海だ!(8)
「居たんですか?」
「はい……ずっと」
 舞台中央では大正ロマンスな女学生が背後から書生風の青年にしがみつき、客席からはクスクスと笑い声が上がる。その様子を演劇部裏方部隊部隊長河東彩音は舞台袖から見守っていた。すっぴんでジャージ姿の彩音はメモ帳と舞台上を何度も見比べ、頭の中で自分の仕事を確認する。
「……次の衣装は準備できてますね……」
 小道具や着替えの衣装などがうずたかく積み上げられた舞台裏へと視線を走らせ、彩音はその準備が終わっている事も確認、すぐにでも役者に衣装を渡す事は出来そうだ。それを確かめると、彼女はホッと一息をついた。数分程度ではあるが、演劇部部員達が演じる舞台を鑑賞出来る。
 その時。
 ふと、舞台中央からちょい上手、彩音の待機する下手袖の反対側、上部へと彩音の視線が向いた。丁度、彩音とその仲間がセットした大きな書棚の上……照明がぶら下がるバトンと呼ばれる鉄パイプが数本走っている辺り。そこに――
「子供?」
 彩音の唇が我関せぬうちに少しだけ動き、言葉を紡いだ。
 そう、舞台の天井を走るバーの上に、子供が座っていた。年の頃は小学生くらいだろうか? おかっぱ頭の女子児童が、ちょこんとバーの上に腰を下ろしプラプラと足を前後に振るのが見える。
 そこは観客席からは上がった緞帳のお陰で死角になるし、舞台上で演じている役者達は真上を見あげない限り見えやしない。気付いているのは舞台袖から何気なく見あげた彩音だけ。
「どうして……?」
 思いがけないところで思いがけない物を見ると思考が止まる……彩音はそれをこの時初めて理解した。ただ呆然と魂が抜けたかのように少女を見つめ、見つめられる少女も彩音には気付かないようで足をプラプラと振り続ける。
 現実の時間にすれば数秒、長くても十秒、そんなところ。
 その数秒から十秒を彩音は少女を見つめ続ける事だけに費やした。
 そして、刹那。
 少女の首がギュンッ! と音を立てて――聞こえたのだ、本当に!――彩音の方へと向く。
 能面のような均質な肌、その真ん中に穿たれるのは、まるでビー玉としか言いようのない目玉。そこから伸びる視線が彩音を射貫き、彼女ははそのビー玉のような眼≪まなこ≫から視線をそらせない。視線をそらせぬ彩音と見つめる少女。少女の閉じられていた唇がゆっくりと開いてゆく。唇の中程が離れ、それは口角へと向かってまっすぐに開いていく……耳元まで、三日月のように……
 それは最初の数秒の半分ほどでしかなかったのに、彩音にとっては一時間以上にも感じた。どうせなら早く開ききってしまえ、でも開ききったらどうなる?
 背中を駆け抜ける悪寒が彩音の唇に達し、彼女の唇を小さく動かす。
「イヤ……イヤ……」
 そこからあふれるのはこんな意味のない呟きだけ。彼女はフルフルと頭を小刻みに震わせられども視線を離す事は出来ない。出来ない間にも少女の唇がついに開ききる。まるで切り裂かれた能面のように。
 そして――
 少女は舞台へとまっすぐに落ちた、不気味な微笑みをたたえたまま。

「いっやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
 彩音のお話が終わると、一番に悲鳴を上げたのは極度の恐がり女、吉田貴美だった。タンクトップにショートパンツという非常に男性諸氏には嬉しいお姿の彼女は、椅子に座った直樹を背後から力一杯抱きしめ……もとい、ヘッドロックで締め付けては絹を裂くような悲鳴を上げ続けていた。
「あれ……吉田さん、お風呂は?」
 その彼女を美月は小首をかしげながら不思議そうに見あげた。ちなみにその間も直樹の小さめの頭は貴美の大きめの胸に包まれ、そこからは辛そうな呼吸音とモガモガという抗議の言葉しか聞こえていないのだが、この辺りはいつもの過激なスキンシップなのでスルーするのが喫茶アルト周辺でのルールだ。
「一体何時間入ってりゃ良いんよ!? たっぷり一時間も浸かって出てきたところ! 私がちょっと居ない間になんて話をしてんよ!!!」
