海だ!(3)
 明けて翌日。
「では、早速着替えて海に行きましょう!」
 朝食の後片付けと昼食のお弁当の用意を終わらせると、美月は誠に嬉しそうな笑顔でそう断言した。
 そのお言葉を冷めた声で遮るのは一緒に用意をしていた吉田貴美だった。彼女は濡れた手をふきんで拭きながら、美月の前へと進み出ると「着替えは現地に着いてから」と言った。
「あのさ、美月さん? 美月さん、私に水着でバイクに乗れって言うん?」
 きょとんと自身の顔をのぞき見る美月に、貴美は訥々と説明を始めた……と、言うほど立派な物ではない。要するに四人乗りのスズキアルトにビーチパラソルだのビーチマットだのお弁当だのクーラーボックスだのを積んだ上に四人は乗れない。自分たちはバイクで行くから着替えは現地でやる。ついては、美月達も一緒にあっちで着替えろ。自分たちだけあっちで着替えるのは嫌だ。
 と、そう言うことである。
 実にわがままな女だ、と後で話を聞いた良夜は思った。まあ、別にそれほどの違いがあるわけでもなし、五人は荷物の積み込みを終えるとそれぞれの足で海へと向かった。
 あっという間の到着。特にトラブルがあるわけでなし、面白いことがあるわけでもない短時間のドライブだった。彼らは駐車場に車とそれぞれのバイクを並べて止めると、アルトに積んであった荷物を手分けして担ぎ上げた。もっとも、その分量は良夜が一番多くて直樹がそれよりも少し少なめ、貴美と美月に至っては自分のハンドバッグしか持っていないという状態。納得いかないこと甚だしいが、文句を言うと女性陣手作りの弁当が食えなくなるので言わない。
 松林を抜ければ、遠浅の海は去年同様の美しさと優しい潮風、そしてまぶしすぎる太陽を持って彼らを迎え入れてくれた。去年はかき氷を買うくらいしか用事のなかった海の家に行き、更衣室の段取りを始める。
「んっと、それじゃ、更衣室四人分……えっ? 席料取られんの? パラソル持って来てんだけどなぁ……仕方ない、じゃぁ、四人分。それと浮き輪が二つ、ボート? いらない」
 海の家のおっちゃんと貴美が話すのを良夜は見るともなしに見ていた。その横では美月が物珍しそうに土産物を物色し、直樹は海上彼方を奔るジェットスキーに目を取られている。後で聞くことになるのだが、直樹は水上バイクにも少し興味があるそうだ。もっともバイクの維持費だけでピーピーになっている青年に水上バイクなど手が届くはずもない。
「ねえ、良夜?」
 不意に頭の上から声が聞こえた。一人だけ先に着替えを済ませているアルトだ。彼女は『下手なところで着替えると服がなくなる』と言う体質的限界から一人だけ別荘で水着に着替えていた。去年と同じ白いフリル付きの水着、不思議なことにちゃんと水に濡れても透けなく出来ている辺り、良夜は昨今の人形(フィギュアを含む)業界の底の深さに恐れをなした。
「何だ?」
 あまり興味もなさそうに良夜は答える。アルトの「ねえ、良夜?」にろくな物はないのはほとんど決定事項みたいな物だ。
「私、貴方に伝えなきゃ行けないことがあるの。聞いてくれる?」
 妙にかしこまった口調だった。彼女にしては控えめな態度と言っても良い。むしろ何処か芝居がかっていると言った方が適切だろうか? 良夜はやっぱり嫌な予感を持ったが、ここで嫌だと言っても角が立つ。
「どうぞ」
 それだけを端的に言うと、支払いの終わった貴美がこちらを振り向いた。その顔が驚きに固まる。良夜の背後に向けて彼女の指がまっすぐに向けられ、その顔には驚愕の表情が浮かんでいた。
「どうした?」
「それじゃ言うわね? あのね……って、聞いてる? 聞いてくれないなら言わないわよ」
 良夜が小首をかしげ、振り返ろうとしたのと、アルトが語り始めるのとは、ほぼ同時だった。
「ひっ……ひなちゃん!?」
 がっ!?
