一人暮らし―TAKE2―(3)
「えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!???」
 貴美がコミケに出かけた翌日。喫茶アルトの一日はフロアチーフ(自称)の悲鳴から始まった。真っ青に澄み切った空、天井を突き抜けた悲鳴は高い空へと広がり、消えて行く。
 喫茶アルト、開店直後のフロアで彼女は両手に抱えた鍋とそれを持ってきた青年――高見直樹の顔を何度も見比べていた。繰り返すこと十回、見比べられていた直樹がいい加減飽きれば良いのにと思い始めたころ、パタパタとパンプスを鳴らして彼女はフロアから駆け出して行く。向かう先は事務所……に置かれたファックス付き電話機の前。ピッピッと登録してある番号を呼び出して、我が恋人の元にそれをつなげる。
「良夜さん!? ちょっと来てください! 私、すごい物を見ました!!」
 受話器を耳に力いっぱい押し付け、美月は甲高い声で何回も繰り返す、『すごい物があるから、ともかく来い』と。しかし、相手は夏休みで良い具合に生活リズムが狂った大学生、実の所、昨日、否今朝寝たのはすでに早朝とも呼ばれる時間帯だった。眠たいだろうに……と、その電話風景を事務室入り口で見ていた青年はわずかではあるが、確実に不憫だと思った。
 そして十五分後。寝癖頭もそのままに喫茶アルトへと良夜がやってきた。その時、三島美月は喜色満面で良夜の前に目的の物を差し出して、叫んだ。
「見てください! これっ! すごいじゃないですかっ!?」
 差し出されるのは一つの鍋、先ほどまで直樹が大事そうに抱えていた物だ。良夜はそれを美月から受け取ると、マジマジと中を覗き込む。覗き込んでは直樹の顔を見上げ、見上げては覗き込む。それを繰り返す内、寝ぼけ眼はゆっくりと覚醒し、覚醒状態を通り越し、更なる疲れを帯びた物へと変わっていく。そして、彼は心底疲れ切った表情でつぶやいた。
「……マジで火事を起こしかけたんだな、お前……」
 こげないはずのテフロン鍋、その内側には真っ黒く炭化した元ミートソースが五センチほどの層をなしてこびりついていた。もちろんやったのはそれを前日美月から借りた直樹だ。
「すごいですよ! 私、焦がせといわれてもこんなに綺麗に焦がすことなんて出来ませんから!! もう、感動しちゃいました!! 炭焼職人さんですよ! 直樹くんは!」
 その横ではなぜか美月はものすごく喜んでいた。それが直樹には不思議で仕方がなかった。
「……現実逃避してないで、鍋、弁償しなさいよ、直樹」
 その頭の上、珍しく直樹の頭を椅子にしていた妖精がそう言ったのだが、残念なことにその言葉が直樹に聞こえることはなかった。

 鍋の中に出来上がった炭のケーキをひとしきり良夜に見せつけた後、美月は直樹をキッチンに連れてきていた。もちろん、ミートソースの温め方とパスタの茹で方を教えるためだ。
「せめて、ミートソースを温めて、パスタを茹でるくらいは出来るようになりましょうよ?」
 美月は貴美に留守中の直樹の事を頼まれていた。それは特に食事に関してだ。料理なんてやらせられるはずがない。コンビニ弁当を食べさせると、食べたゴミを放置して腐らせるか、片付けしようとして余計に酷くなるかの二つに一つ。簡単な賄いでいいから、何か食べさせておいて。それが貴美のお願いだった。
 が、直樹は不幸にも前日のお昼を食べたのが三時過ぎだった。
 直樹用に作っておいた賄い料理を、『直樹はコンビニで何か食べるって』の言葉にヘソを曲げた美月が陽に上げちゃったからだ。引き返していることを知り、慌てて作り直そうとしても、目の前には万年欠食状態のラッフィググール二条陽がいる。彼の胃袋は演劇部の練習ですっからかん。その満たされぬ欲求を少しでも満たすため、優先的に料理を作っている内に時間はあっという間の三時。そこで飯を食べれば、バイトに出かける頃にはまだお腹なんて空いてるはずがない。でも、帰ってきたらきっと空いている。
「これ、何もしなくて温めるだけで食べられますからね」
 だから、彼女はそういって直樹にミートソースの入ったお鍋を手渡した。そしたら直樹は――
「かき混ぜることすらやらなかったのかよ!? お前はっ!?」
