一人暮らし―TAKE2―(完)
 貴美が出かけて四日目、お昼を少しすぎた当たりに彼女は最寄駅まで帰ってきた。案の定というべきだろう。彼女の両手と両肩と背中は手荷物でいっぱい。心臓破りの坂とも呼ばれる国道を徒歩で上がるのは非常に面倒くさい。故に彼女は携帯電話を取り出した。あごで使える荷物持ち……もとい、最愛の恋人と親愛なる友人を呼ぶために。  

 その時、良夜は直樹とともにアルトで少し遅めのお昼を食べていた。時間的に言えば『お昼』だが、順番で言えばそれは朝飯。起きたのが今からわずか十五分前だからだ。
 原因はいつものテーブルの上で愛らしい寝姿をさらしている妖精にあった。
 前日、遅い夕食をタカミーズの部屋で食べ終えた良夜は、すぐに帰って寝るつもりだった。いつも忙しいバイトは今日もやっぱり忙しかったし、夢見の悪くなるような本も呼んじゃったとあれば、さっさとふて寝するに限る。
 しかし、アルトがそれを許さなかった。
「もっと遊びたいわ。勝手に寝なさい。どうせいつも一人寝の童貞なんだから」
 山あり谷ありの荒れた部屋は彼女にとってかっこうの遊び場だった。ゴミの山を登ってみたり、そのゴミの山を発掘してみたり、発掘中の事故で生き埋めになる所までもが彼女の遊びだ。そんな遊びがまだ足りない、彼女はそうおっしゃった。
「あっ、良いですよ? 別に。一人で遊んでるくらいなら……僕は寝ちゃいますけど」
 アルトのわがままを良夜から伝えられると直樹は快く受け入れた。だったら、良夜はさっさと自室に帰っちゃえば良いのだが、それもいかない事情という物があった。
「……あそこで極薄ゴム製品に針で穴を開けようとしてるのも……良いのか?」
 良夜が指させば、凍り付いた直樹の首がゆっくりとそちらを向く。向いた先では、見えないはずの妖精と視線が交わる。そして、良夜の目には彼女が「ちっ」と舌を打って、“ゴム製品”を放り投げるのが見えた。
 戻ってくる直樹の視線。男にしてはもちろん、女を含めても大きいといえる瞳は涙で潤み、良夜にゆっくりと泣き言を言う。
「……連れて帰るか、監視しててください……」
 それを見捨てるだけの冷血を持ちえず、良夜は結局朝の五時までタカミーズの部屋で探検を繰り返すアルトの監視をしていた。しかも、その間、やることがないものだからチョコレートをつまみに貴美がどこかから貰ってきたワイルドターキーをちびちびやっていたもんだから、寝不足に軽く二日酔いまで交じっている。
「で……お前、単車、乗れるのか?」
「大丈夫……だと思いますよ? もう七−八時間は経ってると思いますし」
「最近、飲酒運転とかうるさいしなぁ……ふわぁ〜ねむ」
 大きなあくびをお互いに一つずつ、グラスに残った濃い目のブラックコーヒーを一気に煽る。クシャッとクラッシュアイスだけが崩れる音を立てて、二つのグラスがテーブルの上に置かれた。
「もう一杯かな……――美月さん!」
 衝立のようにキッチンと席を区切る壁から顔を出し、良夜は大きな声で美月を呼ぶ。数秒のラグの後に明るい声が帰ってくる。さらにそこから一分も経たぬ間に美月は手に大きなサーバーを持って姿を表した。
「お代わりですよね!?」
 ニコニコ、彼女はホカホカと淹れたてのコーヒーを抱え、大輪のひまわりを思わせる笑みで微笑んでいた。やたらに元気そうで無駄に機嫌が良さそうなのは、今日が余りにも暇だからだ。呼ばれると嬉しくてしかたがないらしい。
「まあ……アイスのブレンドを」
「あっ、それじゃ、僕も――」
 良夜が釣られた笑顔で注文をし、それに引き続いて直樹も注文を言う。その瞬間だった。彼の小柄な体がビクンと大きく震え、ポロシャツの胸元に手が伸びる。そこではワインレッドの携帯電話が薄手の生地越しにも震えているのが見て取れた。
「ああ……僕、キャンセルです……あっ、もしもし?」
 まずは美月に断りの一言、その後に胸ポケットから携帯を取り出し、彼は液晶も見ずに携帯を耳に押し付けた。一応店内での携帯電話は『自粛』と言う空気になってるのだが、目立たないこの席では他の客がいなければ、と言う条件突きで黙認されていた。この辺は常連客の特権だ。
