海だ!(7)
 翌日……正確に言うなら良夜がひとしきり苦労をして、全員を寝かせて半日後。誰も前日の疲労と夜更かしのおかげでお昼を過ぎるまで目を覚まさなかった。
 最初に起きたのは陽だった。
 三人がもつれるように眠るベッドの上で目を覚ますと、彼は無意識のうちに端正な顔をゆがめ、頭を撫でた。特に後頭部、そこを重点的に彼はなで続け、何度も首をひねる。
 そうして数分。頭を撫でていた手を細い腹部へと動かし、足音少なく男部屋を後にした。
 続いて目を覚ましたのは、普段は朝が弱い癖に休みになると途端に早起きになる直樹だ。陽が居なくなり、ずいぶんとスペースに余裕が出来たダブルベッドで体を起こすと、まずは鼻の頭を存分に撫でた。昨夜、貴美の回し蹴りがヒットした部分だ。続いて、やっぱり後頭部。クキッと首を僅かにひねり、やっぱり彼も不思議そうに何度もそこを撫でた。そして数分、最後の一人を起こさぬよう、恐る恐る男部屋を後にした。
 次に目を覚ましたのは女部屋で寝ていた貴美だった。彼女が目を覚ますと目の前には愛する恋人(オモチャと読む)直樹ではなく、眉毛と眉毛の間に深い皺を刻んで眠る彩音がいた。
 プニョプニョ、陽ご自慢の脇腹を数回つまんでみても、やっぱり恋人ではなく彩音さん。どうしてだろう? 彼女は軽く首をひねってみる。捻った直後に彼女は右目を軽く閉じ、後頭部へと右手を当てた。
 ゆっくりと体を起こし、不思議そうに何度も首をかしげながら数分、後頭部を撫で続ける。二つの疑問の答えはどこにも見えず、貴美は諦めるように女部屋を後にした。
 貴美が後にした部屋では彼女と入れ違うように彩音が目を覚ました。彼女が最初に触れたのは自分の脇腹だった。油断すればしょっちゅうつままれる“そこ”、“そこ”を庇うように手で押さえ、彼女は体を起こした。
 直後、顔をしかめやっぱり後頭部へと手を当てる。そして、我知らずの内に他の四人同様に数分の間頭を撫でると最後の一人が眠り続ける女部屋を後にした。
 美月が起きたのは同室の二人が起きて十五分ほどが過ぎた頃だった。いつも通りベッドの端っこにペタンと腰掛け、うつろな視線で何処かをジーッと眺め続けること三十分。裸に近い格好を普段着へと着替えさせると、美月は大きな欠伸を最後に部屋を後にした。
 寝室から出てきた彼女を出迎えたのは、テーブルでそれぞれの後頭部を押さえ続ける四人の友人達だった。彼らは口々に美月に遅すぎる朝の挨拶を掛けるも、その言葉に覇気というものは全く見られやしない。
「おはようございます……皆さん、どうしたんですか?」
 ふにっと軽く小首をかしげ、美月は他の面々へと視線を向けた。その誰もが深く首をうなだれ、しきりに頭を――特に後頭部を押さえ続けていた。
『二日酔い でもお腹空いた ご飯Please』
「って事……私らはいらないから、ひなちゃんにだけなんか作って上げて」
 いつの間にやら女装――本日はタートルネックのサマーセーターと少し長めのスカート――をしている陽がメモ帳を掲げ、貴美がその言葉を付け加える。それを見聞きすると美月は「はいはい」と冷蔵庫の方へと足を向けた。シャンとした足取り、冷蔵庫から卵を三つにシャウエッセンを一袋。卵は目玉焼きにして、シャウエッセンは目玉焼きの片隅で炒めてしまう。普段の朝よりもちょっぴり手抜き。食パンはふわふわ感が美味しい四枚切り。アルトから持参した豆でコーヒーを煎れると、ちょっと手抜きのモーニングが完成。
「……三島さん、お酒、残ってないんですか?」
 それを見るともなしに眺めていた直樹は、深い嘆息と共に美月に声を掛けた。彼もやっぱり頭が痛むのか、顎をテーブルに押しつけたまま両手で後頭部を抱え込んでいた。
「ええ、ぐっすり眠って元気いっぱいですよ〜」
 えっへん! とばかりに両拳を胸元でギュッと握る美月に、四人は感嘆とも賞賛とも……そして呆然とも付かぬ声を短く上げた。
「おはようさん……ネム」