「なっ、何もしなくて良いって言ったから、何もしなかったんですよ!!」
 ミートソースが焦げ付いてくすぶり始めるまで、本当に何もやらなかった。いや、正確に言うと他の事をしていた。部屋にある一番大きな鍋を取り出し、水を入れて沸かす……たったこれだけの作業に彼は三十分かけた。掛けてる間に焦げちゃった。
 すべてのいきさつを語り終え、それが仕事だとでも言うのか、きっちりツッコミを入れる。それが終わると、良夜はため息を一つついた。そして、直樹の顔からわずか上に視線を動かす。一瞬だけ二人の間に沈黙の時が流れ、彼はゆっくりと直樹へと視線を下ろした。
「……アルトがどうしてそれに三十分もかけたんだ? って聞いてる。てか、俺も知りたい」
「……鍋、探してました」
 見つめる良夜から気恥ずかしそうに視線をはずし、直樹は少し上、誰もいない天井に向けて答える。一応は頭の上でもぞもぞと動く違和感に向けているつもり。彼女の存在を知った直後はこの違和感にも一々驚いていたのだが、それから半年もたった今ではすっかり馴染んでしまった。もっとも、
「ああ……頭のてっぺんだ。見える所にいない」
 と毎回、良夜に指摘されるのは致し方のないことだろうと思う。
 カラン……
 話も一区切りした所へ、フロアの方からドアベルの音と和明の客を出迎える声が小さく聞こえた。その音に美月はチラリと直樹を一瞥するも、パタパタと足音を立ててフロアへと向かう。長い後ろ髪を僅かに引かれている様子だったが、彼女はやっぱりお仕事優先。しかし、彼女は良夜に一つ釘を刺すことを忘れなかった。
「私が帰って来るまで、直樹くんに料理教えちゃダメですよ?」
「……俺だって料理は上手じゃないって……――全然うれしくないから、そこと比べるな」
 駆け去る背中に良夜は苦笑い。一旦言葉を切ると、やっぱり直樹の頭の上に視線を向け、今度は憮然とした表情を見せた。まあ……ここでアルトが何を言ったか? それを察することが出来ないほど、直樹は察しの悪い人間ではない。ぶん! と一度頭を強く降り、きっと悪口を言った妖精を頭の上から払いのけた。
 しかし……相手はそんなに甘い相手ではなかった。
 髪を掴まれる感触、それがホンの一瞬だけ走ると直後に激痛が脳天を貫く!
「いたっ!!」
「頭を振るな、埃が飛ぶ……だと」
 ズキズキと痛む頭を涙目で抑えるも、良夜は割と平然。取り立てて心配するような様子もなく、しゃがみ込んだ直樹を見下ろしていた。しょっちゅう突かれているせいできっと感覚が麻痺しているのだろう。自分が貴美に殴られても平気なのと同じ……と言う所まで考えが進んだとき、直樹の目に浮かぶ涙がホンの少し増えたような気がする。
「……で、鍋、シンクの下にあったろう?」
「どっどうして知ってるんですか!?」
 良夜がボソッと控えめに言った言葉が、直樹の頭から痛みも人生への悲哀もどこかへとすっ飛ばした。気がついた時には、直樹の体はとびあがり、良夜の体に……
「すがりつくなよ、男にすがりつかれてもうれしくないから」
「……一応、掴みかかってると理解して貰いたいんですが……」
 精一杯背伸びをして、視線はわずかに斜め上。客観的に見ればどう見てもすがりついているとしか思えないざまに、直樹はパッとそこから離れる。そして、わざとらしい咳払いをコホンと一つして見せ、改めて良夜に同じ質問を浴びせた。
「そりゃ、同じ間取りの部屋に住んでるから、解るって。後、鍋とかはシンクの下にある物だ……ほら、あった」
 言われてみればもっともなお話。そんなことにも気づかなかったのかと、直樹の頬が微妙に熱くなる。そんな様子を特に気にも止めず、良夜は大きく立派なシンクの下をパカンと開いて見せた。そこには大中小、様々なサイズの鍋やらフライパンやらが整然と片付け込まれていた。そこから鍋を一つ取り出すとそこにたっぷりの水を注ぎ込み、コンロの上に置く。パッちんとスイッチ一つで鍋の下ではガスの炎が轟々と音を立てて猛り始めた。
「とまあ、良く知らないキッチンでも一分だな……お前、どこを探してたんだ? ……――下着じゃねーって。あっ、アルトがクローゼットの中か? ってさ」 
