どらいぶ・あ・ごーごー!(1)
「良夜の裏切り者!!」
 夏休みもすでに過去の話となった九月末。喫茶アルトの屋根から残暑厳しい空へと妖精の絶叫が響き渡っていた。その声は入道雲よりも高い所にまで伝わり、大気に怒りを充満させる……と言うのは言いすぎだが、少なくとも、その怒りの対象たる浅間良夜に取って致命傷となるに十分な代物だった。
「裏切り者! 裏切り者! 裏切り者ぉぉぉぉ!!!」
「痛いって! ちょっと話聞けって!!」
 裏切り者、アルトがそう言う度、ストローが彼の頭に振り下ろされ、頭頂部にザクザクと言う嫌な音が響く。良夜はそれを手のひらで覆いながら、必死こいて言い訳を言おうとする。しかし、アルトは聞く耳持たず。裏切り者と何度と連呼しながら、彼の頭をストローで刺しつづけるのみ。怒り狂うさまは鬼神の様であり、可愛げというものを見つけ出すことはまったくの不可能。相変わらず三島家の女は色気のない怒り方をする……と、良夜は頭から血を流しながら思った。
 そして、十五分……彼の頭が穴だらけになった頃、彼女はポーンと良夜の頭の上から飛び立った。
「美月に言いつけてやるわ!!!」
 痛む頭をさすりながら、良夜は飛び立つ妖精と――
「直樹……助けろよ……」
 壁の隅っこに体を押し込み、無関係を装っていた友人を睨みつけた。
「だって怖かったんですよ……」
 小さな顔に大きめの目、小動物を思わせる青年は良夜から逃げるように、体を縮こめさせる。それがますます怯えた小動物のようで、良夜の中から毒気を抜いていく。
「まあ……キレたアルトは怖いけどな、確かに。助け船出すとか、気を紛らさせるとか、考えてくれよな……」
 テーブルに乗り出していた体を引っ込め、体重を背もたれに預ける。彼がそうすると、直樹も押し込むように密着してた壁から体を引き剥がす。そして、上目遣いで良夜を見つめてつぶやいた。
「いえ……怖かったのは、何もない所でいきなり頭を抑えて半泣きになってる良夜くん……」

「良夜さん、アルトを苛めちゃダメですよ?」
 それから数分後、良夜は頭にアルトを乗せた美月に見下ろされていた。美月の頬は愛らしく膨らみ、薄い胸元に腕を組んで仁王立ち。何をどうやって伝えたのかは不明だが、少なくとも『良夜を叱らねばならない』と言う意気込みだけはそこから十分に伝わってきていた。
「……別に苛めちゃいませんって……」
 苦笑いを浮かべながら、良夜は答える。しかし、美月の頭を椅子にしていたアルトは、そのお尻の下に引かれた髪を即座に二回引っ張った。
「苛められてはないけど、裏切ったの! 裏切り者なのよ!!」
 そして始まる先ほどの二の舞。彼女は何度も「裏切った、裏切った」の連呼を続け、今度は美月の髪を何度も引っ張りまわした。
「痛い! 痛いです! りょーやさん! 早く謝ってください! 私の髪が抜けちゃう!! 坊主になっちゃいます〜〜〜〜!!」
 悲痛な悲鳴を上げる美月、その上ではアルトが仁王立ちになって見栄を切った。
「良夜! 私に詫びなさい! 詫びないと美月がつるっ禿になるわよ!!」
「お前、めちゃくちゃ!」
 とまあ、軽いコントを繰り広げたのち、アルトもようやく落ち着きを取り戻した。もっとも、そこに「ブルマンおごるから!」と言う良夜の一言が大きな影響を与えている事は否定できない。
「それで……何があったんですか? 裏切ったとか……不穏当ですよ」
「いや、大したことじゃないんですよ。アルトの奴が勝手にへそを曲げてるだけで……」
「裏切りよ! 裏切りだわっ!!」
 良夜が苦笑いで答えると、アルトのくすぶり続けていた怒りが再び大爆発。ようやく美月の頭からテーブルに降りたというのに、再びそこに登った。そして、仁王立ちで良夜を見下ろし『裏切り者!』とストローで良夜の顔を指し示す。ストレートに怒りをぶつけてくるあたり、まだ、すねてないのだろう……と良夜は思うのだが、面倒くさい事に代わりはない。
「……興奮するなって」
「するわよ!! 勝手に!! 勝手にぃぃぃぃ!!」