 そして五人から大幅に遅れ、浅間良夜の登場。眠たそうな顔と足取りをTシャツとジーパンに包んだ彼は、皆が座るテーブルの空き家を見つけ、そこに腰を下ろした。
「おはよう、りょーやん。二日酔い、大丈夫?」
 彼の正面にはたまたまであるが、貴美が座っていた。彼女は自身の痛む後頭部を触りながら、目の前に座った良夜に声を掛ける。良夜はその言葉に少しだけ逡巡を見せるも、すぐに答えを返した。
「ああ、大丈夫……ただ……――」
 一瞬だけ言葉を止める。そして、すぐに言葉を続けた。
「ただ……手が痛い……」
「手ぇ?」
 不機嫌そうにそっぽを向いた良夜に、料理を続けていた美月を含む五人は素っ頓狂な声を上げた。そしてその自分と周りの声に美月を除く四人は痛む後頭部を押さえる。
 後頭部を押さえ込む四人から視線を外し、良夜は小さな声で呟いた。
「……石頭」
 と。
 三日目……一同の気分的には半分しかない一日が照りつける太陽とすでに成長し始めた入道雲の下で始まった。

 一部酒以外の理由もあるが、ともかく一様に誰もが二日酔い。それぞれが起きてきたのもお昼過ぎとあれば、出掛ける気にもなれず良夜達は昼からの時間をゴロゴロと別荘の空調が効いた空間で潰していた。
 そんな中、やけに元気だったのがこの方。
「あの……皆さん、今日は泳がないんですか?」
 美しい黒髪は昨日一日潮風に吹かれていたとは思えない。そしていつも着ているような白いワンピースのお嬢さん、三島美月二十二歳。その胸には今年買ったばかりで昨日着たばかりの水着がしっかりと握られ、いつでも着替えられる準備が整っていた。
「……あの……まだ、凄くお酒がこの辺りに残っていて……」
 皆を代表してそう言ったのは、彩音だった。彼女はノースリーブのパーカーを羽織った胸元に手を当てると、少々オーバー気味ではあるが偽らざる本心としてそこをさすって見せた。
「うんうん」
 そして、一同全員、アルトまでもがそれに大きく頷いた……ただ一人、良夜を除いて。
『浅間くん 強い?』
「……いや、俺、大して飲んでないから……」
 不思議そうな顔で良夜の顔を陽が覗き込み、良夜の目の前にメモ帳を掲げる。そのメモ帳から陽の女顔へと顔を動かし、良夜は大きくかぶりを振った。少し飲んだところで昼間の疲れが吹き出し、寝入ってしまった良夜。起きてみればあのどんちゃん騒ぎ、とてもではないが二日酔いになるほどの酒など、飲めるはずがなかった。
 そう言う理由が良夜にはあるが、判らないのが美月だ。あんなにへべれけになっていたのに……
「少ない量でへべれけになれるから、翌日に残らないのよ……頭、痛い……」
 一人元気な美月を良夜は冷たい床の上から見あげる。その頭の上ではアルト――一晩中皿の下で寝てたバカがぐったりと肢体を投げ出していた。良夜はチラッと頭の上に視線だけを投げると、頭の上でアルトがノソノソとあまりやる気という物を感じさせない動きで、頭の上からひょっこりと顔を出した。
「弱すぎて二日酔いの経験がないの、器用でしょ? ごめん、頭に血が上って吐きそう……」
 ううっと小さなうめき声を上げ、アルトは再び良夜の頭、その頂上へと戻っていく。それを見送りながら良夜は「確かに器用な酒乱だ」と改めて美月の顔を見あげた。
「じゃぁ、良夜さんは元気なんですか?」
 良夜の思いなど彼女は全く気付くよしもなく、ただ一人二日酔いでない良夜に向けた顔をぱーっと明るくするだけ。しかし、良夜はその明るく愛らしい顔に向け、大きく首を振って見せた。
「……昨日、あんなことさせられたおかげで、足も腕も筋肉痛でパンパンですよ……俺」
 あんなこと……とはもちろん、浜辺の“美月引き”だ。美月のぶら下がった浮き輪をロープで引っ張り回すこと三時間、ど根性アニメでも最近やらないような重労働をやったおかげで、彼の両手両足、腰まで含めてガクガク。一晩経った今では立派な筋肉痛に成長していた。
「うう……じゃぁ、今日はお休みなんですか? また、海でアレしてほしかったのにぃ……」
