ペット(2)
「えっと、それでは僭越ながら、私が乾杯の音頭などを……えっと、それじゃ……えぇ……っと……あの……んっと……」
 ビールの入ったグラスを掲げ持ち、彼女──三島美月の目がフワフワと部屋の天井付近を行ったり来たり。手にしたグラスだけが所在なく揺れる。きっと乾杯の決め台詞とか考えてるんだなぁ〜ということは、察しの悪い男と常々呼ばれている良夜にでも解った。
「……美月さん、そんなに悩まなくて良いから……」
「いいじゃない? 貴美があの調子だから、ゆっくり悩ませてやれば」
 肩の上から声を掛けられ、良夜はアルトの指差した方へと視線を向ける。部屋の隅っこ、一抱えほどの衣装ケースを抱きしめ、彼女はぶつくさと何やら独り言をつぶやいた。ちょっと見、関わりになっちゃいけない心の病を抱えている人のよう。直樹すらテーブルに座って美月の掛け声を待ってんだから、処置なしだ。
「ハムタカ……ママはね、ママはね、りょーやんに恥ずかしい秘密を握られちゃったんよ……もう、ママにはハムタカしかいないんよぉ……」
 乳白色のどこにでも売っていそうな衣装ケース、ホームセンターで七百円の大特価。それの蓋に電気ドリルでブツブツと大量の穴を開けて、中にアルトで使ってて縁が欠けちゃったお皿が二つと古タオルを数枚放り込んだだけの物、それが『ハムタカ』のお宅らしい。お名前の『ハムタカ』は一応タカミーズの新しい面子だからという理由で名づけられた。割と、安直である。
「僕が見つけたときもあんな感じでしたよ。そのうち復活しますから」
 小袋に入った柿ピーやキャンディのように包装されたチーズやら、ソフトスルメなどなど、どこの飲み屋かと思うような物がこの部屋には大量に常備されている。もちろん、買ってきてるのは貴美、それらをガラステーブルの上に適当に並べながら直樹は良夜に声を掛けた。
 どこかうれしそうな表情、今にも鼻歌でも歌いそうな雰囲気がそこにはあった。
「ほら、意外と可愛いでしょ? 吉田さんって。見せたがらないだけなんで──」
 直樹の言葉を遮り、ごぶっ! と嫌な音が響いた。と、同時にガラステーブルがミシッと軋む。見上げれば、吉田貴美がハムタカ君のおうちを抱えて突っ立っていた。
 もちろん、長いおみ足の下には高見直樹の小さな頭が引かれている。
「うるさい! 可愛いとか萌えるとか、ラブリーとか言うな!!」
「照れ隠しに人の頭、踏みつけないでください! これ以上縮んだらどうするんですかっ!! それから、誰も言ってません!!」
 延髄あたりにモロ蹴りがめり込んでいるようだが、奴は元気だった。額につぶれたチーズを張り付け、頭を勢いよくはね上げる。そして、貴美の顔を見上げるついでに、怒声も上げた。
「言え! もはや、こうなったら褒めてもらわなきゃやってらんない!! 褒めろ!!! 萌えろ!!!! 可愛いと言え!!!!」
「人の頭、蹴っ飛ばしてる人をどうして褒めなきゃいけないんですかっ!!! 付き合い方、考え直しますよ!!!!」
 直樹の背後に貴美が座ると、直樹も固定された足を引きずって座り直す。そして、面と向かってギャーギャーと大声を上げて、口論を繰り広げる。結構うるさいが、その被害を一番受けているのは、貴美の膝の上にキープされているハムタカ君だろう。貴美に悪気はあまりないのだろうが、体を動かす度に二つの皿から水とひまわりの種がこぼれ落ちている。
「なおだって免停中だってうれしそうにバイク磨いてたじゃんか!!」
「そのついでに自分のバイクの洗車させたのは、どこの誰ですか!?」
「うるさい! 怪我してっから、手加減してあげてたら、最近、態度大きいよ!!」
「手加減して、後頭部に蹴りですか!?」
 楽しそうな口喧嘩は間に挟まれたハムスターの迷惑も顧みずに続けられる。もっとも、当のハムスターは皿から落ちたひまわりの種をカリカリとおいしそうに食べているだけ。彼もタカミーズの一員となっただけあって、かなりの大物のようだ。
「テンション、高いなぁ……」
「待ちくたびれて、一杯やってたんじゃないのかしら?」
 そんな二人と一匹のやりとりを良夜とアルトはグラス片手に、見物し続けていた。完璧に他人事。夕飯は喫茶アルトの賄い料理でひとまず落ち着いているし、むしろ、無理矢理飲まされることを考えれば、このまま、夫婦漫才でも見ながら時間がつぶれていくのも一興だ。
 が、良夜の人生はそんなに甘いものではなかった。
