海だ!(4)
良夜達が別荘に帰ってきたのは、夕方少し前の五時過ぎだった。美月貴美アルトの女性陣三人はもうしばらく遊んでいたかったようだが、朝からずっと重量物の運搬をやっていた良夜と直樹はすでにグロッキー。膝はガクガク笑っているし、水に入ったら溺れるんじゃないんだろうか? ってな状況だったので早めの帰還となった。
「てか、誰が重量物なんよ?」
「そうですよ、私も吉田さんも太ってなんか居ません」
貴美と美月は頬を膨らませるが、その件に関してはひとまず無視。いまの良夜と直樹にその余裕はない。なぜなら、今、彼らの背後には大量の肉、野菜、酒がチョモランマもかくやと言うような山を作っているからだ。もちろん、それを作ったのは直樹と良夜の二人だけで、女性陣は海に持っていった自分たちの着替えしか運んでいない。アルトに至っては自分の身すら良夜に運ばせた。
「情けないわね、男でしょ? シャンとなさい。全く……」
大の字に五体を投げ出し、良夜はぜぇぜぇと荒い息を上げる。その額にアルトはチョンと着地をすると、彼の顔を覗き込んではしきりになんだかんだと文句の山をそこに築き始めた。
「うるさい……」
額の上でちょこまかと動くアルトを払いのけ、良夜は疲れ果てた体を起こす。そして改めて自身が作り上げた食い物の山へと視線を向けた。
肉がどーん! 野菜がバーン! 酒がデーン! どれもこれも大きな山を一つずつ作っていた。海から帰り道にスーパーで買ってきたのだが、良夜は自分がまかされていたアルコール以外、いつの間にこんなに買い込まれていたのかを彼は知らない。
「なんだよ、この量は……籠城でもするのか?」
「仕方ないでしょ? あのラッフィンググールが来るんだから」
払いのけられたアルトがトンと良夜の頭に着地をきめ、いつものように額をかかとで蹴っ飛ばす。それに視線をチラッと向け、良夜は「二条さんか……」と呟いた。彼の食欲を満たそうと思えば、これでもまだ足りないかも……と思ってしまう。ちなみにラッフィンググールとは『笑う餓鬼』という意味だ。他にも『ワンマングラスホッパーズ(一人イナゴの大群)』『スカートを履いた胃袋』『知性を持つブラックホール』ってのも良夜は耳にしたことがある。
「昼間も凄かったからなぁ……河東さん、半泣きになって俺らの弁当、守ってたぞ?」
思い起こされるのはお昼頃、良夜達が海から帰ってきた時のことだ。ペタンと座り込み、明後日の方向を見つめる彩音、彼女の隣には焼きイカとたこ焼きとカレーとラーメンを美味しそうに食べている陽が居た。
「買ってこないと食べちゃうって言ったらしいよな……あの人も大変だ」
ラーメンをスープ代わりにカレーを食べている陽を思い出すと、良夜は胸にこみ上げる何かを感じざるを得ない。うげぇとオーバーアクションで胸元を押さえて見せた。
「お金は本人が払ったみたいよ」
「ふぅん……あれ? そう言えば、その二人は? 車でも取りに行った?」
そう言って良夜は辺りを見渡すも、赤毛の女装青年もぽっちゃり系美人もその姿をどこにも見つけることは出来ない。買い物をしたスーパーには姿が見えていたのだが、スーパーの駐車場で別れたきりだ。てっきり、別の車か何かに乗ってこちらに向かっている物だと思いこんでいたのだが……
「ううん、民宿でご飯食べてくるって」
「……民宿で飯を食った上にこっちでも飯を食う気か? あの人は」
周りを見渡していた視線が再び、目の前で浮遊する妖精の顔へと戻り、良夜は彼女の小さな顔を目を見開いて見つめた。
「今日の分の晩ご飯、頼んじゃったらしいわ。それにお刺身が絶品だから食べたいって」
「一体、いくら入るんだ? あの人の胃袋は」
肩に着地をするアルトを見守り、良夜は再び胸へとこみ上げてくる何かを感じ、胸元を押さえた。それを見ながら彼女も「私も」と言って良夜の仕草を真似てみせる。二人はしばしの間、胸元を押さえて小さな笑みを交換しあった。
「じゃ、また後でね」
ひとしきり笑い会うと、アルトは腕に絡めていた髪から手を離した。そして、一度良夜の肩を踏み台にトーンと宙に舞い上がる。
「ん?」
