ペット(1)
良夜と直樹はバイトの休みをずらして取ることにしている。正確に言うと『直樹は良夜が休みじゃない日に休むことにしている』だ。若い男女が同棲生活してりゃ、やりたいこともあったりなかったりする。しかし、アパートは遮音性がすごく良いと言う訳ではなく、お隣に良夜がいたら、そりゃまあ、色々と不都合だ。だから、良夜がバイトに行ってるスキにあれやこれややってしまおうというお話。良夜も直樹もお互いの休みを確認したりはしないが、空気を読んで重なり合わないようにしていた。
なお、ここまでの話を聞いてさっぱり意味が解らないという方は親御さんか先生に聞いていただきたい。ただし、自己責任で。
そう言うわけで、良夜と直樹が同じ日にアルバイトがお休みということは滅多にない。が、今、直樹は足の骨を折ってアルバイトを長期休養中(番外編『二研』参照)、良夜が普通に休めば『滅多にない』日が必然的にやってくる。
「じゃぁ、久しぶりにみんなで飲もうか?」
貴美がそんなことを言い出したのは、アルトの営業も終わり間近、店内の客が客とは呼べない男二人になった頃だった。
「りょーやんの誕生日もできなかったし、ちょうどいいやね」
「忘れてただけじゃないですか……二−三日前、夜中に飛び起きて『りょーやんの誕生日!』って言い出した時には何事かと思いましたよ?」
貴美が軽い口調で言うと、直樹は空になったカップを指先で撫でながら言った。
「お代わりはないよ? 店長、上がっちゃったし、サーバー洗ったから。でさ、りょーやんが童貞のままハタチになった事を盛大に祝いたかったんよ〜すごいゲームで!」
「私の目が金色のうちは良夜が童貞を捨てることはないわ。立派に大学卒業して、美月と結婚したら許してあげる………………その前に振られなきゃ」
ペチペチと直樹の頭を貴美は何度も叩き、アルトはそのリズムに合わせてストローを振り振り。最近、やけに気の合う二人から、投げやりに視線をそらし、良夜は「うるさい、お前ら」とだけ言ってテーブルに両手を突いた。腰を浮かせるついでに、ため息を一つ。高校卒業してからの誕生日なんて、大して楽しみでもないよな、の気分……もっとも、美月から牛革の手袋なんぞを貰っているので、今年は少々嬉しくもあった。
「じゃあ、俺、先に家帰って、片付けでもしてるわ……」
のんびりと立ち上がり、彼はテーブルに置かれていた伝票を手に取る。売れ残りのケーキやらパン耳ラスクやら、細々と食べていたはずなのだが、伝票にはアイスコーヒーが一つきり。いつもと同じ伝票を片手に、良夜はテーブルに背を向けた。
が、その足は一歩も進まずに仕事を終える。
「待っててくださいね?」
目の前には美月がいたからだ。しかも満面の笑み。こぼれるような笑みを可愛いなと思う反面、この笑顔を見てまともに人生が進んだ試しがないということもいい加減学習した。
「来る気ですか?」
「はい。つきましては、着替えたり、お風呂入ったりするので、しばらく待っててください」
こっくりと大きく頷き、彼女の期待に満ちた瞳が良夜を見つめる。二つも年上だとは思えない視線に良夜はめっきり増え始めたため息をまた吐いた。
「風呂は止めてください。何時間待たせる気ですか? てか、湯冷めして風邪ひきますよ」
「はぁ〜い。じゃぁ、ちょっと待っててくださいね。お祖父さんにも声を掛けてきますから」
長い髪をひらひらと揺らし、美月はその場を後にする。良夜は上がった腰を再び椅子に落ち着けながら、貴美の顔を見上げた。
「って訳だから、先に帰ってるか?」
「だったらうちでします? いつも良夜くんの部屋ばっかりなのも悪いですし……」
良夜の言葉に返事をしたのは、未だ足に巻いたギブスが痛々しい直樹だった。彼は普段の三倍ほどの時間を掛け椅子から立ち上がると、良夜が先ほどしたように伝票を手に取った。
「そー言うことはちょっとは部屋の片付けが出来るようになってから言いな? 準備も片付けも私がやんだからさ」
貴美が言うと直樹はヤブヘビとばかりに肩をすくめて苦笑いを浮かべた。その苦笑いの顔を後ろから貴美がポンと軽く一つ叩く。
「それじゃ、鍵、開けておくから……うちに来ないで部屋に連れ込んじゃいかんよ?」
「うるせっ! さっさと帰って段取りでもしてろ」
「私が見張ってるわ、安心しなさい」
冗談めかした口調で言うと、貴美はひらひらと数回手を振り、直樹とともにその場を後にする。立ち去る背中に良夜とアルトが声をかけると、フロアには良夜とアルトの二人きり。頭の上のペンダントライト以外、すべて明かりの消えたフロアは薄暗く、貴美が言う通り『妙な雰囲気』と言う物があった。