 ようやく直樹の頭から手を離すと、貴美はバン! とテーブルを叩きその怒りを露わにする。瞬間、直樹が恨みがましくも情けない涙目で貴美を見あげているのだが、そちらの方は全く意に介していない様子。彼女はひたすらにテーブルを叩きながら、如何に皆が非道な事をしたかを力説し続けた。
 とは言っても……
『夏は怪談』
「ですよ〜〜でも、彩音さんのは今ひとつでしたね」
 陽のメモ帳が踊り、美月はニコニコと悪意を全く感じさせない笑みで言い切れば、貴美の立場には劣勢の二文字しか書かれる事はない。ブスッと彼女は頬を膨らませると、暴れている内に乱れた髪を手櫛で整え直し、直樹の隣に腰を下ろした。未だ貴美のご機嫌はどこまでも斜めだったが、美月が『アイスコーヒーを……』と言って席を立つと、少しは落ち着いた様子。
「ともかく、怪談はもうおしまい! カードでもする? 今日こそ、ひなちゃんから金をふんだくらないと!」
 少々白々しい笑顔とはしゃぎ様を見せると、貴美は片付け込んであったトランプのケースを取り出した。彼女は昨夜陽からポーカーでたっぷりと小銭を奪い去られている。それを取りもどさない事にはアパートには帰れない……と言うのが彼女の言い分。
 だ、が。
「また? 勘弁してくれよ……」
「そっ、そうですよ? 賭け事は良くないかなぁ……って思うんですけど……」
 貴美が慣れた手つきでシャッフルを始めると、良夜と直樹は揃って仲良く天を見あげた。天窓から見える夜空がとっても綺麗。負けが込んでる身にはあれが金貨で、振ってくればいいのにと思わざるを得ない。
 ギャンブラーを自称する陽はもちろん強いし、陽に鍛えられている彩音も侮れない。その二人に向こうを張る程度に貴美も強いし、何より、美月のくじ運が信じられないほどに良い。良夜はアルトを使ったカンニングも考えたのだが、彼女は掛け金を遙かに上回る報酬を要求してくるのだから、使い物にならない。やれば負けるギャンブルなんて面白いわけがない。
「だまり! 二人とも凹んでんっしょ? 負けて引っ込むなんて男らしくないよ?」
 ピッピッピッと貴美の指先がカードを飛ばし、良夜達の前に数枚の手札を作る。開いてみれば……まあ、彩りのないカード。どう考えてもワンペアで御の字、ツーペアだのスリーカードまで育てば万歳三唱。
 のっけから下りようかどうしようか悩んでいた良夜の鼓膜を、彩音のふとした言葉が揺らした。
「あの……吉田さんは恐がりなのでしょうか?」
 ぴーん!! 彩音の不用意な一言に場の空気は一気に凍り付いた。
 貴美の掌からエース二枚を含む手札がこぼれ落ち、ついでに彼女の顎と額から冷や汗が一筋落ちる。思いも寄らぬ所からの不意打ちだったのだろうか? 全てのカードが表を向いている事にも気付かず、貴美は呆然と彩音の顔を見つめ続けるだけで、二の句どころか一の句すら出てこない。
『こわがりにこわがりと言うのはカワイソ』
「もっ、申し訳ありません!! 吉田さんが恐がりとは存じませんでしたから!!!」
 陽がスチャッとメモ帳を掲げると、彩音は弾かれたように立ち上がり誠心誠意、本心から頭をぺこぺこと下げる。この辺りは凄く良い子なのだろうとは思うが、この場合、頭を下げられれば下げられただけ向かっ腹が立つだろうに……と、良夜はおのがカードと貴美の開きっぱなしのカードを見比べながら思う。
「りょーやん!」
 下りよう、そう決めた瞬間、良夜の耳を貴美の怒声が貫く。彼女は椅子をひっくり返して立ち上がると、ツカツカとテーブルを半周して良夜の元へと歩み寄った。
「ちょっとこっち来≪き≫っ!!!」
「えっ……おい?」
 むんずと良夜の右手が貴美の柔らかい手に包み込まれると、彼女は力任せに良夜を座席から引っこ抜く。そして、まるで地引き網でも引くかのように彼を女部屋へと引っ張り込んだ。
「浮気ねっ!? 修羅場なのかしら!? アホを取り合う美女二人……エッチなゲームみたいなシチュエーション!」
