どらいぶ・あ・ごーごー!(完)
『では、次の曲に行ってみましょう。次のリクエストは三好町在住の“銀歯がとれました〜”さんからで……――』
 カーステレオから女性DJの呑気な声が聞こえ、続いて女性ボーカリストが伸びやかな声で歌い始める。車窓を流れる風景は空の青と海の青が水平線で交わり、そろそろ夏も終わりだというのに未だ大きな入道雲がモクモクと育ち行く。外はまだ暑そうだが、車内の空調は十分に効いていて過ごしやすい。あえて難点を言うならば、目の前を走ってる軽トラが、ここ一時間ほどトロトロ走り続けているって所くらいか? 恋人同士のドライブにはもってこいのロケーションだ。
 だと言うのに、車内は緊張感で満たされていた。
「良夜さん、前の車、邪魔ですよねぇ〜?」
 助手席の美月が声を掛けた。口調こそ穏やかだし、表情も笑っているのだが、その右手は獲物を狙う猫科肉食動物のように筋肉にある種のこわばりを持つ。
「そうでもないですよ。一応、五十は出てるみたいですし」
 それに対し良夜が返事をする。口調はやっぱり穏やかだし、表情も同じく笑っているのだが、ハンドルから離れた左手は獲物を狙う猛禽類のように宙をさまよい、急降下する一瞬を待ち続ける。
「でもでも、ですね。良夜さん? お昼に室山岬までいくのはもうちょっと急いだ方がいいと思うんですよ。知ってましたか?」
「渋滞してなきゃ、大丈夫だと思いますよ?」
 恋人たちは和やかな口調で語りつづける。
「県庁のあたりはいつも混んでると思うんですよ〜ですから……――」
「あっ、そうなんですか? この辺まで来るの初めてですから……――」
 猫科肉食動物の右手と猛禽類の左手はさらに緊張感を高める。
「ですから、抜いてくださいっ!」
「ハンドルに触らないでくださいっ!」
 美月の右手が飛び、良夜の左手が急降下! 猛禽類は猫科肉食動物をまさにわしづかみ。そして、二人の間を仕切る肘掛けに叩きつける!
「ふえぇ〜負けちゃいました〜〜〜」
「あっ、あぶ……危ねぇ……」
 フニュッと手を捕まれた女は涙目で恋人を見上げる。そして、手を掴んだ男はその手の柔らかさにも気づかずに胸をなでおろした。

