一人暮らし―TAKE2―(4)
 二日目の夜。良夜はアルバイトが終わると一旦自室に帰り、直樹の部屋を訪れた。もちろん、美月からのお達しである『ご飯を作ってあげて』を実行するためだ。『何で俺が?』的な感情をかなり抱いたことは事実だが、笑顔でぶちきれている美月に対してそれを言うなんて、良夜に求めること自体が酷というものだ。ただ、救いがない訳ではない。美月は売れ残りのカレーと共に一つのお言葉を良夜に与えていた。
「良夜さんも食べて良いですよ?」
 この言葉だ。この言葉を裏付けるように手渡されたカレーは二人分としてもかなり多め。自宅でご飯を二人分炊いて、鍋に入ったカレーを温める。それだけの労力で一食浮くのならありがたい話。良夜は喫茶アルトに寄って拾ってきたアルトと共にタカミーズの部屋のドアをどんどんと叩いた。
「直樹、起きてっかぁ? 餌の時間だぞ」
 待つ事しばし……ガチャリとドアが開いて、中から小柄な青年が小さな顔をひょっこりと出す。
「あの……お世話になります」
「おう、美月さんからの差し入れ、持ってきたぞ?」と声を掛け、開いたドアから中へと入る。そこで彼を待ち受けていた物は――
 一面の腐海だった。
「予想通りだわ!」
 予想通りと言うよりも予想以上の風景に良夜は愕然。しかし、彼の頭の上から響いた声はものすごっく嬉しそうだった。
「ここで飯を食うのか……?」
 良夜はどうして彼女がこんなに嬉しそうなのか、それを理解することが出来なかった。
「予想以上のカオスさ! ああ、落ち着くわねぇ〜」
 ダメ人間か? こいつ……頭上でウキウキと体を揺らすアルトを見やり、良夜は彼女の本性を少し垣間見たような気がした。

「しかし、よくもまあ、鍋一つ探すのにこれだけ部屋を荒らせるものだな……」
 グツグツと沸き立つカレー鍋、食欲を誘う香りを胸いっぱいに良夜は吸い込む。それを木ベラで適当にかき混ぜながら、良夜は部屋の中へと視線を回らせた。床一面、足の踏み場がなく服が散乱しているし、その服の上には工具やバイクの部品らしき物体までオイル汚れもそのままに放っ散らかされていた。まるで台風一過か泥棒が入った後か……いや、台風にしたって泥棒にしたって物は持っていくだろう。しかし、真犯人は物を持っていく所か、ゴミを新たに増やしているっぽい。もっとも、何がゴミで何が必要なのかの判別すら出来かねるのだが。
「……すいません……」
「ねえねえ、良夜! これ見て!」
 小さな体をさらに小さくする直樹の向こう側、探検……そういって頭の上から旅立ったアルトがベッドの下から声をかける。そこへと視線を運べば巨大な――と言ってもアルト比で――布切れをベッドの下から引っ張り出してる妖精さんの姿があった。
「すごいわ……ベッドになりそう……でも、悔しくなんてないわよ? 寝心地の良さそうなベッドだと思ってるだけよ? 貴美なんてただのデブなんだから」
 言葉とは裏腹、そこにある種の嫉妬を感じざるを得ないお言葉。言い訳をいくつも並べ立てながら、彼女は大きなカップの中に潜り込む。そして、コロコロと寝返りを打つこと数回。よっぽどそこの寝心地が良いのだろうか? 彼女の紡ぐ言葉から嫉妬の色と言い訳が消えゆき、次第に「わぁ〜」と言う感嘆の声ばかりが聞こえ始める。
「……相変わらずでけえ……って、何引っ張り出してんだ!?」
 なぜかしばし絶句、そして、なぜか少し赤面。思いだしたかのように、彼は慌ててコンロのスイッチを切った。そして、視線を少しそこから外しながらアルトの元へと駆け寄った。
「どうかしました?」
「アルトのアホが、吉田さんの下着引っ張り出してんだよ!」
「えっ……ああ、もう、いいですよ? 今更騒いでも仕方ないですし……」
 慌ててブラジャーからアルトの体を引っぺがしつつも、できる限り“それ”を見ない様にする良夜。それに引き換え、直樹の方は至って平然。唯一安心して座れるポジション、ベッドの上から、色々なものを諦めてしまった表情で苦笑いを浮かべるだけ。特に驚きも慌てもしやしない。
「この辺が童貞と非童貞の違いね……意外と大人ね? 直樹。見直したわ」
 羽をつままれプラプラと体を揺らしつつもアルトは余裕の表情と口調。相変わらず懲りない女をつまんだまま、良夜は再びキッチンに立った。
「せめてさ……俺が来るんだから、吉田さんの下着くらいは片付けようって気にならなかったか?」