 ……なんでお前が付いてくる? と思うが、頭の上でアホ踊りを繰り広げる妖精はひとまず無視。良夜は未だに彼の右手を強く握りしめる貴美へと視線を移した。
「なっ……なんだよ?! いきなり……」
「アルちゃん居る?! アルちゃん!!」
「……はぁ? ああ……良い具合に頭の上に乗ってるけど?」
 肩につかみかかる貴美の勢いに、良夜は咄嗟に答えた。その言葉を聞くと、貴美は目と唇を三日月型に開き、にんまりと邪悪な微笑みを浮かべた。

 さて、それから五分。良夜と貴美とアルトは三人切りで打ち合わせを終わらせ、良夜はダイニングへと帰ってきた。そこではすでに何故か七並べが始まっていて、勝負はのっけから美月以外全員が一パスになっていた。
「えへへ、良夜さん、吉田さん、もうちょっと待って下さいね。すぐにケリを付けますから!」
 喜色満面の美月からいきなり土俵際へと追いやられ顔色をなくす三人へと良夜は視線を向ける。どうやら美月の手札に八と六が勢揃いしている様子。美月はいつもこうだ。運が物をいう勝負事では彼女は圧倒的な強さを見せる。もっとも、素直な人間なのでババ抜きやポーカーと言った表情を読み合う勝負事は圧倒的に弱いのだが……特にババ抜きなど、一度でもババが美月の所にやってくると旅立つ事は二度とない。
「あの……三島さん、ハートの六だけでも出していただけないでしょうか? 二パスです……」
『スペードの8 2パス』
「僕は……どれを出されても駄目かも……二パス」
 順調にパスを重ねていく三人。それでも美月が出すのは――
「んっとですね……クローバーの六ですよ? 五も私が持ってたりするんですよ? 知ってましたか?」
 ピシッと美月の荒れた指先がカードを一枚置くと、残り全員が一斉にカードをテーブルの上に投げ出し、勝負終了。
「「「悪魔ぁぁぁぁぁぁ」」」
 彼ら(陽含む)は頭を抱えて絶叫した。
「えへへ、七並べで負けた事ないんですよねぇ〜」
 散らばったカードを束ね、不器用なシャッフルをおこないながら美月は誇らしげに薄い胸を反らした。その表情に釣られるように笑みを浮かべ、良夜と貴美はそれぞれが座っていた席に腰を下ろした。
『何の話?』
「ん? サマよ、サマ、イカサマの相談。気をつけなきゃ、今夜の私ら、強いよ?」
 不思議そうにメモ帳を掲げる陽に、貴美は軽い口調で声を返した。そして、美月からカードを受け取り、貴美は慣れた手つきで再びシャッフルを始める。配る手つきも慣れた物、昨日ずいぶんと練習してたせいで手つきだけを見れば美人ディーラーと呼べなくもない。
『イカサマは5倍返し カクゴOK?』
「ばれなきゃテクニックなんよ? ポーカーで良いよね?」
 陽のメモ帳に対し、貴美は平然と受け答えをしながら、さっさとカードを二枚だけ切った。この辺りは流石寝ながらも働ける無敵の営業人格、眉毛一本不振な動きを見せる事はない。
「んっと……同じ絵が二枚……同じマークが三枚……うーん、難しいですねぇ……」
 ブツブツ……カードを見ながらそのカード内容を呟いている事を気付かない美月。昨日はこれを誰もがブラフだと思いこんでいたのだが、実は全て事実だった。
「あっ……わたくしは下りで……」
 その美月の言葉をさり気なく聞きつつ、非常に消極的な戦略で被害総額を最小限にとどめようとするのが彩音。彼女の戦い方は非常にクレバーだ。勝てそうになければさっさと下り、勝てそうな時だけは大きく張ってアンティ(参加料)だけをコソコソと稼ぐ。
「吉田さん……何くだらない事考えてるんですか? あっ、チェンジ二枚」
 そして、直樹は惜しむことなくハートとクローバーの二のワンペアーを交換。意外と彼は強気一辺倒。強気に攻めて見事玉砕、その気はないのだろうが、それが直樹の生きる道になっていた。
 かくもポーカーというゲームは人間性が出てきて非常に面白い……のだが。
『浅間くんは?』
「えっ? ああ……じゃぁ……」
 不意に陽のメモ帳を見せられ、良夜は慌てた仕草でスペードのクイーンを一枚だけ場に捨てる。その切り札に大きな戦略も意味もない。なぜなら……