 がたっ! と大きな音を立てて立ち上がったのは、冒頭一言だけ喋って以降、出番のなかった三島美月嬢だった。
「注目してくださいねぇ〜」
 満面の笑顔と二度のかしわでで、彼女はタカミーズの口喧嘩に終止符を打つ。口喧嘩も何となく終わって、四人の視線が美月へと集まり、室内の音はハムタカがひまわりの種をかじる音……と、美月が空のグラスにビールを注ぐ音だけになった。
「……って、悩みながら飲んでたのかよ……」
 恋人が軽く呆れている事も知らず、彼女はほんのりと朱色に染まった頬を左手で抑え、右手を高く掲げる。どこか誇らしげな表情、思い起こせば過去数回の飲み会、乾杯の音頭を取りたがるもかなわず。それがようやくかなう瞬間が来たのだ。誇らしくなるのも当たり前。
 注目を心地良さげに受け止め、彼女は大きく深呼吸。一瞬のためを作って彼女は言う。
「では、りょーやさんがめでたくも童貞のまま二十を超えたことに乾杯ですよ〜ちなみに私は二十二を超えて処女なんですよ〜知ってましたか?」
「「「知るか!!!」」」
 と、とっさに叫んだのは、アルト、貴美、直樹の三人だけ。良夜はもうどうにでもなっちゃえ〜的な思いと共にテーブルに額をこすりつけていた。
 あと、やっぱりハムタカ君はひまわりの種を食べていた。

 さて、そんな感じで始まった飲み会だったが、途中経過は概ねいつも通り。男性陣が女性陣に無理矢理飲まされる。特に良夜はめでたくも二十越えで法的にも飲酒可能なお年頃、いつも以上のペースで二日酔い確定。美月とアルトは相変わらず脱ぎたがるし、貴美がそれに軽くキレるし……いつも通りの大騒ぎだった。
「ふにぃ〜それで、これが吉田さんの大事なハムタカ君ですかぁ〜?」
 トップスピードだった大騒ぎも一段落、いい感じに盃も重なった頃。テーブルのすぐ横に安置されていたケージを美月がテーブルの上に置いた。
「可愛いですねぇ〜飲食店だと、動物とか飼えなくて……」
 扇風機を独り占め、濡れて重たくなった髪をそよ風で乾かしながら、彼女はちょんちょんと衣装ケースの側面を突っつく。突っつく度に中のハムスターはビクッ! と体を振るわせて美月と視線を交じらせる。それでも手にした種は決して離さない辺り、やっぱり彼は大物のようだ。
「飼ってんじゃん?」
 そういったのは、片手に持った缶をぶらぶらさせていた貴美だった。
「私、とか言ったら刺すわよ?」
 そのお言葉にぐい呑みを盃にしていていたアルトが、三白眼を向ける。良夜が痛む頭を押して通訳すると、貴美は「ちっ」と舌をうち、ごまかすようにビールを缶から直接喉の奥へと流し込んだ。
「ふっんっ! 誰がペットよ……まったく……」
 グビグビ……と、やけ酒のようにビールを煽り、彼女はずいっと良夜にぐい呑みを差し出す。熱燗なんかを飲むためのぐい呑みは良夜がスーパーで見つけてきた物だ。安かったのとアルトのサイズに丁度いいだろうと思って買ってきた。ペットボトルの蓋よりも少々重たいのが難点だそうだが、アルトは割と気に入っているようだった。
 それにビールを慎重に注ぐ。酒がまわり始めて、目元が霞んでいるせいだろう、注がれるはずのビールは半分ほどがアルトの伸ばした膝が飲んだ。それにアルトの顔色はさらに曇り、眼力のこもった視線が良夜を射抜く。
「ちょっと、気をつけなさいよぉ……もう……しょうがないわね……洗ってくる」
 フラフラと飛び立つ背中を「わりぃ」の言葉だけで良夜は見送る。見送った背中が向かうのは引き戸一枚向こうのキッチンだ。多分、シンクで濡れた裾を洗うつもりなのだろう。
 そして、十数秒……良夜はアルトが死角に消えるまで、見るともなしにぼんやりと行方を見守っていた。
 と、そこに掛けられる美月の声。
「良夜さんちのアヤちゃんも連れてきてくださいよぉ〜」
「えっ?」と視線を戻せば、テーブルの上にほっぺたをひっつけたままの彼女が、良夜を見上げていた。
「そして、アヤちゃんとハムタカ君を結婚させちゃいましょ〜」
 ましょ〜と彼女はビールを掲げる。掲げた勢いをそのまま、口元に運んでグビィ〜〜〜っと、一気飲み。
「おっ、飼い主よりも先に出産? 良いアイデアちゃう?」
 美月の提案に直樹と二人で飲んでいた貴美がさっそく食いついた。
「誰が育てるんですか?」
 直樹がそう聞けば貴美は明るい笑顔で言い切る。
「りょーやん」
「……ネズミ算式に増えたらどうするんだ?」
「すでにけーちゃんちがそうなってんよ? 何ヶ月かごとにポロポロ子供生んでさぁ〜里親探しに必死」