「……死ぬから、俺」
 途端に美月の顔に雲が刺し、クシュンと彼女はうなだれてしまった。それに良夜はすくなからずの罪悪感という物を覚えたが、ずきずきと鈍く痛む四肢は如何ともしがたい。結局、彼女に手を合わすような形で「ごめん」とだけ謝った。
「貧弱なボーヤ……」
 頭の上から聞こえる罵倒も何処か弱々しく、それを無視してもそれ以上のことは起らない。こいつも流石に調子が悪いか……と良夜は何処かで安堵を覚えていると、良夜が座っていた隣に美月がペタンと腰を下ろした。
「りょぉやさぁん……泳ぎに行きましょうよぉ〜」
 良夜の真横で美月は彼の顔をうかがうように覗き込む。それを良夜は「ああ」という諦めにも似た感想を持って見下ろした。もはやこうなった以上、これ以上拒否していると拗ねるかキレるかの二つに一つ……と、同時に斜め下から見あげてくる女性の「お願い」に抗出来るほど、良夜は肝の太い男ではなかった。
 半ば諦めたような気分を覚えながら、良夜はチラリと視線だけを周りに巡らせる。四人、頭の上を含めれば五人、それぞれ思い思いに二日酔いプラスαに痛む頭を休ませていた連中、全員と一度ずつ視線があった。しかも、一度あった視線は一瞬の後にそれぞれから切られるという念の入れられよう。
「はぁ……アレはしませんよ? 大人しく水際でチャプチャプしたら帰りますからね」
 俺って友達運ないんだな……そんな思いに心を引き裂かれながら、良夜は美月に言葉を返した。
「えぇ〜〜〜」
 美月は案の定不服そうに頬を膨らませるが、良夜が「じゃぁ、行かない」と言えばそれ以上の文句も言うことなく、パタパタと女部屋へと掛けだした。
 その二分後。
「ばっちりですっ!」
 出てきた彼女は黒いビキニの水着姿。確かにばっちり。でも、せめてパーカーくらいは着て欲しい。

 さて、それから二十分後。良夜も水着に着替え二人は美月が運転する軽自動車に二人きりになっていた。場所は海水浴場の駐車場。外は――
「……止みませんねぇ……」
「……そうですねぇ……」
 外は土砂降りのスコールだった。
 少し前、別荘を出た時は降っていなかった。この時、空は大きな入道雲が出来上がり夏真っ盛り! な雰囲気を醸し出す程度。良夜が見あげた空に「暑そうだな」などと言う感想を持つほど。
「アルト、お留守番なんですか?」
「あいつ、まだ、二日酔いらしいですよ。弱いのに飲みたがるから」
 美月の運転する車の助手席に乗り、良夜は苦笑いを浮かべて答えた。
 アルトはただ今シンク横の食器棚で、ティカップを枕にお昼寝真っ最中だ。昨夜の彼女は良夜が自分の体の上に置いてあったお皿も、無意識のうちにどけていたようで、ただ「どうにも寝苦しい夜だった」としきりに首を捻るだけだった。そんなわけで、今日のアルトは二日酔いと寝不足のダブルパンチ。起き抜けから体調不良を訴え、今日は一日お昼寝模様だ。
 そう言うわけで邪魔者は居ない。用意する前はおっくうだった良夜も、アルトが来ないと判った途端「美月と二人きりで海」という今年は諦めていたシチュエーションに少々と言わず浮かれ気味。海水浴場から最も近い案内標識が見える頃には、カナヅチの美月に泳ぎ方を教えると意気揚々としていた。
 が、それもつかの間。
 最後の左折をした直後、一滴の雨が車体を叩く。叩いたかと思った直後には十を超える雨粒がフロントガラスに浮かび上がり、駐車場に車を入れる頃には、土砂降りの雨に成長しきっていた。
「折角、教えて貰えると思ってたのに……」
 美月はハンドルに顎を置き、先ほどから恨みがましい視線で夜のように暗くなった空を見あげていた。彼女と共に見あげる空には稲光が時折走りる。貴美辺りならば、飛び上がって震え始めるところなのだろうが、美月は至って平気。むしろ、光ってから音が鳴るまでの秒を冷静に数え、「音速って時速何キロでしたっけ?」と良夜に尋ねるほどに平気だ。
 ……そこで“時速”を聞いてくる辺りが美月らしいと良夜は思う。
「雷、怖くないんですか?」