「ふえぇ? 二杯分作ってきたのに……」
 キャンセルの言葉を聞いた途端、美月の顔は一瞬だけ目を見開き、直後にどんよりとした雲を背負ってうつむき込んでしまう。そして、立ってる人間がうつむけば、その視線の先には座っている人間がいる。
「………………………………………………………………」
「………………………………………………………………」
 交わる二つの視線。もちろん、片方は良夜の物であり、もう一方の視線にある種の期待がたっぷりと込められていることを感じられないほど、彼は鈍感でもない。直樹が貴美と電話をする声をBGMに二人は沈黙と期待を持って見つめ会う。ただ、心なしか美月の顔に笑顔が戻り始めているような気だけはした。
 最初に折れたのは良夜の方だった。こぼれかけたため息を解けた氷水と共に一気に飲み干す。コーヒー風味のタダの水、それを飲み干すとグラスの中は空っぽだ。それをテーブルに置き直して、彼は彼女の望みの答えを吐いた。
「……じゃぁ、サーバごとそこに置いて行ってくださいよ。後で適当に飲みますから」
「わぁ〜ありがとうございます〜無駄にしないで済みましたよ! あっ、氷取ってきますね」
 枯れかけた花がパッと咲き誇り、彼女はパタパタと駆け出していく。飲食店で店員が走るのはどうかと思うし、貴美は仕事終了後のミーティング(という名のお茶会)で注意しているそうだが、美月はそのキャラのおかげでクレームをいただいたことは一度もない。
 慌しくも嬉しそう走り去る後ろ姿を見送り、良夜はちゃぷちゃぷに成りかけているお腹を抑える。酔醒ましのつもりだったのだが、さすがに二杯も飲めば十分だ。しかし……まあ、あの笑顔と後ろ姿を見るんなら一杯や二杯、余分にコーヒーを飲んだ所でどうということはない。そんな気分にさせる。
「そして、地味にポイントを稼ぐつもりね? せこいったらありゃしないわ」
 ぼんやりと美月が消えた先を見つめる良夜、彼の心をソプラノの声が軽くノックする。
「うわっ!?」
 それは違うことなく不意打ちとなって、良夜の口から悲鳴を上げさせた。
「やましいから驚くのよ?」
 声の方へと振り向けば、目の前でホバリングする妖精さんがこんにちは。トクントクンと早目になった鼓動を手のひらで抑えながら、彼はそこから視線を切り飛ばす。
「うるせー、人の行動を悪意につなげようとするんじゃねえ」
 軽く悪口を言い返す。そして、そらした視線の先にはちょうど電話を切ろうとしている直樹がいた。
「今から迎えに来いって? アル検に引っかかってもしらねーぞ?」
 さすがにもう抜けてるだろうとは思うが、良夜は茶化した口調と底意地の悪そうな笑みでそう言った。途端に直樹の顔色が曇り、それが良夜の顔に浮かんだ笑みをさらに強くさせる。
「冗談だって。まあ、寝不足だから気をつ――」
「……僕だけじゃなくて、良夜くんも呼べって言ってましたけど……」
「なんで!?」
 笑いながらの言葉を遮られると、今度は良夜の方が目を見開く番だ。ガバッとテーブルの中央に顔を寄せ、斜め下からわずかに殺気がこもってしまった視線で直樹を見上げる。ガンをつけている訳ではないが、殺気立つ心を抑える努力もしてない。
「弱い相手には無敵超人ね?」
 サラッと告げられる悪口をサラッと聞き流し、良夜は直樹との会話を続けた。アルトがストローを振り上げているようだが、コソッと両手をテーブルの下に退避される事で対策の代わりとする。
 アルトの声はもちろん、良夜の視線からも顔を逸らす直樹に良夜とアルトの静かな戦いなど気づくはずもない。ただ、淡々とした口調で恋人からの言伝を良夜に伝えた。
「荷物が多すぎるそうです……どう考えても僕のZZRには乗らないそうで……」
「断れよな!? 俺だって、寝不足で頭、痛いんだ!」
