一人暮らし―TAKE2―(2)
 唐突だが、河東彩音は紅茶を入れるのが上手だ。彼女が会長をやっていた英明学園生徒会は何故か歴代会長が役員に紅茶――それもハチミツとミルクをたっぷりと入れたキャンブリンクティを淹れるのが習わしになっていたからだ。その習わしを彼女の代で途絶えさせないため、彼女が生徒会長に就任した直後、元会長桑島瑠璃子直々に手ほどきされた。しかも二週間にも渡って。
 なおその二週間、彩音の机には大量の書類が乗っていたのだが、その辺は強制的に無視させられ、なおかつ、彩音はレクチャーが終わった後、半ばパニックになりながら仕事を仕上げるハメになった。
 そういうわけで、彩音の淹れる紅茶は下手な喫茶店のそれよりもおいしい。
 そして、喫茶アルト最大の売り物は店長和明が淹れるコーヒーである。この道数十年の和明が淹れるコーヒーは、飲まなきゃ来る意味半減とまで言われる一品。だから、コーヒーは誰もが飲むが、紅茶を注文する客は非常に少ない。だから、喫茶アルトはこと紅茶に関してだけ言うならば、立派に「下手な喫茶店」と言われて然るべき店だ。
 この二つの事実から、喫茶アルトではいつのころからか一つの不文律が生まれていた。すなわち――
 彩音が紅茶を飲みたくなったらセルフサービス。
 ひところはリーフの使用料も増えていたのだが、ここしばらくはめっきり減りぎみ、週末の紅茶ゼリーくらいでしか使われていない。そんなリーフを痛む前に使いきりたい美月としても、彩音が勝手に淹れて勝手に飲んでくれるのはありがたい。そんな事情もあって、一般には内緒だが、セルフ紅茶は実費だけの格安料金が設定されていた。
 で、それが本日ただいま――家族会議数時間後、清華にバレました。
 演劇部の練習終了後、パチンコ屋へと言ってしまった陽を待つため、彩音は喫茶アルトへとやってきた。そして『今日は紅茶』と言う気分だったので、いつものように和明に一言だけかけて、キッチンへと向かった。そこで清華が洗い物をしていることも知らずに。
 結果、ウェイトレス二人組はお姑さんに大目玉。営業終了後にグチグチとお説教を垂れられた挙句……
「吉田ちゃん。ちょうどいい機会だから、紅茶の煎れ方、教えてあげます。泊まり込みで」
 こうして、貴美は都内へと行く足だけではなく、現地での宿泊先までロハでゲットすることになった。貴重な睡眠時間と引換に。

 さて、翌日。直樹が玄関先で貴美を送り出したのは、朝未だ覚めやらなぬ早朝の事だった。ごく普通のスカートとトレーナーというラフな格好ではあるが、一応はお化粧もしている貴美に対し、直樹はエメラルドグリーン鮮やかなねまきのまま。右手はしきりに目を擦っていた。いくら休みの日は目覚めが早いとは言っても、さすがにこの時間帯はきつい。
「んじゃ、行ってくるかんね?」
「ふわぃ。荷物……良いんですかぁ……?」
 返事三割あくび七割に背伸び小さじ一杯分。夢うつつのままに言葉を返し、直樹はその顔を見上げていた。
「良いって。頭、寝てるっぽいし」
 その言葉に貴美は直樹の頭をポンポンと二回ほど叩いて、答えを返す。だったら、起こさなければ良いのに……と、直樹は朝日同様覚めきっていない頭で思う。
「ホント眠そうやね? 私が出かけたら好きなだけ寝とって良いよ。出来ればそのまま、帰るまで寝ててくれると助かるんだけど」
「バイト……今夜」
「解ってるって。今月、私の稼ぎ少ないから……頑張ってね?」
「ふわぃ」
 今度の返事はさっきよりも少しだけ返事分が多め。返事とあくびが半々くらい。直樹はそのまま右手をヒラヒラと左右にふる。心の片隅に「さっさと行っちゃえ」の気分を感じながら。
「それじゃ、帰ってくるのは週明けくらい。駅についたら電話するから。荷物とりにきて」
 荷物……と彼女のいでたちに意識を向ければ、右手には大きなボストンバッグ、左手には見覚えのないキャリーケース……右手のボストンバッグは良く目にしている。この間の海にも持っていった。しかし、左のキャリーケースには見覚えがない。
「ハワイにでも行くんですか?」
 直樹は大きなキャリーケースと貴美の顔を呆然と見比べて呟く。