 んで、その頃。パステルカラーの軽自動車の後ろでは、ワゴンタイプの社用車を駆るサラリーマンが悪態をついていた。
「……イチャイチャイチャイチャしやがって……」

 パステルカラーの軽自動車は海っペりの国道を駆け抜け、その車体は隣県の郊外に差し掛かる。この辺になると、見えていた水平線も遥か遠くに消えていき、見えるのは複雑に交わる立体交差や国道とほぼ平行して走っていた高速のインターチェンジ、それに大きなショッピングセンターやアパート、住宅などになる。
 増え始めた車、その車列に紛れ込むのは無人に近い国道をマイペースに走っていた時とは違う緊張がある。せっかく慣れ始めた運転も違う環境にほぼご破算だ。
「ねえ、良夜?」
 呼ぶソプラノに良夜は緊張で軽くこわばる顔を向けた。向ける方向はルームミラーだ。そこにはアルトが大きなぬいぐるみの下からひょっこりと顔を出しているのが見えていた。
「……何で、そこにいるんだよ?」
「少しでも事故ったときの衝撃を弱くするために決まってるじゃない? 所で、いつまで美月の手を握ってるの?」
 じとぉ……と軽く三白眼になっている目で見られ、良夜はチラリと視線を斜め下へと落とす。そこではなぜかピースをしている荒れた手とその手を押さえつけるように握っている自身の手があった。
「……なんでピースなんですか?」
「いえ、なんとなく」
 にっこりと微笑む美月に良夜は顔を赤くしながら、再び、視線を正面に戻す。だんだんと込み始めた道路、先ほどまで六十を越えた速度で走っていたのが嘘のように、スズキアルトは速度を落としていた。
「こんな荒れた手くらいなら、いくらでも握っててくださいよ〜あっ、でも……」
 どこか恥ずかしそうに、でも嬉しそうにはにかみながら、彼女は一旦言葉を切った。
「でも?」
「あのぉ……ササクレ……イジるの、止めてくれませんか? 痛いというか……くすぐったいというか……血が出ちゃうというか……」
「相変わらずその癖、直らないのね?」
 申し訳なさそうな声で美月が言い、相変わらずぬいぐるみの下敷きになってるアルトが呆れた声でつぶやく。それで、初めて良夜は自分が手のひらに出来た小さな傷口と、そこからペロンと刺のようにめくれ上がった皮膚を撫でていたことに気がついた。
「うわっ! ごっ、ごめん!」
 良夜の左手がパッと跳ね上がり、片手で握っていたハンドルを両手で握り直す。
「私も何回も言ってるのに治らないのよね? 子供みたいで気になるわ」
 もぞもぞとアルトはぬいぐるみの下から這い出し、トンと良夜の肩に飛び乗る。そして、その顔とさっきまで美月の傷口を撫でていた指を数回見比べた。
「……まあ、アルトにも言われてるけど……これ、癖、なんですよ。ごめん」
「人の手の傷口を撫でるのが? 何て面妖な……」
「いや、そうじゃなくて……」
 目をまんまるに見開いて驚く美月に良夜は苦笑い。手近にあるものを指でコロコロといじくるのが良夜の悪癖。割と子供のころからそういうことは良く注意されていたし、大学に入学してからはアルトにまで子供っぽいといわれている。自覚はしているのだが、治らないから癖なのだろうと最近は半ば諦めることにしている癖だ。
 良夜はそんな話を、アルトのチャチャを通訳しながら美月に言った。そして、左手で少し頭を掻く。
「あっ、そう言えば、頭を掻くのもよくしてますよね? ほっぺたとか」
 良夜の手から開放された右手を、胸元にギュッと押し付け、彼女は良夜の顔を覗き込む。それは多少運転の邪魔にもなったのだが、不思議と邪魔だという気にもなれず、良夜はただ「良く見てますね」とだけ言うに止まった。
「はい、暇でしたので、今日、ずーっと見てました。信号に止まるたび、顔触ったり、頭触ったりしてましたよ?」
 ニコニコと朗らかな笑みで彼女は良夜の左手にそっと右手を伸ばす。カサつく手のひらが良夜の手のひらに重なり、指先がそっと絡む……
「こんなガサガサの手で良かったら、いくら握っても良いんですよ?」
「あっ……いえ……水仕事してるから……仕方ないですよ」
 カーっと顔が赤くなる感触、同時に肩口に立つアルトの視線が何となく痛い。その痛い視線を投げかけていたアルトは、そっぽを向いてボソリとつぶやいた。
「油断大敵」
「ところで、あっちの車線、空いてると思いません?」
「えっ?」と言う疑問符はどちらの言葉に反応した物なのか? それを良夜が自問自答する暇は与えられず。くいんっ! とスズキアルトは混んだ車線を抜け出し、比較的空いた追い越しレーンへと飛び出す!
「って、美月さん!?」
「はいはい、良夜さん、アクセル踏んでくださいねぇ〜」
「危ない! 危ないから!! めちゃくちゃ危ないって!!!」
 助手席から体を乗り出し、美月はうれしそうにハンドルを切る。それを良夜は押し止めようと必死。結果、スズキアルトはまわりの迷惑も顧みず、二つの車線を行ったり来たりしながら走るハメになった……
「黙って、良夜が追い越し車線にいれば良かったのに……何で戻ろうとしたのかしらね?」
 と、アルトは後に語るのだが、この時、良夜はそんないい手に気がついてはいなかった。てか、余裕ないし。