「スキンケア、ほっとくと明日、日焼けで大変なことになるのよ。淑女の肌は壊れ物、覚えておきなさい」
それだけを言い残し何処かへと飛んでいくアルトを見つめ、良夜は「隠れ年増……」と口の中だけで呟いた――
「死ねっ! 良夜!!!」
途端にアルトが頭上から降ってきた。つむじにストローが立ち、彼の口から聞き苦しい絶叫がほとばしった。
ストローを彼の頭から引き抜き、アルトは再び何処かへと飛んでいく。ピッとストローを一振りしそこに付いた血を飛ばす仕草は辻斬りそのもの。ヅキヅキと痛む頭頂部を押さえながら、良夜は「ちょっとした冗談なのに……」と涙を浮かべた。
アルトが良夜の視野から消えると、入れ替わるように貴美が良夜に近付いた。先ほどまで、彼女は海から持って帰ってきた洗濯物を洗濯機に放り込んでいたようだが、それも終わったのだろう。パンパンと手を叩きながら近付いてくると、彼女は良夜の背中をコツンと軽く蹴っ飛ばして声をかけた。
「りょーやん、いつまでぼーっとしてんよ?」
「飯が出来るまで。疲れたよ、俺は」
タンクトップとジーパンだけというあまりにも無防備な姿はそれに釣り針が付いていると知っていたとしても見あげずには居られない物。良夜は床に腰を下ろしたまま、彼女の顔を大きな胸越しに見あげ、返事を投げ捨てた。
「何言ってんよ? 晩ご飯、りょーやんが作るんだよ?」
下から見あげるとさらにでかく見えるなぁ……等とくだらないことを考えていた良夜の思考が貴美から投げかけられた言葉に一瞬の空白期間を生んだ。それは「はぁ?」と言う近い間抜けな言葉として貴美に伝えられる。
「朝飯、誰が作った?」
彼女はきょとんとした顔で自らを見あげる良夜に対し、彼の前へと回り込むと胸を大きく反らした。そして、右手の人差し指をぴしっと立てる。
「美月さんと吉田さん」
良夜の答えに満足したのか、彼女はウンウンと二度ほど大きくクビを縦に動かした。そして、右手の中指が立ち、ピースサインを作る。
「お弁当は?」
「美月さんと吉田さん」
二つ目の答えにも彼女は満足し、今度は大きく一度だけ頷いた。そのまま、彼女は「で?」と良夜の次の言葉を待つ。指はすでに中の指三本が起立し、クイクイと小刻みに動いていた。
「……ああ……なんか作らなきゃ行けないような気がしてきた。って、だったら、材料、相談しろよな? 作れる物と作れない物があるぞ」
納得しかけたのも数秒、良夜は自分の預かり知らぬところで購入された食材の山をびしっと指差し、大声を上げた。しかし、貴美にはそれも想定の範囲内だった様子。大声に驚くような様子もなく、袋の一つを開いて見せた。
「大丈夫、今夜、もつ鍋だから。出汁はレトルトパックで袋を開けるだけ。キャベツを適当に刻んで、もつを下ゆでしたらおしまい。後は食器を出したらご飯、食べられんじゃん」
確かにそれくらいは出来そうだ。良夜はそう思うとあげた気炎を取り下げ、彼女が取り出したレトルトパックの出汁を手に取った。
「手回しが良いのは良いけど……この真夏に鍋かよ……」
この暑さの上に、昼間の重労働に陽の大食いで良夜の食欲は少し減衰気味。出来ることならそうめんなんかでツルツルとあっさり行きたいところだ。しかし、改めて買ってきた物を覗いてみれば、出てくるのはキャベツだのニラだのもやしだの、別の袋にはモツがキロ単位で眠っていた。この食材で『あっさり』した物を作れるほど、良夜の料理に対する造詣は深くない。
「人が沢山いる時は鍋ですよ! エアコンを強めにして食べる夏のお鍋も美味しいですよ?」
そしてとどめを刺しに来たは先ほどまで女部屋でヘアーケアをやっていた美月だった。彼女が背後に立つと、手入れを終えたばかりの髪が良夜の髪に触れる。そこから整髪料か何かは良く解らないが、爽やかな柑橘系の香りが微かに良夜の鼻腔をくすぐった。
「鍋、嫌いなんですか?」
帰ってきた途端女部屋に飛び込んだ彼女は、ここまでの時間ずっと潮風に半日晒されていた髪を丁寧にケアしていたらしい。このたゆまぬ努力が彼女の美しい黒髪の源。やらないとすぐに某輪っかの映画の出演女優みたいになるそうだ。
「いっ、いえ、嫌いじゃないけど……」