「お前に言うと面倒なんだよ!」
「何が面倒なのよ!?」
 投げやりに良夜が言うと、それがさらにアルトの怒りに油を注いだ。アルトは顔を真っ赤にしてギャンギャンとヒステリックに叫ぶし、その売り言葉に良夜も買い言葉でギャンギャンと言い返す。そうすると二人の口論は回りに美月や直樹、他の客がいることも忘れた口喧嘩へと発展する。
 その口喧嘩から何らかの情報を引き出すことを諦め、美月は頭に一方の当事者を乗せたまま直樹へと顔を向けた。
「……あの、直樹くん、何があったか、知ってます?」
「何でも、良夜くんが免許を取りに行ったことが気にくわないらしくて……僕も詳しくは聞いてないので……」
「ふへ? 免許……と言いますと、調理師とか? 管理衛生士とか?」
 直樹が答えると、美月は小首を傾げ、間の抜けた声で聞き返す。それが口角泡飛ばしていた二人の毒気をサラッと抜き、二人は顔を見合わせてため息をついた。
「じゃなくて、自家用車……」
「……俺が調理師免許取りに行ってどーするんですか? 車ですよ、車」
「工学部の学生が調理師免許取りに行ったらそれはそれでビックリじゃない……」
「……――ってアルトも言ってます」
 三人同時に突っ込まれ、美月のほっぺたが再び膨らむ。
「いーんですよ、いーんですよ、根っこからボケてる根ボケねーちゃんですから。どーせ、どーせ、喫茶アルトの胸のない方ですよぉ〜〜〜」
 美月はコースターからはみ出た水滴でのの字を書き始める。それを良夜、アルト、直樹の三人は口にこそ出さないが一つの思いを込めてしばらく見守った。
(なんて面倒な人なんだろう?)
 さて、閑話休題。
 良夜はポケットの中から財布を取り出し、そこに突っ込まれていた免許証をテーブルの上に置いた。真新しい免許には取り立てて何の変哲もなく、その意味を解する事の出来ない直樹と美月は、キョトンと小首を傾げる。しかし、アルトだけは話が別。その免許を見た瞬間、露骨に顔色を変え、プイッと美月の頭の上でそっぽを向いた。
「これで何でアルトさんが怒るんですか?」
「ふつーの免許証ですよね?」
 そういう二人と再び怒りに火を灯しかけているアルトとを見比べ、良夜は自身の顔が写る写真を指さした。
「……ここの所……前の免許にはアルトが写ってたんだよ……俺とアルト本人にしか見えないけど」
 コツコツ……小さな音を立てて良夜は自分の顔しか写っていない肩口を叩く。そこには三日ほど前までは小さな妖精が愛らしい笑顔で座っていたのだが、今は影も形もない。
「あっ、なるほど……」
「どうして消えちゃったんですか?」
 同じ説明だが、二人の反応は正反対だった。直樹は大きく首を縦に振るが、美月は未だに不思議そうに首をかしげる。良夜は察しが悪いなと苦笑いを浮かべながら、立ったままの美月へと顔を動かした。
「新しい免許に変わったとき、アルトがいなかったから写ってないだけですって……解ります?」
「…………………………………………………………………………あっ! なるほど!」
 前後左右に視線をクルクル動かしながら、彼女はたっぷりと悩む。そして長すぎる沈黙ののちに、やっとこさ、ポンと手を叩いた。ようやく答えにたどり着いたのが嬉しいのか、彼女は嬉しそうな笑顔で何度もウンウンと首を縦に降り始めた。そして――
「どうして免許が新しくなったんですか?」
 と、尋ねた。
「……人の話、ちゃんと聞いてますか?」
 察しが悪いのか、人の話を聞いてないのか……多分その両方だと思われる美月のために、良夜は最初から話をした。
 良夜が自家用車の免許を取らねば、と思い立ったのは例の旅行の帰り道だった。原付の免許しか持っていない良夜、彼が美月と出かけると必然的美月が運転せざるを得ない。長距離だろうが、疲れていようが、良夜が免許を持ってない以上、代わってあげることは出来ない。去年はそれでも貴美が居たから美月の負担はそんなに大きくなかったのだが、今年はタカミーズがオートバイで来ていたせいでそれも不可能。