 良夜の――正確には彼が伝えるアルトの言葉に、直樹の頬はますますその熱をましていく。直樹の視線は、自然と良夜の顔から冷たいコンクリートの土間へと動いて行った。そして、彼はボソボソッと蚊の鳴くような声で告白した。
「……えっと……シンクの下、以外……全部……あの……クローゼットの中も……」
 灰色の土間を見詰めつづけるしか彼にできることはなく、その頭の上でもぞもぞと動く“何か”や、その頭の上を通り過ぎていくため息に気づくこともなかった。そんな感じの沈黙が数秒……嫌過ぎる沈黙はやけに長く直樹には感じた。
「直樹……」
 不意に良夜が彼の名を呼んだ。
「なんですか?」
 顔が跳ね上がり、良夜の呆れ顔へと視線を向けた。良夜も直樹の顔を見詰め返し、少しだけ恰好をつけて言う。
「アルトが勝ち誇ってる。責任取れ」
「……どうやって?」
「……知るか……!」
「何を知らないんですかぁ?」
 悔しそうに良夜が吐き捨てた直後、それまではなかった声が聞こえた。少しのんびりとした丁寧語の言葉。確かめるまでもないが、振り向き見れば、そこにはやっぱりニコニコと笑っている美月の姿があった。その彼女の隣には赤毛を丁寧に結い上げた女性……ではなく、萌黄色のワンピースが異様に似合う男性、二条陽までもが居た。
「あれ? 今日、練習は?」
 そう良夜に尋ねられると、陽はいつもの見慣れたメモ帳を取り出し、その上にさらさらとペンを走らせる。
『今日は女子の衣装合わせ』
「あっ……ああ……」
 にっこりと微笑み、彼が差し出したのは走り書きの割には上手なメモ書きだ。それに良夜は納得した表情を見せる。が。微笑みを絶やさず、彼はメモ帳のページをめくった。やっぱり走り書きにしては上手な文字がそこには書き記されていた。
『こっそりまぎれこんだら 袋叩き』
「って、おい!」
『一番叩いてたの 綾音ちゃん ひどい』
「普通に犯罪じゃねーか……」
『でも 男子と一緒に衣装合わせすると みんなが緊張する』
「……まあ、それも解らなくはないけど……」
『いつも一人ぼっちの衣装合わせ さみしい』
「だからって女の所に潜り込むなよ……」
 めくられるメモ帳と返される言葉が漫才を織りなす。それを直樹が少しはなれた所から見ていると、そのあまりたくましくはない背中を誰かがポンと一つ叩いた。
「何と、陽さんがどんなに失敗したご飯も食べてくれるそうですよ? 知ってましたか?」
 振り向き見ればニコニコと愛らしい笑みをその小顔すべてに浮かび上げた美月が立っていた。ぱちくり……直樹が彼女の言葉の意味する所を把握するよりも早く、彼女は肩と背を両手で押して彼をシンクの前に立たせる。
「いいですか? 直樹くん。料理なんて誰にでも出来るように出来てるんですよ? 大体、食べられる物から食べられない物が作れるなんて、そっちの方がすごいです!」
 明るく楽しそうな声で彼女は言う。言いながら、まず彼女は、良夜が沸かしていたお湯に一束のパスタを放り込む。それを菜箸でチョイチョイとほぐすと、キッチンタイマーのスイッチをON。流れるような手つきで、昨夜のうちに完成直前まで仕込んでいたミートソースを大きな鍋から小さな鍋へと移す。それをコンロにかけてパッパッと何やら数種類の香辛料をふりかける。そして、パスタがゆで上がり、ミートソースが温まるまでの時間でお皿を用意……あれよあれよという間に調理台の上には美味しそうなミートソーススパゲッティが完成した。
 おー……と直樹と良夜が簡単の声を上げ、陽は「オー」と書いたメモ帳を顔の横に掲げる。それに美月はニコニコと手を振り答え、そして言った。
「ほら、こんなに簡単ですよ? 料理なんてバカにでも出来る物なんです! 私、バカですから!」
 それは出来る人の意見だよね……と、直樹は心中つぶやく。出来る人は自分が出来ることなら誰でも出来ると思うんだよなぁ……と直樹は思った。しかし、同時にこうとも思った。
「……三島さんなら殴らないだけマシですよね……」
 二人暮らしが決まった当初、貴美は直樹にも家事を教えようとした。その結果、直樹は頭の形が変わるんじゃないんだろうか? と思うくらい殴られ、殴られた挙句に彼女がやる気を失った。いくら何でもそんなことを美月はしないだろう。
「はい、どうぞ」