 さて、室山岬までは喫茶アルトのあたりから大体百六十キロほどある。大きな渋滞がなければ四−五時間もあれば着く計算だ。実際、タカミーズもこの位の時間でここまでやってきていた。
 が、良夜は驚くべき事に八時間かけた。隣県の県庁辺りで多少の渋滞に巻き込まれたとは言え、平均時速二十キロはありえない。もちろん、すべての原因は上記のごとく、やりたい放題だった三島美月嬢にある。アレから後も、明後日の方向を指さして「見て見て」と言い出したり、後部座席に逃げ込んだアルトと話がしたいから通訳してとか……ちっとも運転に集中させてくれなかった。事故らなかったのが不思議な位だ。
 そんなこんなで室山岬にたどり着いたのは、お昼過ぎの予定が大幅遅れの午後三時。空腹もかなり限界に近づいていた。
「ああ……腹減った……」
「本当ですねぇ……」
 一時間ほど前から、二人は口を開けば腹減ったの大合唱。朝食食べてからこっち、口にしたのは缶ジュースとクッキーが一袋というのだから、どうしようもない。
「あら、私はそんな下品な事は言わないわよ? 淑女と紳士が情けない……」
「うるさい、お前が腹減ったとか言ったら許さねぇ……」
「そうですよぉ〜私と良夜さんは一口で終わっちゃったんですよ? クッキー……ふぇ〜〜思い出したら、お腹空いてきました! 良夜さんが飛ばさないのが悪いんですよ? 知ってましたか?」
 良夜が軽くキレて、通訳してもらった美月は半泣き。その二人をアルトは後部座席のぬいぐるみの下からニコニコと上機嫌で眺めつづける。燃費の良い――ようはちっちゃい――妖精さんにとって、クッキー一枚は大変な大食だ。顔よりも大きなクッキーを食べて、それでもお腹が空いてたら、そちらの方がビックリだ。
「あっ、良夜さん、あそこに看板」
 室山岬から十キロほど、国道ぶちにある看板には「チーズ・みーと・トマト」の文字。それを見つけた美月は左手でそれを指さしながら――
「だから、ハンドルに手を伸ばさないでください!!」
「えぇ〜」
 良夜が大声を上げれば、美月は頬を含ませて拗ね顔を見せる。そこに悪気なんて物が一切見えないからタチが悪い。
「アルト……美月さんが動いたら刺していいぞ……」
「嫌よ、運転席側にいたら、事故ったとき、私まで死ぬじゃない? 死ぬなら馬鹿ップル二人で仲良く死になさい」
 あまりにも冷たい言葉にちっと舌打ちを一つ。その余韻が消えるよりも早く、クイッと良夜自らの手でハンドルを切って車を駐車場へ。食事時ではないためか、駐車場はガラガラ、どこだろうと駐め放題。バックには全然自信がない良夜にとって、これは僥倖以外の何物でもない。
 広めのスペースを適当に占領して駐車完了。運転席から車を降りると、潮の香りと寄せては引く波の音が心地よく良夜たちの体を包み込む。その源へと視線を向ければ、五メートルも行かぬ所に砂避けの小さな防波堤。その向こう側には視野いっぱい真一文字に伸びる水平線が見え、その視野の端っこにはレンガ造りの小さなお店がちょこんと立っていた。
「うーん、いい感じですねぇ〜ロケーションは負けましたね〜」
 そう言って美月は大きく伸びをし、胸いっぱいに潮風を吸い込んだ。その潮風に伸ばした黒髪がふわりと流れ、風の形を良夜に教える。
「あら、うちの景色もいいわよ。特に春なんて桜が咲いて素敵だわ」
「飽きちゃいましたよ〜たまには窓の外が海って言うのもいいじゃないですか?」
「……山が時々海に代わってたら大変だって……」
 通訳まじりの会話を続けながら、三人は駐車場から入り口へと続くアスファルトを歩いた。お供は潮風と潮騒、お腹は空いてるけど足取りは普段よりも少し遅め。雄大な風景を楽しみながら、彼らは歩く。
 そして彼らを出迎えたのは――
『準備中』
 こんな札がぶら下げられたドアだった。
「レストランなら、この時間はこうよね……サテンじゃないんだから」
 人目もはばからず、がっくりとうなだれる二人を見下ろし、一人お腹いっぱいの妖精さんは言葉を続ける。
「よかったわ、今すぐご飯だったら、私、食べられなかったもの」
 と、彼女は本気で胸を撫で下ろした。そして、直後、その言葉を良夜から伝え聞いた美月にまで本気でキレられた。