 そして、貴美が大声を上げるのと良夜の額に何かがめり込むのもほぼ同時だった。
「陽が何かを投げようとしているわよ……って、遅かったわね、ごめんなさい」
 激痛走る額を抱え、良夜はしゃがみ込む。そして、彼は確信していた、絶対にわざとだと。

 そう言うわけで、良夜達は陽達と合流することになった。
 陽達二人がここに来たのは全くの偶然というわけではなかった。陽達は良夜達がここに来ていることを知っていたのだ。原因は……
「いっ、言いふらしてたって……私はお客さんにご迷惑をかけちゃうから、教えておいただけなんですよ? 知ってましたか?」
 シックな黒いビキニ水着を着込んだ美月がパタパタと手を前後左右に意味もなく振り回した。そして最後には胸にあしらわれたリボンの前でパチンと叩いてみせる。
 美月はこの旅行をアルトの客に吹聴して回っていた。その吹聴して回っていた話を、丁度競馬で一発大穴を開けて懐フカフカの陽が聞きつけ、彼も海に行きたくなったというのが事の真相であり、別に追いかけてきたというわけでもないそうだ。陽の言葉を借りれば『来たのは必然、あったのは偶然』と言う事になる。
「いくら取ったん?」
 去年と同じハイビスカス柄のワンピースを着た貴美が尋ねると、陽はピッと手の平を大きく開いた。
「単位は十万」
 波打ち際へと向かっていた一同七人の足がぴたりと止まる。そして、手の平をヒラヒラと動かす陽とその隣で何故か顔を赤らめて俯く彩音の顔へと視線が集中した。
 嫌な沈黙が始まった。元気の良い子供達が熱せられた砂浜の上を、飛び跳ねるように駆け抜け、その後ろを両親らしき男女が微笑みを持って付いていく。そんな幸せな風景の中、陽は相変わらずニコニコしているし、彩音の顔はますます真っ赤になっていった。
「五十万!!!???」
「Yes、I am Gambler」
 一斉に驚きの声が上がり、開かれていた陽の手が中指と人差し指を除いて折りたたまれる。
「凄い……五十万もあったら吉田さんに借金が全部返せて……それにバイクの改造も……」
「まじめにバイトしてんのがあほくさい……」
「新しいパソコン……」
「本物のフランス人形……」
 物欲にまみれた四人はブツブツと指折り数えその金額の大きさを実感し、圧倒される。ギャンブルはやらないと決めている良夜でさえ、陽に頼んでみようかと思ってしまうほどだ。
「あの……お姉さまは特別な方ですから……演劇部の皆さん、お姉さまに唆され――はうっ!?」
「人聞きの悪いこと言わない」
 青と黒のボーダーが入ったタンクトップの上から、陽は彩音の脇腹をムニュと摘み上げた。途端に彼女の体から力が抜け、彼女は熱い砂浜の上にへたり込む。それでも陽はにこにこと笑ったまま、彼女の脇腹をつまんだりねじったりを続けた。彩音の手足は砂浜をかき、そこら中に砂粒を飛ばせ大きな穴を掘るが、陽は決して許しはしない。それどころか、べちゃっと砂浜の上に寝転がった彩音の横で、彼は行儀正しく正座をすると一層激しく彼女の脇腹をつまみ始めた。
「そう言えば……」
 その様子を助けもせずに見ていた四人の中、美月がポンと手を一つ叩いて声を上げた。
「そう言えば、去年、演劇部の皆さんがひと月ほど、ずっとパンの耳を独占してた時期がありましたね……」
「ああ、あったあった。なんか、物凄い飢えてたよね、あの頃の演劇部員」
「そっ、それはお姉さまが――うひゃぁぁぁぁぁ、止めてくださいませ!! 死にます!! 息が出来なくて死にますからぁぁぁぁぁ!!!」