 直樹の心中を知ってか知らずか――多分知らずに美月は調理台をテーブル代わりに小さな丸椅子に座った陽に出来立てのパスタを与えていた。そのお隣には朝っぱらから呼び出され、なぜか未だにキッチンに居つづけている浅間良夜。トマトをたっぷりと使ったミートソースが彼の鼻腔をやさしくも遠慮なく攻め立てれば、彼がこう言うのも当然だ。
「……あっ、俺も腹減った……」
 良夜のつぶやきを美月は聞き逃しはしない。陽の早食いを見守っていた彼女は直樹へと振り向き、きっぱりと言い切った。
「では、ちょうどいいですね。良夜さんのは直樹くんに作ってもらいましょう!」
「えっ? えぇぇぇぇぇ!!」
 素っ頓狂な声で台詞を言ったのは、重大任務を言い付かった直樹ではない。
「そこまで嫌そうな顔、しないでください!!」
「……俺、炭は食えないから」
 心底嫌そうな顔をした良夜だった。
 ちなみに、直樹の頭を椅子代わりにしていた妖精さんは、この時、嫌味ったらしく胃薬を取りに向かったそうだ。
 
 そして、一時間が過ぎた。その時、三島美月は人目もはばからず、冷たい土間の上にひれ伏していた。
「どっ……どうしてですか?」
 彼女は静かにつぶやく。
 調理台の上には焦げた鍋が三つ、中身は美月が昨夜精魂込めて仕込んだミートソース……だった物。今はタダの炭、むしろただのというよりも立派な、とでも言った方が良いような出来栄え。
「えっ……えっと……にっ、人間には出来ることと出来ない事があるんじゃないんですか?」
 そういって慰めにならない慰めを言ったのは、料理をしていただけのはずなのになぜか顔ををすすで黒く汚した直樹。
彼がそういうと美月は倒れ込んでいた土間から立ち上がり、キッと大粒の涙が光る顔を彼へと向け、矢継ぎ早に言葉を紡いだ。
「お鍋かき混ぜるくらい、私は幼稚園のころからやってました! それが……うう、かき混ぜろといえば真ん中ばっかりかき混ぜるし、端っこもって言ったら端っこしかかき混ぜないし、全体って言ったら上の方しかかき混ぜないし、下からって言ったら真ん中だけで……最初に戻っちゃうんですか!? それにパスタはパスタで全部折っちゃうし!! おかしいです! 大学生なのに料理が出来ないっておかしいです!」
「……大学じゃ、料理は教わらないからなぁ」
『ナイスツッコミ』
 悲鳴というか、絶叫というか……根気良く教えていた美月もついにプッチン。プッチンして叫ぶ言葉に良夜がサラッとツッコミを入れると、その矛先と視線は男二人へと向ける。
「良夜さん! 吉田さんが帰って来るまで、直樹くんのご飯を作ってあげてください!!」
「って、えぇぇ!?」
「してください!」
 とっさに良夜が叫ぶ言葉を、美月はピシャリと一言だけで叩き伏せる。叩き伏せられれば、良夜もそれ以上の反論が出来ず、小さな声で「解りました……」とだけ返した。
「陽さんも陽さんです! どんなのでも食べるって言ったのに、全然食べてくれません!!」
『水抜き炭水化物 苦手』
 ブチ切れ美月を尻目に陽はヒョコッと新しいページを開いて見せた。そこに書いてある言葉に直樹は小首を傾げ、数瞬ののちにポンと手を叩いた。
「…………あっ、炭化物……ですね。うまい事言うなぁ……」
「直樹くぅん!?」
 人ごとのように言う直樹に、再び美月の涙目がギッと音を立てて睨みつける。その迫力に思わずたじろぐ。しかし、もはやここまでくると人ごとのように思うしか彼に術が残されていないのも事実だった。
「あっ……いや……あの、ごめんなさい……」
「うう……わぁぁぁぁん!! 吉田さんに言いつけてやりますぅぅぅぅぅぅ〜〜〜〜!!!」
 そういって彼女は脱兎のごとくにキッチンから逃げ出して行った。もちろん、全泣きで。
 取り残されるのは三人の男と焦げた鍋、それとべきべきに折れた乾燥パスタが数人分。外は真夏日だが、この空間だけは真冬だった。

「胃薬でも少しはお腹の足しになるわよ?」
 その真冬のキッチンの中、せっかく用意していた嫌味の種を潰された妖精さんは、そういって結局朝飯抜きの良夜に胃薬を差し出していた……そうだ。
 直樹には見えなかったけど。
     

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