どらいぶ・あ・ごーごー!(2)
「良夜さん、明日はドライブに行きましょう」
 喫茶アルト自称フロアチーフ三島美月がそういったのは、未だアルトが「二輪の免許はいつ取るんだ?」と言いつづけていた金曜日のお昼休みの事だった。
「もう何年も助手席なんて乗ったことがないんですよね〜吉田さんに運転してもらったときも、助手席には直樹くんが座ってましたし」
 ニコニコと笑ってそういう美月に対し、反論すべき事なんて毛頭ない。むしろ、休みの前になる度、どこに連れて行ったらいいんだろう? と悩んでしまう良夜に取って、それは渡りに船の申し出だった。
「良いですよ」
 喫茶アルト、窓際隅のいつもの席、そこに座った良夜を見下ろし、美月はニコニコと上機嫌。良夜が二つ返事で頷けば、さらにご機嫌は加速していく。
「では、明日、早めにきてくださいね。いい所があるんですよ」
 スキップかダンスでも踊り出すような足取りで美月がキッチンへと帰っていけば、取り残されるのは良夜と直樹、それにアルトの三人だけ。話題に入る必要のなかった直樹が、お冷を一期に飲み干すと、閉ざしていた口をゆっくりと開いた。
「ドライブですか? 気をつけてくださいね」
 数ヶ月前に二十を迎えた癖にどこか少年っぽさを残す直樹がそう言うと、良夜は少し意地悪な笑みを浮かべ、彼の顔をハスに見ながら言った。
「お巡りにか? お前、また免停だろう?」
 良夜がそう言うと、コクコクとお冷を飲み干していた直樹の手が止まる。グラスに残った水は直樹の喉を降ることを止め、代わりに彼の顔から血の気が下っていく。
 そして、きっちり十秒。直樹はゆっくりとグラスをテーブルに置き、その居住まいを正す。そして、わななく口を開いた。
「まっまだ、大丈夫ですよ。ちゃんと点数残ってますから……」
「何点?」
 良夜が再びそう尋ねると、直樹は蚊の鳴くような……と言うのもおこがましいほどの声でぽつりと言った。
「……いっ一点……」
「時間の問題よねぇ……次、免停になったら、殺すって言ってたわよ、貴美」
 頭の上でくつろぐアルトがそう言うと、良夜は静かに心の中で思った。
「喪服……まだ作ってないよなぁ……」
 と。