 結果、美月は疲れきった体で運転し続けるはめになった。しかも、居眠り運転までやる始末。
「まずいよな……いくら何でも」
 まずいのは美月に運転を任せっきりにしていることなのか? はたまた、自分を含めた誰かの安全なのか? その辺は難しいことなれど、ともかく早急に免許を取らなければならないということだけは確実。そういう訳で帰ってきてから良夜は自動車学校に通うことにした。資金はなけなしの貯蓄と学生ローン、アルバイトの時間延長だ。親に泣きついたら『夏休みにも帰ってこない不孝者に出す金はねえ!』と言われた。
「道理で……夏休みの終わりの方、ずいぶん早く帰るなぁ〜って思ってたんですよね」
「いや、俺、一応、美月さんにも言ってたと思いますけど……自動車学校に行くって」
 さて、問題は美月に言ったか言わなかったか……ではない。美月は聞いてたけど、忘れちゃってただけだ。問題はアルトの方。良夜はアルトにもちゃんと教えていたし、実際、最初の一日はついてきていた。ただ、最初の座学で速攻飽き、翌日からはいかないと言い出した。実習にも一度はついてきていたのだが、教官と二人きりの空間でアルトの相手などできるはずもなく、相手にされなければ面白いはずもない。こっちもわずか十五分で飽きたの連呼だった。
「だから、私が一人で行けって言ったのは、教習所の話! 誰が免許センターまで一人で行けって言ったのよ!!」
「原チャリの時だって、飽きた飽きたってうるさかっただろう!? お前!!」
 一通りの話が終わりに近づく頃、くすぶっていた怒りに再び火が付き、許容量少なめな堪忍袋が決壊。再び、アルトはギャンギャンと大声で怒鳴り散らし、良夜もその怒鳴り声に合わせて怒鳴り始める。静かなはずの喫茶アルトいつもの席周辺は、珍しく賑やかになっていた。
「うーん……それは良夜さんが悪いですよねぇ〜女心が解ってませんよ?」
 ニコッと美月は笑うと、少し荒れた指先で良夜の額をコツンと軽く弾く。まるでいたずらをした子供を叱る母か姉のような感じ。そして、やられた当人にも実際に姉がいる。その逆らい辛い口調にバツを悪くしながら、ぼそぼそと言葉を漏らした。
「いや……まあ、アルトには悪いことをしたなって気はするんですよ。こんなに楽しみにしてたとは思わなかったし……ただ……――」
「良夜が悪いのっ! 裏切り者! へたれ! 根性なし! 永遠の童貞!! 四十まで童貞で魔法使いにでも仙人にでもなっちゃえ!!!」
「てめえ! そこまで罵倒することか!!??」
 美月が味方についたことが嬉しいのか、アルトの罵倒はさらに加速の一辺倒。それが美月に諭され、落ち着きかけていた良夜の心に炎を灯す。そして再び……と言うか、何度目になるか解らない口論が勃発する。
「さっきからこれの繰り返しなんですよ……もう、大変で……」
 そのとばっちりを食い続けて来たのは、他でもない直樹だ。逃げ出すこともしないが、フォローすることもない。ただ、おびえるように隅っこで彼はコーヒーを飲んでいた。が、それもようやく現れた美月のおかげで一安心。落ち着いた様子でコーヒーを飲みながら、疲れた苦笑いだけを浮かべた。
 しかし、彼はのちに語る。三島美月という女性を舐めていた、と。
「もう、仕方ないですねぇ〜」
 そういって美月はポケットの中から一丁のハサミを取り出した。どうしてそれを持っているのかは謎だ。謎なのだが、それに直樹が疑問をはさむことも出来ず、良夜に至ってはアルトとの口喧嘩が忙しくて気づいても居ない。
 そして、彼女はにこやかな笑顔でヒョイとテーブルの上の免許証を取り上げる。
「切っちゃいましょう!」
「って、三島さん!? 良夜くん! 三島さんが!!!!」
 やけに能天気な声と悲鳴のような絶叫はほぼ同時。続いて椅子が倒れる音が響く。そこまでに至りようやく良夜の意識は美月と直樹の方へと向いた。その時には――
 直樹が美月にハサミを突きつけられながら、良夜の免許を庇っている所だった。
「さあ、直樹くん……おとなしくその免許証をこちらによこしてください。そんなものがあるから、アルトと良夜さんが喧嘩になるんです!」