「ふぇ? そうそう頭の上に落ちる物じゃないですよ〜」
 尋ねる良夜に美月は逆に不思議そうな顔をしてみせる。
 再び稲光が光る。それは丁度美月の背後、運転席側の窓の向こう側に見え、美月の背後を明るく照らし出す。直後、分厚い雑誌を力任せに引き破ったような音が、車体もろとも良夜達の鼓膜を振るわせた。
 僅かに視線を背後へと向けた美月。彼女はすぐに良夜の方へとむき直すと、大きな瞳をまん丸に広げて言った。
「……流石にびっくりですよね?」
「いや、その程度で終わらせてる美月さんにびっくりですよ」
「そんな、私が怖い物なしみたいに言わないで下さい」
「じゃぁ、何が怖いんですか?」
「はい! 来月の売り上げが下がること!」
「……他には?」
「んっと、特にないですねぇ〜」
 驚き、少しふてくされて、ちょっぴり自慢するように胸を反らして、最後には何故か満面の笑顔。美月の表情は話している間中コロコロと変わり、いくら見ていても飽きない。良夜は美月のそんな顔に頬をゆるめながら、叩きつけるようなスコールと雷が収まるのを、車の中で待ち続けていた。
 十分くらいだっただろうか? 二人が話しに夢中になっている間に、スコールは上がっていた。
「泳げますよね?」
 車から降りると、彼女はある種の期待を込め、良夜に尋ねた。しかし、それは彼女自身、叶わぬ事を解しているだろう。雨で洗われた空、入道雲が遠くに見えるが、頭の上は空のてっぺんまで冴え渡りる。そこから流れる風はホンの小一時間前とは大違い。美月自身、パーカーの胸元を抱えるように閉じると、背を少し丸め気味に車から降りた。そのヒンヤリとした空気は、泳ぐに適するとは思えない。
「水……冷たくなっちゃってるかも……」
 むき出しの地面を平らにならしただけの簡単な駐車場、そこに止まった車の間を抜け、二人は海岸に続く道を歩いた。駐車場と海岸の間には松林があり、良夜と美月は松と松の間に出来た小さな水たまり達を踏みつぶしながら進む。
「水たまりの水も冷たかったですよね〜」
「足くらい着けて帰りますか?」
 見るからに肩を落とす美月に、良夜はポンと肩を一つ叩く。
「ふぅ〜んだ、良夜さんは楽できて良いって思ってる癖に」
「そう言うの、八つ当たりって言うんですよ?」
 プックリと脹れたほっぺたに含み笑いを見せると、美月はさらに頬を膨らませる。それがまるで頬袋に餌をためたリスか兎のようで、良夜はさらに声を殺して笑った。
「もう……良夜さんは――うわぁ……」
 松林を抜ける。目の前には大海原。海は泳げなくなった二人に、そしてそこにいた全ての人々に違う喜びを与えていた。
「虹……か……」
 海に橋を架ける二重の虹が美しい半円を描く。周りには良夜達同様、何処かで雨宿りをしていた人、人、人。家族連れ、カップル、グループ……老若男女を問わず、せっかくの海水浴を潰された人々は一様にその虹を見あげ、感嘆の吐息を漏らしていた。
「アルト達も見てるんでしょうか……」
「あいつは寝てるかも……」
 ほんの少し、良夜が笑い、美月もそれにつられて破顔する。いつしか二人の手は強く握られていた。

「起きて見てるわよ」
 雷に叩き起こされたアルトちゃん、二日酔いのお酒は未だ抜けず、ちょっぴり不機嫌。金色に近い茶髪の髪の毛にお尻を乗っけ、彼女は貸別荘の庭から二重の虹を見あげていた。
 そのお隣では……
『雨 虹 二人きり 浅間くんと美月ちゃんはどこまで進んだか? トトカルチョ
 手を繋ぐ
 肩を抱く
 キスをする
 押し倒す
 帰ってこない』
 ブックメーカー陽が一生懸命オッズ表を作っていた。
「あの……お姉さま、それは成立する賭なのでしょうか?」
「……やっぱり、この人も何処かおかしい……」
 陽の手を覗き込む彩音を見つめ、直樹は一人心の中に冷たい北風を感じていた。

 ちなみに賭は不成立だった。

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