 そういう訳で食事が終わったのは夕方の六時少しすぎ。お昼ご飯の予定がすっかり晩ご飯だ。他で食べようと提案してみても、美月が頑な――半ば意地になってここで食べると言い張るものだから、それも出来ず。ディナーの営業が始まるまで、フラフラと車に乗って潰した時間の長かったこと。
「でも、吉田さんの言った通り、すごく美味しかったですよねぇ〜調味料の配合でしょうか? それとも下ごしらえにもっと時間を掛けてるのでしょうか……? うーん、後二−三回は食べてみないと解りませんねぇ」
「しかし、二人共食べすぎよ。見てるだけで気分が悪くなったわ。陽みたい」
 チーズ・みーと・トマトから十キロ帰った所、そこが室山岬だ。来るときも通ったのだが、その時は良夜美月ともに食事がしたくてゆっくりとは見ずに通り過ぎていた。
 岬は太平洋へと突き出す形になっていて、その突端が駐車場になっている。他には一台も車の止まっていない駐車場、その最前列に車を止め、三人はぼんやりと食休み……言葉少なめに食事の余韻を楽しんでいた。
「あっ……良夜さん、今日、バイトは?」
「休みですよ。休みでなかったら断ってますから」
 一際大きな太陽が西に傾き、長大な水平線に近づき始める。少し高めの波頭にそのオレンジ色の光が映り込み、それはキラキラと複雑で幻想的な光を放ち始めていた。
 それを三人は車から降りずにぼんやりと眺めていた。行きと同じだけの時間が掛かる……とは思わないが、そろそろ帰らなければ、日曜日の良夜はともかく、明日は普通に仕事の美月は辛いだろう。それでも、三人はあきることなく夕日を長め続けていた。
「私、少し寝るわ。お腹一杯で苦しいの」
 クッキーでお腹一杯だと言っていたのに、その上にまだパスタやピザ、ついでにデザートのティラミスまでつまみ食いしてたのだから、お腹が苦しくなるのも当然。彼女は気だるそうに羽根を動かして、後部座席のぬいぐるみの上に着陸を決めた。夏の光をたっぷりと浴びたぬいぐるみは見るだけでフカフカの手触りが伝わってきそうだ。
「良いですよねぇ……私も一度、ぬいぐるみの上で寝てみたいですよ」
「アルトみたいにちっちゃくなるか、すごく大きなぬいぐるみを買うか?」
「誰がちっちゃいのよ!? うるさいわよ! 良夜! 後で刺してやるから!!」
 美月と良夜の声が伝わると、アルトは大声を上げた。そして、ゴロゴロと体を動かしてぬいぐるみと背もたれの間に滑り込む。それを良夜が美月に伝え、二人で苦笑い。
「ちっちゃいとか、体の事、いろいろ言っちゃダメなんですよ?」
 美月は少し眉を細めてそう言うと、助手席のドアに手をかけた。
「降りるんですか?」
「ええ」
 美月の答えを待って良夜も同じく運転席のドアを開く。むせ返るような濃密な潮の香り、うるさいほどの潮騒、そしてオレンジ色に輝く海……その中に混じって、夕暮れ時の空気には秋を感じさせる何かがあった。
「夏も終わりですねぇ……」
 岬の突端、その下は断崖絶壁、十数メートル……チーズ・みーと・トマトとは比べ物にならないほどここは高く、その分、風は強め。その強い風に髪をなびかせ、美月は車とガードレールの間に足を進めた。
「残暑はまだ少し残りそうですけど……」
 美月に習い、良夜も彼女のすぐ隣へと足を進める。並ぶ肩、長く美しい髪が良夜の鼻先をくすぐった。
「えへへ、今日はすごく楽しかったです」
「……運転の邪魔さえしてくれなきゃ、もっと楽しかったんですけどね」
「あれが無かったら、楽しさ半減ですよ〜」
 そう言って彼女は屈託無く笑う。子供みたいな女性はスルリと良夜の手に自分の手を重ねる。それを良夜も軽く握り返し、二人は半分ほど水平線の向こうに沈んだ太陽へと視線を向けた。
 しばしの時が流れた。ゆっくりと、潮騒と小さくなっていく太陽だけが時の流れを二人に教える。
 そして、良夜はわずかに彼女の手を引く。意識していなければ、気がつかない程度で。
 それに、美月は引かれた以上の力で答える。彼の胸に体を寄せるという形で。
 長く伸びた影が一つに交わり、唇と唇は初めて重なり合った……

「……と、こうして良夜はやーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーと、ファーストキスにたどり着けたのでした……って、呆れるくらい長かったわね……」
 かぶりつきで見ていたアルトはその光景をしっかりと金色の瞳に焼き付け、どうやって貴美に教えようかな? と思案にくれたものだった。

 が、その思案は無駄に終わった。なぜか?
「でですね! これが意外と胸がたくましくてぇ〜〜〜もぉ〜ドキドキでした〜!」
「はいはい……それ、五回め……」
 週が開けて月曜日、顔を合わせる度にのろける美月に吉田貴美はげんなりとした顔を見せる。
 そう、当事者の片方が同僚の貴美はもちろん、来る客来る客、全員に教えて回ったからだ。

 この後、良夜はしばらくの間生き地獄を味わった。
 

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