 まるで陸に打ち上げられた小魚のように彩音は暴れ続ける。それは彼女が息絶えるまで続いた。
「可哀想な彩音……貴女のことは忘れないわ」
「生きてるって……ギリギリのところで」
 頭上で静かに合唱するアルトに、良夜は小さな声で呟いた。

 彩音が悶絶の地獄から回復すると、一同はようやく波打ち際にまで到達した。海の家を出てからすでに三十分、準備体操と言うには十分すぎる運動をこなした彼らは、穏やかな波にその足を浸した。潮の香りは一層強くなり、アルトを含めた誰もがパチャパチャと水の冷たさを堪能し始めていた。
「なんだか、海まで遠かったですよねぇ……泳ぎます?」
 グイッと両手を大きく伸ばし、直樹は他のメンツへと視線を飛ばす。その視線に答え、全員一斉「おーっ!」のかけ声と共に挙手。ただし、彩音を除いて。
 彼女はただ一人、ペタンと砂浜に腰を下ろすとビーチサンダルを引っかけたつま先だけを寄せては返す波の中に浸した。
「わたくしは……もぉ……」
 先ほどからすでに肩で息をしている彩音、彼女を見れば彼女が座り込んだ理由は誰にでも判るものだろう。力なく笑う彩音の横に陽も腰を下ろすと『食休み』とだけ一言言った。
「んじゃ、私らだけで泳いでくんよ。クーラーボックスだけ見ててくれる? 食べちゃいかんよ?」
 良夜と直樹が一つずつ抱えていたクーラーボックスを置き、貴美はポンとそれを一つ蹴っ飛ばした。
「前半了解。後半自信なし」
「あっ、あの、わ、わたくしが……お弁当は守りますから……一命を賭して」
「レートは万馬券」
 彩音と陽の会話は甚だしく一同を不安にさせるもではあったが、このまま監視していたのでは何のために来たのか判らない。アルトを含めた五人は後ろ髪を引かれる思いで沖へと繰り出した。
 冷たい海水に足を浸し、少し遠くまで――腰まで海水に浸れるところにまで進んでいく。
「うっひゃぁ〜冷たぁ!」
 貴美が嬌声を上げると、他の四人も思い思いに水の中へと飛び込んでいく。澄んだ冷たい海水、足下では小魚が泳ぎ、水平線まで彼らの視野を遮る物は何もない海が彼らを待っていた。
「良夜さん、良夜さん!」
「ん? 何です?」
 大海原を見ていた良夜に美月が声をかけた。彼女の美しい曲線を描くウェストには大きな浮き輪、その浮き輪に巻き付けられたロープを彼女は良夜に差し出していた。
「今年もアレしてください、アレ!」
「……あれですか?」
 嬉しそうに言う美月に対し、良夜は多少と言わずげんなりした表情を見せた。
 ここで言う『アレ』とは、浮き輪に付いているロープを良夜が引っ張り回す遊びだ。去年、たまたまそう言うことをしたところ、美月はこれを大変気に入った。美月が喜ぶのは良いのだが、腰まで水に浸かって人一人を引っ張り回すのは非常に疲れる。しかも、美月は一回で満足しない。
「良夜ったら……女に「アレして」って言わせるなんて……しかも縄だわ、縄。いつの間にそんなに成長したの? 感動だわ」
 芝居がかかった口調でなにやら不穏当な発言をしまくる頭の住人はほっとき、良夜は半ば押しつけられるような形で、差し出されたロープを受け取った。
「無視するのね……ああ、良夜の髪がまた薄くなるのかしら? 潮風は髪に悪いわよ?」
「お前、うるさい。たっく……で、引っ張るんですか? また」
 前髪にぶら下がっていたアルトを払いのけ、良夜はブラブラと渡されたロープを振り回す。すると美月はコクンコクンと何度も大きく頭を振り、浮き輪を支えに水の中に浮かんだ。その顔には大輪の花が咲き、彼が引っ張ってくれるであろうことを微塵も疑っていない様子だった。