 んで翌日。良夜がカランとドアベルに仕事をさせて、アルトのドアを開いたのは朝の八時の事。早め、と言われていたから心持ち早め。昨夜は寝たのも早めだし、天気は上々、多少暑いがデートをするには最適の一日だ。
「いらっしゃいま……――なんや、りょーやんか……美月さんなら、朝から洗濯もん干してんよ」
 良夜がフロアに入ると、営業人格丸出しの貴美が飛んでくる。しかし、それも良夜の顔を見るまで。見た途端にその顔からやる気は抜けきり、気の入らない声と態度で居住スペースに続くドアを指さした。
「何だよ……その態度、不良ウェイトレス」
「美月さんのおごりでコーヒー飲んで出かけるだけの男に客面されてもねぇ〜」
「まあ……支払う気、ないけどな……美月さん、時間、掛かりそう?」
「すぐに来るわよ」
 良夜の言葉に返事を返したのは、どこからともなく飛んできたアルトだった。彼女はちょこんと良夜の頭に着地を決めると、彼の顔を覗き込みながら言葉を続けた。
「あっ、それと……今日は覚悟決めておいた方がいいわよ?」
 ん? と聞き返す暇もなく、トントンと階段を降りる音が聞こえ、居住区とフロアを続くドアが開いた。入ってきたのは白いワンピースにエプロンだけを着けた美月。彼女は良夜の顔を見ると、胸元まである大きなエプロンを外しながら、パタパタと急ぎ足で良夜の元に駆け寄ってきた。
「いらっしゃい、良夜さん。コーヒー飲んだら出かけますか?」
「ええ、良いですよ。どこに行くんです?」
「あっ、そうそう。室山岬にいこうかと思ってます。そばにおいしいイタリアンのレストランがあるんですよ〜ご馳走しますね」
 二人で形を並べていつもの席へ。普段なら直樹が座っている席も、土曜日は無人、主はカウンターで貴美のお相手だ。良夜はその席に腰を下ろしながら、お気楽な返事を返した。
「あっ、いいですね。もう、泳ぐのは無理だけど……」
「はい。それじゃ、私、コーヒー、淹れてきますね」 
 先に席についた良夜を置き去りに、美月はキッチンへと向かった。良夜はそれを少しだけ幸せな気分で見送る。頬杖をついて、頬は自然と緩む。アルトがついてくるのは玉に瑕だが、まあ、楽しくないといえば百パーセント以上の嘘だ。
 が。
「良夜……室山岬ってここから何キロあるか、知ってるの? てか、あんた、室山岬のある場所、知ってる?」
 幸せな気分もここまで。頭の上に座ったアルトが呆れた声を上げると、良夜の背中に冷たい物が流れ落ちる。
「隣の県……だっけ?」
「隣の県とさらに隣の県の県境よ」
 アルトの補足説明を聞きながら、頭の中に日本地図を思い浮かべてみる。しかし、その形は今ひとつあやふや。日本地図は浮かぶのだが、それは名前の入ってない白地図だったりする。そうこうしているうちにウェイトレス姿の貴美が近づき、トレイの上からうっすらと汗をかくグラスをテーブルに置いた。
「美月さんに場所、聞いた? 若葉にゃぁ〜きついよ? 特に県境のあたり、タイトなブラインドカーブの連続やしね。はい、お冷」
 コトンと置かれるグラスと貴美の顔を見比べ、良夜は大きなため息をつく。
「って……吉田さん、知ってたのかよ……」
「知ってたというか、いい所ない? って聞かれたから、私が教えた。あそこのイタメシ、マジ美味しいから。あそこのお店の食べると、美月さんのはやっぱりどこまで行っても『喫茶店の軽食』って気がしちゃうんよねぇ〜」
「ってことを貴美が言ったから、美月はぜひとも研究ってかなり本気になったの……すべての元凶よね」
 何が一体嬉しいのかは知らないが、貴美はやけに上機嫌で言葉を紡ぐ。その上アルトも良夜の頭の上でゴロゴロとくつろぎながら、人事のような口調だ。
「大丈夫大丈夫、行って、ご飯食べて、少し食休みして、帰ってくるだけなら楽に日帰りできっから」
「あら、それ以上のこと何てやらせないから大丈夫ね」
「お前ら二人、覚えてろ……」
 恨みの言葉を呟いても時すでに遅し。女悪魔二人はニヤニヤと底意地の悪い笑みを浮かべるばかりで、助け船どころか、浮き輪の一つも投げ寄越しはしない。
「まあ、自信ないんなら別の場所にしてもらったら?」
「……ダメだ、あの人がそんなに行く気になってんなら、自分が運転するって言い出すのがオチだ」
 良夜が諦め口調で答えると、アルトも「それもそうね」とだけ答えて納得。そもそも言い出したら聞かないタチの美月、その上、年下と言う事実も伴って、デートの場所は三回のうち二回程度は美月が決めている。そして、一度決めると良夜が何と言っても変更してくれた事など一度もない。ボーリングなんて、美月が飽きるまで十回連続で通った。
「あはっ、まあ、一応、上下線に分かれた国道だから、初心者向けっちゃー初心者向け。がんばんな〜あっ、そうそう、県境の手前に十キロ位直線があんだけど、そこ、ネコが良く張ってっから」
 ネコとはスピード違反取り締まりを指す二研の隠語。ねずみ取りだから猫という連想だ。貴美はそれだけを教えると「んじゃぁね〜」とお気楽に手をふり、その場を後にした。
 入れ替わりに美月がクラッシュアイスのつまったグラスとサーバを持って登場。売れ残りだけどと言う注釈付きのクッキーをお供に、お茶を三人は楽しむ。そして、あれやこれや、今日の事から昨日の事まで雑多な話に花を咲かせると、三人は十五分ほどで席を立った。
「ちょっぴり遠いですけど、頑張ってくださいねっ!」
「ちょっぴりってオーダーじゃないと思いますけどね」
 片道百六十キロ、大体四時間。全然ちょっぴり何て話じゃねーなーと思いながら、良夜はいつもの席からフロアを横切る。ちょうどそこにカウンターでは和明が仕事片手間に直樹と何か話をしていた。
「あっ、店長。それじゃ、美月さん、借りていきます。少し、遅くなると思いますけど……」
「ええ、ゆっくりして来てください」
 そう声を掛けられると、良夜はペコッと小さく頭を下げる。それに続いて美月とアルトも行ってきますのご挨拶。そして、その場を後にしようとすると、良夜はもう一度、和明に声を掛けられた。
「あっ、ちょっと待ってください」
「何ですか?」
 良夜がその言葉に足を止めれば、美月とその肩に陣取ったアルトは一足先にフロアの外へと出て行く。その背中を一瞬だけ見送り、良夜は和明の深いシワが刻まれた顔へと視線を向けた。
「気をつけてくださいね」
「あっ……ああ、ええ。飛ばしませんよ。免許、取り立てですから」
「……いいえ、そうじゃなくて、いえ、それも気をつけてほしいのですが……美月さんにはくれぐれも、気をつけてください」
「えっ?」
 シワだらけの顔をさらに深いシワを作りだし、老人は真顔でそう言った。