 腰を浮かせながら良夜が言うと、貴美はケラケラと楽しそうに笑いながら言った。
「そのアイデアは却下ですからね、美月さんが飼うんならともかく……んじゃぁ、取ってくる」
 良夜が釘を刺すと、美月は「えぇ〜」とあからさまにほっぺたを膨らませて見せる。しかし、良夜が「連れてきませんよ?」と言うと、不承不承ではあるが「はぁい」と言葉を引っ込めた。とは言っても、相手は油断ならない美月。いざとなったら急いで連れて帰らないとなぁ……と思いながら、彼は席を立った。
 良夜が帰ってきたのは、それから五分ほどが過ぎた頃だった。
 小脇には二研の副部長から売りつけられたゲージ、中ではアヤがカラカラと他人事のような素振りで回り車を舞わしていた。自分で閉めたドアを開いて室内へ……靴を縫いで部屋に入ると、ジョボジョボと水の流れる音が聞こえた。
「んっ?」
 首をひねらせ、目を音の源へ。水道から流れ出る水がシンクを激しく叩いている。さっき、アルトが洗濯に行っていた事、そして……──
 自分の間の悪さというものを彼は思い出す、ハメになった。
「……良夜……?」
 ノソノソとシンクから這い出して来たのは、頭からつま先まで水浸しのアルトちゃん。何を思ったか、洗濯するついでにシャワーも浴びたらしい。当然、真っ裸で。
 小脇にハムスターのケージを抱えた男とつるぺた真っ裸の妖精がみつめ会う。
 嫌な緊張感がみなぎっていた。どちらも何も言わない。ただ、真っ裸で見上げるバカとケージを抱えて見下ろすバカ、そして、物理的には数メートルだが精神的には遥か彼方から良夜を呼ぶ美月の声だけが聞こえていた。
 最初に動いたのはアルトの方だった。彼女は調理台の端に転がしていた下着を取ると、いそいそと無言のままで着替え始める。白い肌に白い下着、ガーターベルトも白で統一してたようだが、そちらの方は手抜きされた。
 このタイミングで逃げれば良いと、当人にも解ってはいた。が、逃げたら絶対に殺される、ということを彼は経験上解っていた。だから、彼は見ていた。着替えるバカの背中を。
 そして、ゆっくりと彼女が振り向く。金糸の髪がさらりと流れ、彼女は再び良夜の顔を見上げる。
「さて……遺言は?」
「死海」
「誰が感想を聞いてるか!!?? てか、そんなにエグれてない!!!」
 アルトが飛ぶ。勢いよく。サクッと良い音とバカ二号の悲鳴が一つずつ……と、アクリルのゲージが床を叩く音がキッチンに響き渡る。
「うわっ!! 蓋が開いた!!」
「知らないわよっ! バカ! 変態! エロ! 痴漢!! このロリコン!!!!!」
 頭の上で仁王立ち、アルトはストローを杵代わりにザクザクと良夜の頭を突く。しかし、良夜はそれどころではなかった。
 突かれた表紙にゲージが落ち、その表紙に蓋が開いて、アヤちゃん大脱走。元気よく走り出した所を見ると、少なくとも怪我はないようで、ちょっぴり良夜は安心した。
「って、違う!! どっ、どこ逃げたっ!? 戸締り!! 戸締り!!」
「うるさ……──えぇぇぇ!? 逃げちゃったの!? どこっ!?」
 刺していたアルトも良夜の悲鳴に我に返る。トンと良夜の頭を踏み台に、彼の眼前へと滑り降りる。そして、前髪にぶら下がり、下着姿の悩ましい格好を彼に披露した。
「えっと……あっ、いた! 冷蔵庫の下!!」
 部屋を見渡せば、茶色い塊が冷蔵庫の下へと駆け込むのが見える。普通の大学生が使うような小さな奴ではなく、一般家庭に置かれていても遜色のない大きな冷蔵庫、下には五センチほどの隙間があった。そこにアヤは逃げ込んで行った。
「良夜さん!! 返事してください!」
「いや……こっちもそれどころじゃなくて……」
 呼ばれて振り向けば、お酒で頬を朱色に初めた美月の姿。後ろ髪を引かれながらも、場所さえ確認できれば……と思い、良夜は美月の言葉を返す。
「どうかしました?」
「実は……ハムタカ君、逃げちゃいました……えへへ」
「逃げた、じゃなくて、逃したん! こっちに来なかった!?」
 照れぎみの顔で美月が言うと、血相を変えた貴美が早口で訂正。それと同時に良夜は自分の顔から血の気が引く音を気いた。
 かくして、良夜、貴美、二人の愛ハムスター(愛犬見たいな物だと思ってくれたまえ)は自由になった。
「愛の逃避行ですねっ!」
 そして、なぜか美月はうれしそうだった。

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