「ダメです、ダメですから!!」
 ジリジリ……薄い胸元にハサミを抱え、美月は直樹へ迫る。迫られる直樹、彼の顔には恐怖の色、背後には壁とガラス。一歩見方を変えると、復縁を迫る女とその女から逃げようとしている男のようだ。
「って、み――」
「美月さん!」
 良夜の声を鋭い女の声が遮る。良夜が振り向けば、そこにはサボリっ放しの美月になり代わり、フロアを一人で回していた貴美が立っていた。
「なにしてんよ!? こんな所でっ!」
 問答無用で背後から彼女を取り押さえ、その手からハサミを奪い去る。流れるような手つき。奪い取ったハサミをポケットにねじ込み、貴美は美月の髪をギュッと握りしめた。
「仕事サボってっと……この髪、生え際で全部切っちゃうんよ?」
「だってぇ……良夜さんとアルトが喧嘩ばっかりするからですよ〜」
 グイグイ、後ろ髪を引かれ美月の顔は斜め上を向く。斜め上を向いたまま彼女は斜め後ろ、貴美の方に無理矢理視線を向ける。ちょっぴりと言わずに涙目なのがチャームポイントなのかもしれない。
「ああ? りょーやんとアルちゃんが? さっきからやけにこっちがうるさいかと思ったら……」
 チラリ、貴美の顔が良夜の方を向いた。やけに眼力≪めぢから≫が強く、営業モードどころか、もはや、客を見る目ではない。こめかみに血管が浮いてるというか、唇から牙が見えているというか……なんて女に怒られまくりな一日なのだろうか? と思うと、良夜はやけに悲しくなった。
「で……喧嘩の原因は? ………………――はぁ? 免許の写真にアルちゃんが写ってない?」
「ですからね、ですからね、私は良夜さんの免許証を切らなきゃいけないんですよ〜ですから、髪を引っ張るのは止めてくださいぃぃぃ」
 クイクイ……手短に話を聞く間も貴美の右手は美月の髪を握ったまま。なぜか時折その右手を下に動かしたりするものだから、その度に美月の大きな目からボロボロと涙がこぼれる。それを良夜が止めようとするとさらに睨みつけてくるものだから、それすら良夜には出来やしない。
「へたれで根性なしだから、止められないのよ」
 プイッと普段よりも冷たい口調でアルトは言う。しかし、かく言うアルトもとっくの昔に美月の頭から退避済み。あまり人のことは言えないと良夜は思った。
 そして、全ての話を聞き終えると貴美は深いため息を一つ落とした。
「しょーもな……りょーやんが小型でも中型でも単車の免許を取りゃ良いだけっしょ? 飛び込みで取ったら良いんよ。二研の連中もやってっし……って、訳で一件落着、ほら、仕事にもどんよ?」
「痛い痛い痛い痛いですぅぅぅぅ〜〜〜〜〜りょーーーーやさ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん」
 と、哀れを誘う声で美月が連行されても、良夜はやっぱり動くことは出来なかった。なぜなら、天啓に打たれたアルトがニタァ……とあまりにも邪悪過ぎる笑みを浮かべていたからだ。
「ほんと、なに下らない事で喧嘩をしたのかしらね? 良夜、仲直りしましょ?」
 にっこり優しい笑みを浮かべ、アルトは小さな右手を差し出した。そして、彼女は勝手に良夜の右手人差し指を右手でギュッと握りしめる。
 左手にストローを握って。
「……取らないからな……単車の免許なんて」
「別に良いわよ、タクシーの免許でも、ダンプの免許でも、レッカーの免許でも!」
 そして、彼女は右手で握った人差し指の先端にストローを押し付ける。爪と肉の間に。

 それから数週間というもの、良夜はアルトと顔を合わせる度に……
「免許、いつ取るの?」
 と、聞かれたものだが、良夜にオートバイの免許なんてものを取るつもりはなかった。
 もちろん、タクシーもダンプもレッカーもついでに二級船舶の免許も取るつもりはない。
   

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