「って言われたんですけど……美月さん、何かありました?」
 それから数十分後、緊張した面持ちと固く突っ張った腕で車を運転しながら、良夜は助手席に座った美月にさっそくその話をしていた。和明本人から話を聞けば一番手っ取り早かったのだが、もう行く気満々の美月をそんなに待たせるわけにもいかないし、珍しいことに美月との入れ違いで朝から客が訪れたともあって、その機会はすっぱりと失われた。
「うーん、別に体調も悪くありませんし、昨日は良く寝たので、居眠りもしませんよ?」
「美月のボケに気をつけろ、じゃないの? 私も知らないわよ」
「私、そんなにボケてませんよ?」
 アルトの言葉を伝えれば、美月はほっぺたを膨らませて抗議をする。その様子が幼く可愛かったため、良夜は逆に軽く笑ってしまう。それが美月の怒りに触れ、彼女のほっぺたはさらに大きく膨らんで……やっぱりその仕草は可愛くて良夜は笑ってしまう。そんな幸せな循環が続き、車内はいたって穏やかだった。
「でも……私サイズのシートベルトがないって不安よね?」
「どういう意味だ? アルト」
「そりゃ、良夜が事故ったら私なんてここからフロントガラス一直線よ? 不安になるのも当然じゃない」
 今、アルトがいるのは良夜の頭の上。髪の毛を掴む手には普段の三割増しの力がこもり、木靴に覆われた足も彼の頭皮にがっちりと食い込む。それでも良夜がブレーキを踏む度、ハンドルを切る度、アルトの体が動き、良夜の頭に小さな刺激を与えていた。
 ちなみに美月が運転しているときはこういうことがないのだから、運転が粗雑な事は間違いないのだろうな……と良夜も思う。思うが、それを素直に認めるのは敗北のような気がするので認めない。
「大丈夫ですよ。私が付いてます」
 ついてるからどうしたって話なのだが、美月は構うことなくニコニコと上機嫌。自分が運転する時以上に、しっかりと前を向いては「左から車が出てきてますよ〜」だとか「前に車が止まってますよ〜」とか言って、良夜に注意を促していた。多少お節介だなとも思うし、何より、話に夢中になってすぐによそ見をするのはあんただとも、良夜は思っていたのだが……
「危なくなったらですね。ほら――」
 そう言った瞬間、美月の手が良夜の手に伸びる。
 ハンドルを握った手に!
 そして、彼女は一気にハンドルを切った。
「って、美月さん!!!」
 車は無人の対向車線に飛び出し、百メートルほど逆走。慌てて良夜がハンドルを切り直すまでわずか十秒、その十秒を良夜は二年くらいの月日に感じ取っていた。
「こうやって、私が回避してあげますね」
「こえ! こえ! めっちゃこええ!! しゃれになってね!!」
「いっ、今のは死ぬかと思ったわ……」
 ドキドキと高まる鼓動、それは決して美月に手を握られたからでないことは明白だ。それはアルトも同じようで、表情こそ見えないが、髪を掴んでいる手が小刻みに震えていた。
 そんな中、美月だけは平然どころか、先ほどよりもさらに笑顔が加速。彼女は「あっ」と小さな声を上げると、再びヒョイと良夜の方に手を伸ばす。
 とっさに良夜の両手に力がこもり、ハンドルをまっすぐに固定。
 しかし、彼女の狙いは違うところにあった。
「フロントガラスが汚れてますね」
 彼女の狙いはワイパーのレバー。それをクイッと引っ張るとフロントガラスにウォッシャーの泡立つ液体がパッと飛び散る。
「うわっ!?」
 突然フロントガラスが真っ白に染まり、そこを雨も降ってないのにワイパーがキューッと音を立てて数回往復。完全な不意打ちに良夜は一瞬だけブレーキを踏む。
「きゃんっ!」
 ぶちっ!
 アルトの悲鳴と破滅の音、直後にはアルトの体がフロントガラスにへばりついてた。
「って、美月さん! 動かないでください!!」
「ふぇ?」
 きょっとーん……「いったいどうして、私が怒られているのだろう?」とでも言いたそうな顔で彼女は良夜を見上げた。

「店長、りょーやんに何言ってたん?」
 珍しい土曜の客を送り返し、貴美はカウンターでネルの手入れをしていた和明に声を掛けた。
「……美月さんは、子供のころから助手席に座ると運転の邪魔ばっかりする方でしてね……ハンドルを触ったり、ワイパーを動かしたり、サイドブレーキで遊んだり……私も清華さんも拓哉も……誰も美月さんを助手席には乗せなかったんですよ」
「……それ、教えなくても大丈夫なん?」
「………………まあ、今までそれで事故を起こしたことはありませんから」
 にがぁい顔で和明がそう言ったとき、貴美は「りょーやん大丈夫かな?」とか「無事帰ってくるかな?」ではなく……
(私が運転したとき、助手席に乗せなくてよかった……)
 助手席に座ってくれた恋人に軽く感謝をしていた。
 
「しっ知らないわよ、私だって知らなかったわよ! 知ってたら、こんな車に乗ってないから!!!」
 休憩時、マジギレしている良夜に便所へと連れ込まれたとき、アルトは珍しく血相を変えて言い訳をしていた。

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