吐き出し、抱き上げられることを待つかのように貴美の顔を見上げる。
「なっ? 大丈夫だろう? 俺、土佐犬相手に棒きれ一本で喧嘩して、勝てる気しねーもん」
 こうしてアルトは、バイクに引き続き、ハムスター相手にも重いトラウマを抱くようになった。
「鼠、嫌。齧歯類は嫌い……」

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