「あると便利なんだって。荷物重たくなっからねぇ〜友達に借りちゃった」
 彼女がうれしそうにキャリーケースを叩くと、ポコンと言う音が聞こえた。中身の詰まっていない軽い音だ。と言うことは彼女はコミケでこれを満タンにして帰ってくるつもりなのだろうか? 全部、男の子同士のエロマンガで。貴美は自分と違って片付けを出来る女ではあるが、それでもあれだけの量が一度にやってくれば大変な事になるのは目に見えている。
「じゃぁ、いってくんね? あっ、ご飯は美月さんに頼んでるから、何か適当に食べさせてもらって。掃除と洗濯は帰ってからするから、ほったらかしで良いよ」
 などと考えているうちに頭もいい加減覚めてくる。そして、覚めれば覚めるだけ、数日後の部屋の様子がありありと思い浮かんでくる。すれば、安易に「行けば?」と勧めた自分が恨めしくなってきた。
「って、聞いてる? ともかく、余計な事は一切すんな!」
 軽く後悔している直樹の頭上で貴美の鋭い声が響く。少し上からの視線、睨みつけられると迫力があるのだが、幼いころから見続けている直樹にとっては今更どうというものでもなかった。
「ああ……はいはい。結局、全然信用してないんですね」
「……努力しようとする心意気は買うんだけどね……」
 直樹が投げやりに答えると、貴美も睨みつけていた格好を崩して、彼女はため息を一つついた。ポンと叩かれる直樹の頭。彼女は、じゃぁとだけ言い残して、彼に背を向ける。向けられた背に直樹も「気をつけて」とだけ言葉をかけ、同様に背を向けた。
 その瞬間。
「あっ、忘れ物」
 背後から聞こえた声に直樹の体は考えるよりも先に振り向く。そして――
 チュっ! わずかにしめった音と唇をふさぐやわらかな感触。一瞬の交錯がそこにあった。
 その一瞬の交錯が終われば、貴美は金に近い茶髪を振って後ろを向く。直樹がその表情に意識を向けるよりも早く。そして、半分ほど開いていたドアへと消えていった。ただ、
「ご馳走さん」
 こんな一言とポカーンとしている恋人だけを残して。
 そして直樹が我を取り戻した時には、すでにパジャマ姿では追いかけられない所にまで達していた。
「……――って! もう!!」
 何だか良く解らないけど、心の隅っこに残っていた“悔しさ”を追い出すため、彼は無人になった部屋でそう大声を上げた。
 それから数時間後、陽光まぶしい夏空の下を走っていた。もちろん、自分の足でではなく、愛車ZZR−400にまたがって、だ。顔は熱いし、目はしっかり覚めちゃったし、部屋にいると部屋を汚してしまいそうだし……と言うわけで、他にすることも見つけられなかった彼は、結局、貴美が用意していた朝食を胃袋に押し込むと、パジャマを皮ツナギに着替え、一人、車上の人となっていた。 
 熱を含んだ風が直樹と彼が駆る愛車を包み込む。自宅アパートを出発してから、いくつ目かの峠を制限速度をわずかに越えた速度で突っ切ると、目の前、遥に海が見え始める。その手前には緑なす山、その緑を国道は縦横に切り裂いていた。その道を見据え、直樹は手首をわずかにひねる。すると車体は高まる回転数と下り始めた道のおかげで、心地よく速度を増していく。
 目的地は特に決めない。気の向くままに走り、お腹が空いたら適当なコンビニにでも飛び込み、疲れたら道端で適当に休み、バイトの時間が近づいたら回れ右して引き返す。計画性なんて遠いお山の向こう側に投げ捨て、気ままにバイクを走らせる。
 何よりも気持ちいい一時だ。
 学生にとっては楽しい夏休みも一般人にとってはタダのウィークデー。山中のワインディングロードは時折走るトラックや営業車以外、交通量は極端に少ない。直樹の貸切だ。誰はばかることもなく大胆なラインをとる事が出来た。長い下り坂をブレーキとアクセルを巧みに使って、一気に駆け下りる。下り切るころには速度は制限を大きく上回っていた。
 長い坂道を下り終えると、直樹は視線をセンターラインの遠い所から手前の路側帯側へと動かした。そして、数分……しばらくの走ると、彼はクイっとブレーキレバーを握りしめる。
 ききっ!