「……来たら都内で買ってきたおいしいケーキを食わせる。来なかったらこの間貸したゲームのオチを全部喋ってやる、美月さんのいる所で」
 逸らしたままの視線で直樹はボソボソと言った。
「……悪魔か、あの女は……」
 アメとムチの扱いは女には絶対にかなわない…って言ってたのは、誰だったっけかなぁ〜と思いながら、良夜は高い天井とそこからぶら下がったペンダントライトへと視線を向ける。ペンダントライトの傘は普段よりもピカピカ。行き届いてるお掃除に美月の暇さ加減を知る。
「彼女に聞かれて困るようなゲームを女友達から借りるってのも、ただ者じゃないわよ。良夜」
「……話題作だったんだ……」
 耳元でアルトが言うとボソッと良夜は言い訳をつぶやく。貴美は漫画すら『濡れ場以外は読み飛ばす』と言う女だ。だからこそ、彼女が『おもしろい』と言ったゲームに間違いはない。よっぽど面白いゲームでなければ、途中で飽きてしまうからだ。だから、つい借りてしまう。そして、こういうときにその恩を盾にゆすられる。何と嫌な人生か?
「貴美にそんなものを借りる方が悪いのよ」
 と言う適切なツッコミはあえて無視する。
「では、この氷はどこに行ったら良いんでしょうか?」
「うわっ!? どっどっから聞いてたんですか!?」
 壁際からひょっこりと顔を出したのは、クラッシュアイスを抱えた美月だった。彼女は愛らしく小首を傾げながら、空になったグラスをトレイに置き、変わりに新しい氷のつまったグラスをテーブルに置いた。
「うーんっと……美月さんいる所で、辺りでしょうか? 私に聞かれて困ることって何ですか?」
「良夜がマニアックなロリゲームを貴美に借りて、それをネタに脅迫されてるの!」
 ロリじゃないし、めちゃくちゃにマニアックな訳でもねーよ! と言う反論は心の中だけのお話。嬉しそうに良夜を「ロリロリ」と罵倒しつづける妖精を横目に、良夜の唇は脳みそをスルーして言葉を紡ぎつづける。
「いやっ、大したことじゃないですから! ほんと! まっ、その、あの、ほら、何ていうか、やましいことじゃないけど、恥ずかしいというか、別に悪い事している訳じゃないっていうか、体裁が悪いっていうか……あれですよ。あれ、ってか、そういう訳なんで、コーヒー、キャンセル出来ませんか?」
 脳みそをスルーしている分、何を言ってるかは自分でもさっぱり理解不能。ただ、ペラペラと唇の条件反射を利用して言い訳だけを並べ立てていく。それはまるで浮気がバレた亭主のようだ。
「ある意味浮気よね……二次元相手の」
「うーん……さっぱり解りませんが……もしかして、良夜さんがピーがピーしてピーピーピーなゲームを吉田さんから借りてるって話ですか?」
「ええ、まあ、平たく言うとって……えぇぇぇぇ!!!!???」
 小首を傾げ、彼女が言った言葉は良夜を本の一瞬だけ安堵させる、なんだ知ってたんだ……と。しかしそれもほんの刹那だけ。思わず座っていた椅子を床に放り出し、彼の頭は彼の胴体によって五十センチほど高い一に一気に押し上げられた。
「夜のお掃除の時、全部、吉田さんが教えてくれてますよ? えっと……」
 そういうと彼女は再び小首を傾げ、視線を中空へとさまよわせる。立ち上がった良夜は無視されるような格好。その時間を良夜は死刑判決を待つ冤罪容疑者の気分で待ち続けた。
 ぽん! 美月の両手が彼女の薄い胸の前で叩き合わされる。
「あっ……男性には色々あるので、大丈夫ですよ! それくらいで怒ったりはしませんよ!」
「みっみっみっ美月さん!?」
「と、言ってあげると女としての株が上がるって吉田さんが言ってましたが……いろいろって何ですか?」
 キョトンとした表情で彼女は良夜の顔を見つめる。大きなクリクリとした目にまっすぐに見つめられると、良夜は何かムズムズと落ち着かない物を感じてしまう。それは、
「罪悪感ね……このドスケベ、変態、ロリコン、童貞!」
 ではないことにしよう。てか、何でこいつはさっきから平気で人の心を読んでいるのだろうか? もしかして、ここに来て妖精の特殊能力開花か?