「怖いの?」
空っぽになったカップ、その中に足を突っ込みカチンカチンと踵でリズムを取っていたアルトが、良夜の顔を肩越しに見上げた。その額をチョコンと軽く突っつき、良夜は彼女から窓の外に視線を逸らす。そして、少し言い訳がましい口調でつぶやいた。
「怖がりには辛いだろうな、って思ってただけだよ」
「だからかしら……?」
真っ黒い渓谷と対岸の山だけが見える窓ガラスに、カップの上で小首を傾げるアルトの姿が見えた。良夜は「どうした?」と尋ねながら、視線をテーブルの上へと戻す。
「最近、やけに貴美の帰宅が早いのよねぇ……直樹に怖がってる所を見せたくないのかしら?」
「ふぅん……」
カチンカチン……考え事をするとき、良夜が手近なゴミをイジり始めるのと同様に、アルトは足でリズムを取るような素振りをすることがある。貧乏ゆすり……と言ったら力いっぱい刺されたのは嫌な記憶だ。
「そんなの周知の事実なのにね。意地っ張りなのかしら?」
「……アルト、意地っ張りのイメージが悪くなるから止めれ」
世の意地っ張りはもうちょっと可愛げがあるものだ……と、良夜は強く思った。その思いに──
「……これだから童貞は……」
と、妖精さんがつぶやいたのを、良夜は聞こえないふりをした。
さて、待たされること、五十七分。出てきた美月は、アルトの制服からいつも着ているようなワンピースに着替えていた。それを見た瞬間、この五十七分の間に高まっていた嫌な予感が的中していた事を良夜は知る。
案の定、彼女の顔からホカホカと暖かそうな湯気が立ち上っていたからだ。
「お風呂、入らないでって言ったでしょう? 俺……」
「でも、一時間、経ってませんよね?」
にっこり、こぼれる笑みとアップにまとめた髪、そしてそこから覗くうなじがまぶしい。『何時間待たせる気なんだ?』と言われたから、『何時間もかからなければいいだろう』と彼女は思ったらしい。屁理屈である。屁理屈以外の何でもない。
が。
「大急ぎで入ってきたんですよ? 髪、乾かしてないから、明日の朝が怖いですね」
にこやかに笑う彼女の側へといけば、ふわりとシャンプーか何かの香りがやさしく鼻腔をくすぐる。緩みそうな顔をピシャンと平手で抑え、彼はできる限り意識を香り以外の何かへと向ける。その対象が……
「さっき、ピシャッと言う……って言ってたのは私の気のせいかしらね?」
頭の上で嫌味ったらしい笑みを浮かべている妖精以外に何もないというのが、彼にとっての不幸だった。
「えっと……湯冷め……しますよ?」
ピシャッと言う擬音とは似ても似つかぬ口調、何とも情けない口調で言うと、彼女は紙袋の中から薄桃色のカーディガンを取り出した。
「湯冷め対策はバッチリですよ?」
「あっ……まあ、そうですか……風邪、引かないようにしてくださいね」
「ピシャリピシャリ……ピシャリなのは緩んだほっぺたを叩く音なのかしらね? へたれ、根性無し、スケベ、童貞、ロリ、性犯罪者……これだから女慣れしてない男はいやだわ」
頭の上で言われずとも解りきっている悪口をアルトは並べ立てる。それを良夜はあまり強くはない意志の力で意識の外側へと追い出し、喫茶アルトを後にした。
「それでですね、良夜さん。じゃーん! えへへ、お祖父さんから頂いてきちゃいました!」
そう言って彼女が取り出したのは、ブランデーだった。お酒の銘柄には全然詳しくないのだが、前に聞いた話では、昔は質より量だった和明も、最近ではすごく良い物をちょびちょびと飲むタイプになっているらしい。だから、これも決して安くはないのだろう。
「……高いんじゃないんですか?」
「良いんですよ。お祖父さん、最近、肝臓も──」
「ろ〜り、ろ〜り、ろ〜りのくせに彼女は年上〜〜──聞いる!?」
美月がポンとボトルを叩くのと、アルトの凶器が彼の頭に突き刺さるのはほぼ同時だった。
「ってぇ……!」
喫茶アルトを出た所、大地の街灯と夜空の星だけが照らす場所で良夜が頭を抱えてしゃがみ込む。そして、しゃがみ込んだ顔を美月が不思議そうな顔で彼の顔を覗き込んだ。
「あの……良夜さん、聞いてます?」
「きっ、聞いてませんでした……色々……」
「良夜、人の話はちゃんと聞かなきゃダメよ?」
良夜の頭の上からアルトの声が能天気に降ってくる。それを今度は真面目に聞きながら、彼は絶対にそのうち隙を見て殺してやろうと決めていた。
ちなみに出会ってから二十回はこう思っているような気がするが、未だにそれが実行された試しはない。