 タイヤに軽く音を立てさせ、バイクは止まった。止まった斜め前にはコカコーラの自販機。
 暑くなり始めた風と股の下でうなりつづけていたエンジンのおかげで、ヘルメットとつなぎの下は汗だらけ。喉が欲するままに自販機の前に立ち、直樹はポケットの中に手を入れた。取り出すのは小銭入れと携帯電話。百円玉を自販機へと放り込むついでに、彼は携帯電話をパカッと開く。取り立ててドライブモードなんかを使っているわけでもないだが、運転中はバイクの振動と騒音、それにヘルメットのおかげでいくら鳴っても気がつかない。止まったついでに携帯を確かめるのは癖、もしくは習慣に近い。
「あれ……鳴ってる?」
 見れば着信ありの表示、履歴には浅間良夜の文字が浮かぶ。特に用事も約束もないはずだが……と直樹は首をひねりながら、通話のボタンを押した。
 待つ事十数秒……切っちゃおうかな? の気分が浮かび始める頃。
『もしもし、直樹か?』
スピーカーの向こう側から聞き慣れたお隣さんの声が聞こえた。
「ええ、電話もらってたみたいで……何かありました?」
 聞こえる声は取り立てて慌てたような様子もない。直樹は心の隅に安堵感が沸くことを自認しながら、自販機に小銭を何枚か放り込む。押すボタンはコーラ、携帯電話を肩と頬の間に挟みながら、彼は取り出し口に落ちた燗を拾い上げた。
『大したことじゃないんだけどさ。お前、昼飯どうするんだ?』
「えっ? ああ、その辺のコンビニでも……と思ってますけど?」
 そのコンビニがないから困って居るのだが、その辺は言わずに直樹は背中を自販機の側面に預ける。そして、右手で携帯電話を握り直すと、左手一本で器用に缶ジュースのプルトップを開けた。
『ああ……そうか? ちょっと待てよ』
 良夜がそういうと携帯電話の向こう側から保留音が流れ始める。曲名は知らないが落ち着いた曲と小鳥のさえずり……何とものんきな音を耳にしながら、直樹は開けたプルトップからジュースを喉に流し込んだ。炭酸の泡が乾いた喉で弾ける。それを心地よく感じながら、直樹は帰ってくるまでのひと時を待った。
 プッ。
 ちょうど缶ジュースのすべてを喉に流し込んだ直後だった。回路の切り替わる音とともに保留音が消える。
『美月さんがすねてる』
「はい?」
 端的に言われる言葉に、直樹は間の抜けた声を返した。
『賄いの昼飯、お前の分も作ってたそうだ……』
 聞けば貴美に直樹の食事を頼まれていた美月は、早速今日のお昼ご飯も用意をしていたらしい。なのに、直樹は一人でどっかに遊びに行っちゃった。だから……
『すねてる』
 ああ……と直樹は晴れ上がった空へと視線を向けた。一声かけておくべきだったか……と後悔しても時すでに遅し。
「あの……良夜くん、食べてくれて良いですよ?』
『俺、さっき、朝昼兼用で食ったばっかだよ……それと“コンビニ”ってのが美月さんの逆鱗をかすめてる。おいしくないとか体に悪いとか言ってるけど、要するに、うちのご飯よりもコンビニ弁当がいいのか? って怒り』
「だったら、ファミレスとか言っておいてくれれば良いのに……」
『俺だって美月さんがこの程度ですねる………………――ああ、美月さんだしな。良く考えればその可能性を見抜けたかもしれない』
 だったら見抜いてよ……と直樹の方がすねそうになっても後の祭り。空っぽになった缶をペコペコと指先で潰しながら、彼は大きなため息をついた。
「食べに帰りましょうか?」
『まあ……無理はしなくても良いんじゃねーか? すねてるって言っても少し膨れてる程度だし。二時間もしたら忘れるって。それに――わっ!?』
 きーんと耳に来る悲鳴。とっさに携帯を耳元から離し、直樹は顔をしかめる。ガタガタに歪んだ缶が手からこぼれ落ちると、乾いたアスファルトの上でカランカランと二回ほど跳ねて転がった。
「何かあったんですか?」
『いっ……いや、二条さんが……』
「二条さん?」
 まだ落ち着かないのか、良夜の声はうわずりっぱなし。その言葉を直樹はオウム返ししながら、苦笑いを浮かべた。
 どうやら演劇部の二条陽と彩音のカップルがアルトに遊びにきて、良夜にちょっかいを出したらしい。何をしたのかは直樹には解らないが、ろくでもないことなのは間違いないだろう。
『ご飯なら美月さんに言ってください……――って、俺、アルトのバイトじゃないって』
 電話の向こう、遠くから良夜一人の話し声が聞こえる。直樹はそれを耳にしながら、落っことした空き缶を拾ってゴミ箱へと放り込んだ。
『ご飯でもパンでも食べてくださいって――ああ、悪い。二条さんと話してた。それじゃぁ、美月さんへのフォローは俺がしておくから。気をつけて、な』
「あっ、いえ。帰りますよ。今から」
『遅くならないか?』
「まあ、お昼には少し遅くなりそうですけど……僕もコンビニ弁当よりかはアルトのまかないの方がいいですよ。タダだし」
『そこ、重要だな。OK。じゃぁ、美月さんにはそう伝えておく。どのくらいで帰ってこれるんだ?』
「二時間……はかからないと思います」
 それから二言三言言葉を交わすと、直樹と良夜は通話を切り上げた。待ち受けに戻った電話をつなぎのポケットにねじ込み、直樹は再び、愛車ZZR−400にまたがる。冷えたエンジンをセルモーター一発で叩き起こして、空吹かしを一発。気持ちよく吹き上がるエンジンと共に直樹の心も吹き上がる。
 そして――
『そこのKawaseki! 路肩に止めろ!!』
 白バイのお兄様にナンパされたのは、それから三十分後のことだった。

 で、傷心の直樹が喫茶アルトに帰ってきたとき……
『ごちそうさま おいしかった おかわり Please』
「……電話、出ろよな? お前……」
 直樹用のまかないは全て二条陽の無限を誇る胃袋に消えていた。

前の話   書庫   次の話

ランキングバナーです
ランキングバナー
面白いと思ったら押してください