しゃがんだ顔を上から見下ろされ、彼の顔を彼女の碧なす髪がカーテンのように覆う。その向こう側では少しだけ細い眉をひそめた美月の顔があった。その顔に見つめられれば、はっきりと嫌と言うことも出来なく、良夜はしどろもどろになりなる。
「けど?」
ん? と小首をかしげると、再び髪の毛が動く。そのたびに毛先が良夜の顔の上を行ったり来たり……彼の鼓動は一往復ごとに一割ずつ早くなって行く。
「美月さん、美月さん、新しいプレイのつもりじゃなきゃ止めとき? 後のことは男どもに任せて、私らはあっちでゴロゴロしよ?」
ん? ん? としきりに首をひねる美月を連れ、貴美は隣のシンクから少し離れたソファーに向かった。
「あっ、そうだ。血まみれのキャベツを食べたくなかったら、包丁はりょーやんが使いな。なおはアートナイフでカッティングシートを切ることは出来ても、包丁でキャベツを切ることは出来ない男だから」
「ンな人間、いねえ! 直樹〜料理作るぞ!」
テレビを二人占めする女性陣を見送り、良夜は未だにひっくり返ったままだった直樹へと声をかけた。そして、男達の料理が始まる。
三十分後。
「世の中、いろんな人間がいるもんだなぁ……」
彼の目の前ではぐらぐらと下ゆでされ続けているモツ(牛の小腸)、そして、背後ではどたばたと走り回る大きな足音が響く。良夜はその足音と悲鳴に耳を傾けながら、世の中の深さに思いを寄せていた。
「ほら見な、なおにさせちゃ駄目って言ったっしょ? なおは家事を始めたら体が動かなくなる病気の持ち主なんよ?」
「大丈夫ですか? 直樹君。良夜さん、直樹君はこんなに小さな子なんですから、刃物なんて与えちゃ駄目ですよ?」
直樹の悲鳴と足音にくつろいでいた女性二人も飛んできて、良夜一人を悪者扱い。でも、庇われているはずの直樹も子供扱いだの致命的に自活できない男だの言われたい放題言われ、決して愉快な顔はしていない。
「これに懲りたら、なおに包丁持たせたらいかんよ?」
「そうですよ。お子様に刃物は早いんですよ」
散々好きな事を言うと二人は再びソファーへと引き返していった。夕方のニュースを見てあれだこれだと、意味があるのかないのか良く判らない話で盛り上がっている。良くは聞こえないし、聞き耳を立てる来もないが、確実なのは世の中の流れについて話し合っているのではない、と言う事だけは判る。何となく聞こえてきた言葉の中に「この女性アナとこっちの男性アナは絶対に不倫している」ってのがあったからだ。
それから数十分、手際こそ悪いが良夜は野菜を切ったり肉の下ごしらえをしたりと料理の歩を進め、直樹はテーブルの上に食器を運んでいた。
作り方は出汁のパッケージに書いてある。貴美からそう教えられていた良夜は、そこに書いてあるとおり上から順番に材料を段取りしていた。この辺は応用力のない料理初心者らしいところだ。そして、いくつ目かの材料を段取りし終えたところで、彼は「鷹の爪をお好みで」という文章を発見した。「適量」「少々」「お好み」というのは初心者最大の難関だ。
「お好みったって……おーい、唐辛子、どのくらい?」
振り向き、相変わらずテレビを見ている女性二人に声をかける。しかし――
「少なめ、大きめに切って」
振り向いたところにはアルトが居た。
「多め!」
「普通が良いですね〜」
そして、ソファーの辺りから貴美と美月までもが同時に返事をする。
「……どないせいって言うんだ……」
見事に三者三様、直樹が遙か遠いところで「入れないで欲しい」などと呟いているが、そっちは聞こえない振り。こうなると、良夜の取る道はただ一つだった。
「普通、大きめに切る……」
口の中だけで呟き、良夜はまな板へと向きを直した。
「何よ! 私よりも美月が大事なの!? 酷い! この裏切り者!!」
芝居がかってはいるが、かなりの本気が見え隠れするわがまま妖精が、良夜の頭をペチペチとストローで叩く。ペチペチと叩くストローもやっぱり無視して、良夜は唐辛子を指につまむ。そして、包丁を構えて……構えたまま動かない。
「『普通』の量が判らないって言ったら、私は許さないわ」