頭の痛みもいい加減収まったころ、良夜は教科書なんかを放り込んでいるバッグから一組の手袋を取り出した。美月が先日、誕生日のプレゼントとしてくれたものだ。黒一色の本牛革、やけに渋い趣味なのは見立てるのに付き合わされた直樹の趣味らしい。
「もうちょっとかわいいのが良くありませんでした?」
「良夜には似合わないわよ……これも結構着られてる感があるけど」
「お前はいちいちうるさいの……──これで良いですよ」
「私は隣のピンクが良いと思ったんですけどねぇ……女性物って言われちゃいました」
美月が明るい顔で言うと、良夜は心底直樹に感謝した。頂き物にいちゃもんをつける気は全くないが、それでもピンクの手袋は、男がつけるにはかなりの勇気がいりそうだ。
早秋、昼は残暑が厳しいが夜ともなれば適度に気温は下がり始める。その冷たい空気に良夜は「あっ」と小さな声を上げた。
「美月さん、手袋、します? 俺、ポケットにでも手を入れますから」
「あら、珍しい。気が利くのね? 明日は雪かしら?」
前髪にぶら下がりチャチャを入れるアルトを払いのけ、良夜は手袋を外した。そして、外した手袋を、半ば強引に押し付けた。美月は押し付けられた手袋と良夜の顔を数回見比べ、二回だけ遠慮の言葉を口にした。が、それもその二回だけ。結局、少しサイズの大きな手袋で自分のあれた手を覆った。
「えへへ、暖かいですね」
「湯冷め、大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ。たっぷり、温もってきましたから。それに、これ、暖かいですよ?」
そう言って、彼女は良夜がポケットに手をねじ込むと、その肘に自分の肘をからみつけた。そしてまた、彼女は「えへへ」と屈託のない笑顔で青年を見上げる。
「じゃぁ、私はここかしら?」
アルトはそう言うと一旦良夜の肩口に降り立ち、彼の胸元からトレーナーとTシャツの隙間に体を滑り込ませた。もぞもぞと動く足がくすぐったい。
「あっ、私もそこの方が良いかも……」
「いや、入らないから……」
「良夜、そこで抱きしめてあげる、とか言えないからいつまで経っても童貞なのよ? 二十過ぎたのに」
「言いにくいことを言うなって……何回言ったら解るんだ? お前」
「……何て言ったんですか? アルト」
罠にかけた実感がアルトの顔をニヤリと底意地悪く歪ませ、その隣では屈託のない表情で次の言葉を待っている美月がいた。その板ばさみが青年の足を早く動かす。
「あっ、吉田さん、待ってるだろうから……行きましょ?」
「ぶぅ〜〜〜りょーやさん! 隠し事はよくないです!」
「そうよ? ちゃんと伝えなさい。どーてーどーてー、どーーーてーーー」
童貞を連呼する妖精とその妖精の言葉を聞きたがっている恋人の間、ひと思いに殺してくれと思う青年はようやく、タカミーズの部屋にまで辿り着いた。
「後で絶対に聞かせてもらいますからね!」
「たいしたことじゃないですって……──入るぞ〜」
軽い口調の挨拶。あらかじめ予定を伝えている時は、大体、この程度の挨拶しかしない。入ってこられて困るときはほぼ間違いなく鍵がしまっているからだ。
「おっじゃましま〜す」
「失礼するわよ……相変わらず、貴美がいるときは綺麗ね、この部屋」
良夜の態度に美月とアルトも習い、三人は玄関からリビングへと足を進めた。そして、彼らはありえないものを見ると思考が凍り付くことを知った。
それはその部屋の主たち二人も同様だった。
「吉田さん!」
最初に我に返った直樹が叫ぶ……も、遅い。
「ママでちゅよぉ〜? ひまわりの種はおいちい……──!!」
叫び声と人の気配に彼女の首がパチン! と音を立てて振り向く。右手には小さな茶色い生き物、左手には数粒のひまわりの種。振り向いた顔は未だにデレッデレ……完全に緩みきった表情。赤ちゃん言葉でハムスター相手に話しかけている女性、それが誰であるかを三人は受け入れられずにいた。
誰もが受け入れられない現実を受け入れる努力に夢中だった。そんな中、彼女はゆっくりと手にしていた小動物をケージ代わりの衣装ケースに戻し、丁寧に蓋をした。そして、大きく息を吸い込んで……
「みっ、見たなっ!? 死んでやる!! りょーやんと美月さんとどこかにいるアルちゃん殺して、死んでやる!!!」
「見てない!!」
「全然見てません!!」
「貴美が赤ちゃん言葉でハムスター相手に話しかけてるところなんて、全然、見てないわよ!!!」
彼女が落ち着くのは三人がタカミーズの部屋を訪れてから、キッチリ五十七分が経過したときのことだった。