「ううん、顔に書いてるわよ。読めないのは美月くらいね、きっと」
「あっ、あの! そろそろ行かないと……良夜くんにも来てほしいって吉田さんが言ってましたから。借りても良いですか?」
 自体の推移を見守っていた直樹が一際大きな音をさせて立ち上がる。すると美月は「はいはい」と笑顔で答え、二人に一枚ずつ伝票を渡した。その伝票、良夜の分には『ランチセットデザート付き1』の他にしっかりと――
『コーヒー追加2』
 の文字が踊っていた。
「……あの……美月さん?」
 伝票、満面の笑顔、そしてコーヒーで満たされたサーバを見比べる。しかし、彼女は笑顔で言い切った。
「テーブルに置いた物のキャンセルは効きませんよぉ? 知ってましたか?」
 はち切れんばかりの笑顔には飲みもしない二杯分のコーヒーの値札が張ってあった。

 それから三十分後。良夜はタカミーズの部屋にいた。両手にはそれぞれ大荷物、直樹がタンデムシートに貴美を乗せたため、荷物の大部分は良夜の方に乗せられた。お巡りさんに見つかるとヤバい状況だったが、まあ、見つからなかったのでよしとする。
「よくぞここまで汚したもんやね……で、アルトの鍋を三つも四つもこがして、アルちゃんに弁償を要求されてる……と」
 で、彼女は淡々とした口調でつぶやく。まるで自分自身に言い聞かせるように、まるで目の前にある腐海から目を背けるように。
「他には?」
 ぽつりと彼女はつぶやく。心なしか顔色が真っ青になっているような気がするのだが、良夜はそれをあえて無視することにした。
「えっと……あの……すぴー……ど……い……いは、ん……がぁ……」
 これまたポツリポツリ……視線も合わすことなく、直樹は答える。良夜は「何も言わなくてもいいだろうに」と思ったのだが、言って貴美からお金をもらわないと、お巡りさんから逮捕状をいただくしかないらしい。今月はタイヤを交換したので赤貧なんだと……バイクに金、かけすぎだ。この男。
「えっ!? またっ!!!」
 ぎゃんんっ! 貴美の首が凄まじい音を立てて横を向き、直樹の首も同じ速度でそっぽを向く。二人の視線が交わることなく、ものすごく居づらい空気だけが三人を取り囲んだ。
「すー……はぁー……りょーやん、悪いんだけど。これ、お土産。中にケーキ入ってから、美月さんとこ行って食べてて。全部食べてもいいから……――」
 そういって彼女は少し大きめのケーキの箱を良夜に手渡した。その顔は能面のように白く、そして無表情。ただ、事実を事実として伝えている感があった。
「二時間……帰ってきちゃいかんよ? 帰ってきたら、りょーやんの口を封じなきゃいけないかもしんないから……」
「よっ……吉田さん? 落ち着きましょ?」
「うん……今から、私、この男……ぶっ殺すかもしんないから……目撃者はいない方が良いんよ……」
 その顔は能面のように白く、そして無表情。ただ、事実を事実として伝えている感があった。少なくとも、貴美はそれを絶対の本気で言っていることだけを理解し、良夜は大きく頷いた。

 そして、その後、高見直樹という男を見た者は――
「……生きてますって……ギリギリの所で……」
「おっ、お前、直樹だったんだ? 顔、パンパンだから、別人かと思った」
 直樹の顔を詳しく描写する事は避けたいと良夜は思った。それは武士の情けという奴だろう。ただ、一言だけ言うならば、この日から一週間、直樹は『喫茶アルトのアン○ンマン』という素敵過ぎるあだ名を頂くハメになった。

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