「じゃぁ、私はここ」
 そう言うと彼女は美月の胸元を飾るリボンの上にトンと着地をした。そして、リボンの位置を微調整。美月が「あまり引っ張ると外れちゃう」などと言っているが、外れるのはリボンだけらしく、ブラが外れるという定番の状態にはならないらしい。彼女はたっぷりと時間をかけてベッドを作り上げると、その上にドッと小さな肢体を投げ出した。
「良夜! 水かけて、暑いわっ!」
 美月にアルトの言葉を伝えたついでに、へいへいと投げやりな返事を良夜は返した。右手でロープを握り、左で弾くように美月の胸元とその上でごろ寝を決めるアルトにたっぷりと水をかける。
「りょーやん、何してんの? もしかして、マニアなプレイ?」
「直樹、お前の彼女は変態か? あのな、アルトが暑いって言うから水をかけてただけ」
 へらへらと笑う貴美の横で、苦笑いを浮かべている直樹に声をかけ、良夜はアルトの状態と美月お気に入りの『遊び』を説明する。ちょっぴり直樹が嫌そうな顔をしているのは、ある予感からだろう。そして、大体においてこの手の嫌な予感は的中する物だ。
「なっお〜」
 二つ目の浮き輪を体に通し、貴美は当たり前のように直樹にロープを手渡した。差し出したのは左手、右手は固く握りしめられていたことをここに記しておこう。
 そして、五分後……
「いやぁ〜気持ち良いやね、なんか、ラッコの気分」
「そうですよねぇ〜なんだか、もう、寝ちゃいそうですよ〜」
「少し太陽がまぶしいわね。サングラスが欲しいわ…………良夜! 通訳っ!!」
「アルちゃん、そこに居るんだっけ? アルちゃん、こっち来なよ。そっちは水被るっしょ?」
「……どういう意味ですか? 吉田さん」
「私の胸は波の上、美月さんのは“並”以下、なんちゃって」
「やっぱり、吉田さんの来月の時給は三十二円……」
「やだなぁ〜冗談、冗談」
「このリボンの寝心地が良いのよ。大体、脂肪の上に寝転がったら、私にまで脂肪が付いてしまうわ…………通訳なさいって! 良夜!」
 女三人寄ればかしましい。かしましくもそこは幸せそうな声の発信地、顔は見なくてもきっと彼女たちは幸せそうな笑顔をしているのだろうという予想が出来た。キャイキャイと上げられる声を背後に聞きながら、良夜と直樹は……
「なあ、直樹……俺ら、バカンスに来てるよな?」
「……そうですね、なんでバカンスに来て……重労働してるんでしょう?」
「知るか!」
 キャイキャイと上げられる声を背後に聞きながら、良夜と直樹は肩に食い込む縄と、足に絡まる海水を掻き分け、一生懸命歩いていた。

 そして、それを荷物番をしながら見守っていたのは二条陽と河東彩音さんのお二人。
「楽しそう」
 どこからか出したオペラグラスを覗き、陽は小さな声で呟く。そして、隣で息も整い始めた彩音にオペラグラスを渡した。
「本当に楽しそうですわね」
「する?」
「えっ、よろしいのですか?」
 陽がそう言うと、彩音は覗いていたオペラグラスを膝の上に置き、陽の顔へと視線を向けた。
「でも、ここでわたくしが引っ張ると仰ったら……わたくしも少しは怒ります」
 きっぱりと言い切る彩音から、陽はほぼ天頂へと達した太陽へと視線を向ける。うっすらと額に滲む汗、陽はそれを拭きながら呟いた。
「……そろそろお昼」

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