 ちらり……良夜は視線を美月の背後にある大きな窓ガラスへと向けた。その外側には芝生が植えられた裏庭とその向こうに岩場の海岸線があるだけ。小さな街灯一つとしてなく、窓から漏れる明かりだけが薄暗く芝生を照らし出していた。そこを小さな影が金色の帯を引き、うろちょろと飛び回っているのが見えた。アルトだ。彼女は良夜が渡したキーホルダーのペンライトを持って裏庭へと飛んで行っている真っ最中。こんな事を打ち合わせているのだから、勝負に気合いが入るはずがない。
「あるちゃんにひなちゃんとあやちゃんを脅させる!」
 これが貴美の企み。イカサマなんて話は全てブラフに過ぎない。
 良夜は打ち合わせ通り、アルトを窓の外に確認するとつま先で貴美の素足を軽く踏みつける。貴美はそれに良夜の足を踏み返す事だけで応じた。触れた素足は滑らかで良夜の鼓動が僅かばかり跳ね上がったのは、気のせいという事にしておく事にした。
「ねえ、ひなちゃん、悪いけど窓開けてくれない? エアコン切って。そろそろ潮風も涼しくなるしさ」
 テーブル下での活動をおくびも出さずに貴美は平然と落ち着いた口調で言葉を紡ぐ。
『イカサマ?』
 貴美がカードを閉じながら言うと、陽はメモ帳を開いて小首をかしげる。しかし、貴美が「しないしない」と顔の前で大袈裟に手を振ると、陽は『見ててね』のメモ帳を開いたまま、席を立った。
 そして陽は言われるままに窓際へと足を運ぶ……直後!
「うわっ!?」
 上げられるのは野太い悪魔声の悲鳴だった。その声に貴美は良夜だけに顔を向けるとプッと小さく噴き出して見せる。
「何々? どーしたん? ひなちゃん?」
 プッと吹き出した次の瞬間、貴美の声は取り繕われ、一片の不自然さも見いだせない物とへと早変わり。彼女はカードをポンとテーブルの上に投げ出すと、陽の元へと駆け寄る。
「ひっ……火の玉!」
 駆け寄る貴美に陽がギリギリと音を立てて蒼白の顔を向けた。その表情はそろそろ半年以上になる陽との付き合いの中で、ただの一度も見た事のない種類の物。美人と言っても良い女顔が蒼白に歪むのは、ネタを知るものにはちょっぴり罪悪感を感じさせてくれた。
「えっ?! 嘘!? わっ、わたくしが幽霊の話をしたからですか!?」
「本物の幽霊!! 私も見たいです!!」
「車じゃないんですか?」
 陽の悲鳴に他の三人も立ち上がり、貴美に習うように陽の元へと駆け寄っていく。その様を見ながら良夜は独り言を呟いた。
「はぁ……しょーもな……」
 一人だけ取り残されたテーブルから、窓際に張り付いて外を眺める五人の後ろ姿を良夜は、頭をバリバリと無造作に掻きながら見つめた。
 陽の言う「火の玉」とはアルト――
「はぁい、良夜。ごめん、ペンライト、落としちゃった」
 ちょこん。掻いていた頭の上にアルトが着陸。彼女はチョイチョイと良夜の髪の毛を引っ張りながら、良夜の髪の毛で座り心地の良い座布団を作り始めていた。
「ある……と?」
「なに?」
 頭上から良夜の顔を覗き込む金髪を見つめ、良夜は『落ち着こう、落ち着け良夜』と自身に向かって何度も言い聞かせる。
「どうしたの? どうせ安物のキーホルダーでしょ?」
 窓際では四人が火の玉火の玉と言って大騒ぎ。頭の上ではアルトがペンライトをなくした癖に大いばり。いくら落ち着こうとしても、良夜の背中に冷たい何かがダラダラと流れ続ける。
 その良夜の態度と窓ガラスに張り付く五人の後ろ姿に何かを感じたのか、アルトもコクンと小さくつばを飲み込んだ。
「……俺、寝るけど……今夜は一緒に寝ないか?」
「そっ……そうね……今夜だけは一緒に寝ようかしら?」
 その夜、気持ちよく熟睡できたのは吉田貴美、ただ一人だった。

 もっとも、他の連中が全員布団の中で震える中、美月だけは……
「ウイルオーウイスプも妖精さんですよぉ?」
 その興奮にうちふるえていた。

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