 流しの中も使ってるんだか、使ってないんだか解らない――おそらくはほとんど使ってないはずの――食器が山盛だ。そこから比較的綺麗なお皿を二つ取り上げ、良夜は自宅から持ってきたご飯をよそおう。
「えっ……まあ、余計な事はするなって言われてますから……」
「それは余計な事じゃねえって……下着だぞ? 下着」
「洗ってますし、中身、入ってませんよ?」
 不思議そうに尋ねる直樹に、言われてみれば……と思わなくもない。しかし、同時に数回は見たことのある『中身のつまった吉田さんのブラ』を良夜は思い出す。
「美月に言いつけるわよ?」
 赤くなった頬を炊事で冷えた手のひらで冷やしながら、良夜はアルトの言葉を無視する。ただし、後でちょっぴり話し合わなきゃな、との思いだけは心の隅っこにキープだ。
「……吉田さんに怒られないか?」
「すでに折檻は覚悟済みですから……――でも……」
 お皿によそったご飯にカレーを多めにかければご飯の準備はひとまず終了。ついでにバイト先のスーパーから貰ってきたコロッケとポテトサラダをたっぷり載せる。それをどこで食うべきかと良夜は悩むも、ベッドの上以外でまともに座れそうな所なんてない。
「諦めんなよ……って、でも、何だ?」
 不思議そうな声に良夜はお皿を手にしたまま首をひねった。
「いえ、良く話をしながらそれだけの事が出来るなぁ……と」
「出来ない方がおかしいのよ。一体どこのボンボンかしらね?」
「――と、アルトも言ってる。俺もそう思う」
 ベッドの上であぐらを組んでる直樹にお皿を渡し、おかずの乗ったお皿を良夜は取りにいく。それくらいは直樹にやらせても言いような気が一瞬だけした。が、床に転がる様々な障害物に足を取られてひっくり返る。そんな嫌な予想がまるで過去の事を思い出すように思い浮かべられたので言わないことにした。
 そして、二人はベッドの上で差し向かいになって食事を始める。
「お前ってよっぽど甘やかされてたんだよなぁ……」
 肉ばかりをよって食べるアルトとスプーンで戦いながら、良夜は改めて直樹の部屋を眺めた。わずか数日でここまで汚せ、そして、片付けが出来ない。それが良夜には不思議でならない。
「……埃で死ぬ人はいないかなぁ……って」
「あっ、解るわ。それ」
 良夜のスプーンから自身の顔よりも大きな肉をストローに突き刺し、アルトが顔を上げる。これをチャンスと良夜はスプーンでアルトのストローから肉を奪おうとする……も、それは失敗。一足先に彼女はカレーざらのそばから彼の頭の上へと退避した。
「ちっ……って、同意するなよ、アルト」
「手の届く所に何でもあるって便利よ? ほら、テレビとエアコンとステレオのリモコンがあんな所に」
 そういってアルトはピッと肉の刺さったストローを彼の頭の上で降る。降れば当然肉汁が飛び散り、彼の頭の上で強烈なカレー臭を放ち始める。
「振るな、肉を……それと直樹……」
 軽く文句を言いながら、アルトがほらと言った方へと顔を向ける。そこはベッドの枕元。三つのリモコンが枕の下から仲良く顔を出していた。
「何ですか?」
「リモコンを枕にするなよな……」
「……それ、探すのも大変だったんですよね……」
 遠い目をする直樹、彼の頭を軽く一発小突いて、良夜は枕の下からテレビのリモコンを取り出した。そしてピッとスイッチを入れる。ブラウン管タイプの古いテレビはブゥンと小さな音を立てて眠りから覚めた。そこに映し出されるのはいわゆる深夜アニメだ。取り立ててすごく大好きと言う番組でもないが、暇つぶしにはちょうど良いので暇な時には見ているアニメだった。
『――絶望した!』
 コミカルな学園アニメに直樹も視線を移すと、彼は一時食事の手を止めて尋ねた。
「あれ、これ、アニメになってたんですね」
「あら、腐女子の彼氏の割に知らないのね? …………? あれ、そう言えば……?」
「ああ、どうした?」
 頭の上から聞こえた声に、良夜も食事の手を止める。すると、彼女は肉付きストローを片手に、ズリズリと体を頭の上から引きずり下ろし、良夜の前髪にプラプラとぶら下がった。
「腐女子の好きなアニメって深夜アニメよりも夕方よねぇ……でも、貴美、その頃はバイトしてるし。ビデオ?」
 目の前でプラプラと揺れるアルトから視線を直樹へと動かす。そして、良夜は直樹にアルトの言葉を伝えた。すると、彼は「ああ」とほとんど空になった皿をベッドの上に置きながら答える。