固まった良夜の頭を、一度蹴っ飛ばしアルトは言う。それは彼の臓腑をぐさっとえぐり、その右手に持った包丁をブルブルと小刻みに動かした。もちろん、唐辛子は切れてない。
「そうよね、『普通』の量が判ればいちいち聞かないものね。この分量なら、四−五本が『普通』よ」
「じゃぁ、七本分用意しとけば良いか……」
「……ちっ!」
アルトの真意を的確に見抜き、見抜かれたアルトは良夜から僅かに視線をそらすも、隠す様子もなく舌を打つ。
「ちょっとは憚って舌を打て」
七本の唐辛子をザクザクと大きめに切る。それを興味深げに覗き込んでいたアルトが、またもや良夜の手の平を蹴っ飛ばした。
「もうちょっと大きめが良いわ。私の口に入っちゃう」
「包丁使ってる時は手出しするなよ……大体、このサイズで口にはいるわけねえよ」
包丁を振り下ろしていた手が止まり、視線をアルトの口元へと動かした。どちらかと言えばおちょぼな感じの口。そして、自身が切り飛ばした唐辛子とを比べてみる。このサイズならば選んで咥えることもなければ口に入りそうな感じはないように思えた。しかし、そのアルトの小さな口は生意気な言葉を紡ぐ。
「入るわよ、もうちょっと大きかったら入らないわ」
「ふぅん……試してみるか? 口、開けてみろ」
「入ったら、ブルマン一杯ね?」
「へいへい。無理に開けるなよ?」
この時、どちらかが現実に戻れば痛ましい事故は起きなかったであろうと、後の世、歴史家は語る。
「ほれ」
良夜の指がクイッと軽やかに動き、赤い輪っかに美しい放物線を描かせる。それは間抜けに開いた口へと吸い込まれるかのように飛んでいった。それを良夜は、投げてしまった良夜はスローモーションのように見えた。
「…………」
一瞬の沈黙があった。良夜はその時、アルトの口が僅かに動き、喉が上下するのを確実に見た。
「!!!!!!!!!!!!!!! しぬっ!!! 死んじゃう!!! 辛い!!! ってか熱いわっ!!! 水!! 砂糖!!! 氷ぃぃぃぃぃぃ!!!!」
直後、彼女の顔が赤くなり、直後に青くなって、次の瞬間には発射台から飛び上がるロケットのように、天井へと飛び上がる。全力でも人の背よりも少し高いところまでしか上がれないはずの体が今日は天井にガンッ! と大きな音を立てて激突。そして、天井に当った体は床に落ち、落ちた床の上でバタバタと走り回る。そこにお皿を運んでいた直樹がやってきて――
「危ない!」
と良夜が叫んだ瞬間には踏んでいた。
「ふぎゃぁっ!!」
カエルの悲鳴のような声が響いて、良夜に怒鳴りつけられた直樹は一歩たたらを踏んで、皿を一枚床に落とす。やっぱりそこにはすでに全身を痙攣させているアルトが居て……それが頭に当った時、すでに彼女は悲鳴すら上げることが出来なかった。
「だっ……大丈夫か?」
良夜の手の平に白目を剥いたアルト、その周りでは美月達三人がその手の平を覗き込んでいる。もっとも、見えているのは良夜だけ、と考えるとかなりシュールな絵面。様子を確かめられない三人、特に踏みつけた上に皿を落とした直樹はしきりに大丈夫か? と良夜に声をかける。
ぐったりと動かなかったからだがピクンとだけ小刻みに動いた。体型から考えるとかなり丈夫に出来ているのは間違いなさそう。安堵すると共に妙なところで良夜は感心した。
一分にも満たない時間がゆっくりといつもの半分の速度で動いた。
それまでびくともしなかった手足が僅かに動き、彼女はゆっくりと首だけを起こした。そして、彼女は最後の力を振り絞って呟く。
「……ぶっ……ブルマン……」
「帰ったら奢ってやるから……とりあえず、今は死んどけ」
優しい声で良夜が答えると、アルトは力ない微笑みを浮かべ、嬉しそうに「うん」と答えた。
カックリとアルトの体から力が抜けて……――
なんて事はあるはずがない。
「って、良夜!! 本当に投げつける馬鹿がどこにいるのよ!!!」
脱力しかけた体に鞭を打ち、彼女は飛び起きる。そして彼女はキレる。凶刃が宙を切り裂く。
「あっ! やっぱり許してくれない!?」
数十分後、別荘を訪れた陽は良夜の顔を見つめてメモ帳に一言書いた。
『旗本退屈男』