「吉田さん、アニメなんてほとんど見ませんよ?」
 サラッと答えた言葉に、前髪にぶら下がっていたアルトの顔がキョトンとした物に変わった。自分でそれを確認することは出来ないが、きっと良夜自身も似たような表情になっているのだろうと良夜は思った。
「……何だ、それ? じゃぁ、何しにコミケに行ったんだ?」
 二人の疑問を良夜が代表して尋ねると、それに対すしても直樹はサラッとした口調で答えた。
「エッチな本を買いに」
「……はぁ?」
「ですから、一般流通には乗せられないような“すごい”本が欲しいそうです。“すごい”本なら元ネタは何でも良いそうで……最近はもはや原作に興味を抱けなくなったらしくて……」
「“すごい”本……って……」
「あっ、見ます? すごいですよ、いろんな意味で」
 アルトと良夜はここまでほぼ同意見だった。しかし、ここに来て二人の意志は初めて真逆の方向を向いた。
「見たく――」
「見るわ!」
「見たく……ねぇ……」
「良夜……? ここのお肉と一緒に貴方の目玉も並べてみましょうか?」
 冷たい声とともにアルトのストローが良夜のまぶたに触れる。不敵な笑み。冗談だとは思うがそこにコンマ一パーセントの真実を彼は感じずにはいられない。
「……アルトのアホが見たいって……」
 深々とため息をついて答えると、直樹は「はいはい」と軽い返事と共に席を立とうとする。アルトは「誰がアホよ!?」と軽く切れぎみだが怒りよりも好奇心が勝っているのか、トンと彼の鼻を一発だけ蹴り、再び、頭の上に戻った。
「えっと……どこだった――うわっ!」
 直樹がベッドの上に右手をつくと、ベッドのスプリングは大きくたわむ。たわめばベッドの一部に凹みが生じる。それは良夜が置いてあったポテトサラダのお皿の下にまで達した。すれば当然、お皿は斜めになって、斜めになれば重力が命じるままに床の上へと落下していく。
「って、直樹……本を探すだけで何で新しく部屋を汚せるんだ……?」
「……ポテトサラダ、私、まだ食べてないのよ? 全く……」
 ひっくり返るお皿、ぶちまけられるポテトサラダ、良夜はそれを見下ろし絶望的な気分に達する。何と言ってもひっくり返ったポテトサラダはアルトが引っ張り出したブラジャーにもしっかり落ちているのだから。
「……あれ、高いわよ? レースだもの」
「……俺は知らない」
「あはっ……あはははは……まあ、覚悟、決めてますから」
 そういって棒読みで直樹は笑った。その乾ききった笑顔に良夜とアルトは死相を感じずにはいられない。

 さて、そこから小一時間が過ぎた。
「……すごい、すごいわ……新しい世界を私は見たわ!」
「これ、割とまだマシな方ですよ?」
「……気持ち悪ぅ……良くこんなもん、読めるな……ってか、お前も割と平然としてんじゃねーって」
 吉田貴美秘蔵の逸品鑑賞会は滞りなく終わった。もちろん、貴美秘蔵の逸品たちはこれで終わりという訳でもないのだが、正直、良夜が限界だった。もう全編どエロ。詳しい描写は避けるが、一言で言うと――
「吉田さんって……変質者?」
 これに尽きる。現実世界でやってたら百パーセント手が後ろに回るか、腰に縄をつけられる。
「でも、その心配はないわ。だって、貴美、女だもの」
 確かに貴美の持っている本に女は――女に見える男なら多数居たが――一人もいなかった。すべてが男、全編に渡って男同士のくんずほぐれつ。男が読んでもおもしろくないっていうか、男が読むと単に気持ち悪い物でしかなかった……まあ、世の中にはこういうのが好きな男も多いそうだが、良夜にその趣味はなかった。
「そういう問題じゃねー! せめて片方、女だったら……」
「うわぁ……良夜、サイテー」
「片方女だと“生臭い”そうですよ。吉田さん的には」
 荒れ放題に荒れた部屋、ガラステーブルの上に座って直樹は二人に見せていた本をポンと荒れた床に投げ出した。
「その辺は良く解らねー理論だな……?」
「解りたくもありませんけどね」
 二人はそういうと声を出して笑いあう。
「帰ってきたら、貴美に新しいのを借りなきゃ……」
 アルトが一人そう決心していることも知らずに。

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